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■ 滝野川寺院めぐり-3(第12番~第16番)

※新型コロナウイルス感染症の感染拡大が収まる気配をみせません。一部で不要不急の外出自粛要請が出されていますし、寺社様が御朱印授与を休止される可能性もあります。
この霊場や札所に興味をもたれた方も、まずは遙拝にとどめ、感染拡大が収束してからじっくりと巡拝されてはいかがでしょうか。


第12番
現徳山 妙見寺


公式Web
北区西ヶ原2-9-5
日蓮宗
御首題

第12番は、日蓮宗の妙見寺です。

『滝野川寺院めぐり案内』には、つぎの記載があります。
・ 正中山法華経寺大荒行堂の大験者、慈徳院日陽上人が昭和9年(1934年)荒川区尾久に草創された妙見堂教会が昭和19年(1944年)当地に疎開移転して開山。
・第2世として法燈を承継された慈正院日慶上人が昭和22年(1946年)、日蓮宗門より現徳山妙見寺の寺号公称を認可される。
・昭和57年(1982年)、老朽化した本堂と書院を再建落慶。
・第2世日慶上人は正中山大荒行堂加行700日、第3世の慈昌院日観上人も正中山第四行の修法師で檀信徒の方々から信仰を集めている。

山門には「日蓮宗祈祷所」が立額され、公式Webにも「日蓮宗祈祷所『妙見寺』は日蓮宗伝統の祈祷を受け継ぎ、全国の方々の幸福に寄与します。」と掲載されています。


【写真 上(左)】 飛鳥山公園の紅葉
【写真 下(右)】 山門

本郷通りから北に少し入ったところ、飛鳥山公園に面した緑濃い立地です。
山門はおそらく薬医門ないし高麗門で、小ぶりながら存在感があります。


【写真 上(左)】 斜めから山門
【写真 下(右)】 山門主門まわり

降り棟の外側が本瓦葺、内側が桟瓦葺、掛瓦も太くてどっしりとした質感。
右の柱に「日蓮宗祈祷所」、左の柱には寺号の板標が掲げられ、正面には「現徳山」の山号扁額。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内

境内には八大竜王碑、浄行菩薩、不動明王、稲荷社などが鎮座し、パワスポ的な雰囲気を感じます。
稲荷社奥の2階の入母屋造妻入りの建物が本堂のように見えますが、定かではありません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂の棟飾り


【写真 上(左)】 浄行菩薩
【写真 下(右)】 庫裡

御首題は山門くぐって左の階段をのぼった庫裡にて拝受しました。
滝野川寺院めぐりの御朱印も御首題で授与されます。
ご不在の場合もあるので、事前TELがベターかもしれません。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第12番の御朱印(御首題)
【下(右)】 通常の御首題

滝野川寺院めぐりの御朱印は御首題で、「滝野川寺院めぐり第十二番寺」の札所印が捺されています。
通常の御首題にこの札番はなく、構成も若干異なります。


第13番
北龍山 法音寺


北区栄町14-9
真宗大谷派
御本尊:阿弥陀如来

第13番は、真宗大谷派の法音寺です。

第13番で一旦京浜東北線の東側に出ます。
田端駅から上中里駅にかけてのJR京浜東北線北側にはJR尾久車両センター(尾久客車操車場)があって、都内有数の交通分断エリアとなっています。
第12番妙見寺からだと上中里駅東側の跨線橋を渡り、さらに梶原踏切か上中里さわやか橋経由のルートが順当かと思います。


【写真 上(左)】 上中里さわやか橋からのJR尾久車両センター
【写真 下(右)】 山門からの山内

西ヶ原から京浜東北線の線路を渡って栄町に入ると、路地が入り組む下町的な町並みとなり、法音寺も路地の一角にあります。
妙見寺からの距離はさほどではありませんが、跨線橋を渡ったり、街の雰囲気が変わったりで、けっこう遠く感じました。
なお、法音寺の最寄り駅は都電荒川線の「梶原」駅となります。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 掲示版

『滝野川寺院めぐり案内』によると、当寺はもと富山県下新川郡新屋にあり、上京された釈法忍師は明治40年(1907年)、滝野川に居住されて布教活動に着手。
大正13年(1924年)、この地に本堂を建立され法音寺説教所を開設。
東京大空襲で本堂を焼失しましたが、昭和24年(1949年)には正式に寺号を取得、昭和30年(1955年)には本堂を再建し、現在に至ります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂見上げ

こぢんまりとした境内正面に立派な本堂。
入母屋造銅板葺流れ向拝。水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を配しています。

参拝時、ご住職はご不在で大黒さんの対応をいただきました。
「真宗なので御朱印は出されていない。」とのことでしたが、納経帳をお見せし、滝野川寺院めぐりを巡拝中との主旨をお話しすると、「それであれば」とお受けいただき、御朱印(というか参拝記念)に準ずるものを納経帳にいただけました。
ご親切な対応をいただき、ありがとうごさいました。
ただし、今回だけの特例対応であったかもしれず、拝受した「おしるし」は掲載を控えます。


第14番
思惟山 浄業三昧寺 正受院


北区滝野川2-49-5
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
上野王子駒込辺三十三観音霊場第4番、北豊島三十三観音霊場第23番

第14番は、浄土宗の正受院です。

法音寺から赤羽駅のガードをくぐり、王子神社下の緑ゆたかな音無親水公園を抜けてのアプローチとなります。
下町の住宅街から一転、渓谷を抜けて台地に登るこのコースは変化に富み、この巡拝のハイライトともいえる道のり。
正受院は滝野川に面していますが北側滝野川岸からの参道はないので、一旦滝野川をはなれ、南側の住宅地から回り込むかたちとなります。


【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 不動尊への道標

『滝野川寺院めぐり案内』によると、室町時代末、弘治年間(1555-1558年)に大和國宇多郡滝門の奥の功曽久という所から夢告に従って来られた学仙坊法印が、王子七滝のひとつ「不動の滝」で修行され、滝野川から1体の不動尊像をすくい上げました。
法印は不動堂を建立され、のちに弘法大師の御作といわれ信仰を集めるこの不動尊像を安置されたのが当寺の開創とされます。
慶長年間(1596-1615年)に円誉上人が入寺されて浄土宗となりました。
浄土宗のお寺様ながら、人々のこのお不動様に対する信仰は篤く、「瀧不動尊」とも呼ばれています。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号18/114)に以下の記述があります。
「「浄土宗芝増上寺末 思惟山三昧寺ト号ス 弘治年中大和國宇多郡龍門ノ奥功曾久ト云所ニ學仙坊と云僧住し 不動即我ノ密法ヲ修スル事年アリ 靈夢ヲ得テ當國ニ来リテ當寺ヲ草創セリ 其年タマタマ洪水アリテ砌ノ川中ヨリ弘法大師作ノ不動ヲ得タリ 其後又旅僧来テ一軀ノ不動ヲ授クシモノ今堂中ニ安置スル處ナリ 學仙坊は弘治三年三月四日寂ス 其墳墓庭ノ小山ノ上ニアリテ五輪塔ナリ 其後寂阿了山ト云僧堂舎ヲ再建ス 文禄三年九月三日圓譽光道本堂再建ノ棟札アリ 本尊阿彌陀ハ行基ノ作ニテ坐身長二尺五分此餘惠心作ノ彌陀像一軀を置 撞鐘 古鐘ナリシカ文政三年改鑄スト云 不動堂 弘法大師作ノ立像ヲ置 観音堂 西國札所第四番観音の寫と云 瀧 本堂の脇峽下ニアリ病者ツトイ来テ浴セリ」

慈眼堂(赤ちゃんの納骨堂)があり、「赤ちゃん寺」として知られています。


【写真 上(左)】 鐘楼門
【写真 下(右)】 参道

狭い路地から意外に長い参道がつづきます。
しばらく行くと鐘楼門。下を石積みのアーチにし、上に木造建築を構えるいわゆる「竜宮門」で、おそらく入母屋屋根桟瓦葺で水引虹梁を置いています。
軒裏の垂木はめずらしい扇垂木だと思います。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

正面が本堂。入母屋造本瓦様銅板葺流れ向拝の均整がとれた仏堂。
水引虹梁両端に獅子と貘の彫刻木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。
正面桟唐戸の上に「思惟山」の扁額。
本堂前には江戸時代の探検家近藤重蔵(守重)の甲冑姿の石像が鎮座します。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂上部

本堂向かって左の渓谷寄りには不動堂。
入母屋造桟瓦葺唐破風向拝で、水引虹梁両端に獅子彫刻の木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
唐破風の鬼板や兎毛通の仕上げも精緻で見応えがあります。
本堂右手の客殿や庫裡もしっとりと風情ある構えを見せています。

境内には不動尊の露仏が数座御座し、やはりお不動様とのゆかりがふかいお寺だと思います。
なお、「不動の滝」(泉流の滝)は現存していません。

『江戸名所図会』
「正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として硝壁に趨る、此境ハ常に蒼樹蓊欝として白日をさゝえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」
境内はしっとりと落ち着いた雰囲気があり、↑で描写された面影をいまも遺しています。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。書置はなく、ご住職ご不在の場合もあるので事前TELがベターかもしれません。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第11番の御朱印
【下(右)】 御本尊の御朱印

中央に六字御名号「南無阿彌陀佛」の揮毫と三寶印とその左横に「滝野川寺院めぐり第十四番寺」の札所印。左上に印判(不明)。
左上には「瀧不動」の揮毫、左下には院号の揮毫と寺院印が捺されています。
御本尊の御朱印には「滝野川寺院めぐり第十四番寺」の札所印がなく、上野王子駒込辺三十三観音霊場第4番(「西國四番寫」の札所印)の札所印が捺されていました。


第15番
瀧河山 松橋院 金剛寺


北区滝野川3-88-17
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
豊島八十八ヶ所霊場第43番、荒川辺八十八ヶ所霊場第16番、北豊島三十三観音霊場第31番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第28番、弁財天百社参り第52番、豊島六地蔵霊場第4番

第15番は、真言宗豊山派の金剛寺です。

第14番正受院から第16番結願の寿徳寺までは滝野川に沿うかたちで立地し、ひときわ風情のあるところです。
このあたりは江戸時代から紅葉の名所で、とくに金剛寺は「もみじ寺」の別称があります。


【写真 上(左)】 滝野川の紅葉-1
【写真 下(右)】 滝野川の紅葉-2

滝野川沿いの遊歩道脇には、音無さくら緑地音無もみじ緑地があり、音無さくら緑地では旧石神井川の流路跡、音無もみじ緑地ではかつての江戸の名所であった松橋辨財天周辺の様子をしのぶことができます。


【写真 下(右)】 音無もみじ緑地

『滝野川寺院めぐり案内』によると、金剛寺は弘法大師が東国巡錫の折、石神井川(滝野川)にさしかかり、対岸へ渡る橋がなかったため川岸の松を切り倒して一本橋(松橋)を渡され、その際にその松の木で不動明王の尊像一躯を彫られて石上に安置されたのが草創とされています。

治承四年(1180年)10月、伊豆国で挙兵し、石橋山での敗戦ののち安房に逃れて再挙を図られた源頼朝公は、府中の六所明神(大國魂神社)へ向かう途中、滝野川松橋に布陣し、東方千住方面からの敵をここで迎え撃ち大勝利を収めたとされます。
その折、頼朝公は金剛寺に戦勝祈願したことから寄進など寺の興隆に尽くしたとされます。

一時荒廃したものの、天文年間(1532-1555年)に阿闍梨宥印が北条氏康の賛意を得て再興。
江戸時代には、八代将軍吉宗公が滝野川流域に紅葉の植林を奨励したこともあって、江戸近郊を代表する紅葉の名所となり、金剛寺は「もみじ寺」と呼ばれて秋の庶民の参詣・行楽の場として広く親しまれました。
その様子は広重の『名所江戸百景』や『東都名所』など多くの錦絵に描かれています。
また、金剛寺一帯は、豊島氏支族滝野川氏の居館滝野川城跡ともいわれています。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号17/114)に以下の記述があります。
「新義真言宗田端村與楽寺門徒 瀧河山松橋院ト号ス 本尊不動ハ坐像ニテ長一尺餘弘法大師ノ作ト云 縁起の●ニ當所ハ弘法大師達遊歴ノ古蹟ニシテ 其頃手ツカラ此像ヲ彫刻アリテ假ニ石上ニ安ス 今其石ヲ不動影向石ト称シテ境内ニ現存シ 疾病ノモノ此石ニ水ヲソソキテ其水を服スレハ立所ニ平癒スト云 又治承年中右大将頼朝境内辨財天信仰ノ餘リ堂舎建立 及ヒ田園ヲモ寄附アリシニ 其後兵火ニ焼レ強盗ニ田園を掠メ奪ハレ 宗門タニ定カナリシヲ、天文ノ頃阿闍梨宥印ト云僧是ヲ歎キ 北條氏康ヘ訴ヘ永ク眞言ノ道場ニ復スト云 影向石 三箇ノ石ヲ重置 是縁起ニ云ヘル不動ノ像ヲ安置セル處ナリ 辨財天社 弘法大師作坐身長七寸ノ像ヲ安シ 別ニ護摩ノ灰ニテ作レル像ヲモ置リ 地蔵堂 大黒天 本堂ノ後ノ方岩窟ノ中ニ安置ス」

「辨財天 峽下ノ洞中ニ安ス長一尺ノ石像ニテ松橋辨天ト号ス 弘法大師ノ作 當時此地ニ松橋ト云橋アリシ故地名ヲオハセテ唱トイヘリ 松橋ノ名ハ前ニ云ル如ク源平盛衰記ニ見エテ舊キ地名ナリ 治承ノ頃頼朝此辨天ヲ帰依ノ餘リ太刀ヲ寄附アリシ由縁起ニ載タレト今是ヲ失ナヘリ 洞中ニ文保三年三月ト彫タル古碑一基アリ 恵比須毘沙門石像紫の楓 紅葉ノ秋紫色ヲ帶ル故此名アリ」


【写真 上(左)】 旧松橋辨財天周辺
【写真 下(右)】 江戸名所図絵(松橋辨財天窟)

〔松橋辨財天〕
金剛寺は辨天様ともゆかりのふかいお寺です。
かつての滝野川は金剛寺付近で蛇行しており、その崖には辨天の滝がかかり、崖下にあった洞窟には辨財天が祀られていました。
この辨天様は弘法大師の御作ともいわれ、松橋辨天または岩屋辨天と呼ばれて信仰を集めました。
この辨天様は、源頼朝公が戦勝を祈願し太刀一振を奉納し、戦勝ののちに辨財天の堂舎を建立、田園の寄進をしたとも伝えられています。

滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』で犬塚信乃の母手束が子授けを祈った「滝野川なる岩屋殿」と記した岩屋がこの松橋辨天とされています。

辨天の滝は昭和初期に枯れ、昭和33年(1958年)の狩野川台風で辨天様の洞窟は崩壊し、一部は昭和50年(1975年)前後まで残っていたようですが、その後の護岸工事や流路改修の際に取り壊され、現在は音無もみじ緑地となっています。

現地の案内版より引用抜粋してみます。
「『江戸名所図絵』には『この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。』」「崖下の岩屋の中には弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。また、現在都営住宅が建っている付近の崖に瀧があり、弁天の滝と呼ばれていました。」

『新編武蔵風土記稿』によると、崖下洞窟内の「松橋辨財天(岩屋辨財天)」/弘法大師作長一尺ノ石像とは別に、金剛寺境内(崖上)にも「弘法大師作坐身長七寸ノ辨天像」が安置されていた様ですが、詳細はよくわかりません。
ただし、松橋辨天の崖下洞窟も金剛寺の領地内であったようなので、金剛寺=松橋辨天と捉えられていたのでは。
松橋辨天は江戸市内でもよく知られており、江戸三十三ヶ所弁財天霊場、弁財天百社参りの札所となっています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 紅葉寺の寺号標


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 西國霊場札所標

江戸時代からの行楽地とあって、金剛寺周辺はいまでも華やいだ雰囲気が感じられます。
入母屋造桟瓦葺の薬医門。扁額は「瀧河山」。頭貫部梁先の雲形木鼻がダイナミック。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 修行大師像と本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

参道正面、階段の上に本堂向拝。
入母屋造本瓦様銅板葺流れ向拝。向かって左手手前に修行大師が御座します。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、身舎側に海老虹梁と手挟、中備に本蟇股を配しています。
正面桟唐戸の上に「金剛寺」の扁額。
虹梁に金色の彫刻を置いた、名刹らしい堂々たる向拝です。


【写真 上(左)】 辨天堂
【写真 下(右)】 辨天堂扁額

本堂向かって右手に宝形造銅板葺の辨天堂と坐像の地蔵尊が御座します。
弁天堂の御本尊は松橋辨天の系譜を引かれるお像でしょうか。
手入れの行き届いた境内で、落ち着いて参拝ができます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 滝野川七福神

御朱印は本堂向かって左手の庫裡(客殿?)にて、ご丁寧なご対応をいただき拝受しました。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第15番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所霊場第43番の御朱印

中央に「本尊 不動明王」の揮毫と御本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「滝野川寺院めぐり第十五番寺」と「滝野川七福神創設元文二年」の印判。左上に「豊島八十八ヶ所第四十三番」と「もみじ」の印判。左下に「岩窟辨天」の印判。
左下に寺号の印判と寺院印が捺されています。
豊島霊場の御朱印には「滝野川寺院めぐり第十五番寺」の印判がなく、印判の位置も若干異なります。

「松橋辨天」の御朱印については伺っていませんが、Web上で見当たらないこと、既存の御朱印に「岩窟辨天」の印判があることから、おそらくは授与されていないと思います。
なお、「滝野川七福神」は、金剛寺境内に祀られている七福神をさすようです。


第16番
南照山 観音院 寿徳寺


北区滝野川4-22-1
真言宗豊山派
御本尊:聖観世音菩薩
豊島八十八ヶ所霊場第12番、荒川辺八十八ヶ所霊場第17番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第12番、大東京百観音霊場第80番、北豊島三十三観音霊場第32番

ついに結願の16番。真言宗豊山派の寿徳寺です。
金剛寺とは反対側の滝野川の左岸にあります。


【写真 上(左)】 川沿いの遊歩道
【写真 下(右)】 滝野川橋

金剛寺から寿徳寺への順路には音無もみじ緑地があり、滝野川沿いの遊歩道の紅葉も綺麗で、歩いていて楽しいところです。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標

『滝野川寺院めぐり案内』によると、寿徳寺は寿永年間(1182-1185年)、梶原氏の家臣であった早船・小宮の両氏が梶原氏と不和になり落ち延びる途中で、海中から拾いあげた観世音菩薩を滝野川の北岸沿いの堂山の地に小堂を設け安置したのが創建と伝わります。

本尊は谷津子育観音と親しまれ、新撰組の近藤勇、および隊士の菩提寺としても知られています。
境外地には谷津大観音、近藤勇の墓所(JR埼京線「板橋」駅前)があります。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号17/114)に以下の記述があります。
なお、『新編武蔵風土記稿』の「寿福寺」は誤植です。
「新義真言宗田端村東覺寺門徒、南照山観音院ト号ス 本尊子安観音」


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 近藤勇の碑


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 西國霊場札所碑

住宅地のなか、ぽっかりと開けた一角に立地し、境内も広々としています。
門外左手に不動堂。境内左手に修行大師像が御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜め右からの本堂

正面に昭和41年(1966年)落慶の本堂。
両脇に仁王尊像を置いた石段の上に、アーチ形の屋根をもつ独特なつくりの朱色の建物。
正面向拝部に「南照山」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

寺伝によると、秘仏の御本尊、谷津観音は蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結んでおられるそうです。

本堂の向かって右にある護摩堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁と向拝柱を備え、これは以前の本堂とのこと。


【写真 上(左)】 旧本堂(護摩堂)
【写真 下(右)】 乳が垂れている銀杏

境内に切株から芽吹いている銀杏は、かつては巨木で、この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出るようになるという信仰がありました。
正岡子規の高弟として知られる俳人、河東 碧梧桐の句
- 秋立つや子安詣での花の束 -
が残されており、明治に入っても谷津観音への子安詣では盛んであったことがうかがわれます。

山内には、独特の雰囲気を放つインド仏も露座しています。


【写真 上(左)】 インド仏
【写真 下(右)】 滝野川と谷津大観音

谷津大観音は山内から少しくはなれた滝野川の河岸、観音橋のたもとに御座しています。
右手与願印、左手に蓮華をもたれるおだやかな表情の銅製の坐像です。

観音橋から寿徳寺に向かい登っていく坂を「観音の坂」といいます。
現地案内標には「観音橋の北から寿徳寺へ登る坂です。坂名は、坂上にある寿徳寺に谷津観音の名で知られる観音様がまつられているからです。江戸時代には大門通とも呼ばれていました。」とあります。(北区教育委員会)


【写真 上(左)】 観音橋と谷津大観音
【写真 下(右)】 谷津大観音

御朱印は本堂向かって右手奥の庫裡にて拝受しました。
ご丁寧なご対応をいただき、「滝野川十六番満願」の揮毫もいただきました。
やはり「滝野川寺院めぐり」の巡拝者は少ないとのことでした。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第16番(満願)の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所霊場第12番の御朱印

中央に御本尊聖観世音菩薩の種子「サ」・「子育 谷津観音」の揮毫と「谷津子育観音」の印判。右上に聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。左下に寺号の揮毫と寺院印。右に「滝野川十六番満願」の揮毫をいただきました。
豊島霊場の御朱印とは、札番の揮毫が異なります。

これで滝野川寺院めぐりは結願です。
北区の落ち着いた街区を巡るこの巡拝コース、札所構成も変化に富んでいて、知名度は低いですがおすすめだと思います。

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滝野川寺院めぐり-1(第1番~第6番)
滝野川寺院めぐり-2(第7番~第11番)
滝野川寺院めぐり-3(第12番~第16番)

【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ 時代 - 薬師丸ひろ子
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■ 滝野川寺院めぐり-2(第7番~第11番)

※新型コロナウイルス感染症の感染拡大が収まる気配をみせません。一部で不要不急の外出自粛要請が出されていますし、寺社様が御朱印授与を休止される可能性もあります。
この霊場や札所に興味をもたれた方も、まずは遙拝にとどめ、感染拡大が収束してからじっくりと巡拝されてはいかがでしょうか。


第7番
光明山 照徳院 円勝寺


北区中里町3-1-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
御朱印尊格:南無阿彌陀佛(六字御名号)
江戸・東京四十四閻魔参り第36番、閻魔三拾遺第7番

第7番は、浄土宗の円勝寺です。

鎌倉期の文永年間(1264-1275年)、浄土宗第2祖鎮西正宗國師の弟子信阿聖法の開山と伝わる古刹です。
一時荒廃しましたが文明年間(1469-1487年)、香誉上人が中興
戦国時代までは(江戸城)曲輪内龍ノ口(和田倉門の周辺)にあり、のちに当地に移転したと伝わります。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之9、国会図書館DCコマ番号104/107)に以下の記述があります。
「浄土宗芝増上寺末 光明山照徳院ト号ス 本尊彌陀ハ立像長ニ尺許慈覚大師ノ作ト云 開山僧信阿聖法弘安九年二月十五日寂 御入國ノ頃ハ御曲輪内龍ノ口辺ニアリシト云 勢至堂 佛師春日ノ作レル立身ノ勢至ヲ前立トシ故アツテ三尊彌陀ヲ内佛ニ安ス 鐘楼 正徳二年新鋳ノ鐘ヲカク 御腰掛松 古木ハ枯テ植纏シモノナリ相伝フ慶長ノ頃此辺御遊猟ノ時當寺ヘ成ラセラレ此松ニ御腰ヲ掛サセラレシ故此名アリ 又此時寺領五石ノ御朱印ヲ賜ヒシガ五石松トモ称ズトイヘリ 其御朱印ハ後年回録ニカカリ烏有トナリ地所ハ今ニ領セリ」

江戸名所図会には「圓照寺 五石松」として載っています。(参考資料
慶長の頃、家康公が御放鷹の折に当寺にお成り、上の由来をもってこの地の名所となっていたようですが(「家康公の腰掛け松」とも云われたらしい)、いまは残されていないようです。
寺宝として、護良親王の鉄冠、知恩院宮第6世尊超法親王の名号などを蔵します。

石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓所(→ 文化財説明板伊佐家の墓/北区飛鳥山博物館資料)で、茶道と所縁のふかいお寺です。
筆者は茶道の心得はまったくありませんが、茶道の流派について少しく勉強してみました。

茶道の流派の多くは、武野紹鴎の門人か千利休の直弟子の流れとされています。
(以下、系譜については諸説あるようです。)

■ 利休七哲
千利休には利休七哲(りきゅうしちてつ、蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部))と称される高弟があり、ここからつながる流派があります。
細川忠興(三斎)→ 三斎流(一尾流)、御家流
古田重然(織部)→ 織部流 、遠州流、小堀遠州流、大和遠州流、上田宗箇流、御家流

■ 千道安の流れ(堺千家系)
・宗和流 流祖、金森重近(宗和)は千利休の門下、長近の養子金森可重は千道安の門下とされる。加賀藩にて隆盛。
・石州流 流祖、片桐石州は千道安門下の桑山宗仙に師事。
 ・石州流怡渓派
 ・石州流伊佐派 怡渓派の伊佐家の系譜につながるとされる。
 ※他に石州流として数派あり
・鎮信流 流祖は肥前平戸藩四代藩主松浦鎮信公。石州流・宗和流の流れ。
・不昧流 流祖は松平不昧公(治郷公)。不昧公は石州流怡渓派三代伊佐幸琢から石州流怡渓派を学んだため、石州流不昧派と称されることがある。

■ 千宗旦の流れ(宗旦流)
・三千家  千利休の後妻の連れ子である千少庵の系統
 ・表千家 不審庵 宗旦の三男の系統。江戸千家もこの流れ。
 ・裏千家 今日庵 宗旦の四男の系統
 ・武者小路千家 官休庵 宗旦の二男の系統
・宗旦四天王 宗旦の門弟のうち、とくに活躍した4人にちなむ流派
 ・宗徧流 流祖は山田宗徧。
 ・庸軒流 流祖は藤村庸軒。
 ・普斎流 流祖は杉木普斎。
 ※ 久須美疎安にちなむ流派は不詳

★ 柳営茶道(武家茶道四派)
江戸幕府で重んじられた武家茶道。「武家茶道四派」とも称され、現在も柳営会により啓蒙活動が営まれ、護国寺などで定例の茶会が催されています。
・旧磐城平藩主安藤家御家流
・小堀遠州流
・石州流伊佐派(石州流怡渓派の流れ)
・鎮信流
柳営(武家)茶道はいずれも利休七哲、ないし千道安の流れで、円勝寺とゆかりのふかい石州流怡渓派・伊佐派も江戸幕府と深いつながりがありました。

伊佐家は代々”幸琢”(こうたく)を名乗り、五代にわたって江戸幕府の数寄屋頭を勤めました。
数寄屋頭とは幕府の職名で、若年寄に属し、殿中の茶礼・茶器などを司り、数寄屋坊主を統轄したとされます。

怡渓宗悦(いけいそうえつ)は大徳寺二五三世に就かれた後、江戸の広尾祥雲寺や品川東海寺に入られた高僧で、茶人としても名高く、『石州流三百ヶ条註解』を著されて石州流怡渓派の派祖とされます。
なお、怡渓宗悦は関東大震災を契機に品川から世田谷烏山に移転した高源院の開山とされます。(高源院の御朱印はこちらに掲載しています。)

数寄屋頭初代の伊佐幸琢(半々庵)は怡渓宗悦より皆伝を受けた高弟で、以後五代にわたって幕府の御数寄屋頭となり石州流怡渓派の名を高めました。
不昧流の流祖、松平不昧公(治郷公)が、三代伊佐幸琢(半寸庵)から石州流怡渓派を学ばれたことからも、柳営茶道における伊佐家(石州流怡渓派)の権威のほどがうかがわれます。


【写真 上(左)】 「第二中里踏切」
【写真 下(右)】 参道入口

JR山手線の唯一の踏切「第二中里踏切」のすぐそばにある寺院です。
踏切のよこから伸びる参道は銀杏の並木、大ぶりな降り棟、袖塀を備えた立派な薬医門のおくに本堂が姿を見せています。


【写真 上(左)】 勢至菩薩碑
【写真 下(右)】 秋の参道

参道脇に「厄除 大勢至菩薩霊●」と刻まれた石碑があります。
『新編武蔵風土記稿』によると、かつて山内に勢至堂があり春日仏師による立身の勢至菩薩が祀られていたとされるので、これに因むものかと思われます。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標

山手線の線路に近いものの、山内には古刹特有の落ち着いた空気が流れています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、鬼板部、降り棟、隅棟、稚児棟すべての棟飾りに経の巻獅子口を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ


【写真 上(左)】 木鼻の獅子(左)
【写真 下(右)】 木鼻の獅子(右)

水引虹梁木鼻では、彫りの深い獅子が睨みをきかせています。
頭貫上に出三つ斗、身舎側に海老虹梁と手挟、中備に龍の彫刻。
正面桟唐戸の上に「光明山」の扁額。
扁額後ろの小壁にも彫り物が置かれ、向拝両脇の格子窓は奥に花頭窓を繰抜くなど芸が細かいです。


【写真 上(左)】 扁額と中備の龍
【写真 下(右)】 扁額

本堂右手の墓所、伊佐家の墓石には初代、二代半寸庵の和歌と俳句が刻まれています。
(文化五年(1808年)十一月銘)
- 出る日も入る日も遠き霊鷲山 またゝくひまに入相のかね -
初代 半寸庵知當


【写真 上(左)】 本堂手前から庫裡方向
【写真 下(右)】 庫裡

本堂左手の庫裡の方に進むと、さらに奥ゆかしい佇まいに。
こちらは、滝野川寺院めぐり第7番、江戸・東京四十四閻魔参り第36番、閻魔三拾遺第7番の3つの札所を兼ねておられますが、いずれも巡拝者は多いとは思われません。
しかし、ご住職は心あたたまるご対応で、御朱印の揮毫についてしきりに謙遜なさっておられましたが、素晴らしい筆致の御朱印を授与いただけました。

丸みを帯びた六字御名号は、祐天上人の御名号、徳本上人の「徳本文字」を彷彿とさせる筆致です。
当寺は、幡随意上人、祐天上人、徳本上人などの墨跡を蔵されるとのことなので、ご住職は六字御名号墨跡の研究をされているのかもしれません。

江戸・東京四十四閻魔参り第36番の札所で、閻魔様の御縁日の16日にも参拝しましたが、現在は閻魔大王の御朱印はお出しになられていないとのことです。


● 滝野川寺院めぐり第7番の御朱印

中央に六字御名号「南無阿彌陀佛」と阿弥陀如来の種子「キリーク」の揮毫と梵字九字の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左上に勢至菩薩の種子「サク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「勢至菩薩」を含む印。
右下に「滝野川寺院めぐり 第七番寺」の札所印、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
中央の梵字九字の内容は、不勉強につきよくわかりません。

御朱印にも勢至菩薩が登場されるので、やはりこのお寺様において勢至菩薩は格別の尊格なのかもしれません。
(寺宝として秘仏の大勢至菩薩像を蔵されます。また、勢至菩薩は浄土宗の根本所依教典である「観無量寿経」で説かれ、法然上人を勢至菩薩の化身(勢至菩薩は法然上人(幼名は勢至丸)の本地身)とする信仰もあって、浄土宗でもなじみのふかい尊格です。)


【上(左)】 御本尊(札所無申告)の御朱印
【下(右)】 閻魔大王御縁日(十六日)の御朱印

御本尊の御朱印は、滝野川寺院めぐりと同様の構成で、札所印は捺されていません。
閻魔大王御縁日の御朱印は、御本尊の御朱印と同じ内容です。


第8番
平塚山 案烙院 城官寺


公式Web
北区上中里1-42-8
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
御朱印尊格:阿弥陀如来
御府内八十八箇所第47番、豊島八十八ヶ所霊場第47番、江戸八十八ヶ所霊場第47番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番

第8番は、真言宗豊山派の城官寺です。

寺伝(当寺公式Web)によると、筑紫安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊した際に阿弥陀如来像を置き安楽院(安楽寺)と称し浄土宗の寺として創建。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之9、国会図書館DCコマ番号102/107)に以下の記述があります。
「(平塚明神社別當)城官寺 新義真言宗大塚護国寺末 平塚山安楽院ト号ス 本尊阿彌陀ハ赤栴檀ニテ坐身長一尺許 毘首羯摩ノ作と云 臺座ハ瑠璃ニテ造ル 是昔筑紫安楽寺ノ本尊ナリシカ 彼寺の僧回國ノ時當寺ニ旅宿シ故有テ是ヲ附属セシヨリ安楽寺ト称ス 其頃迄ハ浄土宗ナリシカ寛永十一年社領修理アリシ時、金剛佛子ヲ請シテ別當タラシメシヨリ、今ノ宗門ニ改ムト云(以下略)」

江戸時代、山川貞久(城官)という幕府仕えの鍼灸師が真言宗寺院として再興したと伝わります。
山川貞久(城官)は、三代将軍徳川家光公が病に倒れた時、平塚明神(現在の平塚神社)に治癒を日夜祈った。その霊験もあってか家光公の病は快癒し、貞久(城官)は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永十一年(1634年)には平塚神社の別当として当寺を再興したとされます。

寛永十七年(1640年)、家光公が鷹狩りで当地を訪れた際、平塚神社の豪華さに驚き、村長に造営者を尋ねたところ、貞久(城官)による家光公平癒祈願と社殿再建のくだりが説明されました。
これを聞いた家光公は貞久(城官)を呼び、平塚神社と当寺の所領として五十石、さらに貞久(城官)に知行地として二百石を与え、寺号を平塚山 城官寺 安楽院とすべく命じたとされます。
享保三年(1718年)寂の真恵を法流開基として、現在に至ります。

当寺には、江戸幕府に奥医師として仕えた多紀・桂山一族の墓と山川貞久一族の墓があります。
奥医師には、典薬頭・奥医師・御番医師・寄合医師・小普請医師などが置かれ、奥医師は内科が多紀氏、外科は桂川氏が世襲しました。
当寺再興の山川貞久(城官)も鍼灸師ですから、当寺は医術とふかい所縁をもつことになります。

別当を勤めた平塚神社とは神仏分離により分かれましたが、少しく触れてみます。
御祭神は八幡太郎 源義家命、賀茂次郎 源義綱命、新羅三郎 源義光命の源家三兄弟で、三兄弟を一社で祀る例はめずらしいかと思います。

略縁起によると、創立は平安後期元永年中、八幡太郎義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主豊島近義に鎧一領を賜われました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築いて自城の鎮守として祀りました。平坦な塚だったので平塚と呼ばれ、三兄弟にちなんで平塚三所大明神として崇められました。

家光公の時代、上記の病平癒の件もあって再建され、家光公もたびたび参詣に訪れたとされます。
徳川家は源氏姓、新田氏流を名乗り、新田氏流(上野源氏)の祖は源義家公の三男義国公ですから、家光公が源家三兄弟をご祭神とする平塚神社を尊崇されたのも故あることかもしれません。


【写真 上(左)】 平塚神社の境内
【下(右)】 平塚神社の御朱印

当寺の最寄り駅はJR京浜東北線「上中里」駅か東京メトロ「西ケ原」駅。
いずれも都内屈指の閑散駅で、都内育ちでも知らない方が多いのでは?(わたしも寺社巡りをはじめて、はじめて降りました。)
ただし、周辺には寺社が意外に多いので、御朱印巡りの際には便利な駅といえましょう。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

人通りもまれな閑静な住宅地に、突如としてあらわれる立派な山門は桟瓦葺の四脚門。
「平塚山」の扁額は、当寺三百年を記念して書かれた当時の内閣総理大臣田中角栄氏の筆によるものとのこと。
山門前には御府内霊場第四十七番の札所標が建っています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所標
【写真 下(右)】 ???

全体に開放的であかるい雰囲気のお寺です。
正面に本堂。寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設しています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 向拝拝み部

水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「城官寺」。格天井。扁額上の小壁に大瓶束と彫刻からなる笈形。
向拝屋根には経の巻獅子口と兎毛通を置く、存在感のある仏堂です。

メジャー霊場、御府内八十八箇所の札所なので、御朱印対応は手慣れておられます。
滝野川寺院めぐりの御朱印も問題なく授与いただけました。
なお、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番の御朱印は、現在のところ授与されていないそうです。


● 滝野川寺院めぐり第8番の御朱印

中央に「阿弥陀如来」と「弘法大師」と阿弥陀如来の種子「キリーク」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右下に「滝野川寺院めぐり 第八番寺」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


【上(左)】 御府内八十八箇所第47番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第47番の御朱印(御朱印帳揮毫)

中央に「本尊 阿弥陀如来」と「弘法大師」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右に「第四十七番」の札所印。左下に山号と寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 豊島八十八ヶ所霊場第47番の御朱印(御朱印帳揮毫)

中央に「阿弥陀如来」と「弘法大師」と阿弥陀如来の種子「キリーク」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右上に「第四十七番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
滝野川寺院めぐりの御朱印とは札所印がことなるのみです。


第9番
佛寶山 西光院 無量寺


北区西ヶ原1-34-8
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
御朱印尊格:不動明王・弘法大師
御府内八十八箇所第59番、豊島八十八ヶ所霊場第59番、江戸六阿弥陀如来第3番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番、江戸八十八ヶ所霊場第59番、大東京百観音霊場第81番

第9番は、真言宗豊山派の無量寺です。

メジャー霊場、御府内八十八箇所第59番の札所なので、認知度は比較的高いと思います。
また、こちらは江戸時代、春夏のお彼岸にとくに賑わったといわれる江戸六阿弥陀詣の一寺で、もともと参詣者の多い寺院とみられます。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「新義真言宗佛寶山西光院ト号ス 慶安元年寺領八石五斗餘ノ御朱印ヲ附ラル、古ハ田端村與楽寺ノ末ナリシカ、常憲院殿厳命ヲ以テ大塚護持院ノ末トナレリ 又昔ハ長福寺ト称セシヲ 惇信院殿の御幼名ヲ避テ今ノ寺号ニ改ムト云 本尊不動外ニ正観音ノ立像ヲ置 長三尺五寸許惠心ノ作ニテ 雷除の本尊トイヘリ 中興眞惠享保三年閏正月廿三日化ス 今ノ堂ハ昔村内ニ建置レシ御殿御取拂トナリシヲ賜リテ建シモノナリト云 元境内ニ母衣櫻ト名ツケシ櫻樹アリシカ今ハ枯タリ 母衣ノ名ハ寛永ノ頃御成アリシ時名ツケ給ヒシト云伝フ」
「寺寶 紅頗梨色彌陀像一幅 八組大師像八幅 妙澤像一幅 不動像一幅 六字名號一幅。以上弘法大師ノ筆ト云 其内名號ニハ大僧都空海ト落款アリ 菅家自畫像一幅」
「七所明神社 村ノ鎮守トス 紀伊國高野山四社明神ヲ寫シ祀リ天照大神 春日 八幡三座を合祀ス 故ニ七所明神ト号ス 末社ニ天神 稲荷アリ 辨天社」
「阿彌陀堂 行基の作 坐像長三尺許六阿弥陀ノ第三番ナリ 観音堂 西國三十三所札所寫ナリ 鐘樓 安永九年鑄造ノ鐘ヲ掛 寺中勝蔵院 不動ヲ本尊トス」

創建年代は不明ですが、『滝野川寺院めぐり案内』には「現在当山には9~10世紀の未完成の木像菩薩小像と、12世紀末の都風といわれる等身の阿弥陀如来像が安置されている。さらに正和元年(1312年)、建武元年(1334年)の年号を始めとする30数枚の板碑が境内から出土しているから、少なくとも平安時代の後期には、この地に寺があったことはまず間違いないであろう。」と記されています。

また、北区設置の説明板には『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648年)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたこと、元禄十四年(1701年)五代将軍綱吉公の生母桂昌院が参詣したこと、以前は長福寺と号していたが、寺号が九代将軍家重公の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことなどが記されています。

江戸時代には広大な寺域を有していたといわれ、当寺が別当を勤めた「七社」はその境内に鎮座されていたと伝わります。
『江戸名所図会』には無量寺境内とみられる高台(現・旧古河庭園)に「七社」が表され、現・旧古河庭園の一部も無量寺の境内であったことがうかがわれます。
大正三年(1914年)、古河財閥3代当主の古河虎之助が周囲の土地を購入したという記録があるので、その時に古河家に移った可能性があります。
なお、「七社」は神仏分離の翌年明治二年(1869年)に一本杉神明宮の社地(現社地)に遷座されています。


【写真 上(左)】 七社神社の社頭
【写真 下(右)】 七社神社の境内


【上(左)】 七社神社の御朱印(旧)
【下(右)】 七社神社の御朱印

西ヶ原村の総鎮守であった七社神社には、西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構えた渋沢栄一翁が氏子として重きをなし、所縁の品々が残されています。
旧古河庭園は陸奥宗光や古河財閥の邸宅であり、このあたりは府内屈指の高級住宅地であったことがうかがわれます。

現在でも、落ち着いた邸宅がならぶ一画があり、いかにも東京山の手地付きの富裕層が住んでいそうな感じがあります。
内田康夫氏の人気推理小説「浅見光彦シリーズ」の主人公浅見光彦は西ヶ原出身の設定で、家柄がよく、相応の教養や見識を身につけていることなどは、このあたりの地柄を物語るものかもしれません。(内田康夫氏自身が西ヶ原出身らしい。)

このあたりの主要道は、不忍通り、白山通り(中山道)など谷間を走る例が多いですが、本郷通りは例外で、律儀に台地上を辿ります。
第七番城官寺、あるいは西ヶ原駅・上中里駅方面からだと本郷通りを越えての道順となるので、本郷通りからかなりの急坂を下ってのアブローチとなります。
旧古河庭園の裏手にあたるこの坂道は木々に囲まれほの暗く、落ち着いた風情があります。

坂を下りきり、右手に回り込むと参道入口です。
入口回りは車通りも少なく、相応の広さを保って名刹の風格を感じます。
ここで心を落ち着けてから参詣に向かうべき雰囲気があります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 ことぶき地蔵尊
【写真 下(右)】 山門

参道まわりに札所碑、地蔵立像、ことぶき地蔵尊など、はやくも見どころがつづきます。
そのおくに山門。この山門は「大門」と呼ばれ、棟木墨書から伏見の柿浜御門が移築されたものとみられます。本瓦葺でおそらく薬医門だと思います。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 江戸六阿弥陀札所碑


【写真 上(左)】 中門
【写真 下(右)】 秋の山内



【写真 上(左)】 秋の地蔵堂と参道
【写真 下(右)】 地蔵堂と鐘楼

さらに桟瓦葺の中門を回り込んで進む奥行きのある参道です。
緑ゆたかな境内は手入れも行き届き、枯淡な風情があります。
御府内霊場のなかでも屈指の雰囲気ある寺院だと思います。
左手に地蔵堂と鐘楼を見て、さらに進みます。


【写真 上(左)】 見事な紅葉
【写真 上(左)】 冬の山内


【写真 上(左)】 早春の本堂
【写真 下(右)】 秋の本堂


【写真 上(左)】 右斜め前から本堂
【写真 下(右)】 向拝

正面に本堂、向かって右手に大師堂、左手に進むと庫裡があります。
本堂前では数匹のおネコちゃんがくつろいでいます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 まどろむネコ

本堂は、寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「無量寺」。格天井。向拝屋根には「佛寶山」の山号を置く鬼板と兎毛通。
落ち着いた庭園に見合う、風雅な仏堂です。

本堂には阿弥陀如来坐像と、御本尊である不動明王像が御座します。
この阿弥陀如来像は、江戸時代に、江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺・沼田延命院(現・足立区恵明寺)・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院(現・調布市)・亀戸常光寺)の第三番目として広く信仰を集めた阿弥陀様です。

御本尊の不動明王像は「当寺に忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから『足止め不動』として信仰されるようになった」という逸話が伝わります。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 上(左)】 大師堂の堂号板

本堂向かって右手の大師堂は宝形造桟瓦葺で向拝を付設し、向拝柱に「大師堂」の板標。
大師堂の中には恵心作と伝わる聖観世音菩薩像が安置されており、「雷除けの本尊」として知られています。
本堂のそばには、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番の札所標も建っており、札所本尊は聖観世音菩薩と伝わるので、この「雷除けの本尊」が札所本尊かもしれません。

御朱印は本堂向かって左の庫裡で拝受できます。
原則として書置はないようで、ご住職ご不在時は郵送にてご対応いただけます。
なお、複数の霊場の御朱印を授与されておられるので、事前に参詣目的の霊場を申告した方がよろしいかと思います。


● 滝野川寺院めぐり第9番の御朱印

中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「滝野川寺院めぐり 第九番寺」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


【上(左)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(御朱印帳揮毫)

中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 豊島八十八ヶ所霊場第59番の御朱印

中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 江戸六阿弥陀如来第3番の御朱印

中央に「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三番」の札所印。右に「西ヶ原」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


第10番
補陀山 補陀落寿院 昌林寺


北区西ケ原3-12-6
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
御朱印尊格:末木観音
江戸六阿弥陀霊場(末木観音)、上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番、北豊島三十三観音霊場第19番

第10番は、曹洞宗の昌林寺です。

『滝野川寺院めぐり案内』には、開創・開山・開基などは不詳。行基菩薩の作とされる末木観世音菩薩を御本尊とする。応永年間(1394~1428年)に鎌倉公方足利持氏公が再興し、禅刹に改め祥林寺と号した。その後江戸橋場総泉寺4世の宗最和尚が中興開山となり、昌林寺に改称。太田道灌公の寄進を受けて伽藍を善美とし、彫刻物はすべて左甚五郎の作と伝わる。明治十六年(1883年)曹洞宗大本山永平寺の61世絶海天真禅師がご入山され御隠寮となり、太政大臣三条実美公は当山の風光を賞して「百花一覧之台」と賛した。などの寺歴が記されています。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「禅宗曹洞派橋場總泉寺末 補陀山ト号ス 古ハ補陀楽壽院ト号セシヲ應永十八年足利持氏再營シテ祥林寺ト改メ 文明十一年太田道灌田園二十四町を寄附セリ 其後大永五年丙丁ニ罹リシ後本山四世勝庵宗最中興シテ今ノ文字ニ改ム 此僧ハ天文十三年七月十五寂ス 本尊正観音ハ行基ノ作ニテ 六阿彌陀彫刻ノ時同木ノ末木ヲ以テコノ像ヲ作リシユヘ 末木ノ観音と号と云 昔ハ本堂ノ造リモ壮厳ヲ盡セシニヤ 今ノ堂ニ用ル所ノ扉獅子牡丹桐鳳凰等ノ彫刻最工ニシテ 近世ノモノニアラス是左甚五郎ノ作ニテ先年火災ノ時僅ニ残リシモノト云」

昌林寺は江戸(武州)六阿弥陀ゆかりの木残の末木観音様として知られています。

江戸(武州)六阿弥陀は、行基菩薩が一本の霊木から刻み上げた7体の阿弥陀仏と1体の観音様を参拝する阿弥陀巡りで、江戸時代、とくに春秋の彼岸に女性を中心に大流行したとされます。

五番常楽院の縁起、三番無量寺・木残昌林寺の寺伝、足立区資料、および「江戸の3 つの「六阿弥陀参」における「武州六阿弥陀参」の特徴」から創祀を辿ってみます。

その昔この地に「足立の長者」(足立庄司宮城宰相とも)という人がおり、年老いて子がないことを憂いて、熊野権現に祈ると女の子を授かりました。
「足立姫」と呼ばれたこの子は容顔麗しく、見るものはみな心を奪われたといいます。
成長した姫は「豊嶋の長者」(豊島左衛門尉清光とも)に嫁いだものの、誹りを受けて12人(6人とも)の侍女とともに荒川に身を投げ命を絶ってしまいました。

足立の長者はこれを悲しみ、娘や侍女の菩提のために諸国の霊場巡りに出立しました。
紀州牟宴の郡熊野権現に参籠した際、霊夢を蒙り1本の霊木を得て、これを熊野灘に流すと、やがてこの霊木は国元の熊野木(沼田の浦とも)というところに流れ着きました。

この霊木は不思議にも夜ごと光を放ちましたが、折しもこの地を巡られた行基菩薩は(この霊木は)浄土に導かんがための仏菩薩の化身なるべしと云われ、南無阿弥陀仏の六字の御名号数にあわせて霊木から六体の阿弥陀如来像を刻し、余り木からもう一体の阿弥陀仏、さらに残った木から一体の観音菩薩像を刻まれそれを姫の遺影として与えました。
後にこれら七体の阿弥陀仏と一体の観音像は近隣の寺院に祀られ、以降、女人成仏の阿弥陀参りとしてとくに江戸期に信仰を集めました。

『滝野川寺院めぐり案内』の無量寺の頁に「江戸近郊を歩くこのミニ巡礼は、表向きは信心とはいうものの、実際は世代家族の同居が当たり前だった時代の、年に2回のストレス解消とレクリエーションの一石二鳥の効果を狙ったものであった。まさに庶民が、日常生活の中から考えた知恵だったのであろう。」と記載されていますが、江戸の年中行事を描いた『東都歳時記』や『江戸名所図絵』でも複数取り上げられていることからも、そのような側面が大きかったと思われます。

滝野川寺院めぐりの無量寺、与楽寺、昌林寺の3寺は江戸六阿弥陀の札所と重複します。
また、桜の名所であった王子・飛鳥山、紅葉の名所として知られた滝野川、つつじの名所の駒込染井など、滝野川寺院めぐりの周辺エリアが江戸時代のレクリエーションの名所ときれいに重なっていることがわかります。

昌林寺の末木観世音菩薩については、『江戸名所図会』に、「本尊末木観世音菩薩は、開山行基菩薩の作なり。往古六阿弥陀彫刻の折から末木を以って作りたまひしとぞ。」と記され、江戸(武州)六阿弥陀との関連が裏付けられています。


【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所標

谷田川通りから少し入った住宅街のなかにこぢんまりと整った山内。
山門脇に上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)第5番の札所標が建っています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所碑


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜め左から本堂

入母屋造本瓦様の銅板葺で、軒下に向拝を付設しています。
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に「補陀山」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

朱の欄干と横長の花頭窓が印象的な本堂の手前には、上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所標と昭和62年造立の百寿観世音菩薩が御座します。


【写真 上(左)】 百寿観世音菩薩
【写真 下(右)】 本堂扁額

メジャー霊場の札所ではありませんが、最近は「江戸六阿弥陀」巡拝者も増えているのか、御朱印対応は手慣れておられます。
滝野川寺院めぐりの御朱印も問題なく授与いただけました。
なお、上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印は、「江戸六阿弥陀」の参拝でも捺されているようです。


● 滝野川寺院めぐり第10番の御朱印

中央に「末木観音」の揮毫と聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に「末木観世音菩薩 西国五番」の横書きの印判。
左上に「滝野川寺院めぐり 第十番寺」の札所印で、札所無申告で授与されると思われる「藤井寺寫 西國第五番」の上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印は捺されていません。
左下に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 江戸六阿弥陀(木残)の御朱印

中央に「本尊 末木観世音菩薩」の印判と聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に「末木観世音菩薩 西国五番」の横書きの印判。
左上に上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印の札所印「藤井寺寫 西國第五番」の札所印が捺されています。
左下には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。
滝野川霊場の御朱印では「末木観音」の揮毫。江戸六阿弥陀と観音霊場の御朱印では「本尊 末木観世音菩薩」の印判の様式にて授与されるようです。


第11番
明王山 大聖寺 不動院


北区西ヶ原3-23-2
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
御朱印尊格:不動明王
豊島八十八ヶ所霊場第53番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第23番、北豊島三十三観音霊場第29番

第11番は、真言宗豊山派の不動院です。

第10番昌林寺から谷田川通り沿いに少し歩くと不動院です。
ここで通りの由来となった「谷田川」について少し考えてみます。

谷田川はいまはすべて暗渠となり地図上から辿るのは困難ですが、世の中には奇特な方がおられ、かつての谷田川を辿る紀行がWebでいくつかみつかるので、そちらも参考にさせていただきまとめてみます。

谷田川はかつての石神井川とみる説もありますが、多くの説は染井霊園の北側ないし巣鴨あたりを源流とする別の流れと.みています。
そこから西ヶ原銀座通りに入り、染井銀座商店街~霜降銀座商店街と流れます。
本郷通りの「霜降橋」交差点は、谷田川にかかっていた橋名のなごりとされています。
ここからはほぼ谷田川通りに沿って、池之端の不忍池をめざして下っていきます。

谷田川通りは不忍通りのすぐ東側を走っています。
JR駒込駅の東側あたりで山手線内に入り、西日暮里駅の西側を通って、谷中と千駄木のあいだを流れます。根津駅から谷中への登り口にあたる大黒屋煎餅の下あたりを流れ、池之端辺で不忍池に流れ込みます。

ここで気づいたのは、「滝野川寺院めぐり」は、ほぼ旧谷田川に沿って札所が置かれているということです。

JR田端駅南側から旧古河庭園にかけては高台にあり、その名もずばり「田端高台通り」が走っています。
また、旧古河庭園から王子・飛鳥山にかけても高台で、ふるくは「御殿山」と呼ばれていました。なので、田端駅から王子駅にかけてのJRの南側はすべて高台にあります。
谷田川はこの高台の南側下を沿うように流れていました。

「滝野川寺院めぐり」の札所は一部の例外をのぞいて、この高台と旧谷田川のあいだの南傾地に位置しています。
寺社は崖線に沿って置かれる例が多いので、こちらも例外ではありません。

第1番与楽寺~第7番円勝寺は、すべて「田端高台通り」と旧谷田川のあいだにあり、南傾斜面をトラバースしていくので、大きな高低差はありません。
第8番城官寺は「御殿山」まわりの高台にあり、そこから旧谷田川の流れに近い第9番無量寺の山門までは、急なくだりとなります。

旧谷田川沿いの第10番昌林寺、第11番不動寺を経て、ふたたび「御殿山」エリアにある第12番妙見寺に向けて登りがつづきます。

以上のとおり、第8番城官寺から第12番妙見寺にかけては、地形的にも変化に富んだ巡拝を味わうことができます。

不動院の開創については『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「同宗田端村與樂寺門徒明王山ト號ス 本尊不動開山僧海善 元和六年六月六日寂」
開山は海善和尚(元和六年(1620年)遷化)。その後は数度の火災により寺伝が焼失し詳細は不明のようです。
また、『新編武蔵風土記稿』に「阿彌陀堂。西國二十三番攝州勝尼寺寫の観音を相殿とす。」とあるので、不動明王が御座す本堂のほかに阿弥陀堂があって、そちらに西國二十三番(上野王子駒込辺三十三観音霊場第23番)の札所本尊の観音様が祀られていたのかもしれません。

同書によると、当初は田端与楽寺の末でしたが、『滝野川寺院めぐり案内』によると、昭和16年(1941年)、総本山長谷寺に本寺換えをしています。

『滝野川寺院めぐり案内』には、当寺御本尊のお不動様ゆかりの逸話が記されています。
先の終戦直後、一帯は焼け野原となりましたが、いち早く境内に小屋(お堂)が建てられました。あるときこの小屋(お堂)に賊が侵入し、堂守をされていた慈信和尚の御母堂に刃物を突きつけました。そのとき、どこからともなく人の近づく足音が聞こえ、賊は一物もとらずに退散したそうです。
件の賊は後年、本人の努力と関係者の指導よろしきを得て立派に更正し、平和な一生を全うしたそうです。
このことが近辺に伝わり、当寺のお不動様は「魔除け不動」として信者さんの信仰を集めているそうです。


【写真 上(左)】 豊島霊場札所標
【写真 下(右)】 寺号標

山門向かって右側に「弘法大師」と豊島霊場が一体となった石碑、右手に寺号標と真新しい六地蔵が御座します。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 山門付近から山内

本堂は昭和51年建立の鉄筋建てで、手前の階段をのぼった2階正面が向拝となっています。
本堂下には、上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)第23番の札所標がありました。


【写真 上(左)】 本堂下
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 西国霊場札所標

御朱印は本堂向かって左手奥の庫裡にて授与いただけます。
最近巡拝者が増えているといわれる豊島八十八ヶ所霊場の第53番の札所なので、御朱印授与は手慣れておられ、書置のご用意もありました。

参拝時、ご住職はご不在で豊島霊場の御朱印ならば書置に札所印を捺してすぐにお出しになれるとのことでしたが、滝野川霊場の札所印は所在不明とのこと。
郵送をお願いすると快くお受けいただいたので、郵送にて拝受しました。
(ちなみに、筆者は宛先を書いて切手を貼り、郵送のお願い文書と御朱印用紙を同封した返信用の封筒を持ち歩いています。)


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第11番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所霊場第53番の御朱印

中央に「不動明王」の揮毫と御本尊不動明王の荘厳体種子「カンマン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「豊島八十八ヶ所第五十三番」の札所印。
左上に「滝野川寺院めぐり第十一番寺」の印判。
左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
豊島霊場御朱印との違いは「滝野川寺院めぐり第十一番寺」の印判の有無のみです。

(第12番へつづく)

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滝野川寺院めぐり-1(第1番~第6番)
滝野川寺院めぐり-2(第7番~第11番)
滝野川寺院めぐり-3(第12番~第16番)

【 BGM 】
■ 茜色の約束 - 森恵


■ 夢の大地 - Kalafina
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■ 滝野川寺院めぐり-1(第1番~第6番)

■ 完成版です。3編に分けて再構成しました。

※新型コロナウイルス感染症の感染拡大が収まる気配をみせません。一部で不要不急の外出自粛要請が出されていますし、寺社様が御朱印授与を休止される可能性もあります。
この霊場や札所に興味をもたれた方も、まずは遙拝にとどめ、感染拡大が収束してからじっくりと巡拝されてはいかがでしょうか。




「根岸古寺めぐり」の面白さに味をしめて(笑)、つぎに狙ったのが「滝野川寺院めぐり」で、2017年12月に結願しています。

平成5年7月1日開創の比較的新しい霊場なので、札所配置が整っていて容易に順打ちができます。しかも範囲が広くないので徒歩で巡拝できるのも魅力です。
ただし、一般的な認知度はほとんどなく、ある札所のお寺さんによると「滝野川寺院めぐりの御朱印を求められたのは数年ぶり」とのことでした。

宗派横断的な滝野川仏教会が開創された霊場で宗派は多彩なため、一冊の御朱印帳でまとめて集印していくとすこぶるバラエティに富んだ内容となります。

第1番 宝珠山 地蔵院 與楽寺
 真言宗豊山派 北区田端1-25-1
第2番 白龍山 寿命院 東覚寺
 真言宗豊山派 北区田端2-7-3
第3番 寿徳山 萬栄寺
 真宗大谷派 北区田端5-7-7
第4番 教風山 普光院 大久寺
 法華宗陣門流 北区田端3-21-1
第5番 薬王山 遍照寺 光明院
 真言宗豊山派 北区田端3-25-5
第6番 和光山 興源院 大龍寺
 真言宗霊雲寺派 北区田端4-18-4
第7番 光明山 照徳院 円勝寺
 浄土宗 北区中里町3-1-1
第8番 平塚山 安楽院 城官寺
 真言宗豊山派 北区上中里1-42-8
第9番 仏宝山 西光院 無量寺
 真言宗豊山派 北区西ヶ原1-34-8
第10番 補陀山 補陀楽寿院 昌林寺
 曹洞宗 北区西ケ原3-12-6
第11番 明王山 大聖寺 不動院
 真言宗豊山派 北区西ヶ原3-23-2
第12番 現徳山 妙見寺
 日蓮宗 北区西ヶ原2-9-5
第13番 北龍山 法音寺
 真宗大谷派 北区栄町14-9
第14番 思惟山 浄業三昧寺 正受院
 浄土宗 北区滝野川2-49-5
第15番 瀧河山 松橋院 金剛寺
 真言宗豊山派 北区滝野川3-88-17
第16番 南照山 観音院 寿徳寺
 真言宗豊山派 北区滝野川4-22-1

今回は気合いを入れて、御朱印帳は順打ちで集印してみました。
この方法がよかったのか、札所印が残っていない札所さんでも札番の揮毫をいただくなど、度々ご配慮をいただきました。


第5番光明院の御朱印と第4番大久寺の御首題

16の札所の多くは豊島八十八ヶ所などの現役霊場と重複しているので、ご住職がいらっしゃれば御朱印の拝受はさほどむずかしくはありません。ただ、豊島八十八ヶ所の札所じたいがご不在率が高いので、集印のための出直し参拝は必須かと思います。

日蓮宗と法華宗陣門流の札所がありますが、いずれも快く御首題を授与いただけました。
真宗大谷派の札所がふたつ。うちひとつは「御朱印を出されていない。」とのことでしたが、御朱印帳に参拝記念となるようなものを授与いただけました。
この真宗大谷派の札所は例外対応をいただいたかもしれず、ひょっとすると集印は15に留まる可能性もありますが、当初は2~3箇寺はいただけないものと覚悟していたので、予想以上の拝受数となりました。
札所印が16寺のうち13寺でいただけたのも想定外の収穫(?)で、あまり使われていないためか、印影はどれも綺麗です。

ガイドブックとして、滝野川仏教会が平成5年7月に発行された「滝野川寺院めぐり案内」があります。
いくつかの札所で在庫をご確認いただきましたが、いずれも在庫はなく、北区立滝野川図書館でお借りしてコピーをとりました。

このガイドによると、「『滝野川寺院めぐり』は、滝野川仏教会の会員寺院を、宗派にとらわれることなく巡拝するコースです。」「高齢化がすすむなか、心のゆとりを求める方々が増えています。豊島八十八カ所巡りや江戸六阿弥陀詣りなど、昔からすでに設けられている寺院めぐりをする方は、むしろ増加しています。今回の『滝野川寺院めぐり』は、全国に地域仏教会が沢山あるなかで、組織を巡拝コースに置きかえて、社会と寺院とのコミュニケーションを深めようとする初めての試みであると自負しております。」とあります。
たしかに、平成5年の時点で地域仏教会主導の霊場開創は、先駆的な動きだと思います。

札所は北区内を流れる石神井川に沿って、またいくつかは武蔵野台地の北縁に立地します。
このあたりの石神井川の流れは変化に富み、武蔵野台地にあがっても緑の多い住宅街がつづく風光明媚なところです。
江戸期から桜の名所として名を馳せた飛鳥山もエリア内に含みます。
札所もしっとり落ち着いたお寺さんが多く、ご不在出直し参拝も苦にならない感じがします。(おのおの駅から近いのも心理的に楽。)

これから、発願寺から16番の結願寺まで連載パターンで順繰りにご案内していきたいと思います。

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滝野川寺院めぐりの札所の多くは、昭和22年(1947年)3月15日 、旧 東京35区が22区に再編されたことに伴い北区に統合され消滅した旧 滝野川区域に立地します。
「滝野川」は、石神井川の別称で、このあたりの石神井川の流れが「滝の様に勢いよく」流れていたことに由来するといわれます。
当時の面影は、音無親水公園音無さくら緑地で偲ぶことができます。

音無さくら緑地の案内看板にはつぎのように書かれています。
「石神井川は大部分が台地上を流れているため、ゆるやかな流れの区間が多いのですが、板橋区加賀から下流になると渓谷状となり、水流もかなり急になります。そのため、昔はこの一帯の石神井川は滝野川とその名を変えて呼ばれ、飛鳥山のあたりでは、この地を愛した徳川吉宗のふるさとにちなみ、音無川とさらに名を変えて呼ばれていました。ごうごうと音をたて、流れる川を音無川と呼んだところに、この地と将軍吉宗との深い関係が読み取れます。」

また、このあたりには、王子七滝(王子の七瀑)という名勝がありました。
不動の滝(正受院境内)、稲荷の滝(王子稲荷社の別当寺金輪寺境内)、名主の滝(現 名主の滝公園内)、弁天の滝(金剛寺内松橋弁天境内)、権現の滝(王子神社の別当寺金輪寺内の王子権現境内)などで、いくつかは、滝野川寺院めぐりの札所境内にありました。

江戸期から、王子飛鳥山は桜の名所、滝野川は紅葉の名所として知られ、神社仏閣参詣と併せ日帰りで楽しめる行楽地として親しまれていました。
「吉宗は『春は花、秋は紅葉』の例えにならい、飛鳥山に桜を植えさせる一方で、石神井川の両岸に紅葉を植えさせました。文化文政の頃には、滝野川の紅葉は江戸中に知られ、江戸名所図絵にも『楓樹の名所として其の名遠近に高し』と述べられています。」(音無さくら緑地の案内看板より)

その様子は、錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館Webなどの資料でも情緒ゆたかにあらわされています。


【上(左)】 『飛鳥山』/広重(東都三十六景)(国立国会図書館ウェブサイトから転載)
【下(右)】 『飛鳥山はな見』/広重(広重画帖)(国立国会図書館ウェブサイトから転載)


【上(左)】 『滝野川紅葉』/広重(東都三十六景)(国立国会図書館ウェブサイトから転載)
【下(右)】 『王子滝の川』/広重(東都名所)(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

滝野川寺院めぐりは、JR田端駅からはじまります。
田端駅は北口こそそれなりに賑やかですが、南口は降り立ったそばからまったくの住宅街で、山手線の駅前とはとても思えないのどかな空気がただよっています。
ここから南に与楽寺坂を下っていくと、左手に與楽寺が見えてきます。


【絵図】 江戸時代後期の田端村(北区教育委員会の與楽寺前説明板より/出典『江戸名所図絵』)

この坂のそばにはかつて芥川龍之介など文人の居宅があり、いまでも落ち着いたたたずまいを見せています。
芥川龍之介は、あたりの風景を「田端はどこへ入っても黄白い木の葉ばかりだ。夜とほると秋の匂がする」と描写しています。

第1番
宝珠山 地蔵院 與楽寺


北区田端1-25-1
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
朱印尊格:地蔵菩薩
御府内八十八箇所第56番、豊島八十八ヶ所第56番、武州江戸六阿弥陀霊場第4番、大東京百観音霊場第82番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第21番、江戸八十八ヶ所霊場第56番、九品仏霊場第3番(上品下生)、豊島六地蔵霊場第1番

 
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 修行大師像と札所標

発願の第1番は、真言宗豊山派の與楽寺です。

弘法大師の建立とも伝わり、慶安元年(1648年)に寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務められ末寺20余を擁したとされる名刹です。
『滝野川寺院めぐり案内』には康歴三年(1381年)銘の石塔の存在が記され、寺歴は相当に古そうです。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号21/114)には以下の記述があります。
「新義真言宗京都仁和寺末 寶珠山地蔵院ト号ス 慶安元年八月二十四日寺領二十石ノ御朱印を賜フ 本尊地蔵ハ弘法大師ノ作ナリ 昔當寺へ或夜賊押入シ時 イツク●ナク数多ノ僧出テ賊ヲ防キ遂ニ追退タリ、翌朝本尊ノ足泥ニ汚レアリシカハ、是ヨリ賊除ノ地蔵ト号スト伝フ 開山ヲ秀榮ト云」「鐘樓 寶暦元年鑄造ノ鐘ヲカク」「阿彌陀堂 本尊ハ行基ノ作ニテ六阿彌陀ノ第四番ナリ」「九品佛堂 是モ近郷九品阿彌陀佛ノ内第三番ナリト云」

複数の霊場の札所を兼ねておられ、とくに御府内八十八箇所と武州江戸六阿弥陀で参拝される方が多いのでは。

こちらのご住職は滝野川寺院めぐり開創当時の滝野川仏教会の会長で、そのことから札所1番発願寺を務められているものと思われます。

豊島郡有数の名刹の歴史を語るように、ゆったりとした間口を構えます。
山門は平成29年(2017年)建立で、切妻造本瓦葺の立派な四脚門。
山門左手には修行大師像と、御府内霊場第五十六番、六阿弥陀第四番の両札所標、それに上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標「西國廿一番 丹波國阿のう寺写」があります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 霊堂

参道を進むと左手に霊堂。宝形造唐破風向拝の少し変わった雰囲気のお堂です。
その先には鐘楼。さらに進んだ右手にも宝形造のお堂があって、伽藍は整っています。
境内はよく整備され、名刹特有の荘厳な空気がただよっています。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 右手のお堂と客殿


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

参道正面に本堂。
入母屋造本瓦葺流れ向拝。降り棟、隅棟、稚児棟をきっちり備える堂々たる仏殿です。
水引虹梁両端に雲形木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁と雲形の手挟を伸ばし、中備に板蟇股を置いています。
正面桟唐戸の上に「與楽寺」の扁額。
向拝両脇の花頭窓と身舎欄間の菱格子が、引き締まった印象を与えます。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂向拝見上げ

本堂に御座す御本尊の地蔵菩薩は弘法大師の御作と伝わり、盗賊の侵入を追い返された「賊除地蔵」としても知られる秘仏です。

本堂右手が客殿。切妻造桟瓦葺唐破風付きの整った意匠は、本瓦葺の本堂とバランスのよい対比を見せています。

本堂右手脇にも上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標がありますが、こちらは「西國弐拾九番」となっています。
第29番は東覚寺で、標中に「是」「道」の文字があるので、札所導標かもしれません。


【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 阿弥陀堂

本堂向かって右手が阿弥陀堂で、こちらは武州江戸六阿弥陀第4番の札所です。
武州江戸六阿弥陀霊場は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から刻み上げた六体の阿弥陀仏と、余り木・末木で刻した阿弥陀仏と聖観世音菩薩を巡拝する八箇寺からなる阿弥陀霊場で、江戸期には女人成仏の阿弥陀仏としてあがめられ、とくに春秋の彼岸に盛んに巡拝されていたようです。(武州江戸六阿弥陀については、第10番昌林寺の記事をご参照ください。)
なお、「滝野川寺院めぐり」とは複数の札所(第1番與楽寺、第9番無量寺、第10番昌林寺)が重複しています。

入母屋造桟瓦葺流れ向拝。水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面板戸の上に「六阿弥陀 第四番」の扁額。
シンプルな虹梁と両脇の連子が効いて、シャープな印象の向拝です。
札所本尊の阿弥陀如来は行基作と伝わります。


【写真 上(左)】 阿弥陀堂の扁額
【写真 下(右)】 本堂と阿弥陀堂のあいだのナゾのお堂

阿弥陀堂の右手、本堂とのあいだにもうひとつ宝形造のナゾのお堂がありますが詳細不明。
お堂の手前に観音様の線刻碑があるので、観音堂かもしれません。

御朱印は本堂向かって右手の客殿で拝受します。ここは5回以上参拝していますが、いずれも揮毫御朱印をいただけました。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第1番の御朱印
【下(右)】 御府内八十八箇所第56番の御朱印


【上(左)】 豊島八十八ヶ所第56番の御朱印
【下(右)】 武州江戸六阿弥陀霊場第4番の御朱印

御朱印は、中央に「本尊 地蔵菩薩」の揮毫と三寶印の捺印、右に「弘法大師」の揮毫。
左下に寺号と寺院印、右上に「滝野川寺院めぐり 第1番」の札所印。
尊格構成は御府内霊場や豊島霊場など、弘法大師霊場と同様です。

こちらに限らず、滝野川寺院めぐりの御朱印は弘法大師霊場の構成に近く、御朱印尊格は御本尊となる例が多いようです。

なお、武州江戸六阿弥陀霊場の御朱印は、中央上部に阿弥陀如来の種子(キリーク)、右に聖観世音菩薩の種子(サ)、左に勢至菩薩の種子(サク)が揮毫された阿弥陀三尊様式で、この霊場の御朱印で複数みられるものです。


第2番
白龍山 寿命院 東覚寺


北区田端2-7-3
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
朱印尊格:不動明王
御府内八十八箇所第66番、豊島八十八ヶ所第66番、江戸・東京四十四閻魔参り第35番、谷中七福神(福禄寿)、上野王子駒込辺三十三観音霊場第29番、江戸八十八ヶ所霊場第66番、九品仏霊場第2番(上品中生)、閻魔三拾遺第5番

第2番は、真言宗豊山派の東覚寺です。

第1番與楽寺からほどなく東覚寺に到着です。
複数の霊場札所を兼ね、「赤紙仁王尊」でも知られる寺院です。
『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号21/114)には以下の記述があります。
「與楽寺末白龍山壽命院ト号ス 寺領七石の御朱印ヲ附セラル 本尊不動ハ弘法大師の作ナリ」

延徳三年(1491年)源雅和尚が神田筋違橋(現在の万世橋付近)に創建。その後根岸御印田を経て、慶長の初め(1600年頃)にこの地に移転したと伝わります。


【写真 上(左)】 赤紙仁王尊と明王堂
【写真 下(右)】 奉納された草鞋

区画整理が進んだ広々とした街区に、赤紙を貼られた赤紙仁王尊の出現はインパクトがあります。
この赤紙仁王尊(区の指定文化財)は寛永十八年(1641年)の背銘があり、当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宋海上人が願主建立されたもので、赤紙を自分の患部と同じところに貼って願をかけると霊験ありと信じられ、いまもたくさんの赤紙が貼られています。


【絵図】 慶応2年頃の石像金剛力士像の様子(北区教育委員会の現地説明板より/出典『御府内八十八ヶ所道しるべ』/国立国会図書館提供)

ときどき赤紙を剥がすそうですが、剥がす前のタイミングだと石造の仁王尊は赤紙に貼り尽くされほとんどお姿が見えません。
病が治癒すると草履を供えるとされ、仁王尊の脇にはたくさんの草履が奉納されています。

この赤紙仁王尊は門前の明王堂(護摩堂)参道に御座しますが、もともとは当寺が別当を務めた田端八幡神社の参道に安置されていたと伝わります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂

山門は新しいですが本瓦葺、二軒の平行垂木を備えた立派なものでおそらく薬医門。
正面本堂左手前の修行大師像と金色の金剛界大日如来坐像、向拝欄干には御本尊不動明王の御真言とお大師様の御寶号が掲げられ、保守本流の真言宗寺院の空気感。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面桟唐戸の上に「白龍山」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 札所標

本堂左手客殿前には金色の阿弥陀如来坐像、その奥に「九品佛第二番 阿弥陀如来」と西國廿九番(上野王子駒込辺三十三観音霊場、札所本尊馬頭観世音菩薩)の札所標が並びます。
九品佛霊場は江戸時代開創の古い霊場で発願は巣鴨の真性寺、結願は板橋の智清寺。東覚寺は第2番で上品中生の阿弥陀如来です。
両霊場ともに御朱印の有無をお伺いしましたが、いずれもお出しになられていないとのことでした。


【写真 上(左)】 鼓翼(はばたき)平和観音像
【写真 下(右)】 馬頭観世音

庫裡に回り込む手前に、鼓翼(はばたき)平和観音像と馬頭観世音菩薩が御座します。
馬頭観世音菩薩は三面八臂の坐像で、髻に馬頭をいだかれた憤怒相です。
馬頭観世音菩薩は観世音菩薩にはめずらしい憤怒尊で、「馬頭明王」と呼ばれることもあります。
この立派な馬頭観世音菩薩は、上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所本尊なのかもしれません。

本堂裏には回遊式の庭園があり、庭内に諸仏が安置されています。
- むらすずめ さわくち声も もも声も つるの林の つるの一声 -
太田蜀山人 / 雀塚の石塔

こちらは江戸・東京四十四閻魔参り第35番の札所で、御縁日に参拝したところ閻魔大王の御朱印は授与されていないとのことで、御本尊の御朱印をいただきました。
閻魔大王は奪衣婆とともに、本堂内に御座されているそうです。

また、歴史ある谷中七福神の福禄寿尊天をお祀りされます。
この福禄寿尊天は、もとは通称「六角山」にあった六角堂(西行庵)に西行法師坐像とともに祀られていたもので、明治に入って当寺に遷座されました。
毎年正月には本堂で御開帳されています。

御朱印は、向かって左裏手の寺務所で拝受します。
こちらも御府内霊場や谷中七福神などメジャー霊場の札所となっているので、揮毫いただけることが多そう。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第2番の御朱印
【下(右)】 御府内八十八箇所第66番の御朱印


【上(左)】 豊島八十八ヶ所第66番の御朱印
【下(右)】 閻魔様の御縁日に拝受した御本尊の御朱印

御朱印は、中央に「本尊 不動明王」の揮毫と種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、右に「弘法大師」の揮毫。
左下に寺号と寺院印、「滝野川寺院めぐり 第2番」の札所印はお持ちでないとのことでしたが、ご厚意で揮毫の札番をいただけました。ありがとうございました。
尊格構成は、札所印をのぞいて御府内霊場や豊島霊場などの弘法大師霊場と同様です。

なお、東覚寺が別当を務めていた田端八幡神社(北区田端2-7-2、お隣り)でも御朱印を授与されています。


【写真 上(左)】 田端八幡神社拝殿
【下(右)】 田端八幡神社の御朱印


第3番
寿徳山 萬榮寺


北区田端5-7-7
真宗大谷派
御本尊:阿弥陀如来
朱印尊格:不可思議光如来


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 寺号標

第3番は、真宗大谷派の萬榮寺です。

この霊場は第3番、第4番に至って一気にマニアック度(?)が高まりますが、これは宗派によるところが大きいと思います。
第3番は真宗大谷派、第4番は法華宗陣門流で、いずれも霊場札所としての例は多くはありません。とくに真宗大谷派、法華宗陣門流とつづく霊場はほとんど例がないのでは。
宗派を超えた、地域仏教界開創の霊場ならではの札所展開といえましょう。

真宗は教義的に御朱印を授与されない寺院が多く(名刹で参拝記念的なスタンプはけっこう出されている)、この宗派の檀家寺に御朱印授与のお願いをすることはいつもは避けますが、霊場札所となると話は別です。
三浦二十八不動尊霊場、三浦二十一ヶ所薬師霊場、行徳・浦安三十三観音霊場、甲斐百八霊場などで真宗寺院が札所となっている例があり、実際、これまでに御朱印を拝受しています。

萬榮寺は、新潟県西蒲原郡中之口村六分の円明寺他4箇寺の東京在住の壇信徒をまとめるために設立された真宗大谷派萬榮教会が前身の、真宗大谷派の寺院です。

こじんまりとした境内。
本堂は近代建築で様式はよくわかりませんが、葡萄茶色の柱と梁が印象的な二層の建物で、上層の屋根妻部には鬼板と猪ノ目懸魚を備えています。

御本尊の阿弥陀如来立像は寄木造で、衣部に金箔、48本の光背を備えられ、江戸時代後期の作といわれています。

御朱印授与は、ベルを鳴らしてのお願いとなります。
こちらは以前お伺いしたときはご不在、今回もお取り込み中のようでしたが快く授与をいただけました。


● 滝野川寺院めぐり第3番の御朱印

御朱印は中央に「南無不可思議光如来」の揮毫と印(内容不明)、右下に寺号の揮毫と寺院印、右上に「滝野川寺院めぐり 第三番寺」の札所印。
真宗の「正信偈」に「南無不可思議光」とあり、「不可思議光」は阿弥陀仏の「智慧」をあらわすそうですから、尊格としては阿弥陀(無量光)如来で、真宗ならではの御朱印(?)のようにも思えます。


第4番
教風山 普光院 大久寺


北区田端3-21-1
法華宗陣門流
朱印尊格:御首題

第4番は、法華宗陣門流の大久寺です。

日蓮聖人を開祖(宗祖・高祖)とし、妙法蓮華経を依拠教典とする宗旨(広義の法華宗)には多くの流れ(門流)があり、その差異を理解するのは甚だ困難ですが、大きくは「所依の妙法蓮華経を構成する二十八品前半の『迹門』、後半の『本門』の関係解釈」、「釈迦をもって本仏とするか、日蓮聖人をもって本仏とするか」により分流しているようです。
前者で「一致派」と「勝劣派」に分かれ、法華宗陣門流は「勝劣派」の、日陣門流(本成寺派)の流れになるものとみられます。

((広義の)法華宗は総じて教義解釈に厳格で、これにより細かく門流が分かれているので、素人が表面的に理解するのは不可能かと思います。)
「勝劣派」には原則御首題を授与されない門流もあるようですが、法華宗陣門流と法華宗本門流は比較的授与例が多いように思われます。

文禄元年(1592年)大久保相模守忠世が一族の菩提を弔うため、越後の名僧・日英上人を招聘、開祖として小田原に創建され、寛永七年(1630年)江戸下谷車坂に移転の後、明治三十六年(1903年)に当地に移転したとされます。
大久保家との所縁がふかく、「おおくぼでら」とも呼ばれているようです。
伊勢亀山藩石川家に養子となっていた忠隣の二男忠総の流れで、石川家の菩提寺でもあります。
また、大正三年(1914年)に田端の上台寺を合併しています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂

さほど広くはないものの、緑が多く手入れの行き届いた境内。
正面に昭和34年(1959年)建立の本堂。入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
大棟、降り棟、隅棟、稚児棟、掛瓦のバランスがよく、整った印象の建物です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

水引虹梁両端に禅宗様の雲形木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面桟唐戸の上に「教風山」の扁額。向拝両脇に花頭窓、小壁の欄間に菱格子と、向拝まわりもきっちり整った印象です。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 境内

境内には、昔日参拝者を集めた日蓮聖人の伊豆法難の際の「腰掛石」がいまも残ります。

こちらは以前にも御首題をいただいておりますが、そのときも今回もたいへん丁重なご対応をいただきました。
ただし、札所の場合も尊格は御首題なので、ご住職ご不在時は出直し参拝になろうかと思われます。

 
【上(左)】 滝野川寺院めぐり第4番の御首題
【下(右)】 御首題

御首題は、中央にお題目と印(内容不明)、右下に寺号の揮毫と宗派+寺院の印。
右下に「滝野川寺院めぐり 第四番寺」の札所印が捺されています。
こちらは以前にも御首題を拝受していますが、そのときは御首題をお願いしたので札所印の捺印はありません。


第5番
薬王山 遍照寺 光明院


北区田端3-25-5
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
朱印尊格:胎蔵大日如来
豊島八十八ヶ所霊場第9番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第20番

第5番は、霊場札所の保守本流、真言宗豊山派の光明院です。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号21/114)に以下の記述があります。
「同宗西ヶ原村無量寺末薬王山遍照寺ト号ス本尊大日 薬師堂 聖徳太子ノ作ノ薬師ヲ置ク立像長一尺五寸 観音堂」

天正十九年(1591年)の検地水帳に白髭神社の別当として「光明院」の名があり、創建はそれ以前と推定されますが詳細は不明。
寺伝は寛文四年(1664年)、朝海法印による再建を伝えます。
古くは医王山、白髭山の山号を号し無量寺の末寺でした。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号板

閑静な住宅街にあるこのお寺さんは光明院幼稚園を併設されていて、平日昼間の境内は園児たちが元気に遊びまわり、当然のことながら門扉は固く閉ざされています。

1回目、豊島霊場の参拝でお伺いしたときは時間が遅く、園児や親御さんもおおむね帰宅して落ち着いていましたが、2回目、滝野川霊場の参拝時はちょうど帰宅時で境内は園児と母親達で大盛況。ここに男性1人で踏み込むのは相当気合い?が要りそうですが、このときは連れ同伴だったので大手を振っての?参拝です。
(じつはこの日、2人併せて平日休をとり、昼過ぎに東京国立博物館の運慶展に赴いたのですが、あまりの大混雑に嫌気がさし、一旦滝野川霊場の参拝に回り、少しく空いてきた夕刻から突入したのでした。)

参道は幼稚園側にありますが、高麗門の格子戸は閉まっていて入れません。
本堂側に回り込むと開き戸(幼稚園出入口)があり、門脇のインターフォンから参拝の許可をいただきます。

いずれも通用門そばに先生がおられたので、お声掛けすると快く本堂(庫裡)にご案内いただけました。(3回目は、たしかインターフォンを鳴らしたかと思います。)
3度ともご住職、大黒さんにお会いできましたが、温厚で上品なお人柄のように感じられました。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 左手からの本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

昭和50年(1975年)再建の本堂はコンクリ造で寄棟造銅板葺流れ向拝。
コンクリ造のためか向拝柱はなし。細部の意匠が効いていて、コンクリ造のお堂にありがちな無機質感はありません。
ただし、かなり離れたところに柵があり賽銭箱もないので、お参りはいささかしにくいです。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 境内の西國第20番を示す札所碑

1回目、豊島霊場のときはスムーズに御朱印を拝受できましたが(最近、豊島霊場の巡拝者が増えている模様)、2回目に滝野川寺院めぐりの御朱印を申告すると、いささか驚かれたご様子でした。
やはり、滝野川寺院めぐりの参拝者はすこぶる少ないそうです。

3回目、上野王子駒込辺三十三観音霊場に至っては、大黒さんは??モードでしたが、「西國20番」と言い直すと合点がいかれたらしく、無事、ご住職から御朱印を拝受できました。
本堂手前の観音様(札所碑あり)が札所本尊ではないか、との由でした。

上野王子駒込辺三十三観音霊場じたいが正式名称ではなく(東都歳時記に「上野より王子駒込辺西国の写三十三所観音参」とある)、御朱印授与の札所も少ないですが、北区のある札所寺院様によると、最近、この霊場で申告されるケースが増えている感じがする、との由。
御府内、豊島などのメジャー霊場には参画されていない寺院も複数含まれているので、復活があるとうれしいです。(廃寺が複数ありますが・・・)
↑の札所印や、谷中の長安寺(第22番)で本堂扁額横に「西國三十三ヶ所寫」の札所板が掲げられていることなどから、「西國三十三ヶ所寫(観音)参り」とされていた可能性があります。

また、府内七薬師霊場第2番札所との情報がありますが、この霊場じたい調べがついておらず、現在のところ詳細不明です。(東都七仏薬師とは異なるようです。)


● 滝野川寺院めぐり第5番の御朱印

中央に「大日如来」の揮毫と胎蔵大日如来の種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左下に院号の揮毫と寺院印、右下に「滝野川寺院めぐり 第五番寺」の札所印が捺されています。
御朱印の構成は、札所印をのぞいて豊島霊場と同様です。


【上(左)】 豊島八十八ヶ所霊場第9番の御朱印
【下(右)】 上野王子駒込辺三十三観音(西國写)霊場第20番の御朱印


第6番
和光山 興源院 大龍寺


北区田端4-18-4
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部大日如来
朱印尊格:胎蔵大日如来
豊島八十八ヶ所霊場第21番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第17番、御府内八十八箇所第13番(不詳)

第6番は、真言律宗の流れを汲むとされる真言宗霊雲寺派の大龍寺です。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号21/114)に以下の記述があります。
「眞言律宗湯嶋靈雲寺末 和光山興源院ト号ス 古ハ不動院浄仙寺ト号セシニ、天明ノ頃僧観鏡光顕中興シテ今ノ如ク改ム 本尊大日ヲ置 八幡社 村ノ鎮守トス 稲荷社」

創建は慶長年間(1596-1615年)。
当初は新義真言宗で不動院 浄仙寺と号していましたが、安永年間(1772-1780年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕律師が中興し、現寺号に改称しているようです。
俳人の正岡子規をはじめ、横山作次郎(柔道)、板谷波山(陶芸家)などの墓所としても知られています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 墓所を示す境外の石碑

こちらは原則月曜はお休み(閉門)なので要注意です。
山門は三間三戸の八脚門ですが、脇戸にも屋根を置き、様式はよくわかりません。
主門上部に「和光山」の扁額。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右手からの本堂露天

本堂は二層で、入母屋造本瓦葺様銅板葺で流れ向拝、階段を昇った上層に向拝を置いています。
すっきりとした境内に堂々たる伽藍。このあたりは、霊雲寺派総本山の霊雲寺にどことなく似通っています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に草文様の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に彩色の海老虹梁と手挟、中備に葵紋付き彩色の板蟇股。
正面に「大龍寺」の扁額と、これを挟むように小壁に彩色の蟇股がふたつ。
身舎出隅の斗栱にも彩色が施され、二軒の平行垂木もよく整って華やかな印象の本堂です。

このところ巡拝者が増えているとみられる豊島八十八ヶ所霊場の札所なので、御朱印は手慣れた対応です。
滝野川寺院めぐりの御朱印についても、特段驚かれた風はありませんでした。

こちらはWeb上で、「弘法大師第13番」の札所印(揮毫)の御朱印がみつかります。
一瞬「御府内二十一ヶ所霊場」のことかと思いましたが、こちらは第17番。
Web上で調べてみると、どうやら御府内八十八箇所第13番の札所らしいのです。

近年メジャー霊場化している御府内八十八箇所は、番外等の札所はありませんが、第19番が2つあること(板橋の青蓮寺と南馬込の圓乗院)は知っており、いずれも御朱印は拝受していました。

しかし、第13番についてはノーマーク。Web検索でも確たる情報は出てきません。
通常、第13番は三田の龍生院がリストされています。
御府内第13番は、もともと霊岸島にあった圓覚寺で、龍生院に引き継がれたとされていて、大龍寺との関連は不詳です。
御府内八十八箇所は結願したつもりでしたが、知ってしまった以上は、参拝し御朱印を拝受したいところ。

仔細がおありになるかもしれないので、御府内霊場についての詮索めいた質問は控えました。
淡々と「御府内霊場第13番」の御朱印をお願いし、淡々とお受けいただき、淡々と拝受しました。
なお、真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺は、御府内八十八箇所の第28番の札所となっています。
真言宗霊雲寺派は東都を拠点とする宗派で、その霊雲寺派が江戸の弘法大師霊場である御府内八十八箇所の一画を占めているのは、頷けるものがあります。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第6番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所霊場第21番の御朱印

中央に「本尊 大日如来」の揮毫と胎蔵大日如来の種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左下に寺号の揮毫と寺院印、右下に「滝野川寺院めぐり 第六番寺」の札所印が捺されています。
御朱印の構成は、札所印と種子「ア」の様式が豊島霊場とは異なります。


【上(左)】 御府内八十八箇所第13番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第13番の御朱印(御朱印帳)

(第7番へつづく)

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滝野川寺院めぐり-1(第1番~第6番)
滝野川寺院めぐり-2(第7番~第11番)
滝野川寺院めぐり-3(第12番~第16番)

【 BGM 】
■ I Will Be There with You ~日本語版~ - 杏里


■ 空に近い週末 - 今井美樹
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