様々なメディアに紹介されてきているにもかかわらず、さすがに名曲喫茶というものは行く人は少なくまた平日と言うこともあったのか久しぶりに行ったその店には客はボクを含めて二人だけだった。とはいえおかげでまるで時間(とき)の止まったような時間を過ごすことができたのだが、この店もいつまで持つのだろうかと心配になってくる。
中野の「クラシック」は昨年、店を閉めたことは聞いていたが、先日行ってみると店は跡形もなかった。新しい建物が建てられるような気配で、あのくすんだような独特の外観はもう永久に失われてしまったのだった。
さて、その国分寺のクラシック喫茶はたたずまいも何もが昔のままでコーヒーの味さえもが懐かしかった。この店で失われたのは、御主人だけであるかのように、今は時間限定で未亡人が店を守ってらっしゃる。
一時は、近くのムサビ(動物の名前ムササビではなく武蔵野美術大学の略称)の学生などもたむろしていたが、最近ではどうなのだろうか?
「でんえん」は、三つの伝説を持っている。1950年代の終わり、大阪から上京したばかりの劇画家さいとうたかをが国分寺に居を構えたため「でんえん」は、さいとうが中心となっていた「劇画工房」の劇画家仲間たちの溜り場になっていたこと。「でんえん」を舞台にした交流は、そのまま劇画史を語ることになる。
ちなみにさいとうの「台風五郎シリーズ」には、しばしば「田園」という名前で登場したと思う。
昨年お亡くなりになった永島慎二氏が、用もないのに(永島氏は「劇画工房」には所属せず自らの主催のグループを作っていた)この店に出入りし、その目的がこの店でウエイトレスをしていた若き日の夫人であったこと。ここが出会いの場所となったこと。そして、それに近いエピソードが劇画作品で描かれている。
60年代なかばに、近くのアパートに山尾三省氏が住んだためその都市型コミューンのバム(乞食の意味だが、いわば和製ヒッピー「エメラルドのそよ風」族と名乗った)の住人たちが、しばしば「でんえん」に出入りしていたことなどの伝説である。
そしてこの伝説にボク自身は、劇画ファン(ボクは貸本マンガ世代である)としても、永島氏と交流があったという点でも(夫人ともお会いしている)、そして「部族」と名前を変えたバムとも交流があったという点でも、奇妙な接点があると言わねばならないだろう。
ボクはどこへも行くあてがなく、ただ無為な時間を過ごすためだけに食事もがまんして一杯のコーヒーを飲むためだけに名曲喫茶や、ジャズ喫茶に通いつめたことがある。そのような遍歴の果てに、ボクは「新宿風月堂」という稀有なカフェに行き着いたのだった。
それが、「青春」だとでも思っていたわけでもないだろうが、時間だけはたくさんあった。そして、同じような逸話は永島氏の『漫画家残酷物語』の中にたくさん出てくる。
つまり、この作品や当初『COM』(虫プロ商事発行)に連載された『フーテン』という作品の中に描かれた登場人物はもうひとりのボクだと言って良く、ボクは文学青年を標榜するより、漫画家志望の貧乏で暗い少年だった。
ボクは思っている。かって、永島氏のように理想の少女とめぐりあえることを夢みて無為の時間を過ごしたあまたの喫茶店、名曲喫茶に失われた夢、失われた時を求めてふたたび経巡りたいものだと……。
それで、失われたものは取り戻せる訳ではないとしても、自分の青春の確認はできるかも知れないと。そう、それらの店が跡形もなくなる前に……。
(写真2)まわりの風景は変化しても、店の佇まいはまるでタイムスリップしたかのようだ。
中野の「クラシック」は昨年、店を閉めたことは聞いていたが、先日行ってみると店は跡形もなかった。新しい建物が建てられるような気配で、あのくすんだような独特の外観はもう永久に失われてしまったのだった。
さて、その国分寺のクラシック喫茶はたたずまいも何もが昔のままでコーヒーの味さえもが懐かしかった。この店で失われたのは、御主人だけであるかのように、今は時間限定で未亡人が店を守ってらっしゃる。
一時は、近くのムサビ(動物の名前ムササビではなく武蔵野美術大学の略称)の学生などもたむろしていたが、最近ではどうなのだろうか?
「でんえん」は、三つの伝説を持っている。1950年代の終わり、大阪から上京したばかりの劇画家さいとうたかをが国分寺に居を構えたため「でんえん」は、さいとうが中心となっていた「劇画工房」の劇画家仲間たちの溜り場になっていたこと。「でんえん」を舞台にした交流は、そのまま劇画史を語ることになる。
ちなみにさいとうの「台風五郎シリーズ」には、しばしば「田園」という名前で登場したと思う。
昨年お亡くなりになった永島慎二氏が、用もないのに(永島氏は「劇画工房」には所属せず自らの主催のグループを作っていた)この店に出入りし、その目的がこの店でウエイトレスをしていた若き日の夫人であったこと。ここが出会いの場所となったこと。そして、それに近いエピソードが劇画作品で描かれている。
60年代なかばに、近くのアパートに山尾三省氏が住んだためその都市型コミューンのバム(乞食の意味だが、いわば和製ヒッピー「エメラルドのそよ風」族と名乗った)の住人たちが、しばしば「でんえん」に出入りしていたことなどの伝説である。
そしてこの伝説にボク自身は、劇画ファン(ボクは貸本マンガ世代である)としても、永島氏と交流があったという点でも(夫人ともお会いしている)、そして「部族」と名前を変えたバムとも交流があったという点でも、奇妙な接点があると言わねばならないだろう。
ボクはどこへも行くあてがなく、ただ無為な時間を過ごすためだけに食事もがまんして一杯のコーヒーを飲むためだけに名曲喫茶や、ジャズ喫茶に通いつめたことがある。そのような遍歴の果てに、ボクは「新宿風月堂」という稀有なカフェに行き着いたのだった。
それが、「青春」だとでも思っていたわけでもないだろうが、時間だけはたくさんあった。そして、同じような逸話は永島氏の『漫画家残酷物語』の中にたくさん出てくる。
つまり、この作品や当初『COM』(虫プロ商事発行)に連載された『フーテン』という作品の中に描かれた登場人物はもうひとりのボクだと言って良く、ボクは文学青年を標榜するより、漫画家志望の貧乏で暗い少年だった。
ボクは思っている。かって、永島氏のように理想の少女とめぐりあえることを夢みて無為の時間を過ごしたあまたの喫茶店、名曲喫茶に失われた夢、失われた時を求めてふたたび経巡りたいものだと……。
それで、失われたものは取り戻せる訳ではないとしても、自分の青春の確認はできるかも知れないと。そう、それらの店が跡形もなくなる前に……。
(写真2)まわりの風景は変化しても、店の佇まいはまるでタイムスリップしたかのようだ。
ゆったりと、贅沢な気分でした。
その意味でも、なくしたくないですね。
YUCOはムサビだっけ?