今日はそんなに暑くもなくて湿度もそんなにはないようで、一日家にいて、たまに風が入ってきて戸をカタカタいわせて、ボーっとしている時間がいい。遠くで鳥が鳴いているのが田園の風景をよりここに居るのが田園であるのだった。また、ひろげたままの屏風の中の鳥のメンタマが、マンマルク描かれていて、水掻きを持っているから水鳥だろうか、そのふっくら感がなんともトボケタ感じで、ずっと見ているとどうも可笑しくなってきて、本当にこの絵が円山応挙 (1733-1795) なる画家の筆ではなくても、これはこれで納得が行く (と、僕はこれから研究をしなければならないが、その前にこれらの絵を僕の生活の中に同居させるのである) 。実際にこの絵を描いた誰か本人がいたわけで、描いた本人の気持ちもきっと、これはいい写生画になった、と思っていることだろう、と僕は思う。この絵の豊かさはどこからくるのだろうか? 冗談ながら、食べたくなるくらいである。「応挙写」か、何とも言えないな … 、だけどオモシロイな … 。
今夜の夕食もこの絵を見ながら頂こう! 他にも禽鳥の絵があるが、下に何点か紹介する。
僕は中でもこの梟のこれが好きである。眼に瞳の入っていないのがいい。アメディオ・モヂリアーニ (1884-1920) の女の眼のように深い憂愁を湛えている夜の湖である。と僕は勝手に思い込んでいるのである。絵は見るものに思い思いの「想像の翼」をもたらすから、だから絵を見るのは楽しい。何が描かれていようが、画家が何を思って描こうが、見る人は見る人にもその人の人生があるのである。鳥に仮託して、また女に仮託して、見る人はその眼に湖を見るのである。もみじの枝に湖があってもいいでしょう、女の眼の中で水鳥が泳いでいてもいいでしょう。だから行住坐臥、土曜日の昼下がりにはボーっとしているのが、どうも体には良いようである。