絵本と児童文学

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寒さきびしいときです  オペラ「トゥーランドット」を観る

2003-01-18 19:18:14 | 生活・教育・文化・社会
[66] 寒さ厳しいときです オペラ「トゥーランドット」を観る (2003年01月18日 (土) 19時18分)

 2月上旬まで、寒さが厳しいときです。 インフルエンザが流行しているとのこと、からだの管理には特別気を配らなければなりませんね。
 自然の摂理にそって、日がだんだん長くなっています。朝は6時20分頃から東の空が明るくなり、まもなく朝やけが鮮やかになります。ぼくにとっては、薪ストーブの燃え盛る火の温かさに包まれて、朝刊にゆっくりと目を通す静かな時間でもあります。
 昼間は太陽の日の恵みに温められながらいると、庭にはいくつかの野鳥が立ち寄っていきます。スズメ、キジバトはなじみですが、メジロ、ブンチョウ、ジョウビタキといったのを目にするときは、つい息を凝らして鳥の図鑑で確かめるのです。野鳥の名前を覚えていくのが、楽しみになりました。

 14日(火)は、ポーランド国立歌劇場による、プッチーニの「トゥーランドット」を観ました。徒歩で行ける生活圏の会場で上演する気安さがきっかけで、久しぶりのオペラ鑑賞でした。
 プッチーニは「蝶々夫人」を作曲したように、いくつかの国を舞台にした作品を作っていますが、このオペラは北京でのものです。オリエンタリズムの世界をどう演出するかにも興味がありましたが、ヨーロッパをベースにしたそれなので、おもしろいといった感じでした。大道具、衣装など懸命にオリエンタリズムの世界を作ることに苦労した形跡は伝わってきましたが、ヨーロッパ人から見たものであり、北京とはほど遠いものでした。しかしそれがむしろ、プッチーニのオペラにマッチしているとも解釈できました。
 オペラ用の舞台でないため、奥行きを使うことが出なかったり動きを制限せざるをえない演技は残念でしたが、演奏水準は高いので十分堪能できました。イタリヤなどとは違って、くずすことなく丁寧で抑制的演奏も、また味わい深いものでした。
 ポーランド国立歌劇場は、舞台には100人を超える演技者、オーケストラボックスには70人ぐらいの大掛かりなものでした。19日までの20日間ぐらいで、ヴェルディの「オテロ」とともに日本各地で15回上演するようになっています。
 ぼくの見た会場では、2階のB、C、学生席は満席だってものの、S、A席といったところは30%ぐらいの入りでした。ヨーロッパでは手ごろな料金で見られますが、日本は事情が違うのでS席は16000円でした。この料金は、海外の歌劇団が移動する条件での日本公演としては高くはないと、みてよいでしょう。しかし潜在的にはオペラフアンは多いだろうに、不入りは残念です。
そんなこともあってか、本来オペラは、ところどころのアリアを拍手で称えて、出演者と観客が一体となって盛り上がるものが、静かに進行して行きました。観客にオペラ通が、いなかったのです。ここで拍手と思いつつ、自分が率先する勇気は、ぼくにはとてもありません。多くの人のように、楽しむというよりは懸命に鑑賞しているのでした。日本ではやはりオペラは日常生活にないものだし、したがって文化としては未成熟なのだ、と感じ入ったものでした。

新しい年を迎えて 年末年始の保育のこと

2003-01-04 15:07:51 | 子ども・子育て・保育
[65] 新しい年を迎えて 年末年始の保育のこと (2003年01月04日 (土) 15時07分)

 新しい年は、とめどもなく流れる時間に区切りをつけてくれる。年が改まる特別な思いを、正月としその地域でおこなわれる神事などに託したのだろう。それは共同の暮らしをつくる、先人からの知恵でもあったのだ。私のこれまでの生活は、正月の地域の催しなどにかかわることのない暮らしをしてきた。ひとことでいうと、いつもより静かにゆっくり時間がすぎるのである。その正月も、時代の変貌を反映する。
 いつのころからだろうか、世間は静かにゆっくりという正月ではなくなってきている。コンビニ、ファミレスの24時間営業を背景にして、デパートやスパーも元日から初売りをするようになってきている。世間の時の流れは、節目がなくなってきているのである。
 このような状況を反映して、保育園が正月休みの廃止に踏み切り始めている。川崎市では恒例の年末年始の5日間ほどの休みに、保育を必要とする希望者に保育をおこなった。少数の指定園に子どもが登園し、そこで保育がおこなわれたのである。
 日本ではシフトワーク(夜勤など仕事の必要に合わせた勤務)が30%であり、都市ではそれより多いだろうことを想定すると、静かにゆっくりといった正月を送れない家庭が少なくない。その条件の家庭からすると、年末年始の休みはニーズに合致していないことはたしかである。私が住んでいる市では、民間保育園の3園が日曜日の保育をしている。子どもの生活条件の整わない所に置かれるよりは、保育園での生活の方がよいに決まっている。しかし子どもの育ちや家族のあり方として、保育時間が増えていくことがよいのだろうかと考える。
 極端にいびつに変化した産業構造、経済活動を軸に動いている社会、それに即した労働時間帯と長時間労働、といった状況にある私たちの暮らし。あわただしい生活で、家族の共同の暮らしもままならないのでは、家庭ってどうなっているのだろうか。子どもの育つ環境としてこんな暮らしぶりでよいのだろうか、よいはずがない、という考えが頭をもたげるのだ。
 私は保育状況の把握として、年末年始に公立保育園が保育することに踏み切ったことを記憶にと留めたいので、新年ながらもあえて綴ってみた。
 私の今年の正月は、ともすれば2日、3日の箱根駅伝をテレビで見てしまちがいなのを例年のように抑制して、資料の整理や読書に費やした。5日間ほど外出をしていないので、昨日の雪模様とは打って変わってのよい天気でもあり、そろそろ街の様子でも見に行くのもいいかな、と思いつつふと庭に目をやる。マンリョウとヤブコウジの赤い実が鮮やか映え、キンカンが生り年のためたくさん実をつけてその黄色がだんだん濃くなってきている。
 今年こそはまとまった仕事をしようと構想に思いを馳せられたのも、新年の有難きことかな。皆さんは新しい年を機に、どんなことに思いをめぐらせたのだろうか。