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絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

復党問題の報道

2006-11-29 21:14:42 | 生活・教育・文化・社会
 郵政民営化をテーマにした選挙で、それに反対したため自民党を除名されて無所属だった平沼を除いた11人の議員を、安倍自民党総裁が復党を決めた。
 27日(月)のNHKの夜7時のニュースは、トップで10分を費やして報道した。通常の事柄を報道するだけのニュースは3分が標準である。トップでも5分を超えるぐらいであるのに、10分とは重大ニュース扱いである。ニュースで高視聴率のこの番組は、公共放送の中立性のニュースという思い込みで多くの人は聞いているだろ。ところがこのニュースは、政府としての世論の舵取りになる報道をたびたびしている。今回の報道振りも、それを証明したような思いである。
 
 翌日の新聞では『朝日』は1面に4段見出しだったものの左端にわずかの記事にし、2面の「時時刻刻」という解説記事として詳しく多面的に取り扱っていた。安倍首相を表に出さないように進行させた、小泉路線との決別でもある、無所属では手に入らない政党助成金・献金を受ける財政事情があるといった内容である。ことの本質が分かりやすいよう、分量の多い記事にしていた。ちなみに1面トップは、大学の入学辞退者への授業料返還を最高裁が判断を下したことに、紙面の多くを割いていた。
 『毎日』は1面トップで「11議員復党了承」と横1段見出しと縦5段見出の大きな扱いである。さらに5面に半面ぐらいの解説記事である。『毎日』1面の記事は、トップ記事に多くを割かないで2つを半面ずつにして割付をするのを標準としている。もうひとつの記事はタウンミーティングの、いわゆるやらせ問題だった。
 『読売』は1面のほとんどをこの記事に割いて、しかも平沼のことを大きく写真も使って扱っていた。わたしはこの記事を読まなかったので、詳細は触れられない。『読売』は、自民党の総務会での話題や政調会長の個人的発言等を、あたかもスクープ記事のように紙面を作ることがたびたびである。たとえば1月のこのコラムで扱った、義務教育引き下げ問題のように、である。世界最大の発行部数(1000万部)を誇るこの新聞は、政権党のオピニオンリーダーとしての役割を担っているのだろう。

 わたしが読んだ週刊誌では、『週刊朝日』(12月8日号)が安倍の判断前の文章であるが、この問題に精通しているジャーナリスト上杉隆が「そんなことなら血税を返せ!」として、769億円をかけて選挙をした小泉改革とはなんだったのか、という切り口で4ページを割いたものでなかなか面白い。
 『AERA』(12月4日号)は、「『平沼外し』は茶番だ」というタイトルで、中川幹事長と平沼はお互いに筋を通しているようだがだまされてはいけないとうリードで、自民党の党内事情を中心にまとめている。

自転車はゆっくり乗る

2006-11-28 20:54:28 | 子どもからの発見
■ 自転車はゆっくりと
 海は6歳前の10月頃から、自転車の補助輪をとったのを乗れるようになりました。家の前の車のあまり通らない道の、50メートルぐらいを行ったり来たりして乗っています。
 早い時期に父親とバイクのモトクロスのビデオを見ていたせいだろうか、つねにスピードを出して自転車に乗っていました。自転車は早くなければならない、という乗り方でした。しかも5歳前までは、念入りにヘルメットをかぶるしぐさをしてから、レースでもしている気分でした。
 補助輪を取ってまもなく、わたしは「自転車がうまくなるとはゆっくり乗れることだよ」と強調しました。わたしがゆっくり乗って道路を回って折り返したり、八の字で乗ったりしまして見せました。「一番うまいのは止まったままになることだ」と言いました。そしてわたしは止まれないが、それらしい乗り方もしました。
 それを受け入れて、まもなくゆっくり乗って道路を曲がって折り返すことができました。
 自転車はゆっくり乗れると早くも出来るのです。スピードコントロールが出来ることです。やがて小学生になって道路を乗る時、道路状況による判断力を重ねていって安全に乗れるようになるのでしょう。

■ ドーハでのアジア大会
 テレビで見たのか、「ドーハってどこ」と聞いてきました。「アジアにあるカタールっていう国だよ」といって地図を示したら、感心を示さず自分で調べないで「こっきは?」と聞きました。ドーハを国名だと思っていて、カタールなどといったので機先を制された思いになったのかもしれません。
 国旗を見てわたしは、左の中央の黒い部分を指で隠すと緑、白、赤なので「どこかの国旗に似ているね」といったら「たてにしたらイタリアだよ」と返事が返ってきた。そして「ハンガリーともにてるよ」とのことだ。わたしが調べたら、そのとおりだった。国旗については詳しく知っている。

■ 読み物を聞くようになった
 海は、6歳になった。5歳の時のようなはしゃぐような喜びではなく、悠然としているように見える時もあり、児童期にさしかかろうとしているのだ、と思ったものだ。
 時間にそって行動するし、生活している仕組みのようなものをかなりわかって、理性的に行動する。この年齢は、小1、2年生より秩序を覚えそれにそって行動する時期であるという、かねてからのわたしの考えを確認できているようだ。
 それに絵本だけではなく長い物語で、挿絵がところどころにあるぐらいのものに耳を傾けるようになった。
 ふと「小学生になったら『芋たこなんきん』なんかみてられないよ」といった。時々関西弁を使うと思ったら『芋たこなんきん』をみているようだ。

クリスマス絵本が100点以上

2006-11-27 21:23:08 | 当世世間事情
 名古屋のJRビルの書店の売り場面積は、そうとう大きい。絵本児童書の売り場も大きい。絵本の点数が多いだけでなく、たとえば子ども向けの地図の絵本の点数を多く置いているといった具合に、品揃えがしっかりしている。子どもが座って絵本を眺めたりできるように、ソファーのコーナーも用意されている。
 時々立ち寄って絵本事情と児童書事情を観察するが、先日は驚いたことがあった。クリスマス絵本がたくさんあったので、びっくりして数えてみた。なんとざっと130種ほどあった。日本でこんなに多い点数が発行されているとは、わたしは知らなかった。それぞれ数冊から平積みのものは20冊ぐらい置かれている。クリスマス絵本が、それだけ売れるということだ。
 おもちゃがクリスマス時期に年間の50%を超える売り上げということを、ある時期に言われていたが、絵本もクリスマスにそうとう売り上げるのだろう。しかもクリスマス絵本が。

 ついでに英語の絵本と児童書のコーナーを見たら、書棚の2面を取っていたのでそうとうな点数だろう。そのうちクリスマス絵本が50種ぐらいあった。英語の絵本を見る(読む)という、新しい動きなのだろう。
 日本ではクリスマスが子どもへのプレゼント文化として、すっかり盛大になっているのだ。
 そういえばハロウィンが、仮装ということで定着していきそうだ。すでに保育園と幼稚園で保育者が、仮装する行事として取り組んでいるところがあるとのことである。

紅葉の事情

2006-11-26 21:49:59 | 身辺のこと・自然
■ 紅葉
 暖かいせいだろうか、今年の紅葉は長期間ぐずぐずしているようだ。キャンパスの門から校舎までの道のユリノキは、8割がた葉を落としている。講義等から77段の階段を降りたところにある、ナンキンハゼとハナノキの紅葉が始まった。温暖な気候条件のため鮮やかな色にはならないが、紅葉は味わえる。
 さて、木曽川沿いの地でのセミナーは仕事として2日間参加した。街中より幾分紅葉がきれいだった。姿のいいイチョウがちょうど落葉直前なのだろう、黄色が鮮やかなのが見られた。今年は山へ行く予定もないので、街や温暖な地のくすんでいじけたような紅葉を見るだけで終わるのだろう。

■ マイクの使い方
 セミナーでは、50人ぐらいの小規模でもマイクを使うので、すべての会場で使う。その際マイクを口元近くにして下を向いてしゃべる人の場合、聞き取りにくい。下を向いて小さくて低い声を、マイクを通すからだ。それで疲れたようだ。
 聞いている人のほうを向いてしゃべると、少し声が大きく高めになる。マイクも口元から離れるので聞きやすい音声になる。
 人に話すことが職業なのに、聞き手のことを意識してくれなくちゃ、と思ったものだ。

■ ゴードンさんのクリスマス
 1軒おいた隣のアメリカ人のゴードンさんは、ハロウィンが終了したら、トウモロコシ、ジャガイモなどの畑の収穫物と何か収穫を祝うような飾りに模様替えをした。イースターは春ということだし、なにを祝っているのだろうか分からなかった。そうしたら23日に、手作りのクッキーをたくさんいただいた。何を祝ったのだろと思っていたら、イースターとのことだった。
 次の日からはクリスマスに飾りを変えた。木々に大きな赤いリボンやらサンタクロースなど、家、庭、生垣、エントランスと全体的でなかなか大掛かりなものだ。
 夜のイルミネーションも以前のものと変えて、しかも家全体といってもよいぐらい大々的なものだ。このようなことを楽しむ異文化の人が身近に住んでいるので、わたしどもも楽しませてもらっている。

横浜FCが昇格を実現

2006-11-25 21:17:09 | サッカー
 フリューゲルスが消滅後、市民クラブとして発足した横浜FC。それから8年目にして、最終節を待たずJ1昇格が実現した。正直なところ発足当初に注目してきたわたしとしては、信じられないぐらいである。わたしは発足を励ますために、2年間ソシオ会員だった。記憶が定かでないが、年会費3万か5万円ぐらいだったようだ。当時のグッズが、いまだにある。会員をやめたのは意図的ではなく、郵便を几帳面に見ないときがあったときだったからだ。
 当初JFLでホームグランドが三ツ沢競技場に定まらないとき、厚木、愛川などでも試合があったので、見に行ったものだ。リトバルスキー監督だけが目立っていた。運営をめぐってごたごたもあった。
 J2昇格後奥寺GMのもとに、強化の道は徐々に作られていったように記憶している。成績は振るわず城が入りカズも加わった。去年からオーナーといってもよい社長が加わって増資したこともあり、山口、小村といったJリーグ第1世代であるベテランを向かえることができた。それにブラジルからFWのイザイアスが加入させた。
 テレビのスカパーで見た試合では、山口、小村がベテランのよい味を出していた。城とカズの真摯なプレーにも好感を持てた。
 一本気の城は、ベンチにいる自分を許せないので引退する。カズはJ1のスピードについていけそうもないが、ジュビロの中山もやっていることだし、来シーズン見られることを楽しみにしている。
 監督がベテラン選手と同世代の高木というのも、日本プロサッカーの歴史の浅さのよい面としてとらえられる。マリノスとの横浜ダービーがまた実現するのも興味津々である。
 J1をキープするには、いっそうの財政と選手強化を図らなければならないだろう。奇跡的とも言える甲府のように、J1キープをできるかどうか、注目することにする。


自民党復党問題と報道

2006-11-23 13:40:02 | 生活・教育・文化・社会
 郵政民営化を争点とした去年の9.11選挙の際、自民党は法案に反対した人を離党勧告し、郵政民営化賛成のいわゆる刺客を立て選挙をした。
 これは郵政民営化反対議員を徹底的に排除する、それまでの政党ではありえない異例の措置であった。政党のあり方としては常軌を逸した手法であり、大統領制でもここまではしないだろうという、民主主義のあり方として重大事だったのだ。しかしそれを自民党の勢いと感じた人も多かったせいか、選挙に大勝利した。しかし自民党刺客候補と無所属で戦って、12人が当選した。
 この選挙そのものが議会制民主主義に反するものであったし、小選挙区制であるため得票数の比率(51%が民営化反対候補への得票)では考えられないような、議席数を自民党が獲得したのだった。

 首相が変わったところで、復党問題が浮上した。これは無所属になった議員が、その後民営化賛成に変更(平沼は反対)した。反対の主張を支持して票を投じた人からしたら、あの選挙は何だったのか、愚弄された思いの人もいるだろう。
 その後12人の無所属議員は、首班指名では安倍首相に投票し、自民党とともに行動したかのように見えるが、一度選挙を持って排除した議員を簡単に迎え入れるのは、道理が通らないというもの。
 しかし来年夏の参院選挙を考えると、自民党は12人の無所属議員を取り込まなければならない事情があるのだ。
 参院選は過半数割れできない自民党としては、総裁もそれがらみで雪崩現象出で安倍支持をして選出した。参院選挙が敗北することがあったら、安倍政権は崩壊する。雪崩現象で安倍になびいた自民党としては、今も公明党のつっかい棒で政権を維持しているのに、ただならぬダメージを受ける。

 参院選挙の1人区が29あり、そのうち自民が18~19人取らなければ過半数確保が危ないといわれている。そのうち、6人の自民党を離党した無所属議員が1人区である。自民党を離れても当選したわけだから、強固な地盤を持っているということである。1人区が民社党との攻防での勝敗が、過半数を取れるかどうかにかかっている。
 そこで自民党としては何としても復党をさせてその人の地盤にもとづいて、1人区選挙を優位に進めたいというのが自民党の事情である。復党問題は、どんなに政治的に飾ったとしても選挙事情が本質なのである。
 それに自民党としては、1人2千万円の政党助成金の給付を受けられることも視野にないわけではないだろう。
 自民党は党員が激減しており、いまやメディアと公明党のつっかい棒が頼りになっているのが実態といってもいいのである。

 本来復党そのものがおかしいのだが、中川幹事長は、小泉の横暴な選挙の延長線上の措置であろうが、それにたいして中川政調会長等は情という、あたかも郵政民営化をめぐる政争がなかったかのように対抗する。その構図は政党内部の問題なのに、政策をめぐる政党間の政策抗争のような錯覚に陥る人は少なくないのではないか。
 このような自民党の選挙対策事情である復党問題を、1月近くあたかも政治の重要課題かのように大きく報道している。たしかに選挙を経ていることの変更であり、党内事情だけではすまない、説明責任があるというものだ。

 通常国会中であり、ほんとうは教育基本法、防衛庁の省への改編など大転換をはかる重大な局面にあるのだが、自民党内部の意見の相違が政策論争かのようの報道の仕方をしている。
 小泉政権以降こうして自民党内部の対立を政争のように報道するようになって、そこに関心が向くようになってしまっている。日本のあり方ではなく、自民党の対立が政党間の政策対立より面白い、という劇場型政治が継続されている。自民党としては、いわばコップの中の嵐を見せておくほうが、メディアへの露出度が多くなるのである。
 メディアの政治報道は、政治の重要課題や日本の進路に影響することと政党内部の事情との軽重をつけなくなっている。面白く興味深いことが、ニュース性が高いということになるということか。


ところでノン・バーバルとは ■保育とコミュニケーション(2) ノン・バーバルとパフォーマンス

2006-11-21 06:55:14 | 子ども・子育て・保育
 日々の保育のベースとなっている子どもとのコミュニケーションを、ノン・バーバルというキーワードで見ると、すでに経験的にやっているケアが理論的に整理できます。そればかりか、とかく人柄が保育の決め手になるとさえ思われているのが、技術としてとらえられ多くの人が獲得可能となり、実践の力の中核であるコミュニケーション力の向上になるものです。

 ところでノン・バーバルとはどんなことを言うのでしょう。バーバル(verbal)とは「言葉に関する」という意味です。ノン・バーバルとは、非言語的言語をいい、身振り、しぐさ、ジェスチャーあるいはボディ・ランゲージともいわれていることです。
 またはもう少し広義には、パフォーマンスとも言います。ノン・バーバルはパフォーマンスの一部であるということです。
 ところでパフォーマンスという言葉は、特別目立つ行為あるいはスポーツではよい結果を出すといった時に使われることが多いのです。しかし本当の意味は、「日常における自己呈示」あるいは「日常における個の善的表現」といい、日常的な行為などの表現を言います。

 最近とみに多くなっているいじめは、被害の子どもは何らかの態度の変化やサイン(パフォーマンスのこと)として表現しているはずです。それを見逃さないようにする、といったことはよくいわれることです。被害の子どもが自殺に追い込まれる場合も、予兆としてのサインを表現しているはずです。事件に至る場合は、変化を感じなかったといわれます。しかし多くの事件に至らない場合は、読み取りをきっかけに何らかの手立てを打っているはずです。
 他に非行などそれまでと子どもが大きく変化するとき、パフォーマンス(この場合態度といわれる)に現れるものです。学校の教室では、子どもたちは様々な表現つまりパフォーマンスをしています。
 もしそれを少しでも読み取ることができたなら、子どもの理解をして適切な指導が可能になります。子どものサインあるいは態度といわれるパフォーマンスを読み解くことは、人の勘などによるものとして、個人の感じ方にゆだねられています。
 読み取る根拠が示しづらいために、憶測として時間が過ぎていき何らかの支援、指導といった手立てを講じられないことが多いのです。しかしパフォーマンスを読み取る力があれば、洞察力になりえるのです。

 さて人間の日常的表現である、パフォーマンスの構成要素を見てみることにします。
 一般的には言語表現30%(言語のみ5%、周辺言語25%)、非言語表現(ノン・バーバル)が70%を占めているといわれています。非言語表現の内容は、表情(アイコンタクト、スマイル)、身体表現、空間の使い方、色彩、モノによる自己表現、タイム&タイミングです。
 非言語表現の占める割合が、いかに多いか驚くばかりです。しかも言葉が多くを占めていると思っているが、言語のみが5%とはあまりにも少ないじゃありませんか。
 周辺言語とは、しゃべる声の大きさや高低、あるいは言葉の意味による言い回しなどのことを言います。たとえば長いという言葉は意味によっては「ながーい」といった言い方になることをさします。
 このようなことを踏まえて、すでにわたしたちの生活に様々な形で応用されています。たとえば商品販売、プレゼンテーション、あるいは政治家の選挙や記者会見等の表現にも取り入れられています。たとえば小泉、安倍首相の場合は、好感を持たれるように工夫をしています。アドバイザーによる、いわゆる演出もされているし、それにそったトレーニングもしている、とわたしは見ています。
 アメリカの大統領選挙では、いくつかの専門家によるチームをつくりそれに基づいた演出をすることはよく知られていることです。日本の政治家も、それをとり得れるようになってきているわけです。ということはそれ読み取る力が必要になっているということでもあります。

保育園で赤ちゃんと ■保育とコミュニケーション(1) ノン・バーバル

2006-11-20 16:53:03 | 子ども・子育て・保育
 先日保育園を訪ねたときの、0歳児の部屋でのことである。11月なので1歳を過ぎた子どもが多いし、朝の登園間もない時間帯でもあり、歩いたりして好奇の目で辺りをうかがい動いている。とっさに見ず知らずの男性をみて、部屋の空気が変わる。
 そんな子どもたちに、わたしはかかわろうとする。立ち膝になり、自分を子どもの目線に下げて、働きかけをする。幼児は珍しい訪問者に興味を示すものだが、乳児は子どもから関係を求めることはほとんどないし、むしろ警戒心を持つものである。それを言葉を介さずコミュニケーションをするのは難しいのである。
 子どもに向かって眉を上げ微笑む。それに両手をさしのべる。そんなわたしに興味を示し反応をする子どもをみつけた。男の子が興味を示したので、両手を差し伸べたが近寄ってこない。そこでさしのべた手をタンタンターンというリズムで動かしたら、近づいてきた。そして抱っこをしたのだった。
 抱っこをされて満足そうだったが、そこから何かを展開するほどのすべはもちあわせていない。まもなく床にその子をおろしたら、泣き出してしまった。保育士に改めて抱かれて事なきを得た。
 またじっとわたしの様子を伺っている子どもがいたので、刺激的に両手の指を開いて閉じるのを続けた。そしたらわたしを避けて保育士に寄り添った。この指の動きでは、0歳児の場合は避けるあるいは泣き出すのが当然なのだ。2歳児や3歳児の場合は、好奇心をゆさぶられる思いで子どもによっては追いかけてくるなど行動を起こすことが多い。
 赤ちゃんとのコミュニケーションが成立するか否かは、ほとんど子どもの側のこととして考えられている。人なつこい子ども、あるいは人見知りかといったようにである。実際は働きかける側のあり方が潜んでいるし、そこに着目する必要があるだろう。

 ここでのノン・バーバル(非言語的言語)コミュニケーションの表現のポイントは、顔と手である。顔はとくに眉と唇の表現が重要である。「目は口ほどにものをいう」ということわざがあるために、目が重要に思われがちである。たしかに目に心が出る場合もあるが、コミュニケーションの場合は、目は眉にともなって表現されるのである。
 わたしが子どもたちにした、眉を上げて唇を横に開いて微笑むのは、好意的にコミュニケーションをしようとするときの基本である。これは世界共通と言ってもよいほどの表情である。大人どうしの場合も同じである。それに手と腕であるが、好意的コミュニケーションのとき腕組みをしないぐらいは理解できるというものだ。

 保育では、日々ノン・バーバルコミュニケーションの連続である。保育士は子どものノン・バーバルの読み取りをしているし、自身も表現をたくさんしている。しかしそのことを意識している場合は少ない。そのために子どもの深い読み取りをしたり、保育士が意図的に表現したりすることは残念ながらないといってもよい。

 保育というのはコミュニケーションが中核とああるため、その実際と理論的うらづけを時々書くことにする。

やっぱりオペラはいいもんだ

2006-11-18 21:54:30 | 音楽
 昨日の夜、駅から自宅へ帰る時見た街の風景は、いくつかの場所にイルミネーションが施されていた。寒さも加わり晩秋を実感できる。
 今朝6時のわが家の玄関の外の温度が6℃で、季節にふさわしい寒さとなった。そこでシーズン最初である薪ストーブを焚いてみた。久しぶりなので薪の燃える匂いと音と炎を、新聞を読みながらゆっくり味わった。

 土曜日の午後に自宅にいるときは、ほとんどがJリーグの試合を見ることに費やす。しかし急に思い立って近くのホールでの、モーツアルトのオペラ「フィガロの結婚」を見ることにした。当日券があるとのことと、特別に気分転換したいという思いがあったからである。
 「フィガロの結婚」を見るのは3回目である。ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラの演奏を当日券で、しかもS席12000円という安価で見られる。価格は、東欧との経済格差とモーツアルトのオペラなので小規模であるためだろう。パンフレットには総勢180人とあるが、5つの演目のためだろうか。日本に1カ月滞在し、15回の公演のするうちの、わたしが見たのは2回目のものであった。
 「フィガロの結婚」を以前見た時は、ひたすら歌とオケの音楽に耳を傾けたものだ。ストリーはおおよそ知っているので、今回は総合的にじっくり味わった。
 「フィガロの結婚」の序曲は、オーケストラの演奏会の冒頭に演奏したりするなじみのものである。とくにアマチュアオーケストラで。それにアリアでは「もう、飛ぶまいぞ、この蝶々」は、演奏会でよく歌う(バリトン)耳になじんでいる。「恋とはどんなものかしら」はアリアの入門の曲(メゾソプラノ)であり、多くの人に親しまれている。
 舞台は、日本のホールを移動公演可能なように、簡易なものであった。もっともイタリアオペラと違って、オペラの初期でもあるモーツアルトの舞台装置はシンプルでよいのだ。

 さて歌い手の水準が高かったし、ヨーロッパの文化であるので身振りしぐさレベルも含めた演技が、心地よかった。それにコミックストーリがよくつくられている、と感心したものだ。200年余り前にヨーロッパではこのようなものを楽しんだのか、といったことにも思いをはせたのだった。最後は、わたしとしては珍しく感動したのだった。日常性を忘れた、3時間ほどの至福の時間であった。

 1800人のホールはいっぱいであり、字幕にも助けられ観客は反応していたが、オペラに慣れていないせいか、アリアの終わったときの拍手は2幕目ぐらいからするようになった。それに「ブラボー!」という声があってもよいぐらい会場全体の満足の雰囲気があったが、発する人がいなかった。
 わたしはどうかって、恥ずかしがり屋なのでできない。まあ、そんな人が多いのも日本人だし、オペラにも慣れていないのだ。演奏者は、楽しむというより一生懸命聞く観客に、文化の違いを感じたかもしれないな、なんて考えたのだった。

手作り室内遊具、用具、家具(ファニチュアー)

2006-11-16 17:36:36 | 子ども・子育て・保育
 どこの園でも手づくりの室内遊具、用具、家具があるのが、とくに乳児の部屋には一般的風景になっている。材料は牛乳パックやダンボールなどの紙類であり、それを布で覆って仕上げるのである。牛乳パックを重ねたりして複合で使用すると、強度があり子どもに十分耐えられる。積み重ねただけのもの構造であれば、大人が座ることも可能である。
 制作が保育士の作業でも可能であるのと、強度があるなどから普及したと考えられる。さらにその室内条件にあったオリジナルなものがつくられることと、リサイクルのよさなども制作の苦労がむくわれる思いではないだろうか。

 ところがわたしが多くのものを見ての感想としては、子どもが体を委ねるものとしては軽すぎないか。それにデザイン(布の色彩も含めて)が単調である。デザインは材料の性質から複雑にできないが、シンプルなりの工夫があってもよいのではないか。制作者である保育士に求めるのは無理があるが、子どもには完成度の高い環境を与えたい、と言うことである。それに木製のものがすり減ったり汚れが人になじむ意味があってよいものだが、布の汚れはよい感じを受けない。形が崩れなくとも、布を張り替えた方がよいと思われるものも見かける。しかも布は、厚手のもので色彩を考慮することは重要である。
 
 この手作り遊具の広がりの本質は、手作りの良さと喜べない別なところにあるととらえている。遊具、用具、家具といった高額なものを購入できるようなまとまった額の財政が配分されない、ということではないだろうか。ほんらいは重さとほどよい抵抗感のある木製のもののほうがよいはずである。それを購入するには、ものによっては数十万円する。保育園の財政は、単年度でそのような額を充当できる仕組みになっていないのである。
 たとえば昔どこにでも備えられていた大型箱積木は、価値ある遊具と思うがほとんどの園から消えてしまっている。これとて傷んでしまったものを更新するだけの財政がない現われと思っている。代替としてなのだろうが、低額であるウレタンの中型箱積み木は見られる。木製のものとは性質が違うのだ。

 財政のないなか子どもによい物的環境という思いで、時間をかけ苦労してつくっている手作り遊具に対して保育士の情熱に敬意の念を持つとともに、それは日本の保育政策の貧困を現場が次善の策として補っていること考えてみたが、いかがなものだろうか。

 *手作り遊具に関しては、『あなたが変える室内遊び』(東間掬子著 サンパティック・カフェ発行)という本がある。
 また、子ども向けのハイセンスな機能性とデザインを備えた家具を提案している本として『世界のこども家具』(2004年 エクスナレッジ発行 1900円)がある。