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絵本と児童文学

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封殺の言葉、核心をそらす言葉、期待させる言葉

2013-01-11 10:49:59 | 生活・教育・文化・社会
 前政権の閣僚は、言葉によって問責される、あるいは辞任をした人が多かった。公人である政治家の言葉は重たいものだが、言葉尻をつかむ揚げ足取りをする、つまり片言隻句を問題にし、内容に立ち入らないのが多かった。一般社会でこの状態になったら、憎悪や為にする行為であり、関係修復は困難とみられる。
 野党の立場に不本意感を政争にしてぶつけ、政権弱体化の手段にしていたためとみていた。政権党は言質を取られまいと無難に話すことになり、政策論争にならず、政治の渋滞が続いた。やがて「決められない政治」とレッテルが貼られた原因の一部になった。

 さて、自民党はこの言葉の使い分けをやっているようだ。まず「封殺言葉」である。
 野党時代、子ども手当てや高校無償化などを「ばらまき」と揶揄した。これは「新しい公共」の具体的施策なはずだった。また解散を迫るのに応えて「近い将来」としたのを、「近いうちに」と言いかえを求め、やがて解散時期の明示を迫り「つそつき」とした。
 石原環境大臣は、記者会見で前政権が温暖化ガス排出量25%としていたのを「あほ」といってのけた。首相は前政権の予算を「水ぶくれ」と言い放った。
 これらの言葉は一般的には汚い言葉として戒められる。政治家という公人が使う言葉としては、品がないだけでなく内容が生み出されない相手を封殺する言葉である。このような言葉が公的場でとんとん出てくるのは、異質なものを侮蔑する感性が露呈したと思われる。もし前政権がこのようは言い方をしたら、自民党は大騒ぎをしただろう。
 このような封殺する言葉は、大衆に入りやすいので実態と関係なくレッテルとなり扇動する言葉にもなる。扇動する言葉は、内容がないだけに蔑みながら自己を優位にしようとする人の力になる。

 次にエネルギー政策については、もともと全エンルギーの30%だった原発を、今後どうするかということを「ベストミックス」とした。3年かけてエネルギーのあり方を考えて選択するということだ。一見もっとものようだが、焦眉となっている原発について争点化しない言葉となった。
 そればかり再稼動や新設の構想もあることを隠していたのだ。核心をそらし選挙を切り抜ける言葉だった。

 選挙を、経済、景気浮揚を主要政策と掲げた。その言葉として「アベノミクス」という造語をしたためて景気の高揚感を演出している。株価の上昇、円安と動いてあたかも景気回復が始まったかのような錯覚に陥りがちだ。
 造語は、その意味がわからないだけに理解しようとして誰もが接近するものだ。なんと言うことない、安倍の「アベ」と経済学の「エコノミクス」を接続させ「アベノミクス」なのだ。これはアメリカの「レーガンミクス」「オバマノミクス」としていたのを拝借したのだ。
 「アベノミクス」は金融緩和、公共事業、新しい産業と市場を作る、という3をやるというのだがから、金融と経済に関してすべてやるということだ。金融は反応しやすいので変化が出ている。公共事業に大幅な財政をつぎ込むということだ。民主党が財政規律政策ととり、自民党が財政出動により、結果として大きな政府という不思議なことがおきている。
 参院選挙まで景気浮揚間を作りたい、来年度から消費増税のできる状況にしたい、ということだろうが、多額の赤字国債たよりなので、消費増税の財権がはたして社会保障費に当てられるか疑問がわいてくる。
 それでも税金を国民に再配分をする政策より、公共事業にばらまく方が期待感を持たれるというのだろう。

1.5億円のマグロは、景気浮揚の旗振りか

2013-01-07 21:00:18 | 生活・教育・文化・社会
 5日(土)の築地の初競りで、マグロの最高落札額が1.5億円だった。競り落とした業者は去年に引き続きなので、話題性や宣伝性などの効果をねらってではないか、と憶測を呼んでいる。
 メディア媒体の露出度はたいしたものだし、マグロ自体の評価で値を付けたとは誰も思わないほどの法外な値であり、クレージーといってもよいだろう。

 憶測ついでにもう一つ。きょうの新聞の首相動静になんと1.5億円で落札した業者の社長が、きのう6日の13時30分から55分の25分間首相宅を訪問している。自宅での面談であっても、首相は公人だから動静に載る。自宅で受け入れて25分も時間をとるということは、かねてからの知り合いなのだろう。
 そこでわたしはひらめいたのだ。落札の社長は、安倍の熱烈な支持者で景気浮揚への取り組みへの旗振り効果、あるいは景気のよさの証の一つにでもなれば、という思いがあったかもしれない。
 社長としては首相就任へのご祝儀を天下に明らかにできたわけだから、政治献金より愉快なことではないか。首相が25分時間をとるのはたいしたもてなしなので、さて、どんな話が弾んだのだろうか。

審判という重責と誇りとトレーニング

2013-01-06 20:55:32 | サッカー
 審判に関しては、5日(土)のNHK「サッタデースポーツ」で天皇杯の笛を吹いた審判についてのエピソードと主審をする構えについて報道していた。
 氏はウズベキスタンであった国際試合でゴールに対する誤審をして、国際審判の資格を剥奪されたという。そんな過去があるがゆえに、その後日本の試合で笛を吹きながら技術向上に努めたため、天皇杯決勝という国内の最高水準の試合が任されるに至った。氏は汚名返上のために励み、それがかなえられたことをたんたんと語っていた。
 審判は試合に対する責任があるだけに過ちにはペナルティーを科されるし、日頃は誇り高い職責であり尊敬をされる仕事である。
 また、公式戦では審判以外に試合の運営責任者を複数人配置し、試合の進行に責任を持つ。Jリーグでは、サッカー協会が審判に対する評価をしている。
 なお、日本の審判は、講習会を課しライセンス制にしている。1級が最高位でアマチュアの試合でも重要な試合は1級審判(12年は173人)がおこなう。審判を職業(プロと認めて協会所属とする)としている人はわずか数名で、Jリーグの試合でも多くは他に職業を持っている人がおこなう。
 日本の協会は、審判の技術向上のためJリーグ開始から数年間はヨーロッパの審判を招聘して試合の主審をおこなってもらい、合わせて日本の審判の技術向上の研修で指導的仕事を依頼していた。

 今日では日本の審判のレベルはFIHAにも認められ、国際審判が数名いるようになり、前回のW杯では3位決定戦の主審を務めたほど高水準になっている。
 なお、日韓W杯までは国際的地域別に派遣された審判によって、試合をおこなっていた。しかしそれ以降は、W杯の審判候補者を長期間研修しから条件を満たした人を選抜し、その審判によって試合をおこなうことになった。以前は残念ながら審判が試合に手心を加えているのではないか、と思われる判定をする審判もみられた。
 日韓大会のときは、南米の審判が主審をしたある試合では、一方の国を利するような判定が多かった。わたしは韓国会場であったその試合をテレビで見たが、疑問に思ったのだった。一般週刊誌でその試合と審判について、不正がおこなわれたと記事になっていた。サッカーの専門誌では、試合内容意外は事件にならなければ記事にはしない。国際的に見ると審判もかかわった八百長試合はないわけではない。そのように事件になった場合、厳しく処分される。

 なお、サッカー協会はサッカー普及の意味も含めて都道府県の協会が主催して審判養成をしている。4級から始まるが、これは大勢が一斉に1日の講習会により実技とレクチャーと筆記試験を行い認定される。3級は、10試合ほどの審判を義務付けた上講習会を行い認定される。3級までは多くの人が取得できるが、2級はある期間講習会を受けて公式戦の試合の審判をおこなう義務が生じる。
 余談ではあるが、わたしはかつて小、中学生のサッカークラブを15年間主宰していたので、3級審判を取得した。審判は、体験的に相当難しい仕事だと認識しており、わたしの場合適性が弱いと思っている。子どもの試合の審判であっても試合終了後自責の念を持つし、大人の試合は選手経験がないせいか、とても難しくて振り返ると赤面の思いである。

*サッカー協会にプロと国際審判登録されている人数は次のとおり。
 プロ審判      主審 10人
           副審  3人
 国際審判      主審  7人
           副審  9人
   (サッカーマガジン13.2.12号 ベースポール・マガジン社より)2-2追記
 

物語でよい、高校サッカー誤審問題

2013-01-03 17:45:31 | サッカー
 10年前の高校サッカー選手権出場をかけた岡山の決勝、水島工と作陽戦は1-1で延長戦の上PKとなり、水島工がPK戦を制して全国大会に出場した。
 この試合で延長戦の前半作陽のゴールがポストにはね返されたので、審判はゴールを認めず試合は続行された。
 試合終了後から、作陽のシュートがゴールインしたのに審判が認めなかったとして、あたかも水島工の全国大会出場が不正行為かのような理解が広がった。
 そんな世論のため作陽には不満が残り、水島工は肩身の狭い全国大会出場となった。水島工の主力選手が出場しなという事態も起こした。
 これは両チームにとって不幸のようだが、サッカーの審判の判定は絶対であり、誤審であっても判定に従うのが世界標準である。作陽は、PK戦に勝利して全国大会は出場する機会もあったのだ。

 もっとも不幸なことは、審判の死角によるもの判定をあたかも恣意的判定によるかのような世論になったことである。これは全国大会を逃した側の高校の動きによってつくられたのは、容易に推測できる。県サッカー協会や当該高校などは、生徒に対する教育的配慮としては、審判の判定に従うのがサッカーというスポーツなのだ、という認識をさせるべきだったのではないか。
 その後この判定について、サッカー協会は誤審と認めた。これはあくまでの審判のレベルアップのためであり、勝敗についての見解ではない。

 サッカーの審判の絶対性が揺らいだら、サッカーという競技の成立が危うくなる。ボデイコンタクト等のファルの判定によって、フリーキックの判断をする、あるいはペナルティーエリアではPKという判定をする、といったことは得点を得るチャンスに近づく。あるいはレッドカードで退場という判定も試合を大きく左右をするものだ。
 サッカーはプレーが常に静止しないインタバルのないのが基本で、アナルログなスポーツである。選手の転倒等により静止した場合はアンジェリータイムになるし、選手がプレー開始を故意に遅らせていると審判が判断すると遅延行為としてファルとなる。判定の厳密さだけを追及したら、サッカーというスポーツの精神性や文化性を損なうことになるだろう。プレーが途切れないことが基本なので、写真判定などはありえないのである。
 もっともゴールインかどうかの判定は、上級クラスの審判でも難しい時がある。判断ではなく、死角になるということがあるからだ。主審が死角になった場合、線審が補うのだが、オフサイドの判断を優先するので行き届かないことが多い。
 ゴールの判定に関してはかねてから問題になっており、ユーロ2012では、試行的にゴール審判を配置した。もう一つの試行は、12月上旬に日本でおこなわれたクラブワールドカップ(日本から開催国枠で広島が出場)では、ボールのなかにゴールインを感知するチップを入れ、主審の時計に伝えるようにした。
 国際試合でゴール審判等試みられるということは、これまでも各国のリーグ戦や国際試合でもゴールインの判定の誤審があったということが推測される。日本の最高レベルのJリーグだってこれまで誤審があったに違いがない。それでも勝敗に対して異議を申し立てが表面化することはない。審判はそのぐらい尊敬されなければならない。尊敬されるために審判は日頃からの研修と鍛錬に勤しんでいるものだ。
 
 さて、朝日新聞によると(12月13日)水島工と作陽の当時の選手同士のOB戦の試合をするという。両校のわだかまりを溶解させる意味でもある。
 10年前は、水島工の選手には「全国大会出場を辞退すべきではないか」という意見が多かったという。また全国大会では他の出場校から「よく出てこられたな」という言葉も浴びせられた。さらにひどいのは、ネットなどで作陽を励まし水島工を非難した。大会出場の新幹線に護衛がつき、宿泊先には校名を掲げなかったというから驚きだ。
 わたしはそのような事態になっていたことを知らなかったが、サッカーの理解が浅い日本の事情が明らかににったようで、衝撃を受けた。高校サッカーを、悲劇のヒーローをつくりあるいは正義と悪役という図式にしてしまい、およそサッカーというスポーツ理解から遠のかせてしまったのだ。
 また12月26日の新聞では、作陽の選手が「得点を認められない不条理」という立場であり、どうやら監督もその認識に立っていた。もっともそうでないと問題化しなかっただろう。監督が誤審に異議申し立てに関与することはあるだろうが、負を受け入れる指導をしなかっただろうことは残念なことだ。また県のサッカー協会や高校のサッカー関係者が、勝敗は審判の判定に従うということを確認し事態の収集を図るという方法もあっただろう。作陽が岡山県のサッカー名門校であるだけに、その発言力と関係がなかったのだろうか。
 15日におこなわれたOBの試合の様子を記事にしていたが「誤審のわだかまりが解放された」と結んでいる。しかしわだかまりをつくった悲劇高とした高校関係者や県のサッカー協会の対応のまずさを、教訓にすべきではないか。2つの記事とも清水記者であるが、主張でなく報道のせいもあるだろうが、作陽の立場を擁護するトーンであった。この件は、昔物語として懐かしむだけにしてもらいたいものだ。


 余談ではあるが、わたしはかつて小、中学生のサッカークラブを15年間主宰していたので、3級審判を取得した。審判は、体験的に相当難しい仕事だと認識しており、わたしの場合適性が弱いと思っている。子どもの試合の審判であっても試合終了後自責の念を持つし、大人の試合は選手経験がないせいか、とても難しくて振り返ると赤面の思いである。

新しい年に

2013-01-02 20:59:57 | 身辺のこと・自然
 新しい年、気分を新たにして迎えました。
 元旦の初日は雲かかったため、わずかあった隙間から見たにとどまりました。きょうは大きくて勢いよく上る紅く輝く日の出を愛でることができました。
 歩いて15分ぐらいのお寺の広場から、遠くに住宅という条件ながら日の出を見えるスポットを見つけました。
 今日は風が強く寒いながらも、晴れ渡った好天でした。街の人出は去年より多いようで、とくにデパートは混み合っていたようです。震災による自粛気分が和らいだのでしょうか。今年は松飾りをしている車が見当たりませんでした。車に松飾りをしなくなっているのでしょうか。
 いつもそれとなく耳に入っている近くの道路の車の音が聞えないので、静かです。テレビは正月用の番組で、わたしは興味が持てないので活字に追って時間が過ぎていきます。

 政争ばかりで政治が渋滞していたが、政権が変わり日本が一大転機を迎えている情勢で、座視できないところに来ているようです。
 さて、新年に当たって今年のことを新ためて考えてみることにします。