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風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

神戸へ、そして神戸から

2006-01-16 23:27:48 | まぼろしの街/ゆめの街
「あの時」から11年目を迎えようとしている。この日の早朝午前5時46分にもまた追悼の灯がともされ、なくなった人々への追悼がなされるだろう。
未曾有の大災害だった阪神淡路大震災から11年目の17日の朝を思う。

震災から1年半ほど経って訪れた長田の現地事務所の周辺は、瓦礫は取り除かれてあったが空き地だらけで、人々は仮設住宅に住み、まだまだ廃墟然とした暮らしの破壊された跡だった。
遅れてきたボランティアとして現地にはいったボクらは、ひとの暮らしの破壊された後へのケアや、訪問、仮設での炊き出し、識字学校の手伝いなどの作業をした。
仮設住宅に住む一人暮らしの人の「孤独死」が、さかんに取りざたされていた。

このボランティア活動と前後して、東京で知り合っていた歌うたいのおーまきとまきとその相棒の野村アキとともに仮設のひとびとを励ますためのコンサートと炊き出しの手伝いに姫路に行ったこと等も懐かしくおもいだすほどの時間が経過してしまった。
アキは当時地域コミュニティ放送局として有名になっていた「FMワイワイ」のディレクターなどもやっていた。そのつながりで、「FMワイワイ」のある鷹取教会にも行った。あのダンボールの筒で出来た礼拝堂にも行った。その両手で火災を止めたと噂されていたキリスト像も見た。焼け残ったキリスト像はそのありがたい信仰に由来するのだろう噂とはうらはらに、奇妙にキッチュな像と印象づけられている。

某NGO団体の現地事務所は学生ボランティアでひしめいており、その中には旅をしている若者もいた。若者らしいバカ騒ぎもあった。

現地事務所が閉所式をやった時にも行った。現在、長野県知事をやっている田中康夫さんが若い女性をひきつれて挨拶に来て、そのツレのあまりにも式典にふさわしくないファッションが異様に目についた。彼がまだクリスタル族の名残りを残したまま勝手連的なボランティアを神戸でやっていたころで(その著作もある)、徹底したミーハーぶりはかれのスタイルだろうとボクは了解したが……。

この旅はつれあいとの新婚ボランティア旅行(笑)でもあり、前年かにインドで落ち合ったボクらが運命的に導かれた行った活動だった。

ああ、いま神戸はどうなっただろうか?
神戸で出会った友は元気だろうか?
神戸は真に復興したのだろうか?

神戸は17日の早朝11年目の朝を迎える。


暗く底冷えの街/山谷

2006-01-14 13:41:29 | まぼろしの街/ゆめの街
Sanya_2東日本の最大の寄せ場である山谷へ行った。行かねばならない事情があったから……。だから、これはルポではないし、まして山谷を語るものではない。越冬中の山谷のひと夜を報告する表層の一文である。

いわゆるヤマと呼ばれる「山谷」という地名は地図の上にはない。だが、その日雇い労働者の街、東日本最大の寄せ場「山谷」は、アークヒルズとともに厳然としてこの国の首都東京の中に存在している。一方はIT長者の住む幻影としてのアークヒルズと、その正反対のひと夜のドヤ(宿)もない底辺労働者たちがアオカン(野外宿泊)する街として……。

そこは首都東京の鬼門、丑寅の方向に見合ったためかふたつの悪場所にはさまれ、さらに隅田川という江戸時代から庶民に親しまれた川のエッジのような場所にある。悪場所とは、ひとつは吉原、そして川向こうの玉ノ井の郭街である。

ボクが少年の頃にはこの「川向こう」という言い方にもどこか差別意識を含んだ言い回しで多くのひと(江戸っ子?)は使っていたように思う。
第一、この日光街道もしくは常磐線を敷衍した先には小菅刑務所がある。この風水的な方位の一致はなんなんだろうと考え込んでしまう。

さて、山谷の街は、そのどこか置き忘れられたような時間の止まった佇まいの街並みとともに淋しく、底冷えがした。実際、かなり寒い日だったのだが、最底辺に生きる人々は身を寄せるようにして商店街の路上に布団を敷いて寝ているのである。その中には行倒れとも泥酔して昏睡しているとも区別がつかない状態で正体なく服のまま横たわっているいるひともいる。そのまま、眠り込んだら凍死の危険もある真冬にである。
だが、どちらかというと労働者の数は全体に少ないのではないかと思われた。それはアブレが少なくなったと考えるべきなのか、かっての街にあふれるような労働者の数が少なくなったのは経済の冷え込みとともに街の活況がなくなったせいなのか、それともボクが行った時間のせいなのか?

寄せ場を支援する団体が運営する「遊戯場」なるところも覗いてきた。地下ホールのようなそこには暖を求めて身の回りの荷物だけをもった数十人の男たちが、一斉に同じ方向を見たまま押し黙っている。その視線の先には大型のTVがあった。まるで、ひと昔前の街頭TVが再現されたみたいだった。
簡単な調理用具と炊事場があったが、時間が遅かったためか使用しているひとはいなかった。

キリスト教関係の伝道所があった。「神の愛」を宣べ伝えるために炊き出しや、生活支援をやっている活動のセンター的役割を果たしているのだろう。そして、その建物がどこか崩れていくような昭和初期のキャバレーか、ミルクホールの佇まいを外観に残しているのが不思議だった。

そして、この寒々しさと非現実感はなんなんだろうと考えながら山谷の街を彷徨していると、それは正体のつかめない、もしくはいづこともしれない名付けようもない「夢の中の街」に似ているのかもと思い至った。
だが、実はこの街は繁栄する日本の常に陰画、ネガでありつづけた街なのであった。高度成長期しかり、バブル期しかり……。ゼネコンからみの大規模施設や、高層建築そして公共事業が盛んに事業計画・建設されていた時代に、それを肉体労働、日雇い労働として支え続けた底辺労働者が住んだ街なのだ。

つまり、「夢の中の街」の「夢」とは、この国がGNP成長の過程で見た砂上の楼閣のことで、ひとときの甘い夢を共有できたかもしれない寄せ場の住人の夢をも内包して、その街の凍えるような寒さと暗さは崩壊した夢の陰画を現わしているかのようだったのだ。

ボクは影のような暗い街を影のようにうろつき回ったのだった。

(写真3)キリスト教系の「伝道センター」の建物は、まるで昭和初期のキャバレーか、ミルクホール跡のような佇まいをしていた。



黄昏コラム/阿羅漢さん

2005-10-26 00:18:23 | まぼろしの街/ゆめの街
freedom_life宮下公園での集会の後、ボクは会ったのだ。そう、昔ならボクらはこういうひとをビートと呼び、旅人と呼んだのではないかと言うひとに。
2005年の今日、かれは単なる家なき浮浪者ホームレスと呼ばれている。
でも、それでもいいではないか。こころも身体も自由なのだから……真の自由人なのだから。

トイレ近くのベンチにぽつんと座って、カップ麺をすすっていた彼はなんだか泰然として見えた。その伸ばしたヒゲも、ビートヒゲみたいでかっこいい。
ボクはその公園に住みついてるひとかと思って集会での騒音を詫びたのだ。
すると、むしろ彼の方が恐縮しているのだ。話してみると声も小さく、いたって気弱に話すのだ。
で、話を聞いてみると最近渋谷に、いや東京に流れてきたということがわかった。彼は、なんと鹿児島から歩いて来たというのだ。
ヒッチハイクでもない、交通手段は金がないために一切使わず、ひたすら徒歩で東京まで来たと言うのだ。

健脚、その自由人ぶり、鹿児島出身(らしい)。ボクがただちにナナオのことを連想したのは当然だろう。
まだまだ、いるのだ。このような自由人が。それに、彼はまだ身なりもさっぱりしてバックもふたつで、きっとそれが彼の全財産なのだろうが、この冬は東京で過ごしてみようと思ってると言った。
バビロンシティの中の野生人だ。バーバリアンはまだまだ棲息しているのだ。

ちなみに、東京の中にまるで仙人のように住みついている自由人がいる。風呂にはもう何年も入らず、髪は伸ばし放し、異臭をはなちながら超然と悠然と生きているひとたちだ。
彼らはこの国の中のサドゥだと思う。いわば、聖者だ。
彼らのことを「アラカンさん」(阿羅漢)と呼んで写真を撮り続けているカメラマンがいるらしい。ボクも何人かの阿羅漢さんを目撃している。
もしかしたら、彼らは精神的には病んでいるひとかと思う程、市民生活には無関心で「おもらい」でもなく、ゴミという都会の中の狩猟採集生活で生命をつなぎながら、超然とマイペースで生きている。まさしく孤高の超然とした姿だ。

宮下公園で遭遇したビートヒゲの彼も(見た目にはまだまだ若そうだった)またそのような阿羅漢さんの予備軍のようにボクには思えた。
これから寒くなります。青カンもきつく厳しくなります。どうか御自愛ください。


ビザールなりし見せ物小屋(3)

2005-10-22 00:45:54 | まぼろしの街/ゆめの街
misemono_3どうやら、新たな「ヘビ娘」である美少女はおミネ太夫に仕込まれたようである。そう、おミネ太夫の跡を継ぐ、二代目の「ヘビ娘」が誕生したのだ!
どうして確信をもってそういうことが言えるかと言えば、芸風が同じだったからである。ネタの展開も同じだからである。もっと言えば、同じネタが他にもあったからである(たとえば「河童のミイラ」)。
ただ、おミネさんは巨大な白ヘビとたわむれるのもウリだったが、さすがになつかなかったのか扱いが難しいのか登場しなかった。この白い大蛇は脱皮のたびに大きな抜け殻を残し、そのヘビの皮を財布に入れておくと金が無くなることがない!というので、以前ボクも一部をいただきいまだ財布の中に大事に入れているものなのだ(効果の程は全然なのですが、こころ安らぎます)。

という訳で、ボクはふたまわりほど同じ演目を楽しんでからやっと小屋を後にした。
ボクの確信は感慨もひとしおであった。大寅興業の見せ物は、「人間ポンプ」などの日本独自の見せ物芸が風前のともしびで、あまり体調も良くなかったらしいおミネ太夫の芸を継承する娘が現われたのだ。それも、若干19歳の美少女だ。これは、ますます通わなければならなくなった。

きっと、この二代目誕生のいきさつにはこれは勘だが、「月蝕歌劇団」がからんでいるに違いない。アングラ劇団が滅びかかった日本の見せ物芸を継承するに、ひと役かったに違いない。

今年の「酉の市」の花園神社の見せ物興業に、ボクはこれらの推測と確信をもって自分の直観を確認しに行くだろう。

もちろん、いまからこの日本の見せ物芸観劇ツアーにともに行くひとを募集する!
日本の見せ物芸観劇ツアーのコンダクターはボクで、ボクの解説付き(笑)のツアーになるだろう。

(行きたいひとは、メアドを明らかにしてコメント欄に書き込んでおいて下さい!
11月21日(月)の「二の酉」を考えています。)

(photo_1)少女はやおら片手にもったヘビの頭にガブリと噛み付くと、ヘビの頭を食いちぎった。そして、口中を開いて観客に見せたのだ。

「ビザールなりし見せ物小屋」(3)/「蔵の町を徘徊する」(4)
(おわり)



ビザールなりし見せ物小屋(2)

2005-10-21 01:30:19 | まぼろしの街/ゆめの街
misemono_6さて小屋の中に勇気をふるって入って見れば、舞台ではなにやら面妖な扮装をした男が緋の襦袢を着た少女を紹介している。少女は舞台の裏側から上半身だけ出して、おもむろに蝋燭に火をつける。
少女は火のついたたばねた蝋燭から流れる蝋を口の中で受け止め、ついには50本ほどたばねた蝋燭を口中に差し入れて消してしまう。
そして、その美しい姿形を舞台の上にあらわにすると、そこで片手にもったヘビの頭にガブリと噛み付いた。そしてヘビの頭を食いちぎると、口をひらいて口中を観客に見せる。少女こそが「ヘビ娘」だったのだ。「ヘビ娘」は、たいそう美しい少女で、花も恥じらう19歳だという。見上げたものだ。

ボクのかって書いたものを読んでくれている人なら(ボクはつい2年前までは、BBSの中にブログのように日記や記事を書いていた )気付いたと思うが、花園神社に小屋掛けする見せ物小屋を数年に渡り見続けてきた。現在、小屋掛けをする見せ物興業師はふたつしかなく、そしてヘビ女もしくはヘビ娘のネタで興業を続けているのは、言わずと知れた大寅興業さんである。とするとおミネ太夫の跡継ぎだろうか?
3年前この花園神社の見せ物興業は、アングラ少女歌劇団のような芝居を見せる(そしてアイドルなみの女優さんがいることで知られる)「月蝕歌劇団」が、見せ物もどきの芝居として「見せ物」を敢行した。それはそれでアングラで面白かったが、見せ物興業としてはフィクションであってフリーク度で欠けていた。「金返せ!」のレベルだったと思う。
(つづく)
「蔵の町を徘徊する」(3)

(photo_2)少女はたばねた蝋燭に火をつけると、それを口中に差し入れ火を消した。



ビザールなりし見せ物小屋(1)

2005-10-20 00:36:39 | まぼろしの街/ゆめの街
何の情報も持たぬまま彷徨いながら、親切な伯母さんや、祭りの粋な着流しの伯父さんたちに聞いて、ボクはその寺に辿り着いた。水子地蔵の碑もあるその寺の境内は、通りの屋台にもましてひしめきあっていた。一杯飲み屋や射的場まで境内の中にはあって、静かな寺の境内がまるでひと夜の歓楽街のおももちである。
そんな境内の一画に、「お化け屋敷」と隣あって目当ての「見せ物小屋」は小屋掛けしておりました。
とみれば、その看板のペイントもどこやら稚拙なアングラ芝居の看板のようであります。というか、その荒々しいタッチはかっての懐かしい貸本マンガの「劇画」風に見えたりもします。その下に書かれた「TVでは放送できない過激ネタ。ヘビを生でたべるおんな」と書いてあります。たしかに看板絵もヘビ娘が描かれており、どうやらこの見せ物のメインイベントであるようです。その時、ボクにはひとつのことが閃いたのです。その瞬間のボクはまるで、瞳を星のように瞬かせた小林少年のようであったでしょうか?
客寄せの口上はこうです。

さぁさ、この篭の中に入ってるものを見せてあげるから、もっと近くにおいで! ホラ、この中には生きたヘビが入っているのさ。さぁ、触らせてあげよう! ホラ、そこのお嬢ちゃん! ここへおいで、ヘビなんか触ったことはないだろう? (「キャ~~!」) どうだい、むしろ気持ちいいだろう? さ、小屋の中には、綺麗な顔をしたお姉さんが、このヘビがめっぽう好きときた。悪食のお姉さんが、このヘビを食いちぎって食べちゃうのね。めったに見れるもんじゃ、ないよ!

そして口上のお姉さんは、片手にムンズとつかんだヘビを取り出すと、群集はつられるように前へワ~ッと集まった。口上のお姉さんの脇の幟(のぼり)には「見せ物地獄」と書いてある。もう、悪夢のような演出が小屋の入り口からプンプンと匂う。
(つづく)「蔵の町を徘徊する(2)」


蔵の町を徘徊する(1)

2005-10-17 01:02:39 | まぼろしの街/ゆめの街
051016kawagoe_3ほんの少し路地をまがれば闇がある??そんな街に数十万のひとびとがひしめいているかのようだった。地の日本酒のポケットサイズを片手に、地図ももたずに彷徨っていると、突然往来の向こうから大きな山車が着物姿の子どもたちや、揃いのハッピ姿の男たちに引かれて出現する。街並も蔵がたちならぶ江戸時代の風情なら、山車も祭りもまるでタイムスリップしたかのような古式あふれるものだったようだ。

酔った眼で山車を見上げ、山車の上で少年や少女たちは、狐やおかめなどの面をつけて神仏に変身して憑依の神楽舞いを舞っている。祭りの高揚感に巻き込まれ、さらに酒の酔いも手伝ってフラフラと、まるで迷路を彷徨うかのように歩き回って、人込みにまぎれる。それは、昼に観光に来た時とは、うって変わった不思議な雰囲気をたたえていた。

夕刻から突然、思い立って川越に行く。15~16日の両日に開催されている国指定無形文化財の「川越まつり」の真っ最中なのだ。なかでも、とりわけボクのお目当ては「見せ物小屋」である。その観劇報告がネットの中にアップされてあった。ならばとボクも重い腰をあげた訳である。しかし、どこで小屋掛けされているのかもわからぬまま川越に着いたボクは駅前からの異様な盛り上がりに圧倒されてしまった。
そうして、途中でもとめたワンカップを片手に蔵の街並が保存されているあたりを彷徨い歩き、酔いも手伝って夢の中のような奇妙な夜の彷徨をするはめになったのだった。
(つづく)



夕焼け評論/取り忘れられた街

2005-10-13 00:02:41 | まぼろしの街/ゆめの街
青梅で水浸しとなったテントで、これまた水に濡れた寝袋で寝てしまったせいか、風邪を引きそうな徴候がある。それをどうにかコントロールして耐えている。
ポエトリー・ライブ・パフォーマンスで汗をかいたところを、酒をくらって着替えもしないままに寝、さらに浸水する雨で身体を濡らしてしまった。

撤収の朝、チャイを七輪で温め直し、身体を温める。さらに、幸いにしてまだ熱かったキャンプ場の風呂に飛び込む。というか、半身浴をする。残ったチャイをふるまって、次々に帰ってゆく車を見送り、森を見渡して余韻を楽しんでいた。

二日たって、やっと晴れ、寝袋も洗濯物も干すことができた。入道雲のような雲さえわきたつ、さわやかな一日。近所では、土日体育の日の雨で順延になっていた運動会がやっと開催できたという井戸端会議がなされていた。

懐かしい場所に散歩に行った。有里のライブを開催して、有里たちと出会った頃のあの街の風景はどうなっただろう? と、気になっていたのだった。
中央線にあるその近郊の街は、中央線の高架工事の為、駅は立派になり、駅周辺は変わりつつあったが、懐かしい場所はほぼそのままだった。多摩川べりの競艇場のある駅までつづく小さな郊外電車は、まるで時が止まったかのようにそのままの風景を残していた。おそらく、ここでは変わったのはひとの方なのだ。鄙びた小さな駅とその駅前の商店街。まるで、コンパクトにした下町のようなたたずまいはそのままだった。

その日、一瞬だったが雲が切れ夕焼けが見えたのだった。
ぼくは、ずっとその街になにかを取り忘れてきたかのような思いを打ち消すことができなかった。30代だったぼくが、つげ義春のように生きたいと思っていた街だった。一瞬の夕景の中に、そのぼくが忘れてきたものが浮かび上がったような気がしたが、確かな形にすることなくぼくはすぐさま忘れ去ってしまったのだった。


温泉探訪/崖の湯のこと

2005-09-02 11:36:04 | まぼろしの街/ゆめの街
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「崖の湯」は牛伏寺断層に大いに関係があるかも知れない。高ボッチ高原をはさんで牛伏寺の反対側に位置し、標高も1,000メートルとほぼ同じ。崖が崩落して、そこから湧き出た湯に傷ついた猿が入浴していて明治時代に発見されたと言う言い伝えがあるらしい。おおよそ120年の歴史をもつ湯治場である。
5~6軒の温泉宿が軒を並べているが、民芸風、旅館風、本棟造り、モルタル造り、ひなびた湯治場風とそれぞれが特徴をもつ。

開湯の宿と言われているのが、崖の湯の奥にある「山上(やまじょう)旅館」で、ここは湯治場風だが、宿のたたずまいも素敵だ。すぐ隣に小さな祠があって崖の湯で快癒したひとのつえ等が奉納されている。有名な相撲取りもこの宿で傷を癒したとか。入浴のみ500円。

おとなりの「山七(やましち)旅館」は、若山牧水の妻だった喜志子が晩年長期逗留した宿として有名で歌碑などもある。入浴のみ600円。

上にある「山二(やまに)旅館」は、手入れの行き届いたお庭が素敵な宿である。北アルプスがのぞめる展望台がある。家庭的だが大きな犬がいる。宿泊料は周辺の宿の中では格安。入浴のみ500円。

「薬師平ホテル」は民芸風の合掌造りの建物のデザインが美しいが、所詮ホテルである。展望は抜群。入浴のみ700円。

「群上閣」には「観音の湯」という湯殿がある。木造で「本棟造り」で建物が素敵だが、団体客が多くにぎやか。入浴のみ400円。

あと民宿風の旅館が数軒あるらしい。

共通している湯質は:明ばん泉 37~47度  
効能は:神経痛、リウマチ、胃腸病、婦人病、皮膚病

内湯のみのところが多く、湯温が低いのかガスであたためているところが多いようである。

個人的にはここに、つげ義春が訪れていないらしいことが残念である。つげ風の物語がふつふつと湧いてくる温泉だからである(以前宿泊して以来そう思っていた)。

(今日はまるで、温泉探訪のような記事になってしまった(笑))