絵本と児童文学

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ポケモンと図鑑-知ることの喜びをはぐくむもの

2007-02-28 13:57:40 | 子どもからの発見
 海(6歳4カ月)は、あるときからポケモンに関する絵本を見ては、キャラクターの名前を唱えるようになった。グッズもいくつか集めている。「ポケットモンスター」(東京テレビ系、木曜日19時)は、欠かさず見るテレビ番組に加わった。
 いつごろからポケモンを知ったか聞いたら、
「クリスマスのちょっとまえから」
と答えが返ってきた。
 これはわたしの観察からしても正確である。6歳でこのぐらい時間(期間)感覚を理解できるとは、これまでのわたしの認識よりは早いようだ。

 ところでポケモンの絵本を没頭して見る時と他の図鑑などの時は、雰囲気が違う感じがする。ポケモンのときは、他を寄せ付けないよう熱中あるいは高揚ぶりとなる。国旗、動物や昆虫などの知識の本のときは、穏やかで楽しげである。
 ポケモンは、キャラクターを覚えることに際限なく、グッズの収集欲望をかき立てられる。欲望は強くなるが、達成感や満足感は得られない。得られないような仕組みにすることは商的には、市場を活性化させるために必要なことであるのだ。
 というわけでポケモン指向が高じれば、ゲーム、バーチャルリアリティーの世界、さてはキャラクターグッズなどにのめり込む傾向になるとわたしは考えている。この種の嗜好を否定するつもりはないが、こう断じれば、裏づけ(調査、実験等の)がないではないといわれる。
 かなり前の話だが、心理学の友人がフランスに留学したとき、かの国では日本のアニメはバイオレンス(暴力など)が多いと批判があり、放送中止になるケースがあると聞いた。心理学大国といってよいフランスでは、裏づけがどうのこうのということがないらしい。そういえば、タマゴッチはイタリア、イギリスなどのヨーロッパでは、発売と同時に大人気だったが、デジタル機器といえども生命を操作することはよくないとして、発売禁止になった。この辺は宗教という文化の違いもあるのだが。
 わたしは最近の凶悪事件の稚拙さと残酷さは、幼いときからの映像メディア(ゲーム等)の負の部分が反映されているのではないかと考えている。負の影響を受けやすい人がいるのではないかと。この考えも学問的には根拠がないと、簡単に葬られるだろう。それでは人間の意識に影響を及ぼす、そしてある社会現象を作るのではないか、くらいにしておこう。

 さて、国旗、動物や昆虫の図鑑は、知識が増えることが楽しげなので好感を持つ。さりとて大人の価値観でありがちな、勉強につながるよい知識と娯楽の悪い知識、という単純なよりわけをするつもりはない。
 どうも知識が体系的なものかそうでないかが、覚えることの満足感とさらなる知識欲につながるかどうかの、分かれ道のようである。知識の体系に欠かせないカテゴリーが重要な意味を持っている。
 哺乳類に人間があったとき、海はそうとう驚いた。哺乳類がさらにラクダなどを偶諦目といい、それにも馬やラクダといったいくつ種類(科)があることがおおよそ意識されている。海の利用している図鑑は、どうぶつ、こんちゅうといった分野(綱、類)に分かれて、次にグループ(目)、なかま(科)とカテゴリー化している。それぞれの生き物の大きさ、生息地域と場所の特徴などが記述されている。
 そのため馬のなかまというカテゴリーでも、大きさや生息しているところなど知りたがる。海(うみ)に魚類と、哺乳類である海獣がいることが分かったときも喜んだ。ペンギンが鳥であることも。そのことによって飛ばない鳥が他にいないか調べた。卵の大きさ比べにダチョウの卵があったことを思い出して、飛ばない鳥というカテゴリーでくくってみた。
 海を通して、知識の蓄積と総合化をしながら、知る喜びと知の発見をしていることを、目の当たりにしている。そんな子どもを見ることが、この上なくおもしろいのである。


NHKの千の風になって

2007-02-20 18:05:43 | 音楽
 千の風になってをめぐっては、NHKが様々な番組を作っている。今朝の「生活ホットモーニング」60分を組んだようだ。紅白がこの歌を広げたと自負していることにもよるだろう。
 17日(土)のBSハイビジョンでは、HV特集のアンコール放送の60分番組を途中から見た。日本に本で紹介(『千の風になって』講談社 03年発行)し、さらに絵本(『千の風になって』理論社 04年発行)を作り、歌も作ってうたっている新井満が話し終わったところからであった。
 断片の紹介になるが、新井満の歌をスーザン(アメリカ)という普通の女性(プロの歌い手でないという意味)がピアノに向かって歌ったが、これがかたりかけるような歌い方で味わい深かった。
 ネイティブアメリカンの人が、死者を木に葬り鳥がついばんで弔うという文化がある、というくだりがあった。その文化とこの詩は関係があるのではないか、ということだ。
 イギリスでは2つの曲が作られていて、ひとつの曲はアイルランドの子どもの合唱で歌っていた。もちろん曲の感じはまったく違うものであった。

2歳の子ども放置されて焼死が書類送検に

2007-02-19 16:31:54 | 子ども・子育て・保育
 1月2日のコラムに書いたが、2歳の子どもを自宅に放置してスノーボードにいって、18時間ぐらいたって帰ったら火災で焼死していたという事件があった。
 NHKラジオのニュースによると、保護責任者遺棄で書類送検になったと報じた。不在の間パンやおにぎりを置いていったが、コタツをひっくり返したことが火災になったという。
 刑事事件としては書類送検というのは、最も軽いものである。事情聴取を受けただろうが、交通事故の怪我をさせたぐらいの扱いである。
 2歳の子どもを、食べ物を置いていったといえども、子どもが現状維持をする留守はできるはずがない。なのに18時間も放置するのは、児童虐待防止法からするとネグレクトとあたると思われるが、わが子の保護を怠ったことによる焼死とみただけである。
 日本では、子どもを親とは独立した存在という人権観が弱いため、子どもの死であるのに、それがわが子の場合あまりには軽い処罰ですんでしまうのだ。

【追記】 3月27日      (時事通信社 - 03月27日 19:01)

 埼玉県和光市のアパートで昨年末、2歳男児が焼死した火災で、さいたま地検は27日、スノーボードに行って留守だった母親(24)を起訴猶予処分とした。埼玉県警は先月、母親を保護責任者遺棄の疑いで書類送検していた。

 同地検は、母親が食事を用意し、負傷するようなものを片付けていたことなどから、生じ得る危険性の程度は小さかったと判断。母親が男児を残して夜間に働きに出ていた火災発生までの半年間、男児にけががなかったことからも、男児に危険が及ぶとの母親の認識は薄かったとした。



科学と称する非科学

2007-02-18 17:30:29 | 生活・教育・文化・社会
 科学と称して非科学的なことを、この際あげてみることにする。

☆血液型性格診断

 血液型性格診断は、戦前優性思想を背景に学説が認知されたことがあったが、まったく根拠のない作り事のはずなのに、まことしやかに世間で流通して誤って承認されている。人間の性格が血液型の4つ分類されるほど単純でないことはすぐ分かるはずなのに、なぜか依然として信じている人が多い。
 しかも人との相性とか、幼稚園のグループ編成に使うなど、ばかばかしいことをまじめにやっているのである。


番組捏造その後

2007-02-17 17:21:07 | 生活・教育・文化・社会
 「あるある・・」の番組データー捏造問題は、総務省がこれまでの番組内容を報告させ、さらなる内部調査を求めている。その内容は公開されていない。
 限られた電波を所轄し使用を認可している省として、何らかの行政的関心を持つことは考えられるが、番組内容に対して問題にすることは、政治介入になることとして危惧する。ガス器具による事故に対して、経済産業省が行政指導をするのとまったく違う問題なのだ。メディアが、政府の風向きを気にすることが強くなるのに憂いを持つのである。
 民放といえども公共性を備えているので、番組制作と報道に見識を常にもたなければならない。「あるある・・・」についてはこれまでの捏造について、総務省以上に視聴者である人々に、謝罪の意味も含めて内容を開示すべきである。それが今後の番組制作に対して、襟を正して再スタートすることになるのではないのか。
 それをしないのは、メディア間の競争があるからであろう。目先のことでは他メディアにたたかれるが、大局的に考えると行政・政府の介入は全メディアを萎縮させ、報道の自由と民主主義を後退させるのである。
 さらに番組制作をして放送した関西テレビが問題になっているが、キー局であるフジテレビがどうして問題にされないのかが、わたしはその仕組みがわからないこともあって腑に落ちない。しかも関西テレビの下請けとして制作した会社(日本テレワーク)は、実質フジテレビ傘下であるのだ。

 バラでティー番組では、出演者が浅薄な自分をさらけだし、それをなじりあったりして笑いを取るようなものを、毎日のように茶の間に流している。限られた電波を使っている公共性が疑われるというもの。
 このところスピチュアルと言葉を変えて、聞くに堪えない妄想的話や占いおばさんに電波を提供しているのに、不気味さを感じているのである。メディアディラシーの弱い多くの人々への影響が大きいがゆえに、視聴率競争一辺倒に陥らない良質な番組制作を望みたい。

ぐりこえほん第4シリーズに

2007-02-16 11:17:28 | 生活・教育・文化・社会
■ ぐりこえほん

 グリコのおまけつきキャラメルのおまけは、現在は絵本である。ついに第4シリーズが始まった。ひとシリーズが18冊なので、コレクションをしている者として、けっこう負担である。
 食べないものを買うので、お金(1個121円)の負担感がある。もっともこの商品はおまけというが、おまけの絵本が主でキャラメル(5個)がおまけと思わなければ買う気になれない。
 そうとう買わなければ揃わないので、第3シリーズまで完全でない。第4が始まったとなると、もう追いつけないのですべてを揃えようという意欲が萎えてきている。

■ フィリピンからの介護福祉士受け入れ延期に

 フィリピンとの自由貿易協定(FTA)にもとづいて、看護師400人、介護福祉士600人を、4月から受け入れられるよう日本では法を制定した。
 ところがNHKのラジオ放送によると、フィリピンの国会は、アロヨ大統領がこの法案を提出しないで閉幕したという。したがってフィリピン側からすれば、看護と介護の日本への労働輸出は見送られたのである。
 その理由がラジオによると、日本の有害な産業廃棄物が大量にフィリピンに持ち込まれた事件があり、対日感情が悪化して国会ですんなり通る状況にないという判断をしたからだという。
 新年度から受け入れ予定していた施設もあっただろうし、とくに医療制度の改訂の影響で看護師の移動が大きく、病院によっては深刻な看護師不足にあるので、誤算になった病院もあっただろう。しかし早晩受け入れが始まるのである。
 たんねんに新聞を見ているが、このニュースの報道にめぐりあっていない。FTAにもとづいた労働者受け入れは、この分野のエポックとなる重要事項と思っているが。

千の風になって

2007-02-13 20:43:22 | 音楽
 秋川雅史の歌っている「千の風になって」が、ヒットチャート1位と先週のNHKラジオで耳に入った。紅白で歌ってから巷に行き渡ったそうだ。ちょうど楽譜が手に入ったのでわたしは覚えたばかりだった。その後有線で流しているせいか、食事をした店やスーパーでも聞いた。
 秋川雅史の歌い方は、楽譜で覚えたわたしのイメージとはちょっと違っていた。イタリア古典歌曲を歌うように、几帳面な歌いた方である。そんなに高くもない高音に、伸びがないし。新垣勉も歌っているが、これまた彼のほかの歌と同じように、淡々と声を聞かせるようとするような歌い方である。
 この歌が新井満の作詞作曲ということに驚いた。彼は作家(芥川賞受賞)としか思っていなかったので別人かなとしていたら、作詞作曲もするし電通でプロデューサーの仕事もしているとのことだ。
 新井満が歌っているものも街を歩いたら耳に入った。すべてをきちんと聞いたわけではないが、柔らかな歌いたかただった。他に聞いていないが、中島啓江もカバーしている。
 わたしがみるには、唱歌調というか叙情歌調といったメロディーで、歌詞は仏教思想の日本とは異質と思われる内容のものに関心が高くなることに、時代の空気を感じる。この歌は、とくに家族を失った人に勇気と希望を与えるという。
 この手の歌は、わたしも好感を持つほうなのだ。
 
 歌で世間の注目が集まっているが、04年の3月に『絵本 千の風になって』(新井満文 佐竹美保絵 理論社 1300円)が出版されている。
 英語で書かれた12行の詩が、作者不詳ながら欧米では知れ渡っているのだ。ニューヨークの9・11の02年の追悼集会で朗読されたり、あるいは数々の死を悼む集会などに朗読されたという。
 作者不詳のこの詩を、新井満はネイティブ・アメリカンの誰かが書いたのではないかと推理し、物語を作った。そして絵本に出版したのだった。絵本には歌も載っているので、2年余りへてからブレイクしたというわけである。
 

やっぱり春なのです

2007-02-12 17:16:15 | 身辺のこと・自然
 久しぶりにテニスをしたら、暖かく日差しも柔らかだった。例年だと立春が過ぎた今頃でも、寒いはずです。この時期は「♪春は名のみの~」と歌われているし、余寒や三寒四温、といった言葉もあります。今年は草木の生長も立春どおり春です。早春という言葉がぴったりの、例年とは異なる気候です。

 私は先週から花粉症の症状が現れ始めました。去年花粉量が少なかったため、珍しく病院にいかなくてしのいだのです。
 くしゃみ、鼻水ぐらいは体調不良ぐらいで生活しますが、目のかゆみがひどくなり鼻が乾いて痛みを感じる、さらに体がだるくなると病院にいきます。昔かかっていた遠くにある耳鼻科は、患部に薬を施したりして治るので、半日がかりでそこにいきます。

 さて、1軒おいて隣のアメリカ人のゴードンさんの家は、1月下旬に庭と家の装飾の模様替えをしました。
 それ以前のクリスマス以降は、生垣に雪のように白いものを施したり、作られた雪だるまをたくさん配置したり、開閉する木戸には下駄スケートまで飾っていました。本物の下駄スケートを見るのは、初めてでした。日本の古物店からでも手に入れたのでしょうか、珍しいものでした。
 今の装飾は、Happy Valentine’Day としてハートの形をしたものなどピンクや赤を基調にしたものです。門、木戸、生垣、それに玄関や家の窓など全体にわたってのものなので、大掛かりです。
 バレンタインデーといえば、現在のようにチョコレートをプレゼントするようにしかけたのが、56年に不二家だったとのことです。今年のこの商戦にもたくさん生産していただろうに、日の目を見ることができなくて、会社とフランチャイズ店としてはさぞ残念なことでしょう。
 昨日の朝日新聞記事の「チョコは世につれ-バレンタインデー半世紀」によると、時代とともに変わってきているとのこと。わたしがチョコレートを食べるようになったのは、80年代の義理チョコ時代からということがわかりました。
 義理チョコがなくなったので、自ら口に合っているビターチョコの85%ぐらいのものとを時には食べることがある程度です。

少子化対策政策の貧困の表現

2007-02-07 11:31:01 | 生活・教育・文化・社会
 柳沢厚労相大臣が、問題発言が真意でない旨仕事を通して明らかにしていくので、辞任せず大臣を継続する、と連日インタビューに答えている。その人柄の誠実さが伝わってくるのだが、いかんせん大蔵官僚出身で、金融・財政の専門家である。その分野での政策通として、政府の重要な役割を果たしたこともあった。
 今回は安倍自民党総裁誕生の中心だったことから、もっぱら論功行賞で大臣に位置づいたと見られている。だから本人の辞意がない限りは、安倍首相としても辞任は求めない。柳沢としても、辞任が安倍内閣の組閣人事そのものが危ういとして表明しにくいのだろう。その相互のかばいあいが、チーム「美しい国」内閣を象徴しているのである。
 柳沢としては、少年時代から苦学して官僚、そして政治家と歩んだ人生の終盤に汚点を残したくないという気持ちが働いているのではないかと、わたしは推測している。

 昨日柳沢が、「若い人たちは、結婚したい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」発言した。これは前言の問題発言を打ち消して、少子化対策の意欲をしめすつもりだったのではないだろうか。
 ところが人口減少は、経済規模を縮小させる等マイナスが多いのでなんとかくいとめたいという考えが、底流にある。しかも包括的政策によって生み育てやすい環境をつくることが政府として必要というより、あたかも個人の心構えや意欲かのように思っている、本音がまた出てしまった。しかも金融・財政通ゆえに、すぐ数字が出てしまうのだ。少子化対策の中核を担う大臣としては、やはりあまりにも浅薄といわざるを得ない。
 少子化対策は、1.57ショック以来、エンゼルプランに始まって10年以上省庁を超えて様々な政策を作ってやってきたが、少子化は止まらない。
 保育現場の非正規保育士の常態化、長時間労働という労働環境がかわらない等、財政をかけないため、子育て環境は改善されていない。また、一方には人口減少している現実に即した、国家像も視野に入れる状況にあるのではないだろうか。
 柳沢発言に対しての野党の反応は、言葉尻をとらえてのたんなる片言隻句批判ではない、厚労相大臣としての哲学の貧困さへのものであるのだ。

街並みのしっかりした商店街にて

2007-02-06 11:35:53 | 身辺のこと・自然
 仕事のため4日間出かけていた。その地はもともと温暖な地域なのだが、暖冬のため暖かいぐらいだった。
 日本中が「大店法」以来郊外の店に客が集中し、駅前がシャッター通りになっているのだが、その街は地方の大都市として駅付近の店が健在だった。夕方商店街を歩いたが人通りが多かった。
 店は昔ながらの奥行きの深い、売り場面積の大きなものが多かった。街並みも店もきれいに整えられていて、好感が持てた。

 わたしはこういった機会に、その地域のテレビニュースを見たり、地元の新聞を読むのを楽しみにしている。全国放送されない地元の行事など興味深いものだ。このたびの地元新聞の社説は、政権政党の主張をなぞったものだった。それも「なるほど」と好奇心をそそられるのである。