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風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

リリカルな晩/ひとり涙を流す

2007-06-05 23:59:28 | まぼろしの街/ゆめの街
Dohji_1 (閑話休題)
 親切ごかしのことばをかけたために、ひとりのひとを傷つけたといふことを知った。ボクのどこか南国的なテーゲー(てきとう)な性格が、徹底した面倒見ができないくせに、やさしい言葉をかけさせたりする。それは、相手にはボクの無責任さにみえるらしい。
 ボクは、どこか長く東京に住みながら、東京人になじめないと考えてきた。ボクには冷たく感じるほどの他者への無関心さと言へばいいのか、東京人にはそんな(下町には、それとは別次元の江戸っ子的な面倒見の良さがあることは、日暮里にすんでいたボクは良く知っている、その上で言うのだ)徹底した個人主義があると感じてきたもののことだ。

 しかし、けふボクはそんなのは、なんの背景・財力ももたないボクの単なる心情にしか過ぎないことを思ひ知らされた。他者にたいして何もできないのなら、徹底した無関心をよそおった方がいいのだ。
 内実をともなわない親切ごかしの言葉など、なんの足しにもならないどころか相手を傷つけるだけなのだ。

 夕刻から、ひとり飲み続けた。図書館にリクエストした『現代詩手帖』の「中原中也生誕百年」特集を受け取りに行って、なぜ、その号を買わなかったのかいまさらながら悔いている。中村稔の論考など、まさにボクがテーマとしたいものであって、いやになってしまふ。座談会に高橋源一郎が、おもわずうなずきたくなるやうなことを言っていた。
 「若者がふつうに生きていくときに、精神の真空状態が起こって、そういうときに言葉が必要だなと思う。だけど、自分の言葉がない。だれかの言葉をもってきたいというときに(中略)詩人では結局ランボーと中原中也だけになってしまう、そんな気がしました」(座談会「私」を超える抒情)

 ならば、中也よ! このやうな夜、ボクは、あなたのどのやうな詩句を引けばいいと言ふのだろふ?

 酒を飲みながら、森田童子を聞いていたら泣けてきた。森田童子なんて声量もない、たひして驚くようなメロディを書いた訳じゃない。モジャモジャの時にアフロヘアみたいなヘアに端正な顔だちを隠すようにサングラスをかけ続け、ボクでさえ弾けそうな簡単なコードに曲をのせて暗いリリックを歌っていたのだが、いまも、森田童子をかけると何故か泣けてくる。
 森田童子はきっと太宰好きの文学少女だったと思ふのだが、その青臭いリリックがボクを青春のまっただ中に連れ去ってしまふ。決して「甘い」だけではない、「苦さ」も「悔恨」も伴ってしまう青春に……。

「ただ自堕落におぼれてゆく日々に、ひとりここちいい」(森田童子)

「前途茫洋さ、ボーヨー、ボーヨー」(中原中也)

「ああ! 心といふ心の/陶酔する時の来らんことを!」(ランボー/中也訳)



壁面のアフォリズム(箴言)

2007-01-10 02:29:45 | まぼろしの街/ゆめの街
Vsl17 8日に見た映画の余韻もあって、今日(9日)一日「フランス5月革命」のことを考えていた。いや、当時ボクがパリにいた訳ではないから(笑)、正確には同時代の日本のボクらに「5月革命」は、どういう影響を与えただろうということを反すうしていたにすぎないが……。

 そう1968年のあの頃、「5月革命」の衝撃は学生運動をになっていた活動家のみか、一般市民、労働者にもインパクトを与えたものだ。まず、デモで左右の人と手をつないで大通り一杯に広がるフランスデモというのがはやった。
 東京の学生街であった神田周辺が、「神田カルチェ・ラタン」と呼ばれた。お茶の水から水道橋あたりの街頭に催涙ガスの匂いがたなびき、はがされた投石用の敷石がゴロゴロ転がっていた。
 現在の学生は知るまいが、郊外(八王子など)に校舎が移転した大学は、マンモス化もあったが、基本的には各大学の自治会、党派の分断を謀ったものだと言うことだ。皇居も眼と鼻の先の神田駿河台近辺に都市ゲリラの根拠地みたいな校舎があっては困ると言う治安維持上の配慮も大きかったろう。「神田カルチェ・ラタン」は治安当局の目の上のタンコブであり、公安を刺激した。今という時間から考えても、この頃まで学生にも、また大学側にもあった学問の自治とか、研究の自立性とかいったものは「幻想」であったという「象牙の塔」(権威)幻想があっけなく崩れ去ってしまう。1970年代以降、大学の研究や学問は自律性を失い企業や、産業の発展の為であると言う「下請け」に堕してしまうのだ。

 それから、これがボクにとっては重要な着目点なのだが、それまでの党派のスロ-ガン的な落書きが、「5月革命」以降、突然哲学的というか、詩的になった。まるで、美しいアフォリズム(箴言)のようなことばが学内、バリケード内の壁に落書きされて行くのだ。

 「5月革命」で、世界的に有名になった落書き(壁面のアフォリズム)には、こんなものがあった。

 「敷石をはがすと そこは砂丘だった」
 「想像力が権力を奪う!」
 「禁止することを禁止する。自由はひとつの禁止から始まる。他者の自由を犯すことの禁止である」
 「異義を申し立てる。だが、まずオマンコすることが先だ」
 「ブルジョワはすべての人間を堕落させる快楽にひたっている」
 「愛すれば愛するほど革命をしたくなり、革命をすればするほど愛したくなる」
 「政治こそは街頭で行われる!」
 「Make LOVE,Not WAR !」
 「自由は与えられるものではない。それは奪取されるのだ」


 などなど。その警句のような、箴言のような壁の落書きは日本にも伝えられ、「文革」真っ盛りの人民中国の壁新聞の存在とともにボクらに、自立した表現、自律したジャーナリズムとは何かを考えさせた。
 それからである。学内、バリケード内そしてジャズ喫茶内の壁と言う壁の落書きが、一挙に哲学的、箴言的なアフォリズムの名言で彩られるようになったのは!

 昨年暮れだったか、「夜露死苦詩集」というタイトルだったと思うが、暴走族やチーマーのキャッチコピーのような「ひと言」を集めた「詩集」(?)が出版された。狙いは良かった。しかし、中世いやポンペイの昔から、実は民衆的な表現や、変革の意志は「落書き」の中にあった。
 その「夜露死苦詩集」にも取り上げられず、無視されたものとはこれらの変革の意志をもった革命的な(笑)「落書き」だった。それは、おそらく世代の落差なのだろうが、残念なことだった。

 とはいえ、ボクはトイレの下卑た欲望丸出しの「落書き」のことを言っているのではない。オマンコやファックすることの言葉がつかわれていたとしても、それは世界を変えるための意思表示として使われている。それこそ、深遠な箴言だった。
 フランスの1968年の5月革命は、ボクらに色々なことを教えてくれたのだ。

 「体制をファックしろ! ダマされるんじゃねぇ!」






パリ・5月・1968年の失われた革命

2007-01-09 01:17:24 | まぼろしの街/ゆめの街
Revolt_may パリ・5月・1968年の失われた革命(映画『恋人たちの失われた革命』のこと):
「1968年5月、パリ??。世界を変えられると思っていた。そして、この愛は永遠に続くと信じていた」(映画『恋人たちの失われた革命』のコピー文)

 素晴らしいと賞賛する気持ちと、まったくフランス人は独り合点の映画ばかり作りやがって(笑)! という気分に引き裂かれる映画作品を見に行った。この作品の素晴らしさは3分あまりの予告編の中にある! で、本作を見ると、その上映時間3.時間の冗漫さにイヤになってしまうのだ。
 ボクは、おすすめする! ガーデンプレスにある上映館である東京都写真美術館前の前にあるモニターと、そして公式サイトで、見られる予告編は、素晴らしい! 本当に高揚感に浸される。だが、それで、本作を絶対語ってはいけないと……(笑)! 革命は裏切られたが(「裏切られた革命」はトロッキーのロシア革命の批判の著作名)、映画もたまには裏切ることがあるからだ(笑)。

 しかし、全編モノクロでハレーション気味の映像、舞台に選ばれたのは1968年パリ5月革命のさなか、まるでウォホールのファクトリーのパーティを思わせるような主人公たちが入り浸るブルジョアの一室、ガンジャや阿片が回し飲みされている??眠気と闘いながら見た作品は、夢の中のような印象だが、こうして映画館から出て時間がたってみると、まるで現代に製作されたヌーベル・ヴァーグ作品かと思わせるような出来に思える(制作年代は2005年)。

 実は、監督のフィリップ・ガレルは日本のベビ-ブ-マ-(団塊)世代と同じ1948年生まれでまさしく、フランスの5月革命時に20歳であり、それは主人公の詩人フランソア(監督の実の息子が演じる)と重なる。そのうえ、監督はベルベット・アンダーグランドの歌姫NICOのもと亭主であり、NICO主演の作品を7本撮り、さらにはNICOが死去した時その追悼作品のようなものもつくっているという人物だ(この作品の中にもNICOの曲が使われている)。
 ジャン・リュック・ゴダールを継承する監督と言う評価もあるようだが、監督みずからインタビューに答えて「自分はインディペンディント作家」と言っている。そう、この作品はアングラ映画とおもって見に行くと気分がずっと楽になる(笑)。

 だいたいわかりやすいストリーというものはないに等しい。あるのは、状況だけであり、それもリアルな位安上がりにつくってある(笑)。機動隊と学生たちが対峙するシーンは長尺長回しで、カット割りはほとんどなく同じシーンが長々と撮られている。つまり、この映画作品において「パリ5月革命」は歴史ではない。そこに映し出されているのは、鋪道の石や、木片で築かれたバリケードだし、横倒しにされた自動車である。燃え盛る火に見えかくれする投石する学生たちのすがた。鋪道を駆ける大勢の靴音、爆発音、騒然としながらどこかのんびりとも思える夜の空気、笛の切り裂くような音そんな音、音が効果音というよりリアルな騒乱のひと夜を再現する。歴史は鳥瞰的に語られるが、実は歴史をつくっている現実の人間は地を這うような何が起っているのか俄には分からない目の前の状況しか体験していないのだ。歴史は、そんな個人の体験の集積、集合でなりたっているとも言えそうである。この映画はそういう意味でドキュメンタリーを意識して作られたと思う。

 そう、この感想と言うか、映画評の文章を書き出してからボクは、最初とまったく違う評価を持ってしまった。この『恋人たちの失われた革命』はインディペンデント(アングラ)作品を見に行く気持ちでぜひ見てもらいたい。とりわけ、アングラ映画をみたことがない若い世代におすすめする。
 アングラ映画としてみれば、ガレル監督がなぜ、実の息子に主演させ、その息子の祖父や母(監督の妻)やかっての妻だったNICOの歌声まで総動員してドキュメンタリータッチのこの作品を作り上げたかが、分かってくるはずだ。そこには「5月革命」を含めた「継承」というテーマが隠されているのだろう。
 こんな映画体験はハリウッド娯楽大作しか知らない世代には新鮮なのではないだろうか?

公式サイト『恋人たちの失われた革命』
http://www.bitters.co.jp/kakumei/index.html
写真もここからフライヤー、ポスターの映像を引用しました。宣伝にもなりますので、お許し下さい。なお、ここからおすすめの予告編も見ることが出来ます(但し、windowsユーザーのみのよう)。


『日めくりタイムトラベル』(NHK/BS2)に出演した!

2007-01-05 02:00:32 | まぼろしの街/ゆめの街
Jun_ian4_bs2 3日の夜、『日めくりタイムトラベル 昭和42年(1967年)』(NHK/BS2)にボクが登場したのは、番組がはじまって2時間近くたとうという「八月」のパートだった(全3時間の番組)。E.G.P.Pで「風月堂のうた」をリィディングする姿にかぶさって「詩人フーゲツのJUN」というクレジットが入る。
 新宿駅東口の通称「グリーンハウス」から、中央通りを「風月堂」、「汀」、「びざーる」、「DIG」跡地など歌舞伎町を歩き回り、ゴールデン街まで3時間近くカメラがひっついて歩き回ったが、使われたのは「風月堂」前、「ジャズ・ヴィレ」裏の路地(というよりビルのすき間のドブ)などほんの一部のシーンだった。

 それでもなんとナレーションが入る。そしてナレーションを担当しているのは敬愛する大先輩の歌人福島泰樹さんである。ボクにとっては、これが一番うれしかったかもしれない。
 何しろ福島さんの声で「JUNは……」といったナレーションなのである(何と言ってたかは確かな記憶はないのだが……。あとで、ビデオをもらったら確認します。cureaさん!よろしく!)。福島さんとはUPJ3(ウエノ・ポエトリカン・ジャム第3回目)で、挨拶し、言葉を交わした。きっと、ボクのことなど覚えていないだろうが……(福島さんはUPJ3のゲストで、トリをつとめた)。ともかくビート派ではないにせよ、僧侶でもある歌人福島泰樹さんは「バリケード1966年2月」の歌人として敬愛しているのだ(ボクも出発点は短歌だった)。

 この番組で「新宿風月堂」や「フーテン」そして「日本のSUMMER of LOVE」のことがどれだけ伝わったか心もとないが(なにしろ当初「電脳・風月堂」のURLもクレジットで出ると言う話だったが、あとでダメになった)、おおよそ3~4分のミニドキュメントで、とにもかくにも「1967年(昭和42年)」をテーマとする番組に取り上げられました。

 ボクが話した多くの事(「部族」、「新宿ビート」、「風月堂」そしてフーゲツ族、「新宿風月堂」の歴史、その年のゴーゴー喫茶でのイベント、状況劇場・天井桟敷などのアングラ芝居、「蠍座」などのアングラ映画文化、ダンさん(永島慎二)の思い出などなど)は、すべてカットされ(これだけで、ひとつ番組が作れ殴打とディレクターは言っていた)、提供した貴重な資料もほとんど使われなかったが、まぁ、「フーテン」や「新宿ビート」への偏見や偏向はなかったので、よしとしよう。
 それに、ミニドキュメントのまとめ方には、担当ディレクターが「日本映画学校」の卒業生であるという手腕は発揮されていた。きっと一度は映画制作を志した人なのだ。ソツのないまとめかたはさすがとも言える。

 ただ、番組全体はボクが危惧した通りのタレントによる(タレントというのは「才能」という意味なのに、なんのゲイもないタレントがギャラをもらっているのがハラがたつのだ(笑))、バラエティショーであった。ディレクターが調べ上げてきたことを、台本通りに読み上げていく。ジャンル(おもちゃ、ファッション、芸能、公害などなど)ごとに、それぞれ別のタレントが登場して、プレゼンするかのごとく発表していくという手法で、それぞれのプレゼンターが昭和42年(1967年)をひと言で言い表わす標語を考えると言う進行だった。
 で、結局、1967年を言い表わす言葉として選ばれたのは「繁栄の光と影」というソツのないものだったけれど、これとてボクがHPで書き、また『BURST』のインタビューでも答えたものだから白けてしまった。それを考えるとなんだか、この番組「日めくりタイムトラベル」という番組に結局、全面的にかかわったのではないかという気がしてしまった(ディレクターは『BURST』のボクのインタビューを読んでいると言っていた)。

 次回は、昭和47年(1972年)だそうだ。なぜ、5年とぶのかボクにはよく分からないが、ま、今度は声はかからないでしょう……(笑)。


(写真3)いや、マジにアップには耐えられない顔です。これでも、昔はそれなりにモテたのですが……(笑)。でも、そろそろボクの世代全部が「還暦」ですか……仕方ありませんね。いまさら、モテたいと……実は……思ってます(笑)!
(断っておきますが、ボクは今年、年男ではありませんので……。ムダな抵抗ですが……W)




西郷どんの上野(5)/「聚楽」のメニュー

2006-12-24 00:29:17 | まぼろしの街/ゆめの街
Saigo_donburi こうして見ると上野には、江戸も明治もがタイムカプセルのように凝縮されているようだ。さらに、大正、昭和のレトロなモダニズムもそこにはある。今日はその話をして、この5回にわたった上野そして西郷どんの話を終わろう。

 かって不忍通りには、府電のちの都電が走っていた。不忍通りを歩くとボクには、チンチン電車が走っていた頃の幻影が見える。護国寺方面から動坂、団子坂下、根津を通って上野へ至る懐かしい路線だ。このチンチン電車に乗って不忍池のほとりを通り、広小路で降りる。
 上野へ来れば、食事はきまって「じゅらく」だった。レストラン「じゅらく」は、下町育ちの者にはなつかしい洋食屋さんであろう。漢字では「聚楽」と書く。
 そして、現在では考えられないことだが、昭和27年に西郷どんの建つ山王台の銅像の下がくりぬかれ「上野百貨店」ができる。ここには現在も1階部分にその名残りがあるが、広小路に戦後闇市を開いていた露店商が収納される。御徒町一帯の闇市はアメヤ横町通称アメ横になる。

 「上野百貨店」のテナントは、入れ代わるがレストラン、ビアホール、映画館(上野セントラル)ができる。その2階部分に「聚楽」の支店である「じゅらくだい(聚楽台)」がある。
 ここは現在ファミレスのルーツとか言われているらしいが、デパートの階上にあったファミリィ・レストランの雰囲気を濃厚に残す洋食屋さんだ。「聚楽」そのものが、大正13年に神田須田町にできた洋食屋「須田町食堂」を前身とするレストランのチェーン店だ(創業84年ということになりますか……)。
 「聚楽台」には、桃山様式といえるのかどうか知らないが手すりのついた座敷の間がある。そのデザインそして飾り付けそのものが上野らしく非常にキッチュである!

 そして、今回、この上野の西郷どんにまつわる話を書くきっかけになったメニューに出会ったのだった。西郷どんの銅像の真下である。ボクは迷うことなく注文した!
 おそらく、ここ「聚楽台」でしか食べることができないし、また日本中でそこ以外にふさわしい場所はないだろうというメニューである。

 その食べ物の名前は、「西郷どん」と言う!

 漢字で書けば、「西郷丼」であろう。写真で分かっていただけるだろうか?
 御飯の上に、豚の角煮、さつま揚げの半身、薩摩イモの天婦羅、薩摩黒豚のそぼろ、薩摩地鶏のゆで卵がトッピングされているという「薩摩(鹿児島)」名物のオンパレードの丼(どんぶり)である!
 いや、これが案外おいしかった。鹿児島ではさつま揚げはアツアツのものを食するが、ま、それはいたしかたないだろう。
 これに、薩摩のイモ焼酎をつけ合わせたら、おそらくここは上野だ、天下をひっくり返すようなことができる気分になれたかもしれない(それは薩摩焼酎の酔いのせいだけだとしても……笑)。

 かくして、ボクは気宇壮大な気分になって、明治時代の上野に思いをはせたという訳なのだった。

(写真4)これが、ここでしか食べられない驚異の「西郷丼」だ(笑)!

(終わり)



西郷どんの上野(4)/肚(はら)の西郷

2006-12-23 21:40:38 | まぼろしの街/ゆめの街
Saigo_dozo 上野公園の山王台に西郷隆盛の銅像が建立されたのは、明治31年12月のことである。西南戦争で「朝賊」であった西郷隆盛の名誉が回復され、また西郷が庶民に圧倒的な人気があったためかもしれない。西郷隆盛には「西郷伝説」という民衆のあいだに流布された伝説が根強くある。西郷どんが自刃した時、空を赫色(かくしょく)星がまたたいたとか、死体に首がなかったから生きている、といったたぐいの伝説だが、これらの伝説も西南戦争が、黎明期のこの国のジャーナリズムによって取材され、事細かに報道されていたという事情が大きい。「朝野新聞」や「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」などが、従軍記者(福地桜痴など「東京日日新聞」の社主みずから乗り込む)を派遣してその一部始終を記事にし、さらに錦絵になって判官びいきの庶民(最近の日本人には失われた心情ではないのか? 「勝ち組びいき」じゃ、主人に摺り寄るイヌだよ!)のあいだに西郷どんのイメージを植え付けていった。

 上野山王台の銅像は高村光雲の手によるが、実は西郷どんの脇にひかえる犬は作者が別である。なぜ、そういうことになったのか今回は調べ切れなかったが、西郷どんの浴衣姿は実はウサギ狩りの姿で(西郷隆盛は征韓論争で中央官吏(参議)を退いてから、湯治や狩りにいそしんでいた)、それゆえ後藤貞行作の和犬が付け加えられたようである。
 さて、この西郷どんは何をキッとにらみへい倪しているのだろう。実は、その視線の先にはあの皇居、自らが無血開城した江戸城がある。西郷が陣頭指揮して平定した彰義隊の霊を率いて、西郷は皇居を睨みすえている!
 そして、さらにはこの地で行われた上野戦争の新政府側の兵士の霊、さらに戊辰(ぼしん)戦争や西南戦争に倒れた官軍の兵士の霊を合祀する目的ではじまった靖国神社を睨みすえている!

 鹿児島出身の西郷どんの銅像が、背後にひかえさせているのはこの国の夷(えびす)のすむ地、鬼門である艮(うしとら)の方位、東北である。大村益次郎を指揮官とした討幕の官軍は会津、奥羽、越後から函館(箱館)まで遠征する。函館の五稜郭にたてこもって徹底抗戦した榎本武揚(海軍副総裁)もまた、佐幕側では注目すべき時代を超えたビジョンを持っていた。

 そして、この榎本武揚は下谷御徒町で生を受けた上野出身の人物でいわゆる「蝦夷共和国建国」構想を持ち、その長を選挙で選んだ。一時は、明治初期にこの国に二重権力状態(政府がふたつある)が現出していた。新撰組出身の土方歳三も榎本とともに闘いこの地で死んだ(榎本はのち許され明治政府の要職につく)。

 西郷どん自身は、むしろ純粋なまでに天皇絶対親政主義者で、明治新政府がその官僚機構(有司専制)によって明治天皇を利用していると憤慨していたほどだった。西郷は民衆に人気があったほどには、開明な思想の持ち主ではなかった。むしろ「軍神」と崇められたように西郷自身は自らも語ったように「いくさ好き」で、大東亜共栄圏思想の萌芽の思想の持ち主と言われる。西郷どんの魅力はおそらくその剛胆さにあった。「肚(はら)の西郷」(竹崎桜岳)と言われる所以である。

 参考文献:新版「上野のお山を読む」(上野の杜事典)谷根千工房2006
      「西郷隆盛??西南戦争への道」猪飼隆明/岩波新書1992

(つづく/次回完結)



西郷どんの上野(3)/銭湯で上野の花の噂かな

2006-12-22 01:24:31 | まぼろしの街/ゆめの街
 先回ふれた「長屋の花見」は、下町の貧しい長屋の住人たちが大家の発案で人並みに花見に行こうというハナシだ。とはいえ、酒もつまみも用意できないから、日頃食べているものを豪勢な花見の重箱料理に見立てて花見を楽しむと言う悲しくもおかしくもある江戸落語である。小さん師匠の十八番だった。じゃ、十七番はなんだっかというと、そんなのは知らねぇ(笑)。
 長屋の住人は、酒のかわりに一升瓶に入った番茶を飲んで酔っぱらい、豪勢な玉子焼きはじつはたくあんで、バリバリと音がし、柔らかいカマボコはその実大根でサクサクと噛みごたえがある。そこを持ち前のやせ我慢でおかしみたっぷりに見立てハナシは進む。
 ボクが日暮里で少年時代を過ごした昭和30年代??そのあたりに住む住人が花見に行く場所は、飛鳥山か上野山だった。そして、この両者ともが、どこか江戸情緒を残した空間だ。
 そして、「長屋の花見」によく似た花見風景は、日常的にあったに違いない。

 思い出しついでに書いておくと、不忍池の弁天様前あたりで、よく口上香具師を見た。それこそガマの油売りを見たことがある。日本刀でつけた傷がたちまち塞いでしまうのなら、ボクの心の傷もふさぐことができそうだった(笑)。
 母子家庭であるボクは、あまり母にかまわれた方ではなかった。それまで、ボクはキャッチボールのように、熊本の母、東京の父そして養育を放棄した父の下から叔母のところへと転々として転校と住居が定まらなかった。結局、東京で町の小さな洋裁屋のお針子をはじめた母のもとへ引き取られ、動坂(千駄木)、林町、谷中初音町と日暮里周辺だけでも文京区、台東区、荒川区にまたぎ、越境しての転居をくり返した。いま、地図のうえでは見つけることの出来ない地名が頭の中にこびりついて離れない。
 そうであるせいか、ボクはハーフサイズ(フィルムが2倍になる)の一眼レフ(と言っても安物の)カメラをもって、よくひとり彷徨い歩いたものである。そして、行き着いた先が上野であることが多かった。あの谷中の墓地や、路地裏や、長屋が無償に好きだったから……。そして、その習い性がボクをアンダーグラウンドな街を彷徨わせ、深夜喫茶に導いたのかも知れなかった。日暮里の『シャルマン』などのジャズ喫茶でモダンジャズの洗礼を受けるまでに、まだ6年程の月日がある。ボクが10歳頃の話である。

 さて、上野は江戸時代には見せ物興行の小屋がたち、そして明治に入って日本で最初のオープンスペースな歴史的建造物を残す公園となってからも、博覧会が次々と開催される帝都のメインのイベント開催地になる。それにともなって精養軒(明治9年)や茶屋が公園内に建てられる。列記してみると、以下のような頻度のにぎわいだ。

 明治10年、14年、23年 内国勧業博覧会
 同 16年 水産大博覧会
 同 40年 東京勧業博覧会
 同 43年 貿易品博覧会
 同 44年 納涼博覧会

 大正元年 拓殖博覧会
 同 2年 明治記念博覧会
 同 3年 東京大正博覧会
 同 4年 家庭博覧会
 同 5年 海事水産博覧会
 同 年  婦人子供博覧会
 同 6年 奠都50年奉祝博覧会
 同 7年 婦人子供博覧会
 同 8年 畜産工芸博覧会
 同 11年 平和記念東京博覧会
 同 14年 畜産工芸博覧会
 同 15年 こども博覧会

 昭和2年、3年 大礼記念国産振興東京博覧会
 同 年   納涼博覧会
 同 3年 御慶事記念婦人子供博覧会
 同 8年 万国婦人子供博覧会
 同 11年 躍進日本大博覧会
(参考文献:新版「上野のお山を読む」(上野の杜事典)谷根千工房2006)

(つづく)


西郷どんの上野(2)/上野公園は江戸である

2006-12-20 00:00:05 | まぼろしの街/ゆめの街
 上野公園に「江戸」を感じるのはボクだけではないだろう。ボクには寛永寺のかなたの森に、群居している黒いカラスの寂しげな鳴き声にさえ「江戸」が感じられて仕方がない。子どもの頃からそうだった。
 それは、上野東照宮や、寛永寺、かってこの地にあったという上野大仏や五重塔の存在も大きいが、それだけが原因ではないだろうと思っていた。それで、上野公園の歴史を調べていたら、そのボクの子どもの頃からの「謎」は氷解したのである。

 彰義隊と維新政府軍との「上野戦争」のあと、荒れはてた上野山に陸軍病院建設が計画される。その建設の是非をドイツ人軍医であるボードワンが意見を求められる。ボードワンは視察のあと、むしろこの地は公園にして共有空間として人々に開放し、歴史的建造物を守るほうが良い、という提案をした。この提案によって、ボードワンは上野公園の父とも言うべき存在になった(ボードワンの銅像は噴水の脇に建っている)。

 明治6年3月25日、寛永寺境内を公園用地とした上野公園がオープンし、2年後には不忍池周辺も公園に編入された(大正13年までは「御料地」。以後、下賜され「恩寵公園」となる)。寛文年間から花見の場所として江戸っ子に親しまれていた上野の山に、夏の風物詩である蓮見で有名な不忍池が組み込まれたことで、江戸の「聖なるもの(ハレ)」と「俗なるもの(ケ)」がセットになって保存されたのだ。それも、現在に至るも同じ「花見の賑わい」が繰り広げられる「生きた歴史的空間」としてだ。
 不忍池の大ハスの親水的な風景と、そして徳川家康を祀る東照宮(東照宮は日光、上野、静岡の3ケ所ある)や、歴代将軍の墓の置かれた寛永寺の墓所。

 金も食い物も用意できないが、「見立て」の心意気と勢いで花見を敢行する落語「長屋の花見」の御隠居さんや八つあんや与太郎が息づいた100万都市「江戸」??物質循環という意味では、理想的なエコシティだったという「江戸」の幻影がそこから立ち昇ってくるような気がするのはボクだけだろうか?
(つづく)



西郷どんの上野(1)/上野戦争

2006-12-18 01:05:25 | まぼろしの街/ゆめの街
Syogitai_memorial_1 昭和30年代の少年期を日暮里周辺で過ごしたボクには、上野は親しい街だった。だから、一時はデパートといったら「松坂屋」だったし、アメ横にもよく行った。都電に乗っても来たが、谷中墓地を突っ切っての散歩や撮影をかねてもよく歩いた(ボクはカメラも趣味だった)。
 少年時代のボクは、6歳くらいまでしかいなかった生れ故郷である長崎と似た場所を無意識の内に求めており、D坂いや動坂周辺は格好の場所だった。後年、長崎に行った折、長崎の路地や塀に動坂の面影を見てしまったくらいだった(ボクの長崎のイメージは混み入ったリオのファヴェーラのような坂の街である)。

 さて、上野は江戸時代から丑寅の鬼門で、封建時代から明治への変革期つまり江戸から東京の変わり目に重要な役割を果たした。靖国神社(もともとの名は東京招魂社)の制定にも上野の山を主舞台とした「戦争」が大きな役割を果たしている。そう、かって140年ほどむかし上野の山で戦争があった。

 徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還した翌年(1868年)、慶喜は上野寛永寺に謹慎ちっ居した。幕藩支持派は「彰義隊」という名で「最後の将軍様」慶喜の守備警護の名目で上野の山に結集した。最盛期には2~3千もの武装した「彰義隊」がいたという。京都の新政府にとって江戸無血開城のあとのこの事態は、目の上のタンコブで目に余った。徳川慶喜の処置に関して強硬派と穏健派に分かれていた新政府側は大村益次郎らを東征軍の総指揮官として江戸に派遣する。
 すでに討幕の端緒を開いた薩長連合の戦いの功により陸海軍務掛(総大将に等しい)であった西郷隆盛は薩摩軍をひきいてこの上野山の闘いでももっとも戦いのはげしかった「黒門」(現在も刀傷、砲弾の跡を残して保存されている)の闘いを指揮し薩摩軍はめざましい闘いぶりを示したと言う。
 この「上野戦争」は、一日で決着がつき、上野の山には彰義隊の死屍累々たるありさまだったらしい(戦死205名)。

 さて、この上野戦争や、戊辰(ぼしん)戦争での政府軍の犠牲者の御霊を祀る目的で大村益次郎らの手で作られたのが、靖国神社の前身、招魂神社であった。そして、のちに西南戦争で政府軍に反旗をひるがえし、「朝賊」となってしまう西郷隆盛は、靖国神社には祀られていない。
 彰義隊の墓地および記念碑は、西郷隆盛像の真後ろにあり、つい3年ほど前まで公園内に家が建ち、彰義隊の記念館(資料館)の役割を果たしていた。そのあたりを上野の山の「山王台」と言うのだが、歴史の皮肉のような近さである。
(つづく)

(写真1)「上野彰義隊墓所」。後ろの建物は現在ありません。これは、3年ほど前、資料館閉館の日に写したものです(無断転載不可)。

(参考文献:「上野の山は戦場だった」小川潔など/小川潔さんは、公園内の彰義隊墓所を守り続けた彰義隊の子孫の方です。)



西郷どんの上野(写真_1)

2006-12-15 15:06:53 | まぼろしの街/ゆめの街
Saigo_don(写真_1)上野といったら東北地方への玄関口、「嗚呼!上野駅」だし、上野の山(恩寵公園、動物園、寛永寺)だろう。そして、その端で周りをへい倪するかのような西郷どんの銅像だろう。この日も、西郷どんは愛犬をつれて冬だと言うのにうすい浴衣地の着流しでいらっしゃった(笑)!



ネコ 水を飲む!

2006-10-11 11:37:39 | まぼろしの街/ゆめの街
Water_cat ネコも水を飲む。当たり前だ。我が家でもネコを二匹飼っているから水を飲む姿は知っている。見なれている。しかし、ノラともなるとこのような野生を感じるポーズで水をお飲みになるのだ(急に敬語になる)。ま、ネコが油をなめていたらすこし恐いが、それは化けネコの話だ。
 野性的でそれはそれは優美なお姿であった。そのような、優美なポーズで池の水を飲んでいる姿に気付いた当初、ボクは池に放たれて飼われている鯉を狙っているのかと思ってしまった。
 しかし、池の鯉はそれこそかぶりついて襲いでもしたら、反対に逆襲されるのではないかと思えるほど当のネコよりもはるかに大きい。鯉の噛む力もあなどれない。もしかしたら、小さなネコなら呑み込んでしまうかも知れない。
 だが、ネコはそれらしい動きは見せなかった。どこか警戒心を解いていないにせよ悠然と池の水をお飲みになっているのだった。水面(みなも)に映った灯りが七色に煌めいている。いつしか、ボクも夢幻の世界にさそいこまれてしまうようだ。そう、直前まで、竹中英太郎の挿し絵の原画や、竹下夢二の音楽デザイン帖を見てきたばかりのボクは違う世界におり、そのためにこのような優美な世界に引きずり込まれたのだろうか?
 それから、ネコが動きはじめる15分あまりをカメラを構えたままボクも、微動だにできなかったのだった。

(文京区弥生美術館庭先にて。なお、弥生美術館で開催中の「竹中英太郎/妖しの挿し絵展」は、2日付けのボクの記事(http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20061002)を参照してください。また、弥生美術館を訪れのお着物を召したお客様は館の方でお写真を撮って件のお庭がみえる場所に掲示しております。なにか、割り引きとか、景品はないようですが……(笑))



♪キミと よくこの店に 来たものサ♪

2006-01-29 00:23:42 | まぼろしの街/ゆめの街
Denen_clasics様々なメディアに紹介されてきているにもかかわらず、さすがに名曲喫茶というものは行く人は少なくまた平日と言うこともあったのか久しぶりに行ったその店には客はボクを含めて二人だけだった。とはいえおかげでまるで時間(とき)の止まったような時間を過ごすことができたのだが、この店もいつまで持つのだろうかと心配になってくる。
中野の「クラシック」は昨年、店を閉めたことは聞いていたが、先日行ってみると店は跡形もなかった。新しい建物が建てられるような気配で、あのくすんだような独特の外観はもう永久に失われてしまったのだった。

さて、その国分寺のクラシック喫茶はたたずまいも何もが昔のままでコーヒーの味さえもが懐かしかった。この店で失われたのは、御主人だけであるかのように、今は時間限定で未亡人が店を守ってらっしゃる。
一時は、近くのムサビ(動物の名前ムササビではなく武蔵野美術大学の略称)の学生などもたむろしていたが、最近ではどうなのだろうか?

「でんえん」は、三つの伝説を持っている。1950年代の終わり、大阪から上京したばかりの劇画家さいとうたかをが国分寺に居を構えたため「でんえん」は、さいとうが中心となっていた「劇画工房」の劇画家仲間たちの溜り場になっていたこと。「でんえん」を舞台にした交流は、そのまま劇画史を語ることになる。
ちなみにさいとうの「台風五郎シリーズ」には、しばしば「田園」という名前で登場したと思う。

昨年お亡くなりになった永島慎二氏が、用もないのに(永島氏は「劇画工房」には所属せず自らの主催のグループを作っていた)この店に出入りし、その目的がこの店でウエイトレスをしていた若き日の夫人であったこと。ここが出会いの場所となったこと。そして、それに近いエピソードが劇画作品で描かれている。

60年代なかばに、近くのアパートに山尾三省氏が住んだためその都市型コミューンのバム(乞食の意味だが、いわば和製ヒッピー「エメラルドのそよ風」族と名乗った)の住人たちが、しばしば「でんえん」に出入りしていたことなどの伝説である。

そしてこの伝説にボク自身は、劇画ファン(ボクは貸本マンガ世代である)としても、永島氏と交流があったという点でも(夫人ともお会いしている)、そして「部族」と名前を変えたバムとも交流があったという点でも、奇妙な接点があると言わねばならないだろう。

ボクはどこへも行くあてがなく、ただ無為な時間を過ごすためだけに食事もがまんして一杯のコーヒーを飲むためだけに名曲喫茶や、ジャズ喫茶に通いつめたことがある。そのような遍歴の果てに、ボクは「新宿風月堂」という稀有なカフェに行き着いたのだった。
それが、「青春」だとでも思っていたわけでもないだろうが、時間だけはたくさんあった。そして、同じような逸話は永島氏の『漫画家残酷物語』の中にたくさん出てくる。
つまり、この作品や当初『COM』(虫プロ商事発行)に連載された『フーテン』という作品の中に描かれた登場人物はもうひとりのボクだと言って良く、ボクは文学青年を標榜するより、漫画家志望の貧乏で暗い少年だった。

ボクは思っている。かって、永島氏のように理想の少女とめぐりあえることを夢みて無為の時間を過ごしたあまたの喫茶店、名曲喫茶に失われた夢、失われた時を求めてふたたび経巡りたいものだと……。
それで、失われたものは取り戻せる訳ではないとしても、自分の青春の確認はできるかも知れないと。そう、それらの店が跡形もなくなる前に……。

(写真2)まわりの風景は変化しても、店の佇まいはまるでタイムスリップしたかのようだ。