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秋の山間地域を訪ねて

2005-11-22 05:19:01 | 旅行
 朝7時前に出て訪問先に着いたのは、10時30分過ぎだった。
 私鉄で1時間ほど乗って、JRに乗り換えた。車両は新しいが、各駅停車なので駅ごとに停車時間があって、のんびりした感じであった。車窓からは遠くのブルーの山脈の稜線を、近くに山が迫ったり田んぼが開けているを見ていた。だんだん山に入って上り勾配を走っていた。山は杉がおおっているので、緑であった。ちょっと視野が開けたところには、瓦葺の重量感のある家ばかりであった。
 本線となっているが、途中で乗換えが必要だった。1日1本の急行に乗り換えたら、単線であった。2両編成の列車は、立っている人がいるほどだった。年配の人が多かった。いっそう深い山は、杉が少なくなりちらほら紅葉が始まっていた。乗り換えたところからは山をぬうように走ったら、盆地の地形に街並みのしっかりしたところに着いた。城があり歴史的にも由緒ある街であった。
 目指す駅は急行が止まらないので、そこからタクシーに乗り換え、着いたところは県境の地だった。蒸気機関車の時代には、列車の本数が多く人が行き交い、貨物列車も多かっただろうと想像してみた。
 旧の村唯一の保育園についたが、周りには家は点在していたが人の姿がなく静かであった。保育園での子どもたちの声が、静けさとのコントラストをなすようなにぎわいに感じたのだった。
 村が去年の11月に合併して市となった。旧村役場、銀行があり町並みが整っていたが、人どおりはなかった。鉄道によるアクセス条件は貴重だが、現代的生活や仕事のペースに合わせるために、多くに人は車を利用しているようであった。
 

 次の日も、やはり山間地域へ向かった。私鉄からJRに乗り換えて下車し、そこからバスに乗った。山間の道路をぬうように走り続けたが、紅葉が始まっていた。昔からの暮らしてきた家々と、色づきはじめた木々は風情があった。
 着いたところは大正村と銘打って、その時代の建物や暮らしを保存して観光資源にしているのである。そこらかまた電車に乗った。JRから第3セクターになって、20年とのことであった。山間のカーブの多い線路を、トコトコと走ってゆくワンマン電車は趣があるものであった。
 降りた駅の広場には、人が誰も見当たらなかった。昔のままの駅前の倉庫に「家の光」の鉄板の看板が貼り付けてあり、時間が止まっているようであった。そこから30分歩いたら、小高い丘にある保育園にたどり着いた。時計は11時半を回っていた。4時間半を越えていたので、はるばる遠くへ来たという実感をもったのだった。
 ちょうど園庭で焼き芋をしていた。モミガラを使った本格的なやり方で、煙が高く立ち上り、そのにおいがなつかしかった。小春日和の陽射しが注ぐなか、子どもたちの歓声が幸せな世界いざなってくれているようであった。周囲の紅葉をみて、目を前方に転じれば集落が一望できるロケーションもすてきだ。それに保育園の周辺がマレットゴルフ場になっており、それを楽しんでいる人たちもいた。
 そこの町は6つの保育園を合併して、10年前に1つの園にした。そのためバス2台で送迎をしている。園舎は相当力を入れて造ったようで、遊戯室は体育館のようで、園庭は60から70メートルのトラックがゆうに取れるほど広かった。
 冬は気温がマイナスになる日が多く、そうとう寒いとのことだった。その気候もあって糸寒天づくりが産業とのことであった。去年10月に、6つの市町村が合併して市になった。

 わたしは山間地域を訪ねるのが好きだ。木に関心があることと、そこの建物や自然を見ては、昔からの生活を想像する。里山のなつかしさに出会えるし、日常のあわただしさから解放される思いになることもいい。
 もともと山の多い日本は、山が霊山として信仰の対象であり、林業や山の幸をもとにしたの暮らしがあった。しかも山の自然が水資源に象徴されるように、都市の暮らしを支えているのである。しかし近代文明が、山の暮らしの衰退させてきた。それは国土そのものを荒廃させることになる。
 山間地は、消費などが不便ながらも自然のめぐみにあずかり、それとの折り合いをつけながら長い間暮らしを営んできた。木材や食料が海外に依存し、経済の市場原理優先とクローバル化が進み、あわただしい暮らしを突き進んでいる。そんな文明や社会のあり方を、実感をともなって考えさせられる機会になたのだった。

*これは11月9日、10日のことです。
*マレットゴルフとは、用具はゲートボールと同じものを使用します。パターゴルフとは違うのです。


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