goo blog サービス終了のお知らせ 

絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

女性は産む機械発言は、チーム「美しい国」のもの

2007-01-31 17:20:38 | 生活・教育・文化・社会
■「女性は産む機械」発言はチーム「美しい国」のイデオロギーが表面化したもの

 柳沢厚労相は、少子化対策の中核の省の大臣である。合計特殊出生率の該当の女性年齢である15歳から50歳のことを、「生む機械、装置は決まってい・・・」という比喩的発言を講演会でした。これは軽率発言と思いきや、柳沢大臣の考え方の本音が出ただけである。さすがまずいと思って、「生む役割の人」と訂正したというが、性別役割分業の考えは変わらない。
 言い換えたとしてもこの発言は、柳沢大臣だけでなく自民党の「美しい日本」を掲げるチームの人たちの、イデオロギーでもあるのだ。だから分かりやすく説明するために、普通では思いつかないようなひどい比喩表現が出てくるというもの。
 なぜかというと、チーム「美しい日本」は、男女共同参画社会基本法を骨抜きにする、あるいは変えようとさえ考えている。
 市町村と都道府県で男女共同参画社会基本法を踏まえて条例を作っているが、それに対してことごとく法の理念にそぐわない行動を取っているのが、チーム「美しい国」の考えを共にする人たちのグループである。
 象徴的にはジェンダーフリーという言葉に対する攻撃をし、政府が使用不適切という文書を配布、またジェンダーという言葉の使用まかりならん、と言いうことだ。
 ことさらに日本の伝統文化や家族や地域の重要さを、強調するというかたちをとっている。それが愛国心につながっていくのだ。
 女性差別撤廃条約を批准してから、遅ればせながら男女雇用機会均等法、男女共同参画社会基本法といった国内法を整備したが、その動きはチーム「美しい国」によって阻まれ、後戻り(バックラッシュ)さえしている。
 このような状況だから、欧米では信じられない発言をしても大臣に居座れる、人権と民主主義の後れた国であることを世界に発信しているのだ。
 

■食糧安保、日本農業がいっそう危なくなる

 NHKラジオの6時台に「ビジネス展望」という10分ぐらいの番組がある。1月中旬に内橋克人が、注目すべきことを言っていた。
 オーストラリアと農業分野の自由貿易協定(FTA)の締結に向けて進行中であるが、日本の農業のあり方にかかわる重大事を、メディアが報道しないことはおかしいとのこと。FTAを締結すると関税撤廃も含んだ優遇措置が採られるので、オーストラリアから酪農関係、あるいは季節が逆なので大量の農産物が低価格で輸入される。
 そのことは食糧の自給率をいっそう下げることになり、食糧の安全保障として問題が多い。しかも北海道の農産物とぶつかるので、北海道農業は壊滅的打撃を受けるだろうとのことである。場合によっては、8万戸の離農者が出る可能性あり、とのことだった。
 なぜオーストラリアとFTAを結ぶかというと、日本の自動車を進出させたいという思惑からだという。自動車産業の国際競争で優位に立つという、自動車産業を特別扱いにすることで、日本の産業構造がまたいびつにしてしまう。
 そういえばNHKの「クローズアップ現代」で、アメリカが自動車輸入に引き換えに医療機器を日本が輸入しているということを放送していた。日本は医療機器の技術力や生産もしているが、医療現場がアメリカ製になれているので継続使用するという。
 しかも新製品が出る段階になって価格が安くなる機器を、定価のまま買わされているということだった。自動車優遇政策によって、世界トップの自動車メーカを生み出しているが、失われていくものも大きい。

セリーナの圧勝-全豪オープン

2007-01-28 21:35:49 | テニス・他のスポーツ
 テニスの世界4大タイトルの幕開けは、全豪オープンである。時差がないのでいい時間帯の放送だが、今年は仕事が忙しくて見られなかった。

 女子の決勝は、昨日の10時頃から始まった。午前中いっぱい時間をついやしてはかなわないと思って、それでも見始めてしまった。
 人気のシャラポアと、去年は不調でノーシードから勝ちあがったセリーナであった。試合内容は、大方の予想に反した展開になった。
 セリーナがウエイト制だとしたら1,2階級上のクラスになったと思える強靭とも思える体になっていた。それに前からそうだったが、女性離れした強くてスピードボールをたたき出していた。それとともに精神的にも充実し、集中していた。
 そんなわけで6-1、6-2と、セリーなの圧勝であった。セリーナのプレーの気迫とスピードにシャラポアがなすすべがなかったといってよいぐらいで、時間は1時時間あまりで終了してしまった。好調な時のセリーナには、手の施しようがないぐらいだ。
 強いはずのシャラポアが、久しぶりに19歳という年齢相応に見えたほどだった。

 さて男子決勝は、今日の夕方5時40分過ぎから試合が始まった。35連勝中のフェデラー(スイス)-ゴンザレス(チリ)である。結果は7-6 6-4 6-4で、フェデラーの全豪2回連続優勝であった。
 フェデラーはいつものように冷静に勝負どころをきちんと押さえて、やっぱり勝つべくして勝った。1セット目は接戦となったが、フェデラーが乗り切ったら、後はゴンザレスが攻撃的なプレーをしたが、歯が立たなかった。最後のほうは、フェデラーに左右に振られたりして、ゴンザレスのスタミナ切れとも思えるプレーになった。
 フェデラーは技術、戦術、メンタルなど充実しており、当分は連勝が続いてもおかしくないと思ったのだった。

子どもはつらいよ

2007-01-27 22:24:07 | 当世世間事情
 近所の家の鉢植えのサクラソウが、2週間ぐらい前から咲いている。道端のオドリコソウが、花びらをつけそうな気配である。例年だと2月下旬から3月にかけて咲くので、いかに暖冬ということか。

 昨日の首都圏の電車でのことだ。わたしは本を読んでいたので駅も確かめないであわてて降りようとしたら、下車のひと駅前だった。やれやれといった気持ちになって、ドアのそばにたった。するとドアのそばのバーを持っているが、立っていられないぐらいに酔いの回った子ずれの母親がいた。電車の空席はなかったが、新聞を広げて読めるぐらいの状況であった。
「ロマンスカーに乗れば30分でついたのに」
「ごめんね、酔っ払っちゃって」
「駅からすぐタクシーだからね」
などと、とめどもなく子ともに語りかける。そのうち立っていられなくてしゃがんだ。そして子どもに顔をくっつけようそしたら、子どもは横向いて拒絶。さらに、
「チューもだめなの」
という母親に、横に顔を振ってノーのサイン。
 子どもは1年生ぐらいの女の子で、いたって冷静に親に距離をとりながら対応していた。私は気づかれないように観察していたが、そのうち子どもに微笑んでしまっていた。そのため、下を向いていた母親が一瞬顔を上げたとき私を目にして、
「ほら、おじさんに笑われているよ」
といわれてしまった。これは観察としては失敗である。
「家に帰っても絶対おなかすいたといわないでね。絶対だよ」
「あー、ラーメンがあるか」
 子どもは、親と関係なさそうにさえ思える態度をとり続けていた。夜7時ごろからの一駅10分ぐらいの車内でのことであった。
わたしは下車するとき思わず子どもに手を振ってしまった。子どもはわたしに微笑みで返した。
 酔っ払った母親に周囲の目を気にしながら、冷静を装って振舞わなければならない幼い子ども。今の子どもはつらい体験をさせられているんだな、と考えさせられてしまった。

ペコちゃんの舌出しは

2007-01-26 15:19:48 | 生活・教育・文化・社会
 大手菓子メーカの不二家が、原材料の品質が問題で操業休止状態である。わたしの住んでいる街の駅ビルの不二家の売り場は閉店になっていた。食品メーカーが1度信頼を失ったら、その風評から立ち直るのは大変だろう。
 雪印のように、食中毒など人体に影響を及ぼす事件にはなっていないようだが、社会的制裁を受けるのはやむをえないだろう。わたしはこのニュースを追っていないので詳細分からないが、実態が明らかになれば致命的ダメージを受けるだろうに、続けていたのはどうしてなのだろう、と考えてしまう。このところ業績悪化していたというが。当面の利益を追うあまり、巨大になった企業でも隠し続けられると思っていたのだろうか。内部告発が事件化する発端なのだろうか。

 不二家は、わたしにとってはミルキーが一番なじみである。キャラメルの殻を破ったものとして、今でも時々食べる。
 ところで昔クリスマスケーキが盛んに出回るようになったころ、不二家屋の社員から、夏から生産に入るということを聞いたことがある。それ以来大手メーカーの工場生産のケーキといった、いわゆる生菓子は食べないようにした。もっともケーキが好きというほどではないこともある。
 わたしはへそ曲りのせいで、あるスーパーに不二家のミルキーチョコレート(103円)が売っていたので、初めて買って食べたのだ。それにミルキー(51円)が1個だけあったので、貴重と思って買った。
 チョコレートは、グリコのアーモンドイリか明治がいい。とはいっても体によくないと思っているので、めったに食べない。でも学生が甘味のない(ビターチョコという)ナン%とかいったものが体にいいといって食べていて、勧められた。苦味のあるココアの味でまんざらでもなかった。

 ところで不二家のペコちゃんとポコちゃんの唇は、好意的コミュニケーションを求める典型的なものである。ペコちゃんの舌は、舌なめずりをしているのである。舌なめずりするほど、おいしいということだろう。菓子メーカーとしてこのキャラクターは、売り上げに相当貢献しただろう。
 しかし舌なめずりという行為は、作った50年前には「食べたい、おいしさがあふれている」といったイメージを振りまいただろうが、今の時代に合わない。可愛い愛嬌があるキャラクターとしてみているが、舌なめずりするのは、今は戒められるしぐさではないだろうか。
 狼が獲物を狙って舌を出すということと、重なるように見えないこともない。そのうちペコちゃんの舌は「アカンベー」をしているよう見えてくるかもしれない。舌を出すのは、気持ちを許せる状況で照れて出す場合もある。舌を出す行為でも、様々な意味があるということである。

納豆騒動

2007-01-24 19:19:31 | 生活・教育・文化・社会
 今朝の6時50分すぎから7時ごろまでの間の、新幹線から見えた日の出はふしぎな美しさだった。屋根から昇ってきた太陽は、巨大な深みのある真っ赤な色で、光を放たなかった。やがて赤さが薄らぎ、雲にさえぎられながら姿を隠した。 

 15日(月)の夕刊とともに配達された1月26日号の『週刊朝日』に、納豆がダイエット効果ありというテレビ放送後、品切れ店が出たと掲載されていた。わたしは、バカな放送にたぶらかされて行動人もいるもんだと、納豆をダイエットのために買った人にあきれたのだった。それは同時にテレビって、すごい影響力を持つものだ、ということでもあった。
 この『週刊朝日』が火をつけたことが、番組内容が捏造であり、スポンサーも下りて放送が消えてしまうことになった。久々に週刊誌メディアの独自性を発揮したこととなった。
 この週刊誌も、出版社系のものは怪しい記事が多い。しかし時々政治や企業を揺るがすようなこともする。わたしは週刊誌は4誌購読(多すぎるのに自分で改めてびっくり)し、他のものは広告をじっくり見るようにしている。世間の動きを知るためにね。
 
 わたしは民放のバラエティー番組は見ていないが、この手の教養番組はスタッフの専門的能力と制作費が相当かかるはずである。本来教養番組であるはずのものを、バラエティー程度の感覚で制作したのだろうか。
 NHKの「ためしてガッテン」のように、専門家による内容検討、大勢のスタッフで長期間かけて作るようなことは、プロダクションに外注している今の民放ではできない。
 バライティー番組も、詳細なシナリオがなく司会者のキャラクターで進行させ、その後編集でツギハギし、音楽や笑などの音を入れて番組に仕上げる、といった手法だ。

 しかし粗悪な番組を嘆きつつ、それを多くの人が見て行動することに、わたしは恐ろしさを感じた。今回はダイエットへの関心がいかに高いかであり、納豆を食べると簡単なことで効果があるという普通では信じがたいことを、科学の裏付を装ったウソに引っかかってしまった。ダイエット、エステなどへの関心は、変身願望なのだろうか。健康ものの市場もふくらんでいるという。健康は、ある商品を使用するといったように、簡単には手に入らないものなのだが。
 電波という公共物であるが、視聴率という市場原理が強くなっているので、わたしたちのメディアリテラシー力が問われているのである。
 よく知らないが、占いおばさんが頻繁に出ているようだし、スピチュアルといった(この関係の本が、大型書店で同一著者のものが数種類平積みになっている)こともにぎわしているらしい。カルトであるオウム事件の時に、テレビのあり方が問われたことを思い出している。

時間の理解と規範のめばえ

2007-01-15 14:54:30 | 子どもからの発見
 今日のわが家の玄関の温度計は、0℃だった。この冬で一番寒い朝のようだった。

 日本は、時間に几帳面な文化である。電車は2、3分刻みで時刻どおり運行する。少し遅れようものなら、そのお詫びのアナウンスをたびたびする。私はそのアナウンスのほうが、気になるほうだ。
 授業も、時間通り始めるし、会議の開始もである。とくにその傾向が強くなっているように思っているが、日本全体の傾向なのだろうか。多少時間にゆるやかだと「ここは○○時間だから」といって、引け目を感じながらいう。世界中に、こんなに時間通り動く国はあるのだろうか。
 しかし社会的には、生活の24時間化と個別化が進んでいるため、社会規範としての時間(社会的リズム)はうすれ、「時刻文化」に変化しているようである。わたしは3つの授業がすべて1限目だが、起床できなくて出席するのが困難な学生が多いようだ。わたしが就寝中、あるは起床時間ぐらいに就寝する学生が多いと聞いている。

 さて海は6歳頃から規範意識を持つようになったので、時間との関係でみることにする。幼稚園で時間のことは、時計を読むことと行動の指示は、年長では日常的に使っているらしい。時計の時間を聞く、あるいは6時に帰るようにいわれたら、今何時と気にするようになったのは9月頃(5歳10カ月)からのようだった。これは園での運動会の取り組みとも関係がありそうだ。時間というより、基準にそって行動することが要求されたから自分の気持ではなく必要とする条件で行動する意識が強くなったのでは、推測している。
 また、時間に対する意識は、市で鳴らすチャイムが動機付けになったようだ。それが時間の合図ということが分かり、夏休みの頃チャイムがなると、「なんじなの」と聞いた。チャイムといえば、夏は5時で10月から4時になったときは、夕方の感じが違ったせいか何日間か戸惑いも持ったようだ。
 わたしのこれまでの経験からしたら、時計の時間を意識して行動するのは早い。この年齢では、時間を子ども自身が気にしないで行動できる条件を与えたほうがよい、と考えているからである。
 しかしおおよそ時計を読めるようだ。幼稚園でバスや預かり保育のことがあり、それらの運営を、子どもに時間を示してそれにそって行動することが多いのだろう。家庭では、テレビの見る番組を何曜日の何時からと記憶している生活をしている。たとえば21時に動物に関する番組予告スポットがあると、「わあー、ねてるからびでおとって」というぐらい、時間と自分の生活を結び付けられるようになっている。
  
 曜日の理解は、2学期から園のサッカー教室に入って、それが木曜日なので意識するようになった。それ以前から土日が休みであり、月曜日から園が始まることは理解していた。
 予定と日程については、明日については5歳ごろから分かったようだ。あさってが分かるには、それからやや期間が必要であった。
 今朝は「しあさってってなんようび」と聞いた。「木曜日だよ」というと「サッカーのひだ」と反応した。サッカーへの期待感が強いからだろう。
 冬休みになってから幼稚園が始まるのを10日から、と言っていたが、たまたま「あさってから幼稚園が始まるね」といったら驚いて「わぁーぼやぼやしているばあいじゃない」と言って、じきに幼稚園が始まる意識になった。 
 3学期ということも分かり、4月から小学校入学も間近のように話題に出るようになった。小学校の運動会を見たり健康診断にいったりしたこともあるが、ランドセルや机なども話題になっているのだろう。
 ところで妹ふきが3年保育からで、自分が2年保育からなので3年保育のふきは年長になれないと思っていた。6歳過ぎからそのことが自分の体験だけでなく仕組みとして理解したようだった。
 過去のことについてどのような認識をしているかというと、最近ポケモン収集をし始めているので、「ポケモンはクリスマスごろからすきになったの」ときいたら、「それよりすこしまえ」という答えが返ってきた。過去のことを時期とあわせて記憶するようになってきている。

 時刻に終われる生活でなく、時間が自分の気持ちだけで左右できない行動のよりどころ他人との共同といった規範意識と結びつくといいのだがと考えてみた。現在、過去、未来といった時間空間を、どのような過程を通して認識していくか興味深いことである。  

文字を書いた

2007-01-13 21:14:43 | 子どもからの発見
■ ともがきにもっていく

 ふきは、折り紙で花をおったら、
「これよううちえんの ともがき にもっていく」
といった。友達なのに友垣とは、いったいどういうことなんだと思ったら、気づいたことがあった。
 唱歌である故郷の、2番の歌詞に「ともがき」とあるのでした。故郷を何度も歌い友垣を友達と説明されたのを覚えていたので、使ってみたのだろう。
 如何にいます父母
 つつがなしやともがき
 雨に風につけても
 思いいずる故郷

 この歌は、朝の連続ドラマ「純情きらり」のある場面で聞いてから覚えて、よく歌うようになった。気持ちをこめて、2番まではいまだに時々歌っている。
 
 故郷は「尋常小学唱歌」(6) 文部省 大正5年
 高野辰之作詞 岡野貞一作曲

 小学唱歌は、戦前の国定教科書の子どもの歌であるが、作詞作曲を伏せられている。戦後両人のものであることが明らかになり、唱歌の作品は多い。

■ 文字を書いた

 3歳8カ月のふきが、文字を書いた。A4大の50音表を見ながら、最初に書いたのは家族の名前だった。不完全であるが一人でじっとやって書き上げた。
 兄の海が読んで文字をすらすら書くので、その影響で覚えてしまったのだ。2ヵ月ぐらい前から、文字と称して右下がりの斜め横の1センチほどの線をたくさん書いていた。それが形の弁別力がともなったからだろう、1月ぐらい前から読める字が出始め、一気に書けるようになった。そういえばこの頃、人の服装の襟を出すように言ったり、普段と違った靴を履くと気づいていうことが多くなったようだ。
 今年は常連のメジロが庭に来ているので、野鳥用のミカンをやる体験をした。メジロが来ると、室内から「メジロさん、メジロさん」と話しかけている。紙に
「たべてね いつもあげるから」
と書いて、庭を見るガラス戸の外に貼り付けた。家族の名前の次に書いたのである。
 海は、4歳の頃はこの世に文字があることが知らなかったことからすると、環境の影響は大きい。兄の真似をして見よう見まねで覚えてしまう。かな文字が言葉を表記するのではなく、表音文字のため獲得しやすいということを確認した思いでもある。

最近のごっこ遊び

2007-01-10 05:07:01 | 子どもからの発見
 海はごっこ遊びが好きなタイプで、6歳を過ぎた今もやっている。この3、4カ月は動物になって物語を作って進行させていくことをする。
 最近では、動物になりその習性も取り入れて進行させる。まず紙に名前と動物の役を書く。これをセロハンテープで掲示することが多い。
 新しい動物の場合は、体の大きさや生息場所や餌や夜行性かどうかまで、いわば習性を調べおおよそその条件にそって役割を演じる。妹のふきが3歳半過ぎごろから理解力と関係を持つ力がついたので、もう一人の大人と3人でよくやっている。
 習性どおりやったり擬人化し現実の生活になったりしながらやる。時折泣き声はどんなものか、といったことにも関心が向くことがある。
 構想を思いついては、他人に「○○っていって」と指示することも多い。それに周りが合わせるのは、結構大変そうである。

 5歳過ぎではおうちごっこが多かったし、ある時期にはテレビのレンジャーものをやったときもある。それにごっこに必要なものを紙で作ることに大部分を費やし、それで終わることもあった。ごっこのが連続性を持って継続するには、片付けなくてもよい空間があることが、重要のようである。このように年齢によって、遊ぶ内容や関係の持ち方が変わる。
 今はサッカーなど外遊びや本を読んでもらう時間が増えたので、相対的に少なくなったが、知識と言葉が増えたこと、コミュニケーション力がついたことなどで、なかなか緻密なごっこになってきている。

コンクリート打ちっぱなしの壁の意匠

2007-01-09 07:25:15 | 当世世間事情
 建物の意匠は時代を反映する。ポストモダンといわれて20年以上たったで、かつての団地の建て方のように同じ形のものを個数たくさんにする合理性一辺倒ではなくなった。団地も様々な意匠と空間環境の植栽などに工夫が見られ、観察するのも興味深い。
 家の意匠も時代を反映するものだ。とくに壁などを見るといつごろ建てたものか分かる。
 ところで最近はハウスメーカが競っているせいか、多様でたくさんの資材が出回っている。レンガを模したパネルが多かったとき、やがてレンガそのものも多くなった。これはレンガを1枚ずつ貼るのでなく、パネルのように大きな面ではれるようになったからである。
 このところ木の感じを出すもの、逆にガリュバリュームを鋼板使って金属性を強く出すものも目にするようになった。
 最近珍しくいものを見たのは、コンクリート打ちっぱなしのパネルを使った壁であった。一見打ちっぱなしに見えたが、重量感を感じなかったのでそばにいって確認したら、パネルであった。コンクリート打ちっぱなしが意匠としても人気があるのだろうな、と考えてみた。
 コンクリート打ちっぱなしは、大きな建物はシンプルで重量感があるので工法だけでなく衣装としても好きだが、住宅でも時々見かける。専門的には分からないが、エネルギーコストや自然の影響を受けない居住性など、どうなのだろうかと思っている。


盛岡商業が優勝-高校サッカー選手権

2007-01-08 18:04:26 | サッカー
 東日本と北日本が低気圧のため風と雪でそうとう荒れた天候であると、ニュースが繰り返し伝えています。首都圏はおだやかな晴天です。
 わたしは、たまに月曜日もテニスをすることがあるので、やりました。ラリーをしていたら続けて左側にボールが流れました。左手を前方に出して腕だけでなく体を使って打つように指摘を受けたので、やったらすぐ改善されました。自分で打ったボールのゆくえを見てしまう傾向が、いまだにあります。「一球入魂のように打つのでなく楽に打ってすぐ構えるように」といわれ、今の自分のプレーを言い当てているので、納得できるアドバイスでした。
 いつも問題点の指摘を受けているが、月曜日のコーチはどうすればよいかを言います。ほめるわけではないが、課題がはっきりするのでやる気が出てつい励むのです。それに種目が同じものをスピード変えたてバリエーションをつける、複合的メニュー(応用といってもよい)があり、おもしろいのです。

 成人式なので、昼のニュースでは例年放送する浦安市のディズニーランドを会場にしたものを放送していました。親が同伴する、中学生が運営する、といったことも報道されています。わたしはこれまでも書いてきたが、冠婚葬祭の冠を意味する成人式は、市町村でやる必要はないと考えています。祝いたい大人が様々な単位でやればよいのではないでしょうか。

 さて、高校サッカー選手権の決勝でした。今年は準々決勝の静岡学園―作陽戦を見てそのレベルの高さに驚きました。作陽-盛岡商業の決勝では、作陽が圧勝するだろうとして見ないつもりでしたが、家族が見るので最初だけと思ってその輪に入りました。
 立ち上がり意外にも盛岡商業が優位に試合を進めたので、つい見続けてしまいました。ファーストハーフの前半は、盛岡商業が3本のシュートを打ちました。そのうち作陽の、技術の高さとスピードで組み立て、サイドからの攻撃とドリブルも使うサッカーになっていきました。シュートは枠に行かないものの、得点の可能性を感じさせました。盛岡商業は技術スピードともに劣り、組み立てるというより前線にボールを出して、サイドも崩せずに、もっぱらボールに強く寄せる粘り強いサッカーに徹しました。
 セカンドハーフは、作陽が鮮やかに先制点をいれました。しかし盛岡商業は集中と運動量を切らさずとにかく粘り、ディフェンスの隙が出たところをシュートをした時の混戦のこぼれだまを中央から林がシュートを決め、同点としました。
 作陽はなおかつ余裕を持って勝利に近づくかのような試合をしたのに対して、劣勢でありながらひたすら走り続けて闘志を失わなかった盛岡商業が、終了5分前ぐらい前に左サイドから持ち込み執念でディフェンスをかわして中央に出したボールをつめていた千葉が得点をしました。
 盛岡商業は、公立であり地域の選手ばかりで、雪というハンディがあるという条件のチームです。走ること、ボールへの寄せを早くすること、ボディコンタクトに強いこと、勝利への執念など、昔の高校サッカーを見た思いをしました。去年の野洲高校に象徴されるような、そして作陽のように華麗なプレーと試合相手によって戦術を変えられるレベルのチームではありません。しかし盛岡商業のサッカーに、高校サッカーの原点を見た思いもしました。
 齋藤監督は、長年献身的指導をしてきたとのこと。病気上がり高齢のハンディを押しのけるように果実をつかんだのでした。民主党の小沢一郎党首と似た顔をしていたが、岩手県に多い風貌なのかな・・・。
 それに審判が厳しい裁定者ではなく、よき演出者とて笛を吹いていたのが、試合を面白くしたのでした。誰もが優勝候補と考えなかっただろう高校の、優勝もいいものです。