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絵本と児童文学

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チャンピオンズリーグは、バルサが圧勝

2011-05-29 11:33:07 | サッカー
 ヨーロッパは各国のリーグが終わり、今シーズン最大のイベントであるチャンピオンズリーグの決勝への関心で盛り上がっていた。今年は決勝まで駒を進めた、マンチェスターU(ユナイテッド イングランド)対FCバルセロナ(スペイン)である。
 ウエンブリースタジアム(ロンドン)は8万6千人で埋まり、高揚したサポターの視線がピッチに注がれるなかでセレモニーがおこなわれた後、3時45分に開始の笛が吹かれた。

 立ち上がりからホームであるマンチェが、ロングボールをつなぎ快調に動き、そのペースで進んだ。しかし10分過ぎからバルサが持ち前のパスをつなぐポゼッションで、主導権を握り、得点を感じさせる状況になった。
 27分にペドロの得点で、バルサが先制をした。33分にルーニーが強い突破でシュートを決め、マンチェが同点とした。

 両チームの特長がよく出た試合であり、そこが興味深く面白い。前半は同点で終えたが、ポゼッション率はバルサ67%、マンチェ33%だった。ポゼッション率は試合結果を左右するわけではないが、ポゼッションサッカーを信条とするバルサ優位の試合展開であった。
 後半も立ち上がりからバルサの優位で進み、54分メッシがシュートを決めた。その後バルサの動きが快調で、マンチェがそれをおさえペースを握る時間帯はないぐらいであった。
 68分にはバルサのビリャがシュートを決めたのは、そんな試合の流れのなかだった。その後も終了まで、バルサのペースにマンチェはたじたじといった感じだった。堅い守りのはずのマンチェを、テクニックとフニッシュのスピードでバルサは3得点だった。終わってみれば、バルサの圧勝で4度目の優勝を成し遂げた。
 バルサは、12月に日本でおこなわれる大陸ごとの優勝クラブでおこなわれる、クラブワールドカップに出場する。

 ヨーロッパでリーグ水準が高いのは、イングランド、スペイン、イタリアだろう。スペインは、バルセロナとマドリードがビッグクラブで、財政力は他のクラブより圧倒的によい。クラブでの選手育成が成功しているうえ、世界のトップクラスの選手を集めている。

 わたしは長友の所属するインテル(イタリア)の試合をライブで見ていたが、他の試合は生活リズムが崩れるので再放送を何試合か見た。しかし決勝はライブで見たいという思いが強く、深夜に起きて見たのだった。
 ヨーロッパのサッカーは、いくつかの国で選手権が残されているが、チャンピオンズリーグが終了し、3カ月ぐらいのシーズンオフになる。
 ヨーロッパサッカーを常時ウォッチしているわけではないが、それぞれの国のサッカースタイルがチームに反映されているので、チャンピオンズリーグはそれを対比しながら見るのが面白い。それにヨーロッパ各国のリーグの水準を、理解する機会にもなる。
 長友は、来シーズンも昨年優勝のインテルに残る可能性があり、チャンピオンズリーグ決勝で長友のプレーを見られる日が来るかもしれないと、ひそかに期待している。


お子様業界の保育園

2011-05-28 08:43:36 | 子ども・子育て・保育
 NHKの「仕事ハッケン伝」(26日・木)は、株式会社保育業界最大手経営の横浜市の保育園が舞台だった。

 横浜市は、70年代から多くの大都市が保育園増設した時に対応が不十分だったことも影響し、今日も保育園の絶対数が足りない。そのため保育園の設置基準を緩めて小規模の個人経営で補ってきたが、待機児が最大数であり続けてきた。待機児解消のため保育園を必要としているため、会社経営の認可保育園が増えている。
 会社経営の保育園といえばかつての大手は、無認可保育園であり公的補助がなく、かつ長時間保育等親のニーズ応えていたので、それに必要な園舎や人材が整っているといいがたい無理があった。そのしわ寄せが原因と思われる事故が連年続き、廃業した。
 児童福祉法改定後、保育園が社会福祉法人以外の会社やNPO等でも認可園になる、いわば保育園に市場原理が導入されているのだ。この制度的変更が、徐々に保育園や保育士の専門性や保育活動に変化をもらしていくだろう。
 都市では待機児解消のために、今のところ会社経営の保育園を認可して量的に補って行くのが、スピードが求められるがゆえに有効なのだろう。認可されて補助金があるのであれば、保育園経営の収益もあがり、十分経営ができるはずである。
 今回保育園の株式会社「JPホールディングス」は、今年度だけで18園を新規開園したというから、急激な規模拡大だ。保育は、お子様産業のひとつになっているのでもある。市場としては需要があるのだが、日本の保育が40年余り蓄積してきた保育の専門性を踏まえた保育の質を提供するのは、まじめに考えた場合無理があるのではないだろうか。

 この番組は、さまざまな仕事と職場を紹介するもので、3回目である。第1回が飲食(餃子、ラーメンなど中華)、第2回がITのソフト作りであった。
 NHKは、これまで企画内容を変えながら職業案内の番組をやっている。わたしの記憶では資格ガイドで、たしか15分ぐらいだった。ある時期まで多くの人が視聴できる時間帯だったが、だんだん早朝時間帯に追いやられた。
 その前は若者が仕事を実体験するもので、仕事に参画していく過程に焦点を当てたドキュメンタリーであり、わたしは興味深く見ていた。職業の実際を見ながら現代社会がわかる面があり、わたしは漁業、ゴミ回収など今でも印象に残っている。時間帯は23時台だったと記憶しているが、わたしは午後からの再放送を見ていた。

 今回の番組の舞台となった保育園は、3階までを保育室としており、36人のスタッフである。自己査定というシステムをつくり、自己評価と幹部による評価で待遇と昇進がされている。いわば人事考課制度を採用しているのである。
 園長の「命を預かっているんですよ」ということの強調は、保育園としての大前提なのだが、それを合えて強調するということは、会社の毀損をさせないためにリスク管理をまずやるということなのだろう。
 それに園児のことを「お子様」と言っていたが、保育園が子どもと親へのサービス産業、いわばお子様業界になってきていることを象徴する言葉として、わたしには聞こえた。もっともある市の公立保育園の保育士が、クラスの子どもを「お子様」といっていたので、そう言うようになっているのかもしれない。わたしには、保育園のあり方にかかわることとして違和感がある。

 さてこの番組は、お笑い芸人を1週間職場体験させその過程で仕事の一部を覚え、達成感を持って終了するという企画である。
 お笑い芸人のキャラクターゆえに、本来苦悩であるはずのつまずき失敗が絵になる、というのがミソである。わたし流に言えば、ドキュメンタリーバラェテー(こんな言い方はないが)の性格を持たせている。
 そんな企画の性格から、お笑い芸人の体験者が失敗しつまずき涙して、それを乗り越えて達成して終わるという筋立てである。このパターンを、あらかじめ打ち合わせをしていると思われる。とくに体験者の受け入れ側には打ち合わせ段階でしていると思われる。受け入れ側が、お笑い芸人に密着し一体化して進行することからも、それがうかがえる。
 お笑い芸人があふれている時世でもあり、ぼろぼろの体験が絵になるので、こういった企画が可能であるのだ。

 今回保育士体験したのは、安田大サーカスのトリオの中のクロちゃんである。保育士養成の短大卒というからまったくの素人ではない。当人は「子ども大好き」といっていた。
 クロちゃんは子どもに親しみをもって接近したが、現在の職業であるお笑い的アピールをしていた。子どもとの垣根をとるために面白さでピールした。それは子どもの側を配慮して自分を表現するというよりは、自分のペースに持ち込むためであった。これでは保育で重要な相互応答的関係はできない。
 クロちゃんは、初期にこの園の保育とは異質の物を振りまいていたので、園長松本(58歳)がドカンとクロちゃんを叱った。それでクロちゃんはしょげる。苦悩といいたいところだが、自分の思い通り行かないという浅いものである。
 状況が必要としていることと、それに近づこうとする自分という葛藤が保育という職業に必要なのだが、それとは程遠い。これはクロちゃんだけの問題ではなく、園長が少しは予見をしてオリエンテーションをしていないことにも起因している。保育や教育というのは、終了したことに注意を与えるには、あらかじめ持ってる仮説との関係であった方がよいのだ。

 クロちゃんは途中つまずいた時、「苦しい。勉強ばかりだ。好きなこと何もできない」と泣き出した。これは番組の企画の筋書きである途中のつまずきなのだが、その表現があまりにも幼く、苦悩でなく駄々っ子のようだった。クロちゃんの声が本当の声とは違うのではないかと思われる高い声であること、子どもに必要なことをするというよりは楽しませようとしたといいつつ自分が戯れていることなど、わたしは保育士のあり方としては気になった。もっともクロちゃんのように子どもとのふれあいを、自己確認にしていると思われる保育士もいないわけではない。
 大人は子ども性を内に持っていて、必要な時にそれを引き出しから取り出してくるのだ。いくつもの引き出しを持てっていて、必要な時にそれを使える人が大人なのだが、そう意味では大人になっているのか、と考えさせられた。もっとも今の時代はそういう意味での大人にならなくとも暮らせるようで、そのような人間が多いのかもしれない。
 それにしてもクロちゃんという芸人は、笑いを作るのではなく、笑われ芸人ではないのか、と考えさせられた。だとするとそれは芸ではなく、人間の素でお笑いをしているということだ。
 芸は自分でない自分をキャラクターとしてつくり、それを強く表現することではないのか。そして素人とも日常とも違う域に達しているものを、表現するものではないだろうか。
 お笑い芸人が大量に作られ消費されていく時代なので、芸か素か境界がはっきりしない芸人が多いから、「仕事ハッケン伝」という企画も成り立つということか。

 VTRを職場で見てゲストも加わってのトークもあるが、番組づくりのため相当カットされていると思われる。短期間で仕事の一部を獲得するのはドラマがあって番組を面白くしているが、その辺を差し引いて見なければ、その業界や職業の専門性について期待をしてみると誤解が生まれるだろう。今回の場合わたしは、保育園への企業進出による「お子様産業化」を見た思いをしている。

 この番組で企業の保育園の保育を体験させたが、必ずしも保育の一般的姿といえないだろう。日本の保育全体は保育内容や発達について考えられており、保育士の専門的水準が高い。
 今回は、あくまでも企画にふさわしい舞台と体験した人によって番組にしたと、とらえた方がよいだろう。保育を知らない人が接近しやすいように、笑いと涙を交えて番組を作っているのである。あくまでも保育への入り口としてヒントになるが、保育そのものを語った番組ではないだろう。

柳美里の虐待から脱出ドキュメンタリー

2011-05-16 10:08:37 | 子ども・子育て・保育

 15日(日)のNHKスペシャルは、「虐待カウンセリング-作家柳美里500日の記録-」だった。
 柳美里が、子どもの虐待をカウンセリングによって改善されるドキュメンタリーである。虐待の発覚は、自身のブログに子どものことを綴ったのを読んだ人が問題にしたためである。柳がブログに書くということは、虐待という意識がない、あるいは弱いからなのだろう。
 わたしは柳の作品を、芥川賞以降3,4本読んだことがある。私小説とは言いがたいが、自分の体験を素材にした小説である。それ以降わたしは関心が継続せず、遠ざかっている。
 その内容は、体験をデフォルメしフィクション化し読者の関心を呼ぶよう構成に工夫を凝らしている。垣間見られる体験がすさまじい内容なので、闇を抱えて生きている人だと、とらえていた。柳の鬱屈した心と表現のパワーがどのように爆発させるのか、普通には生きるより波乱に富んだものになるかもしれない、と思ったものだ。柳にとっては、それが生き方となるだろうことなのだろうが。

 わたしが柳の作品から遠ざかっても、シングルマザーで子どもを生んだということを知ったので、さもありなんという思いだった。ひとつの生き方として、わたしには違和感があるわけではない。

 虐待は連鎖されるといわており、その枠組みで臨床心理士が介入、カウンセリングで改善が試みられている。なお、PTSDやトラウマが長期間のカウンセリングによって改善されることはありえるのだ。ただし、長期間のカウンセリングを通して、本人が自覚するに至り克服しようとしなければ難しく、簡単に改善されることはむしろ少ないようである。
柳の虐待は連鎖されているととらえられ、改善していくために関係が途絶えている父、母、韓国在住の伯父(父の兄)の妻にも会う。
 これまで若くして独力で脚本家、その後作家として生きてきたので、家族と関係がないと思っている柳にとっては、自分を家族の関係で対象化するために必要なことである。さらに結果として、柳が虐待行為に距離を置いて見られることにつながる。

 母に父親のことを聞いたが、語りは少なかった。すでに娘と元夫との関係が疎遠であり、今の生活があるために語れないのではないだろうか。父親の性向を理解するために、父親の生い立ち理解が必要である。そのために伯父の妻の言葉がもっと必要だと思うが、少なかった。
 この辺の事情は、ドキュメンタリーの制作責任者の意図によって編集段階で映像採用を決めるので、なんとも言いがたい。
 ちなみに制作の際、柳以外の映像は撮影した時間の10%も採用していないと予想される。柳の映像の場合は、撮影に対して採用映像は5%以下ではないか、と推測する。

 このドキュメンタリーのテーマである虐待の連鎖でもいいが、わたしは虐待をする人格傾向に注目してみることにする。
 わたしは父親の言葉を注目した。「どんな生き方をしたかったか」という娘美里の問に対して「日本でも突出した学者でありたかった」とのことだった。これは彼の人格と価値観を象徴している言葉に思える。

 この言葉には2つの面があると思われる。1つは社会システムとかかわる仕事ではなく、自分の力だけで周囲に力を誇示して生きた自分を語っている。釘師などがそれであり、何はともあれ一匹狼で生きてきた自分の人生を、娘に肯定して見せた。
 もう1つは、作家として世間に評価されている娘に対して、父親である自分が学者ということで、知性を誇示する心理が働いていた発言なのではないか。

 父親の言葉の知的独立した高度な専門職像は、小説家として柳が実現している。その成功に対して父親として面子を保ち、父親として娘より優位にあるということの表明ともとらえられる。長い別離で老いてからの再会でありながら、家族だった頃と変化していないと、とらえられる。

 この2つ面で共通しているのは、社会システムの中で生きるのではなく、誇大な自己像を描き、それを追い続けるためには手段と内容を問わない、ということである。目標と内容がはっきりしなけらば、虚栄と自己顕示が増大し、どこまで到達したか自己測定ができず、不充足感をいつも持ちいらいらして粗暴な行動、つまり暴力になるのではないだろうか。
 家族がこのような人格の父親が中心であり、それに似たところがあると思われる母では、小説の素材に十分な、ドラマ性を持つ壮絶な家族となるというものだ。ここでの母親の価値観の手がかりになる事例としては、娘(美里)を名の通った高校へ入学させるといったことが象徴しているととらえた。その高校で、柳はつまずき1年で中退するのだ。

 虐待が単純に連鎖をするのではなく、父親の混沌とした自分と肥大化している自己という人格傾向が遠因を作っているのではないか。このところの臨床心理や精神医学でよく言われる、人格障害的な視点から接近するのも必要ではないだろうか。
 と見てきながらも柳の父親のような人は、近代化されていない時代の田舎には特別でなくいたと思われる。通俗的には「激しい気性の人」といった言われ方をした人である。

 柳は、作家であるから記録を書き、複数の臨床心理士や精神科医あるいは社会心理学研究者が分析するといった構成で本を出版したらどうだろうか。多くの人に、人間理解と家族のあり方を考える機会を与えて欲しいものだ
 とはいっても柳は、自分は破格の人生を素材に書いて、小説家という高度な専門家として社会に認知されているので、虐待や家族に対しての専門家が分析したりする内容の本は企画でしないだろう。柳の『命』『ファミリー・シークレット』といった作品にしたほうが小説家としての本業がうまくいくというものだ。
 かつて芸能人などのプライバシーを覗き見する情報で雑誌などの商品にしていたが、今は自らの生活を告白して小説やノンフィクションの商品にする時代にあるのだ。


政府は、国民負担を増やして東電を救済■河野太郎のツィッター

2011-05-11 17:52:06 | その他
■以下の文章は、わたしが読んでいるメルマガに掲載されたものです。全文の場合転載はよしとされているので、それにしたがって参考までに掲載します。河野太郎氏は、原発を推進してきた自○党にあって、脱原発の主張を展開している数少ない議員です。
 
 このブログを読んだら、ぜひ、お近くの与党議員の事務所を訪問して、あるいは与党議員の事務所に電話をして、なぜ、あなたは国民の負担を増やして東京電力を救済するのかと尋ねてほしい。

 政府与党の案にはいくつかの問題があるが、それを検討する前に今、政府がやっている目くらましにだまされてはいけない。役員の給与、賞与をゼロにしろなどというのは金額にしてもたかがしれている。もっとリストラを、なんていうのは政府の目くらましだ。そんなことでだまされてはいけない。メディアもそれはちょっとちがうんじゃないかとはっきり言わなければならない。

 政府がやるべきは、そんなことではない。

 まず、東電が、どのぐらいの支払い能力があるのか、どれだけキャッシュが入ってくるのか、どれだけの債務を抱えているのか、政府は調べていない。JALのときはタスクフォースと呼ばれた専門家のチームがきちんとデューデリジェンスを実施したが、今回は、それがない。東電と金融機関がつくった数字をもとに議論されている。

 次の問題は、東電の資産が保全されていないことだ。被災者への賠償金も東電が銀行から借りたお金も同じような債務だ。もし、今、東電が銀行からの借金をせっせと返していたら、被災者への賠償金の支払い能力は減っていく。銀行は無傷でお金を返してもらったのに、賠償金は支払えないから国民が負担しますということになっていいはずがない。だからまず、東電が勝手に債務を選択的に返済しないように、政府は東電の資産を保全させなければならない。

 そうなると、東電の取引先は、東電に対して現金での支払いを要求するようになる。そうなると、東電は一時的にキャッシュが不足しかねない。だから政府が東電の支払いを保証してやる必要がある。
 そうすれば、東電の資金繰りは回っていくので、当面、問題はない。JALと違って、東電は地域独占だからお客は逃げていかれない。毎月数千億円の収入がある。

 ゆっくりと電力業界の改革を考えながら、賠償金を確定させればよい。
 にもかかわらず、政府与党は東電に、東電が破綻したら大停電が起こるとか、東電を破綻させたら社債市場が崩壊し金融危機になる等と脅かされ、きちんとした責任追及もせずに、国民負担で東電を救済しようとしている。

 JALの時も、JALを破綻させたら大変だなどと同じようなことが言われたがJALは飛び続けた。今回も、電力の供給という業務と東電という企業体の存続はイコールで結ばれているわけではない。

 東電の資産を保全し、キャッシュフローを保証したら、再生機構なりが管財人として乗り込んで、まずコストカットをやる。広告宣伝費に何百億円を使っているぐらいだから、いくらでもコストカットはできるだろう。相当利益を増やせるはずだ。
 そうしているうちに、賠償金額が確定するだろう。もちろん東電の資産では払いきれない。債務を支払えないということは、その企業は破綻するということになる。

 まず、経営陣は総退陣。次に株主の責任が問われて、株式は100%減資。このときに株主がかわいそうだとかいろいろ言うかもしれないが、感情論ではない。株主の責任が問われずに、年金で慎ましく暮らしている方々の電気代をその分上げるなどというのは、資本主義を逸脱している。株式を買った人は、リスクもあわせて買っているのだ。

 ここで株式を100%減資すれば、数兆円が浮いてくる。これをしなければ、その分、国民負担が増えるのだ。

 次に金融機関の責任を問う。ここで気をつけなければならないのが社債の扱いだ。連休前から、東電を破綻させると社債市場が崩壊して金融危機になるという話がまことしやかに永田町、霞ヶ関を駆け巡ったが、そうはならない。

 電力会社の社債は、電気事業法37条で、優先弁済される。つまり、公租公課(税金等)、労働債権(給与等)の次に社債が償還される。資産が残っている以上、電力債はカットされずに弁済される。だから社債市場が崩壊したりということにはならない。
 そして残った資産で、銀行からの融資等の一般債務の返済や被災者への賠償金の支払いが行われる。資産が足りなければ、これらの債権は同じ割合でカットされる。

 賠償金の残りは国が支払う、つまり国民負担になる。だから、株主の責任を100%減資することによって追及し、金融機関の責任を債務カットで追及することによって数兆円単位で国民負担が減る。政府与党案のように株主責任も金融機関の責任も追及しなければ、その分、国民が余計に負担することになる。

 金融機関は事故後に2兆円近い融資を東電に対して行っている。コミットメントラインではなく現金で融資している。この融資を金融機関の経営陣は、どう説明するのだろうか。こうした行為に対する責任は免れない。
 金融機関が、こんなことでは貸し出し余力がなくなって復興支援ができないというならば、金融安定化スキームで公的資金を入れればよい。

 それから東電を国有化し、東電ホールディングスの下で発電会社と送電会社に分け、発送電分離をしても問題はないことを世の中にみせてから、出口で株式売却する時に発電、送電を分離すればよい。株式売却益は、国民負担の返済に充てる。

 政府与党案では、東電は、多額の賠償金を超長期にわたって返済し続けなければならなくなり、企業体も維持され、電力業界の改革もできなくなる。国民負担は増え、責任をとるべき存在は許され、電力の改革も止まる。最悪だ。

 だから、与党議員に、なぜ、あなたはこんな最悪の東電救済案を支持するのかと尋ねてほしい。
 東電、財務省、金融機関、経産省は、毎日、足を棒にして、議員を脅かし、説得して回っている。

 だれが正義をもたらすのか。あなたがやらずに誰がやる!