『暮らしの手帖』の新聞広告が久しぶりに目に留まった。29日の『朝日』の4面下段の大きな枠で「暮らしの手帖83号 増刷しました。」ということだ。品切れで増刷するとのこと。NHKドラマ「とと姉ちゃん」の『あなたの暮らし』の好調ぶりと並行しているではないか。ドラマは『暮らしの手帖』の創刊者をモチーフにしているで、その効果である。
ドラマの時代は、今は昭和31年(1956年)として、普及しつつある家電製品の商品テストである。最初はトースターを扱い、今はアイロンである。雑誌創刊は戦後5~6年(?)たった頃で、空襲で焼け野原になった街が復興させながら、食内容と生活様式が欧米の近代様式を取り入れようとしていた時代である。
『暮らしの手帖』は、ぼくにとっては小学高学年から中学生頃の母を思い起こす雑誌だ。記憶では、当時珍しいA版で分厚く写真とイラストが多かった。とくにぼくにとってはレタリング文字が気に入っていた。中高校生の授業時間に様々な文字を書いていた。その後レタリングという文字を書く専門分野がるということを知った。
わが家は3万人余りの市へ汽車で1時間ぐらいの田舎に住んでいた。市に住んでいた父の兄弟の家が『暮らしの手帖』の読者で、母に内容など紹介していた。母はバックナンバーを譲り受けて、ぼくの姉や自分の妹と内容を語り合っていた。ぼくが母のことで集約している記憶では、「都会に住んでいる月給取りの、選んだり工夫できる余裕のある人のことで、家みたいに子どもが多くて精いっぱいの暮らしじゃできない」とうらやましさも含めた言葉だ。母の妹は部分的に取り入れていたようだ。しかし母はよく読んでいて、考え方は影響を受けていたと思う。
50年代後半の頃梅干しが着色したものが出回るようになったとき「着色してきれいになってるが、からだに大丈夫か」ということをつぶやくように言っていた。保存料にも懐疑的だった。生活の質をよくしようという発想は持っていた。母は新聞を毎日丁寧に読んでいた。ぼくの姉は『婦人公論』と『新女苑』の読者で、それを母も読んでいて、小学高学年のぼくも時にはエッセイなどの記事にも目を通していた。田舎のおませな小学生だった。
時代は、近代化、工業化、サラリーマンが増えて専業主婦という今日の家庭像がつくられていった時だ。
ぼくは『暮らしの手帖』を読んで生活の質を考える暮らしは果たせなかった。
*戦後まもなくは紙がなく『改造』といった総合雑誌が発行できなかった。というとき『新生』という雑誌だけは発行できた。数年間だったようだが、当時食べ物に困っていた時代に『新生』には文学全集に名を連ねる名だたる作家のエッセイを掲載していた。その雑誌を作っていたのが青山虎之助である。今は亡き氏とは、ある時期に言葉を交わせる環境にあった。なぜ氏が雑誌づくりをできたか、高名な作家の暮らしのエピソードなどを聞いたことがある。
ドラマの時代は、今は昭和31年(1956年)として、普及しつつある家電製品の商品テストである。最初はトースターを扱い、今はアイロンである。雑誌創刊は戦後5~6年(?)たった頃で、空襲で焼け野原になった街が復興させながら、食内容と生活様式が欧米の近代様式を取り入れようとしていた時代である。
『暮らしの手帖』は、ぼくにとっては小学高学年から中学生頃の母を思い起こす雑誌だ。記憶では、当時珍しいA版で分厚く写真とイラストが多かった。とくにぼくにとってはレタリング文字が気に入っていた。中高校生の授業時間に様々な文字を書いていた。その後レタリングという文字を書く専門分野がるということを知った。
わが家は3万人余りの市へ汽車で1時間ぐらいの田舎に住んでいた。市に住んでいた父の兄弟の家が『暮らしの手帖』の読者で、母に内容など紹介していた。母はバックナンバーを譲り受けて、ぼくの姉や自分の妹と内容を語り合っていた。ぼくが母のことで集約している記憶では、「都会に住んでいる月給取りの、選んだり工夫できる余裕のある人のことで、家みたいに子どもが多くて精いっぱいの暮らしじゃできない」とうらやましさも含めた言葉だ。母の妹は部分的に取り入れていたようだ。しかし母はよく読んでいて、考え方は影響を受けていたと思う。
50年代後半の頃梅干しが着色したものが出回るようになったとき「着色してきれいになってるが、からだに大丈夫か」ということをつぶやくように言っていた。保存料にも懐疑的だった。生活の質をよくしようという発想は持っていた。母は新聞を毎日丁寧に読んでいた。ぼくの姉は『婦人公論』と『新女苑』の読者で、それを母も読んでいて、小学高学年のぼくも時にはエッセイなどの記事にも目を通していた。田舎のおませな小学生だった。
時代は、近代化、工業化、サラリーマンが増えて専業主婦という今日の家庭像がつくられていった時だ。
ぼくは『暮らしの手帖』を読んで生活の質を考える暮らしは果たせなかった。
*戦後まもなくは紙がなく『改造』といった総合雑誌が発行できなかった。というとき『新生』という雑誌だけは発行できた。数年間だったようだが、当時食べ物に困っていた時代に『新生』には文学全集に名を連ねる名だたる作家のエッセイを掲載していた。その雑誌を作っていたのが青山虎之助である。今は亡き氏とは、ある時期に言葉を交わせる環境にあった。なぜ氏が雑誌づくりをできたか、高名な作家の暮らしのエピソードなどを聞いたことがある。