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「桜もさよならも日本語」 その1 丸谷 才一

2015年12月16日 00時16分24秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 1、分かち書きはやめよう 

 十何年ぶりかで、小学校、中学校の国語教科書をまた一通り読んでみた。(前回の読後感『日本語のために』所収『国語教科書批判』。)すこしはよくなつた面もある。相変わらずの面もある。新しく生じた欠点もある。それに、批判する側のわたしが、前に見すごしたのに今度は気にかかることもある。さういふ問題点を書きつけてみよう。

 中略

 相変わらずのほうはいろいろあるが、一つだけあげれば、外国人名の表記に当たつて、世間の慣行どほりにナカグロ(・)を用ゐず、いまだに文部省内の書式にオベッカを使って二本棒(=)を入れてゐるのには驚いた。つまり、アンリ=ファーブルとかダニエル=デフォーとかやってゐるのである。国語教科書編纂の目的は、子供たちが将来、文部官僚になつたとき、まごつかないやうにすることなのだろうか。
 中略

 前には見すごして今度は気にかかったことの一つは、小学校一年、二年の教科書がすべて、分かち書きで書かれてゐることである。

 むかし むかし、ある ところに、おじいさんと おばあさんが いました。

 (中略)しかしわたしは、読ませるときは分かち書き、書かせるときはつづけ書きといふ二本立てはをかしいと思ふ。日本語は普通、分かち書きはしないのだから、その慣例を最初から教えるのが正しい。はじめに変な書き方を見せる法はなかろう。