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■ 滝野川寺院めぐり-3(第12番~第16番)

※新型コロナウイルス感染症の感染拡大が収まる気配をみせません。一部で不要不急の外出自粛要請が出されていますし、寺社様が御朱印授与を休止される可能性もあります。
この霊場や札所に興味をもたれた方も、まずは遙拝にとどめ、感染拡大が収束してからじっくりと巡拝されてはいかがでしょうか。


第12番
現徳山 妙見寺


公式Web
北区西ヶ原2-9-5
日蓮宗
御首題

第12番は、日蓮宗の妙見寺です。

『滝野川寺院めぐり案内』には、つぎの記載があります。
・ 正中山法華経寺大荒行堂の大験者、慈徳院日陽上人が昭和9年(1934年)荒川区尾久に草創された妙見堂教会が昭和19年(1944年)当地に疎開移転して開山。
・第2世として法燈を承継された慈正院日慶上人が昭和22年(1946年)、日蓮宗門より現徳山妙見寺の寺号公称を認可される。
・昭和57年(1982年)、老朽化した本堂と書院を再建落慶。
・第2世日慶上人は正中山大荒行堂加行700日、第3世の慈昌院日観上人も正中山第四行の修法師で檀信徒の方々から信仰を集めている。

山門には「日蓮宗祈祷所」が立額され、公式Webにも「日蓮宗祈祷所『妙見寺』は日蓮宗伝統の祈祷を受け継ぎ、全国の方々の幸福に寄与します。」と掲載されています。


【写真 上(左)】 飛鳥山公園の紅葉
【写真 下(右)】 山門

本郷通りから北に少し入ったところ、飛鳥山公園に面した緑濃い立地です。
山門はおそらく薬医門ないし高麗門で、小ぶりながら存在感があります。


【写真 上(左)】 斜めから山門
【写真 下(右)】 山門主門まわり

降り棟の外側が本瓦葺、内側が桟瓦葺、掛瓦も太くてどっしりとした質感。
右の柱に「日蓮宗祈祷所」、左の柱には寺号の板標が掲げられ、正面には「現徳山」の山号扁額。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内

境内には八大竜王碑、浄行菩薩、不動明王、稲荷社などが鎮座し、パワスポ的な雰囲気を感じます。
稲荷社奥の2階の入母屋造妻入りの建物が本堂のように見えますが、定かではありません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂の棟飾り


【写真 上(左)】 浄行菩薩
【写真 下(右)】 庫裡

御首題は山門くぐって左の階段をのぼった庫裡にて拝受しました。
滝野川寺院めぐりの御朱印も御首題で授与されます。
ご不在の場合もあるので、事前TELがベターかもしれません。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第12番の御朱印(御首題)
【下(右)】 通常の御首題

滝野川寺院めぐりの御朱印は御首題で、「滝野川寺院めぐり第十二番寺」の札所印が捺されています。
通常の御首題にこの札番はなく、構成も若干異なります。


第13番
北龍山 法音寺


北区栄町14-9
真宗大谷派
御本尊:阿弥陀如来

第13番は、真宗大谷派の法音寺です。

第13番で一旦京浜東北線の東側に出ます。
田端駅から上中里駅にかけてのJR京浜東北線北側にはJR尾久車両センター(尾久客車操車場)があって、都内有数の交通分断エリアとなっています。
第12番妙見寺からだと上中里駅東側の跨線橋を渡り、さらに梶原踏切か上中里さわやか橋経由のルートが順当かと思います。


【写真 上(左)】 上中里さわやか橋からのJR尾久車両センター
【写真 下(右)】 山門からの山内

西ヶ原から京浜東北線の線路を渡って栄町に入ると、路地が入り組む下町的な町並みとなり、法音寺も路地の一角にあります。
妙見寺からの距離はさほどではありませんが、跨線橋を渡ったり、街の雰囲気が変わったりで、けっこう遠く感じました。
なお、法音寺の最寄り駅は都電荒川線の「梶原」駅となります。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 掲示版

『滝野川寺院めぐり案内』によると、当寺はもと富山県下新川郡新屋にあり、上京された釈法忍師は明治40年(1907年)、滝野川に居住されて布教活動に着手。
大正13年(1924年)、この地に本堂を建立され法音寺説教所を開設。
東京大空襲で本堂を焼失しましたが、昭和24年(1949年)には正式に寺号を取得、昭和30年(1955年)には本堂を再建し、現在に至ります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂見上げ

こぢんまりとした境内正面に立派な本堂。
入母屋造銅板葺流れ向拝。水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を配しています。

参拝時、ご住職はご不在で大黒さんの対応をいただきました。
「真宗なので御朱印は出されていない。」とのことでしたが、納経帳をお見せし、滝野川寺院めぐりを巡拝中との主旨をお話しすると、「それであれば」とお受けいただき、御朱印(というか参拝記念)に準ずるものを納経帳にいただけました。
ご親切な対応をいただき、ありがとうごさいました。
ただし、今回だけの特例対応であったかもしれず、拝受した「おしるし」は掲載を控えます。


第14番
思惟山 浄業三昧寺 正受院


北区滝野川2-49-5
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
上野王子駒込辺三十三観音霊場第4番、北豊島三十三観音霊場第23番

第14番は、浄土宗の正受院です。

法音寺から赤羽駅のガードをくぐり、王子神社下の緑ゆたかな音無親水公園を抜けてのアプローチとなります。
下町の住宅街から一転、渓谷を抜けて台地に登るこのコースは変化に富み、この巡拝のハイライトともいえる道のり。
正受院は滝野川に面していますが北側滝野川岸からの参道はないので、一旦滝野川をはなれ、南側の住宅地から回り込むかたちとなります。


【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 不動尊への道標

『滝野川寺院めぐり案内』によると、室町時代末、弘治年間(1555-1558年)に大和國宇多郡滝門の奥の功曽久という所から夢告に従って来られた学仙坊法印が、王子七滝のひとつ「不動の滝」で修行され、滝野川から1体の不動尊像をすくい上げました。
法印は不動堂を建立され、のちに弘法大師の御作といわれ信仰を集めるこの不動尊像を安置されたのが当寺の開創とされます。
慶長年間(1596-1615年)に円誉上人が入寺されて浄土宗となりました。
浄土宗のお寺様ながら、人々のこのお不動様に対する信仰は篤く、「瀧不動尊」とも呼ばれています。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号18/114)に以下の記述があります。
「「浄土宗芝増上寺末 思惟山三昧寺ト号ス 弘治年中大和國宇多郡龍門ノ奥功曾久ト云所ニ學仙坊と云僧住し 不動即我ノ密法ヲ修スル事年アリ 靈夢ヲ得テ當國ニ来リテ當寺ヲ草創セリ 其年タマタマ洪水アリテ砌ノ川中ヨリ弘法大師作ノ不動ヲ得タリ 其後又旅僧来テ一軀ノ不動ヲ授クシモノ今堂中ニ安置スル處ナリ 學仙坊は弘治三年三月四日寂ス 其墳墓庭ノ小山ノ上ニアリテ五輪塔ナリ 其後寂阿了山ト云僧堂舎ヲ再建ス 文禄三年九月三日圓譽光道本堂再建ノ棟札アリ 本尊阿彌陀ハ行基ノ作ニテ坐身長二尺五分此餘惠心作ノ彌陀像一軀を置 撞鐘 古鐘ナリシカ文政三年改鑄スト云 不動堂 弘法大師作ノ立像ヲ置 観音堂 西國札所第四番観音の寫と云 瀧 本堂の脇峽下ニアリ病者ツトイ来テ浴セリ」

慈眼堂(赤ちゃんの納骨堂)があり、「赤ちゃん寺」として知られています。


【写真 上(左)】 鐘楼門
【写真 下(右)】 参道

狭い路地から意外に長い参道がつづきます。
しばらく行くと鐘楼門。下を石積みのアーチにし、上に木造建築を構えるいわゆる「竜宮門」で、おそらく入母屋屋根桟瓦葺で水引虹梁を置いています。
軒裏の垂木はめずらしい扇垂木だと思います。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

正面が本堂。入母屋造本瓦様銅板葺流れ向拝の均整がとれた仏堂。
水引虹梁両端に獅子と貘の彫刻木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。
正面桟唐戸の上に「思惟山」の扁額。
本堂前には江戸時代の探検家近藤重蔵(守重)の甲冑姿の石像が鎮座します。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂上部

本堂向かって左の渓谷寄りには不動堂。
入母屋造桟瓦葺唐破風向拝で、水引虹梁両端に獅子彫刻の木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
唐破風の鬼板や兎毛通の仕上げも精緻で見応えがあります。
本堂右手の客殿や庫裡もしっとりと風情ある構えを見せています。

境内には不動尊の露仏が数座御座し、やはりお不動様とのゆかりがふかいお寺だと思います。
なお、「不動の滝」(泉流の滝)は現存していません。

『江戸名所図会』
「正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として硝壁に趨る、此境ハ常に蒼樹蓊欝として白日をさゝえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり」
境内はしっとりと落ち着いた雰囲気があり、↑で描写された面影をいまも遺しています。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。書置はなく、ご住職ご不在の場合もあるので事前TELがベターかもしれません。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第11番の御朱印
【下(右)】 御本尊の御朱印

中央に六字御名号「南無阿彌陀佛」の揮毫と三寶印とその左横に「滝野川寺院めぐり第十四番寺」の札所印。左上に印判(不明)。
左上には「瀧不動」の揮毫、左下には院号の揮毫と寺院印が捺されています。
御本尊の御朱印には「滝野川寺院めぐり第十四番寺」の札所印がなく、上野王子駒込辺三十三観音霊場第4番(「西國四番寫」の札所印)の札所印が捺されていました。


第15番
瀧河山 松橋院 金剛寺


北区滝野川3-88-17
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
豊島八十八ヶ所霊場第43番、荒川辺八十八ヶ所霊場第16番、北豊島三十三観音霊場第31番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第28番、弁財天百社参り第52番、豊島六地蔵霊場第4番

第15番は、真言宗豊山派の金剛寺です。

第14番正受院から第16番結願の寿徳寺までは滝野川に沿うかたちで立地し、ひときわ風情のあるところです。
このあたりは江戸時代から紅葉の名所で、とくに金剛寺は「もみじ寺」の別称があります。


【写真 上(左)】 滝野川の紅葉-1
【写真 下(右)】 滝野川の紅葉-2

滝野川沿いの遊歩道脇には、音無さくら緑地音無もみじ緑地があり、音無さくら緑地では旧石神井川の流路跡、音無もみじ緑地ではかつての江戸の名所であった松橋辨財天周辺の様子をしのぶことができます。


【写真 下(右)】 音無もみじ緑地

『滝野川寺院めぐり案内』によると、金剛寺は弘法大師が東国巡錫の折、石神井川(滝野川)にさしかかり、対岸へ渡る橋がなかったため川岸の松を切り倒して一本橋(松橋)を渡され、その際にその松の木で不動明王の尊像一躯を彫られて石上に安置されたのが草創とされています。

治承四年(1180年)10月、伊豆国で挙兵し、石橋山での敗戦ののち安房に逃れて再挙を図られた源頼朝公は、府中の六所明神(大國魂神社)へ向かう途中、滝野川松橋に布陣し、東方千住方面からの敵をここで迎え撃ち大勝利を収めたとされます。
その折、頼朝公は金剛寺に戦勝祈願したことから寄進など寺の興隆に尽くしたとされます。

一時荒廃したものの、天文年間(1532-1555年)に阿闍梨宥印が北条氏康の賛意を得て再興。
江戸時代には、八代将軍吉宗公が滝野川流域に紅葉の植林を奨励したこともあって、江戸近郊を代表する紅葉の名所となり、金剛寺は「もみじ寺」と呼ばれて秋の庶民の参詣・行楽の場として広く親しまれました。
その様子は広重の『名所江戸百景』や『東都名所』など多くの錦絵に描かれています。
また、金剛寺一帯は、豊島氏支族滝野川氏の居館滝野川城跡ともいわれています。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号17/114)に以下の記述があります。
「新義真言宗田端村與楽寺門徒 瀧河山松橋院ト号ス 本尊不動ハ坐像ニテ長一尺餘弘法大師ノ作ト云 縁起の●ニ當所ハ弘法大師達遊歴ノ古蹟ニシテ 其頃手ツカラ此像ヲ彫刻アリテ假ニ石上ニ安ス 今其石ヲ不動影向石ト称シテ境内ニ現存シ 疾病ノモノ此石ニ水ヲソソキテ其水を服スレハ立所ニ平癒スト云 又治承年中右大将頼朝境内辨財天信仰ノ餘リ堂舎建立 及ヒ田園ヲモ寄附アリシニ 其後兵火ニ焼レ強盗ニ田園を掠メ奪ハレ 宗門タニ定カナリシヲ、天文ノ頃阿闍梨宥印ト云僧是ヲ歎キ 北條氏康ヘ訴ヘ永ク眞言ノ道場ニ復スト云 影向石 三箇ノ石ヲ重置 是縁起ニ云ヘル不動ノ像ヲ安置セル處ナリ 辨財天社 弘法大師作坐身長七寸ノ像ヲ安シ 別ニ護摩ノ灰ニテ作レル像ヲモ置リ 地蔵堂 大黒天 本堂ノ後ノ方岩窟ノ中ニ安置ス」

「辨財天 峽下ノ洞中ニ安ス長一尺ノ石像ニテ松橋辨天ト号ス 弘法大師ノ作 當時此地ニ松橋ト云橋アリシ故地名ヲオハセテ唱トイヘリ 松橋ノ名ハ前ニ云ル如ク源平盛衰記ニ見エテ舊キ地名ナリ 治承ノ頃頼朝此辨天ヲ帰依ノ餘リ太刀ヲ寄附アリシ由縁起ニ載タレト今是ヲ失ナヘリ 洞中ニ文保三年三月ト彫タル古碑一基アリ 恵比須毘沙門石像紫の楓 紅葉ノ秋紫色ヲ帶ル故此名アリ」


【写真 上(左)】 旧松橋辨財天周辺
【写真 下(右)】 江戸名所図絵(松橋辨財天窟)

〔松橋辨財天〕
金剛寺は辨天様ともゆかりのふかいお寺です。
かつての滝野川は金剛寺付近で蛇行しており、その崖には辨天の滝がかかり、崖下にあった洞窟には辨財天が祀られていました。
この辨天様は弘法大師の御作ともいわれ、松橋辨天または岩屋辨天と呼ばれて信仰を集めました。
この辨天様は、源頼朝公が戦勝を祈願し太刀一振を奉納し、戦勝ののちに辨財天の堂舎を建立、田園の寄進をしたとも伝えられています。

滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』で犬塚信乃の母手束が子授けを祈った「滝野川なる岩屋殿」と記した岩屋がこの松橋辨天とされています。

辨天の滝は昭和初期に枯れ、昭和33年(1958年)の狩野川台風で辨天様の洞窟は崩壊し、一部は昭和50年(1975年)前後まで残っていたようですが、その後の護岸工事や流路改修の際に取り壊され、現在は音無もみじ緑地となっています。

現地の案内版より引用抜粋してみます。
「『江戸名所図絵』には『この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。』」「崖下の岩屋の中には弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。また、現在都営住宅が建っている付近の崖に瀧があり、弁天の滝と呼ばれていました。」

『新編武蔵風土記稿』によると、崖下洞窟内の「松橋辨財天(岩屋辨財天)」/弘法大師作長一尺ノ石像とは別に、金剛寺境内(崖上)にも「弘法大師作坐身長七寸ノ辨天像」が安置されていた様ですが、詳細はよくわかりません。
ただし、松橋辨天の崖下洞窟も金剛寺の領地内であったようなので、金剛寺=松橋辨天と捉えられていたのでは。
松橋辨天は江戸市内でもよく知られており、江戸三十三ヶ所弁財天霊場、弁財天百社参りの札所となっています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 紅葉寺の寺号標


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 西國霊場札所標

江戸時代からの行楽地とあって、金剛寺周辺はいまでも華やいだ雰囲気が感じられます。
入母屋造桟瓦葺の薬医門。扁額は「瀧河山」。頭貫部梁先の雲形木鼻がダイナミック。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 修行大師像と本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

参道正面、階段の上に本堂向拝。
入母屋造本瓦様銅板葺流れ向拝。向かって左手手前に修行大師が御座します。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、身舎側に海老虹梁と手挟、中備に本蟇股を配しています。
正面桟唐戸の上に「金剛寺」の扁額。
虹梁に金色の彫刻を置いた、名刹らしい堂々たる向拝です。


【写真 上(左)】 辨天堂
【写真 下(右)】 辨天堂扁額

本堂向かって右手に宝形造銅板葺の辨天堂と坐像の地蔵尊が御座します。
弁天堂の御本尊は松橋辨天の系譜を引かれるお像でしょうか。
手入れの行き届いた境内で、落ち着いて参拝ができます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 滝野川七福神

御朱印は本堂向かって左手の庫裡(客殿?)にて、ご丁寧なご対応をいただき拝受しました。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第15番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所霊場第43番の御朱印

中央に「本尊 不動明王」の揮毫と御本尊不動明王の種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「滝野川寺院めぐり第十五番寺」と「滝野川七福神創設元文二年」の印判。左上に「豊島八十八ヶ所第四十三番」と「もみじ」の印判。左下に「岩窟辨天」の印判。
左下に寺号の印判と寺院印が捺されています。
豊島霊場の御朱印には「滝野川寺院めぐり第十五番寺」の印判がなく、印判の位置も若干異なります。

「松橋辨天」の御朱印については伺っていませんが、Web上で見当たらないこと、既存の御朱印に「岩窟辨天」の印判があることから、おそらくは授与されていないと思います。
なお、「滝野川七福神」は、金剛寺境内に祀られている七福神をさすようです。


第16番
南照山 観音院 寿徳寺


北区滝野川4-22-1
真言宗豊山派
御本尊:聖観世音菩薩
豊島八十八ヶ所霊場第12番、荒川辺八十八ヶ所霊場第17番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第12番、大東京百観音霊場第80番、北豊島三十三観音霊場第32番

ついに結願の16番。真言宗豊山派の寿徳寺です。
金剛寺とは反対側の滝野川の左岸にあります。


【写真 上(左)】 川沿いの遊歩道
【写真 下(右)】 滝野川橋

金剛寺から寿徳寺への順路には音無もみじ緑地があり、滝野川沿いの遊歩道の紅葉も綺麗で、歩いていて楽しいところです。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標

『滝野川寺院めぐり案内』によると、寿徳寺は寿永年間(1182-1185年)、梶原氏の家臣であった早船・小宮の両氏が梶原氏と不和になり落ち延びる途中で、海中から拾いあげた観世音菩薩を滝野川の北岸沿いの堂山の地に小堂を設け安置したのが創建と伝わります。

本尊は谷津子育観音と親しまれ、新撰組の近藤勇、および隊士の菩提寺としても知られています。
境外地には谷津大観音、近藤勇の墓所(JR埼京線「板橋」駅前)があります。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号17/114)に以下の記述があります。
なお、『新編武蔵風土記稿』の「寿福寺」は誤植です。
「新義真言宗田端村東覺寺門徒、南照山観音院ト号ス 本尊子安観音」


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 近藤勇の碑


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 西國霊場札所碑

住宅地のなか、ぽっかりと開けた一角に立地し、境内も広々としています。
門外左手に不動堂。境内左手に修行大師像が御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜め右からの本堂

正面に昭和41年(1966年)落慶の本堂。
両脇に仁王尊像を置いた石段の上に、アーチ形の屋根をもつ独特なつくりの朱色の建物。
正面向拝部に「南照山」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

寺伝によると、秘仏の御本尊、谷津観音は蓮華座に坐り、両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結んでおられるそうです。

本堂の向かって右にある護摩堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁と向拝柱を備え、これは以前の本堂とのこと。


【写真 上(左)】 旧本堂(護摩堂)
【写真 下(右)】 乳が垂れている銀杏

境内に切株から芽吹いている銀杏は、かつては巨木で、この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出るようになるという信仰がありました。
正岡子規の高弟として知られる俳人、河東 碧梧桐の句
- 秋立つや子安詣での花の束 -
が残されており、明治に入っても谷津観音への子安詣では盛んであったことがうかがわれます。

山内には、独特の雰囲気を放つインド仏も露座しています。


【写真 上(左)】 インド仏
【写真 下(右)】 滝野川と谷津大観音

谷津大観音は山内から少しくはなれた滝野川の河岸、観音橋のたもとに御座しています。
右手与願印、左手に蓮華をもたれるおだやかな表情の銅製の坐像です。

観音橋から寿徳寺に向かい登っていく坂を「観音の坂」といいます。
現地案内標には「観音橋の北から寿徳寺へ登る坂です。坂名は、坂上にある寿徳寺に谷津観音の名で知られる観音様がまつられているからです。江戸時代には大門通とも呼ばれていました。」とあります。(北区教育委員会)


【写真 上(左)】 観音橋と谷津大観音
【写真 下(右)】 谷津大観音

御朱印は本堂向かって右手奥の庫裡にて拝受しました。
ご丁寧なご対応をいただき、「滝野川十六番満願」の揮毫もいただきました。
やはり「滝野川寺院めぐり」の巡拝者は少ないとのことでした。


【上(左)】 滝野川寺院めぐり第16番(満願)の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所霊場第12番の御朱印

中央に御本尊聖観世音菩薩の種子「サ」・「子育 谷津観音」の揮毫と「谷津子育観音」の印判。右上に聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。左下に寺号の揮毫と寺院印。右に「滝野川十六番満願」の揮毫をいただきました。
豊島霊場の御朱印とは、札番の揮毫が異なります。

これで滝野川寺院めぐりは結願です。
北区の落ち着いた街区を巡るこの巡拝コース、札所構成も変化に富んでいて、知名度は低いですがおすすめだと思います。

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滝野川寺院めぐり-1(第1番~第6番)
滝野川寺院めぐり-2(第7番~第11番)
滝野川寺院めぐり-3(第12番~第16番)

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