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「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ その2 中村仁一

2015年12月04日 00時08分52秒 | 健康・老いについて
 「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ その2 中村仁一 講談社+α文庫 2013年

 本書は1994年刊行された「老いと死から逃げない生き方」を改題し、加筆・修正したものです。

 ピンピンコロリは推奨できない P-22

 生きものは、繁殖を終えたら死ぬ、これは「自然界の掟」です。その典型を、産卵を終えたらすぐに息絶える鮭や、花を咲かせ実を結んだら枯れる一年草に見ることができます。
 ところが、人間は、栄養状態や衛生環境の改善、衛生思想の普及や医学、薬学の発達により、繁殖後もウン十年生きるようになりました。
 いつ死んでも不思議のない身が、他の生きもののいのちを奪って生かされているわけですから、果たさなくてはいけない役目があるはずです。
 わたしは、それには二つあるのではないかと考えています。
 一つは、年をとるとあちこち具合が悪くなりますが、それらと上手に折り合いをつけながら生きてみせること、つまり老いる姿を見せること。
 もう一つは、できるだけ自然に死ぬことで「死にゆく姿」を見せること。
 これらにより、後続の者に安心感を与えることができるのです。つまり、うちのじいさんは具合が悪いといいながらも、あんなふうに生きていたな、それならそんなに気にすることもないかとか、死ぬってあんなに安らかなのか、それならそんなにこわがることはないなというふうに。

 そこで、ピンピンコロリを考えてみましょう。ピンピンと元気でいて、コロッと死ぬわけですから、事前にどこの医者にも診てもらっていないはずです。(以下略)

 また、前述のように、死にゆく姿を見せるという大事な役割があるにもかかわらず、それを拒否しているわけです。ですから、これは、ケチの極みといってもいいすぎではないと思います。
 これにひきかえ、がんの場合は、理想的によきものと思っています。なぜなら、何の手出しもしない治療法を選べば(わたしは最後まで痛みにくるしまないと確信しているのですが)、じわじわと弱って、じっくりたっぷりと死にゆく姿を見せられ、最後の責が果たせると考えるからです。