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「桜もさよならも日本語」 その4 丸谷 才一 

2015年12月24日 00時15分01秒 | 日本語について
 「桜もさよならも日本語」 その4 丸谷 才一  新潮文庫 1989年(平成元年) 1986年刊行

 Ⅰ 国語教科書を読む  

 4、読書感想文は書かせるな

 前略

 読んだ本について何かを書かせようとするのは間違つてゐる。読書感想文を書けと強制してはならない。本を読むことをすすめ、あとはただ学校図書館におもしろい本をたくさん用意して置けばそれでいい。わたしはさう思ふ。
 たとへ話でゆかう。男の子が十八人ゐるとき、これから二つのチームで野球をしようと提案すれば、みんな大喜びするはずだ。しかし、試合の経過をあとでめいめい作文に書くといふ義務を付け加へれば、一人残らずゲンナリするにちがひない。読後感を書かせるのはこれとまったく同じことで、読書から喜びを奪ふ。ところが彼らにまづ教へなければならないのは、快楽としての読書なのである。
 本はおもしろいものだといふことを体験させること、本を読む癖をつけること、それが大事だ。その味を覚えさへすればしめたもので、彼らは将来、西洋十九世紀の長編小説も、天文学も、ケインズ理論も、コンピューターの本も、読むやうになるかもしれない。読書感想文を無理やり書かせることでその可能性をつぶしてしまふのは、教育者として正しい態度ではない。
 読書感想文といふのは一種の書評である。そして書評がどんなにむづかしいかは、海千山千の文筆業者がさんざん苦労して、なかなかうまく書けないのを見てもわかる。一冊の本といふ厖大で複雑なものを短い文章で紹介し論評するのは、郵便切手の裏に町全体の地図を書くくらゐ大変なのである。そんな芸当を子供に強制することは、角兵衛獅子の親方だつてしなかった。