アンドレ・マッソンと八代亜紀

2012-11-14 | 日記

              

夜、本の整理をしていたらこの 『 記号の殺戮 』 ( フランソワーズ・ルヴァイアン著・谷川多佳子他訳 1995年 みすず書房刊 ) が出てきた。以前、みすず書房のPR誌 『 みすず 』 に掲載されていたルヴァイアンの論文 「 マッソン、バタイユまたは記号の不適合 」 を読んで面白いと思った記憶がある。当時 ( 今もであるが ) 、マッソン ( 1896-1987 ) の絵が謎に満ちて、その不思議に惹かれていた。数点模写をして見たことがある。夢の世界が謎であるように現実の世界も、ある意味謎に満ちている。夢と現実が絡み合って、謂わば夢と現実が表裏である絵画世界であった。もう一つ興味があったのはマッソンの描くエロティシズムの表現であった。論文の 「 包み隠されていないエロティシズムは常にみだらな形をとる 」 という言葉に触発されて、新たにマッソンを再認識したのだった。知性と本能の絵画、とでも言うのだろうか。記号に隠されたエロティシズムはまた、僕らに新しい詩学をもたらすかも知れない。この豊かな、ある意味エレガントな謎の絵画に真摯に向き合うならば。マッソンの謎はマッソンにとっても謎であったかも知れない。マッソンにはまだまだ興味は尽きないのである。

          

上記二点とも、 『 わが宇宙の解剖学 』 の表紙のためのデッサンであるが、こういうデッサンを見ていると、単なる紙の上にも宇宙の広がりを思う。なぜか分らないけど一人の人間のひたむきな 「 芸術 」 というものを感ずるのである。それでは、芸術とは一体何なのだろう? しかし、何でもなくてもいいのではないだろうか。原初、人間の命がボウフラのようなものから発生したなら、 「 芸術 」 を 「 何でもなくてもいい 」 から始めてもいいのではないだろうか。だからマッソンも宇宙という原初から始めたに違いない。

今日、中央図書館から八代亜紀のCDを借りてきた。その 「 舟唄 」 を聴きながらマッソンの絵を思う。冷たい雨の降る夜ともなれば 「 女は無口なひとがいい 灯りはぼんやり灯りゃいい 」 のであった。

 


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