絵本と児童文学

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読み聞かせの運営で心すること

2006-06-29 08:05:59 | 絵本と児童文学
 図書館では、大人と区別した子ども専用の絵本と児童書だけを置く空間を持つのが、一般化しつつあります。子ども向けの書架にして、親が幼い子ども連れで利用しやすい環境を工夫しています。
 先日訪ねた図書館では、大人の閲覧室を絵本中心にして親子で利用できるように、改装していました。限られたスペースと予算条件を、月並みに本をそろえた「小さな図書館」ではなく、子どもとその親向けに特化した特色ある図書館づくりをしているのです。親子連れの利用と貸し出しも多いとのことでした。
 その運営を活性化させるために、ボランティアによる絵本アドバイザーを配置し、読み聞かせ活動も恒常化させています。

 さて、読み聞かせについては、その意義や技術は重要ですが、ここでは運営を中心に考えてみることにします。図書館等で読み聞かせを定期的にしている場合、経験者から引き継がれてさまざまな工夫でおこなわれています。その経験を基にしているだろう運営上のことを、整理してみることにします。

1 対象にする子どもの条件

 最初に押さえたいことは、読み聞かせをする対象の子どもがどのような条件にあるかということです。
 学校や園のクラスで読み聞かせをやる場合は、クラスとしての秩序が作られているので、日頃の指導でおこなわれているような言葉かけで、子どもの集中をうながすことができます。子どもが集中してくれるので、読み聞かせをする側のペースで安心してやれます。ただし大勢の子どもに対して広い空間でやるのです。そのため子どもに訴えかけるような調子の読み聞かせになる傾向があります。

 ところで図書館に任意に集まった子どもたちに対しての場合は、読み聞かせを成立させる条件づくりに苦労します。
 人数や年齢といった構成条件によって、読み聞かせを可能にする条件づくりをしなければなりません。実践をしている人から耳にすることで、子どもを集中させるにはどうすればよいかということがあります。しかし子どもを集中させる特効薬はありません。
 慣れない人は子どもに引きずられ、まどわされ右往左往します。ベテランの人が経験から得た力で何とかしのいでいる場合が多いのではないでしょうか。
経験を蓄積した人は、子どもの状況を把握したうえで、子どもの関心に沿うことを提案しながら、自分のペースに子どもを引き込んでいるはずです。
 さまざまな子どもの表現を見届けながら、かつ読み聞かせの側に子どもたちをひきつけなければなりません。よくやることは、手遊びを一斉にやり、子どもたちが聞ける条件をつくるという方法です。手遊びは万能ではありませんが、学校や園のように子どもたちが一斉に集中する条件をつくることが容易になります。手遊びは本来関係づくりのコミュニケーションであり、子どものからだと歌の表現であり、気持ちの切り替えを可能にする活動です。単に静粛にさせる手段だけには、使いたくないものです。

 集まった子どもたちがてんでんな行為していてもあせらないで、ゆったりした気持ちでアイコンタクトをかわします。ざわざわしても待ちます。子どもたちの注意を喚起するには、子どもたちのおしゃべりが下火になる瞬間があるので、そのタイミングでしゃべりだします。「さあ、はじまるよ!」あるいは絵本をかざして「〇〇のおはなしです」といったワンフレーズを大きく鋭い声を発するのがいいかもしれません。そしてすぐに穏やかな声と言い方にかえます。子どもの声より大きい声をだして統率しようと思ったり、あせった気持ちになると、子どもの心はささくれ立ったままで絵本に向かえません。

2 読み聞かせする側の子どもへの姿勢

 紙芝居や大道芸の人たちは、学校や園のような一斉集中する条件をつくってからやりません。子どもたちが整然とした状態に整わなくとも、実行します。読み聞かせも、始まってから子どもの関心が向いて、集中することがあってよいことです。
むしろ読み聞かせをする側が、子どもが静かに一斉に集中する状態でなければ始められないといった秩序観持つと、開始前に時間とエネルギーを使い堅苦しいものになります。

 絵本に集中するのを、子どもにのみ求めるのではなく、むしろ読み聞かせをする側にかかっているのだととらえることです。それは絵本の内容に対する関心に、子どもを引き込むことが出来るかどうかどうかということです。そんな思いで読み聞かせの実践を蓄積していくと、子どもに鍛えられるものです。
 そのような体験の蓄積が、子どもとのコミュニケーション力を向上させ、絵本を子どもの心に届けられる、子どもからも好かれる絵本の語り手になれるのではないでしょうか。

3 どのような形態にするか

 読み聞かせの形態は、対象の子どもの人数、年齢、空間の物的条件などによって、どのようにするかを考えます。考えるポンインとは、読み手と子どもが相互応答的交流のできるようにすることです。
 学校や園のクラスでイスに座っている状態の時は、大勢を対称にするので子どもの方を向くようにして、全体にアイコンタクトを交わし声も届くぐらいの大きさで、一人ひとりに行き届いたように配慮する必要があります。
 3~5メートルぐらいしか絵が読み取れないことや、左右のサイドにいる子どもが見えにくい、といったことを考慮してその条件にある子どもにも伝わるように、子どもの方を向きながら声とアイコンタクトで補うように配慮しなければなりません。
 少人数の子どもが床に座った状態でする場合は、読み聞かせをする者を中心にし、人数と年齢によって縦になったり車座に床に座ることになります。10人以下ですと読み聞かせする人の息使いが子どもに伝わるし、子どもの反応も感じ取れるので読み聞かせの心地よさを体験できます。子どもを並ばせる、あるいは隊列が整わせるといったことにこだわらないで、自然な状態がよいでしょう。
 子どもに語り聞かせて物語を心に届けようという思いを持てば、訴えるときのような大声でなく、絵本の内容によっては穏やかにしっとりしたものにする工夫も必要です。
 2、3人の幼い子どもですと対面しないで、子どもが本を見せて後ろから読み聞かせるのもいいでしょう。絵本は本来自分で開いてみるプライベーなモノなので、人数が少ないほうが望ましいのです。
 なお、大勢を対称にする場合は、経験豊富の人が無難です。初期の頃は少人数で子どもの反応を感じて読み聞かせをする体験を積んだ方が、読み聞かせの心地が分かるものです。

4 プログラムビルディングをどうするか

 20分や40分という時間の読み聞かせの場合は、あらかじめ時間配分とどのように展開するということを準備するする必要あります。時間内のプログラムをどう組むか、プログラムビルディングのことです。

 保育や授業で一般的には、導入、展開、終結という定式があります。それに文章を書く、あるいはことを進める場合、起承転結ということもいわれています。これらの定式にそって、何冊かの絵本の順番に配置します。
 冒頭に位置づける絵本は、短めであっても新刊で珍しいものや興味をそそる絵本作りをしているといったものがよいのです。集中を高めることにつながるからです。その会全体をイメージできるような、しっかりした絵本にします。途中は親しみやすさ、あるいはおもしろいもので気持ちが楽になるものがよいでしょう。最後は長めのもので、その会でメインにしたい絵本を配置します。ただし子どもの出入りがあって全体に落ちつきを欠くようなときは、臨機応変に順番を変えざるを得ないこともあるので、柔軟さも必要です。
 たとえば5冊用意すると、順番を決めます。複数の人でやる場合は読み聞かせを担当する絵本も決めます。子どもとの対話に慣れている人は冒頭がよいでしょう。中ほどを担当する人は経験が少ない人でもよいのだが、その場合経験者が司会のようにつなぐ話をした方がよいでしょう。
 最後は、経験を問わず絵本の内容を掘り下げて完成度の高い読み聞かせが可能な人が、担当します。
 1冊の本の読み聞かせの時間は、長くとも10分ぐらいで終了できるものが無難です。たとえば『ちいさなおうち』(バートン作 いしいももこ訳 岩波書店)や『おしえれのぼうけん』(古田足日・田畑精一作 童心社)といった絵本は、20分ぐらいかかります。
 これらの絵本は、子どもが聞く条件をもっている状態で、経験の豊富な人でないと、語り伝えること難しいです。

 もし40分ぐらいを大勢の子どもを対象にする場合は、内容に変化をつける意味で、絵本以外のものを用意するのも一考してはいかがでしょうか。その場合、人形劇などでなく、平面表現で絵本と類似性のあるエプロンシアターやパネルシアターといったものがよいと思われます。
 とは言ってもパネルシアターなどは、絵本の語りと違って演じなければなりません。小規模で気分転換ぐらいの位置づけがよいのではないでしょうか。紙芝居も演じるのですが、子どもにとってはエホントの違いがはっきり分かりません。

5 子どもの反応を読み取れるようになる

 読み聞かせは代読でないので、する側と聞く子どもがともに楽しいものでなければなりません。読み聞かせをする側が高いところから聞かせようと構えるのでなく、大人に内在している子ども性を呼び覚まし発揮できるようにします。子どもと一緒に絵本を楽しむ、ということでもあります。
 子どもに対しての絵本の高さですが、子どもの頭よりわずかに高いぐらいがよいです。子どもが床に座って、読み聞かせをする側がいすに座って子どもが天を仰ぐぐらいになっているのをよく見かけますが、子どもと同じ目線がよいでしょう。
 読み聞かせをする者が喜びになるのは、子どもの反応を感じ取れるようになったときです。子どもの反応によって、その絵本が子どもにどう受け入れられているか分かります。また、どの部分で子どもたちの集中が高まったか、あるいはどんな感情になったか、といったことを感じとれるようになったら、読み聞かせをする者が同時に作品評論を出来る可能性も備えつつあるといってもいいでしょう。自分の作品評論を子どもによって確かめる、あるいは子どもの反応によって作品の見方を教えられるときがあります。
 子どもの反応を感じ取れるようになるには、そうとう経験を積まなければなりませんが、目標をそこに置くと意外と早くその域に達することが出来ます。
 下読みをして、子ども方を向いて読めるようにするのです。その場合絵本を暗記するわけではなく、読んでいるときに次の行を1、2行目で読み取ってしまう技を、身につけるとよいのです。合唱をしたり楽器を弾くときに、4小節ぐらい先まで読み取って演奏します。その手法を読み聞かせに取り入れるということです。

 日本の絵本でも、半世紀読み継がれるほどの作品もあります。親子3代にわたって読み継がれるほど生命力の長い、アナログな文化です。読み聞かせをする側と聞く側がお互いの息づかいを感じながら、絵本という文化を共有し、後々までリレーのように伝えられていくものなのです。

家族は難しい

2006-06-28 13:30:18 | 子ども・子育て・保育
 児童福祉施設での学生の実習先に、訪問をした。乳児院では、現代家族の生々しい状況と乳児院の新しい課題を聞く機会となった。

 入院に際して、ここ数年前から起きていることがある。24時間型の無認可のいわゆるベビーホテルに預けっぱなしで引取りに来ない、あるいは病院に入院して退院時期がすぎても引取りに来ないため、児童相談所を経由して子どもを保護する意味で仮入院する。
 その間母親は抜き差しならぬ事情があったかと思いきや、そんなことではないのだ。母親はたいてい、乳児院に「人さらい」「同意していない」といった悪態をつくという。乳児院を非難しつつも、あるていど期間がかかってから正式な入院となる。

 以前は、退院後(在院年齢は3歳未満)に70%が家族の引取りで、30%が児童養護施設だった。2年前からそれが逆転して、70%の子どもが児童養護施設へ措置される。虐待の場合などは、親の回復は困難なので児童養護施設で、子どもが親を超えられるぐらい育つことを期待するようになる。
 親が健全の場合も少なくない。若年親など、子どもを養育責任が希薄、あるいは親性といったものが感じられなく、乳児院でわが子が育っていることに嫉妬して自分を世話してほしいと思われる行動を取る親もめずらしくないという。そのため子どもに面会に来たとき親の話を聞くなどを、意図的にやるようにしているという。家庭支援専門相談員という専門職を配置するようになった。これは児童福祉施設最低基準にはないが、配置することで認定されている。
 
 子どもの泣き方が、以前にあった激しい泣き方とは異なるものが増えている。なんとも比喩しようのないような叫び声であり、恐怖やパニックがともなっているように聞こえるという。出産後まもなくの子どもの場合もあるので、胎児段階で影響受けているのだろうか、と言う解釈してみているという。親が、DV、ヤミ金取立て恐怖、車上暮らしなど体験している場合が少なくないので、その影響だろうか、と。
 夜寝るという生活リズムが定着しない子どもがいる。夜中に機嫌よく遊びだす子どももいる。
 そのような状況は、小児精神科医によれば、小児精神科病棟と同じだそうだ。かつてのように乳児院という赤ちゃんのおだやかで健康な暮らしの場にするのは無理で、現状を受け入れて養育していくしかないだろうとのことだ。
 また昔は1歳ぐらいまで病気になる子どもは少なかったが、今は0歳でもからだの異変が多いという。わたしが子どもを見た感じでは、これまで訪ねた乳児院より子どもは健康そうに思えた。生後1カ月未満の子どもがいた。2歳の子どもがわたしのところによってきたので、応じた。子どもとのコミュニケーションは、心穏やかにしてくれるものだ。

 去年訪ねた乳児院では、子どもにアタッチメントの形成を重視していた。地域に開放的にし、「抱っこボランティア」を求め、それが機能しているようだった。担当制をとっており、子どもと保育士とのアタッチメントも形成される。すると面会に来た母親に対して、保育士に寄り添いながら距離を取る子どもがいるということだった。

 ある研究誌の編集の手伝いをしているが、特集が家族である。そんなことがあって家族について考えていただけに、家族が成立している困難さとは別なカテゴリーの家族について考えさせられた。
 それに家族の事件が連続している。そういえば話の中で「演技性人格障害」という言葉も出たな・・・。

シュートが決まらないと勝てない

2006-06-19 13:15:35 | サッカー
 初戦のオーストラリアに1-3で敗れたので、決勝トーナメントは難しくなった日本。しかしクロアチアに勝つと望みが出てくるのだった。ブラジルが2勝してトーナメント進出を決めた後の日本との試合は、チームコンデション作りのためバックアップ選手を中心する可能性がある。日本は引き分けぐらいには持ち込める期待ができたのだ。

 クロアチアとはスコアレスドローに終わった。4バックでオーストラリア戦よりいい試合をした。川口のPK(前半22分)をキャッチしたことに象徴的なようによく守って、攻撃もした。サイド攻撃の右の加地と左の三都主もよくやっていた。たびたびディフェンスを崩し決定機を作りながらも、ゴールはならなかった。中田、小笠原のミドルシュートも枠をとらえていたが決まらなかった。
 勝たなければならない試合、いや勝てる試合を逃してしまった。これまで言われ続けている、日本の決定力のなさを克服できなかっただけなのだが。
 それに日本チームは、前半は川口が遅延行為でイエローをもたった38分ごろだったろうか、疲労で集中力が落ちた。後半35分頃からも同じだった。オーストラリアに得点を許したのも終了間際だった。

 この結果は、冷静に見れば日本の現在の力である。日本の先発メンバーが、レベルの高いイタリア、イングランド、スペイン、ドイツ、フランスリーグでレギュラーを確保している選手がほとんど占めるというぐらいにならなければ、決勝トーナメントに進出はできないのだろう。現在は、一人もいない。これからW杯の3回目後ぐらいの大会のとき、そのような状況になるだろうか。
 それに国内リーグが50チーム(現在39)ぐらいで、市場規模が現在の2倍ぐらいになる必要があるだろう。Jリーグの初期の頃に招いたレベルの外国人選手と監督が、魅力を感じるリーグになればよいが。

 W杯は日本チームにこだわらずともおもしろい。今朝の韓国―フランスの後半戦を見た。後半36分に韓国が得点し同点に持ち込んだ。韓国の最後まで萎えない運動量と集中力に驚いた。韓国は勝点4で、G組(フランス、スイス、トーゴ)トップ、決勝トーナメント進出の可能性が大きくなった。韓国選手のモチヴェーションは高い。
 17日(土)のポルトガル-イランを見たが、ポルトガルが勝利して決勝トーナメント進出が40年ぶりとは、驚いた。W杯出場常連国で、強い国のはずがW杯では弱いという印象だったのが、確かだった。スコラリ監督が、素材のよさをチームづくりとして成功させているのだ。

 F組のブラジルーオーストラリアは、2-0でブラジルの決勝トーナメント進出が決まった。

 *日本-クロアチアは、テレビ朝日系の放送だったが、視聴率が関東地区で5 2.7%であった。瞬間高視聴率は終了直後(11:51)の68.6%。わたしはの場合は、BSハイビジョンだったので、それも含めるともっと高かったのではないか。



1次リーグ突破が難しい1-3の負け

2006-06-17 13:29:03 | サッカー
 W杯の1次リーグが2試合目になり、トーナメント進出チームが出始めている。
A組ドイツ、エクアドル、B組イングランド、C組アルゼンチン、オランダである。他の組も、今のところ順調な勝敗である。ドイツ開催のため、02大会とは異なりヨーロッパチームがコンデションよく、順調に試合をしているということだ。

 12日(月)の豪州-日本以降見た試合は、ブラジルークロアチア(1-0)、メキシコ-アンゴラ(0-0)である。
 クロアチアに堅い守りに対して、ブラジルは30メートルほどのミドルシュートを連発していた。今大会の特長として、このミドルシュートによる得点が多い。日本選手でできるのは、精度は別にして小笠原、中田、福西、遠藤などである。

 さて日本チームは、明日のクロアチア戦に関心が向いているが、オーストラリア戦の寸評を書き記しておくことにする。
 前半の26分中村が得点し、そのまましのいで終了かと思われたが、39分、44分、44分と、終了間際の6分間で3点を献上してしまった。
 同点にされた得点はロングスローに対してGK川口がとび出したがパンチングできずに押し込まれてしまった。途端に日本選手には、敗れたかのような空気が支配した。オーストラリアの高さを利した攻撃をしのぎ、川口のファインセーブで耐えてきた集中の糸が切れたようだった。
 日本がほしい追加点がなかなか取れなかったのと、オーストラリアの高さのある選手交代に威圧感を持ってしまったかもしれない。
 この試合は、スローなペースで入っていった。このリズムはオーストラリアペースである。日本は、いつものようなスペースへの走り込んでの攻撃的なパスが少なかった。左の突破は、ヨーロッパでレギュラーを獲得しているオーストラリア選手には、成功は無理なのに何回も繰り返していた。
 高さを武器にした攻撃に対しては、得点を入れられるまではよく機能していたほうだ。高さの攻撃対策は、相手のよさを消すことであり、守勢になることではない。DF坪井の負傷交代もあったが、小野が入る前ぐらいの時間帯から、中盤が間延びして危険になったのだった。

 主審のアブドルファタハ(エジプト)の判定の影響もあった。日本の得点の判定に対してクレームがつけられたので、それと調和を取ろうとしてその後オーストラリア向けの笛を吹いたようだった。
 何はともあれ坪井の交代、主審の笛などすべて含めてサッカーというスポーツのアナログ的おもしろさなのである。だがからハイライトではなく、2時間ぐらいをかけて見るおもしろさがあるというもの。
 日本は、1-3で敗れたことによって1次リーグ突破は絶望的になった。これから2勝して勝ち点6は考えがたいし、勝ち点4になったとしても-2の得失点は重たく、その差で負けだろう。わたしは負けない試合を1つぐらいしてほしい、とささやかな願いを持っている。まだW杯出場3回目のチームなのだから、過剰な期待はすべきではないだろう。

 なお、13日(火)の新聞は各紙とも最終段階の紙面づくりの苦労が、にじみ出たものになった。日本勝利を想定して進めていただろうが、作業終了間際で負けた結果にそって見出しと冒頭の記事を差し替えねばならなかった。しかも通常より締め切り時間を遅らせる態勢をとっているのである。時間と争いながらの新聞作りとなっているだろう。
 朝日新聞の場合は中村を、東京新聞はジーコをたたえる記事が大きく取っていたことに、その苦労が想像を絶するほどが伝わってくるのだ。
 
 1次リーグ突破が目標なのでできなかったら、サッカー監督の宿命であるジーコ批判の声が大きくなる。サッカー専門誌には、就任当初から続いているのだが、一般紙(誌)でも目にするようになるだけのことだが。一般紙(誌)といえば、週刊朝日で連載しているセルジオ越後は、辛口のジーコ批判を続けている。
 なにしろJ1が序盤にして成績不振で3人、J2が2人の監督が辞任をしているほど、責任のすべてのしかかる宿命にあるのだ。
 それにしてもヒッディンクは、短期間にオーストラリアをチームとしてまとめ上げた。勝利請負人でもあるヒッディンクは、すでに今大会出場を逃したロシアの監督に決まっている。

フィーゴの好調なプレーを見る

2006-06-12 15:03:22 | サッカー
 早朝4時からのポルトガル-アンゴラを見た。アンゴラは旧宗主国との試合であり、4年前まで内戦に明け暮れていたのだ。選手たちはヨーロッパのクラブに所属しているが、W杯へ初出場は国家的喜びに違いない。
 ポルトガルサッカーはレベルが高いが、W杯での成績は芳しくない。世界的トッププレヤーであるベテランフィーゴ(スペイン・バルサからイタリア・インテル)のプレーも楽しみであった。
 ポルトガルの得点は、フィーゴが右サイドからドリブルで運び、ペナルティエリアでディフェンダーを加速して抜き去ってラストパスを出していたものだった。フィーゴの、このプレーは記憶に残るみごとなものだった。
 ポルトガルは、わたしがこれまで持っているイメージと違って、チームとしての力が高いように思える。ブラジルのスコラリ監督(02W杯優勝監督)のチームづくりが成功しているかもしれない。

 わたしはW杯全試合を手帳に日にちごとに貼り付けて、その動向をチェックしている。見たいチームの試合があるが週3試合ぐらいしか見られそうにない。何よりも仕事を普通にやらなければならないので、再放送さえ見るわけにはいかない。
 それにしてもテレビのサッカーの報道振りには頼もしく、かつ驚いている。神社に日本の勝利を祈願し神主が祝詞をあげるなど、ここまでサッカーが多くの人に受け入れられてきたという意味で、ほほえましい限りである。試合を見ながらのピザなどの夜食も多いだろうなど、経済効果もそうとう見込まれているそうだ。

 今晩の豪州戦は、勝つと1次リーグ突破の可能性が出てくるので何とか勝利したいところ。それには先制点を挙げることが重要と思う。それも後半戦に。普通だと勝てると思うが、ヒッディンクマジックが選手に浸透している場合、もともと個々の選手の能力が高いだけに、簡単な相手ではない。
 中田英など29歳の選手が多い(23人中28歳以上9人、内先発予想選手に7人)ので、W杯はこれで最後だという思いで臨めば、集中力運動量でスピードと組織プレーが最後まで冴えるだろう。最後はそんなメンタル面に期待してしまうのである。

テレビニュースが、W杯を連日トップで報道

2006-06-11 16:07:35 | サッカー
 入梅宣言の1日目の昨日は、むし暑かった。今日は朝から涼しく、梅雨独特の雨が降っている。庭のガクアジサイやヤマアジサイの花が、雨で生気をもらったように咲いている。カシ、生垣のマキ、ヤマハギなどが生きおいよくうっそうとしてきた。池の魚たちの動きも活発である。

 10日(土)の深夜1時からの、ドイツ-コスタリカ戦をもってW杯がはじまった。昨日と今日のNHKニュースはトップでそのことを伝えている。これでは18日までの通常国会もかすんでしまうぐらいの、報道ぶりである。日本のメディアがW杯をこのような扱いにするとに、長年サッカーへの思い入れをしている者として喜び、そして驚きと感慨を持つものである。
 1ヵ月間、生活リズムをくずさやいように睡眠に気をつけ、かつ仕事も通常通りしてテレビで楽しもうと考えている。W杯はスポーツ最大のイベントであることやスポーツナショナリズムの高揚などから、選手のモチベーションの高い。どの大会よりも、質の高いよい試合をみられるのである。
 それにヨーロッパのチームに所属している選手が多いが、その国の文化をサッカーに反映したカラーがあるのもおもしろい。
 深夜の試合なので、平日に見るのは無理のため土日ぐらいは見るつもりである。昨日の4時からのA組のポーランド-エクアドルを見た。前評判はポーランドがよかったのに、精彩を欠いて0-2でエクアドルが勝った。主審が日本の上川氏だった。
 夜22時からのB組イングランド-パラグアイは、前半だけ見た。それに今朝の4時からのC組アルゼンチン-コートジボワールを見た。
 アルゼンチンはMF(司令塔でもある)のリケルメ(スペイン・ビシャレアル所属)中心のチームであるが、かなり強いチームである。コートジボアールは身体能力の高さもあり後半は試合を支配する時間帯も多かったが、1点を返したにとどまった。第3の動きまでのともなった組織力がない等から、アルゼンチンレベルのチームには勝てないだろう。1-2だったが、攻撃的試合で見ごたえあるものだった。
 今日の22時のオランダの試合も見たいが、先が長いことであり、生活リズムを崩したくないし・・・。

子どもを防犯訓練に参加させてよいか

2006-06-10 14:55:45 | 子ども・子育て・保育
 保育園、幼稚園では火災訓練をやるのは恒例になっています。市町村によっては、その頻度も規定しているところもあります。
 具体的にはしかるべき合図の下に、全園の子どもが一斉に行動して外に避難して所定の場所に集合するのが一般的です。給食室以外は火を扱わないので、実際の火災は想定しにくいのですが、消防署の指導もあってのことでしょう。
 幼い子どもたちは実際を想像しにくいので、緊迫感をあおるのは先生の自己満足であって、子どもの心は恐怖心で縮んでしまいます。先生たちが落ち着いて指示と誘導をすれば、子どもたちは平常心で訓練を終えられます。重点は落ち着いてすばやく行動することです。災害の訓練も同じことがいえるでしょう。

 数年前から防犯訓練が加わりました。警察署の指導と連携でおこなう場合が、一般化しています。このところの子どもを対象にした犯罪状況から、無理からぬことです。
 子どもをねらった犯罪は、不審者侵入型と連れ去り型があります。園でやるのは不審者侵入型に対応するためのものです。
 これは警察官等が不審者の役をして侵入をするという、リアルで実践的な訓練をする場合が多いようです。このように実際を想定した訓練に、子どもを参加させてやるところがあります。リアルだけに恐怖心を持つ子どもが多いと思われます。もし恐怖心を持たなくったら慣れたということであり、それを訓練の成果といえるか難しいところです。

 神奈川県のある大都市では、子どもの参加をさせないでやっています。安心した暮らしの場でもある保育園で恐怖体験をさせるべきではないという、警察署の見解を反映させてのことです。
 ある保育園では、子どもがいないときに警察署の指導の下に、保育士だけでやりました。園舎の条件から、一番ねらわれると想定される保育室に侵入した、という設定でおこなわれました。発見した保育士が笛を吹いて発生を知らせて、それぞれ分担にしたがって行動するわけです。
 模擬訓練とはいえ、保育士は相当な恐怖体験をしたのでした。そのためしばらくの間、笛を首にぶら下げたまま離せなかった保育士がいたことに象徴されるように、職場に恐怖体験の後遺症が残ったとのことでした。

 わたしはそのような保育士の状況を、理解できます。恐怖体験として引きずってしまうのが普通だと思います。そのような認識から、子どもに防犯訓練はさせるべきではないと考えています。
 模擬とはいえ、安心な場所であるべきところでの恐怖体験は、子どもにとって「うそっこ」であっても切り返ができなく、混沌として引きずってしまいます。まめまきのオニの怖さとは、違うのです。しかもかりに実際犯罪が起こった場合、子ども自身で被害から回避するための行動をとることは無理なことです。
 子どもを参加させることは、安心の場でなければならない保育室を不安空間にしてしまします。大人の業務上の都合に、子どもを引き込んではいけません。もしやのことが起きたときの対策を講じていた、というアリバイの意味であってはなりません。

*類似したテーマで、04-12-20のコラムに書いています。

(^_^)  楽しい連絡帳?!

2006-06-06 11:19:06 | みるふぃーゆのコラム

息子の幼稚園の連絡帳を見ていて、とあることを発見した。

息子は幼稚園の年少で、クラスは23名の子どもを2人の先生が担当している。ひとりは私より確実に若い。もうひとりもおそらく私より若いだろう。
連絡帳をながめていて、なにかを感じていたのだが、それに気づいたのは昨日。
やたらと「!」が多いのだ。それもただの「!」じゃなくて、上が風船みたいにふくらましてかいてある「!」(PCでは表記できないのです)
さらに、顔文字のようなものも文書の最後に書いてあったりする。
たとえば「とても元気な**くんです!!かわいいですね(^^)」と、こんなかんじである。
あとは、それこそPCで表記できないけれど「あせあせ」など、携帯のメールで使うような表記が連絡帳のいたるところにでてくるのだ。
 4月当初から、そうだったわけではない。家庭訪問が終わって、5月の連休が明ける頃、親の私と面識が出来はじまってから、こういう表記が増えている。

 分析もしない。批判するつもりもない。
でも、私には書けない…。そういう表記をうまく使えない…。
年かなあ…時代かなあ…。ついこないだまで、若手の保育士だったのになあ…。
もしかして、連絡帳もこの表記がOKなら、実習生が実習日誌にこういう表記をしても、それも「あり」なのかしら?
「時代かしら…時代よね…時代…時代…」呪文のように、昨日から心の中でつぶやく、保育士みるふぃーゆなのでした。

W杯報道は、量が多く内容の水準も高い

2006-06-05 10:39:19 | サッカー
 昨日おこなわれたW杯の最後のテストマッチのマルタ戦は、1-0と勝ったものの、不満の残る試合内容であった。日本は加地、柳沢、高原が故障障で出なかったのでベストメンバーではなかったとはいえ、攻撃力を試して圧勝するシナリオだったであろう。その確信を手にして上昇ムードで、第1戦のオーストラリア戦に臨みたかったところだった。
 マルタはFIFAランキング125位だが、さすがヨーロッパチームで立ち上がり得点を許してから、最後まで集中を切らさず日本の攻撃をしのぎきったのだった。
 マルタは地中海のイタリアに近い小さな島の、人口40万の国である。かつて交通の要衝であり、イギリス連邦なのだ。自国にサッカーリーグを持っているか定かでないが、W杯予選で3試合とも引き分けだったことからすると、ランキングよりはレベルが高いのだ。
 ランキングは国際Aマッチを中心にして評価するので、その試合が少ないか、あるいは強豪ぞろいのヨーロッパチームに勝てないということかもしれない。
 日本は、4バックでサイドからの攻撃を多用する、攻撃的なゲームプランで、試合全体を支配していたが、いまひとつかみ合わず不発に終わった。

 ところでW杯の報道は、量的に多いだけでなく、内容の高水準に驚くばかりである。
 Jビレッジの合宿に3万5000人集まるぐらい過熱気味だが、選手の出身地が地域上げての応援振りの報道を見るにつけ、日本のサッカー環境が短期間に変わったことに驚くばかりである。あたかも世界標準であるサッカーが、日本でも国民的スポーツになったかのようにも見える。前回の開催経験が、お祭りに終わっただけでなく、多くの人にサッカー文化として根付きつつあると実感できる。
 報道の水準がすごい。新聞だけでなく、テレビのニュースやニュースショーやワイドショーでも、サッカーの内容についてサッカーファンでなければ難しいようなキーワードを使って、試合解説や予想を報道している。どの程度の人たちに浸透しているか定かでないが、この調子だとあっちこっちでハイレベルのサッカー談議が花開くようになってもよさそうだ。いや報道レベルが多くの人に浸透するのは、10年後であってもよいではないか。
 報道のもうひとつ驚きは、出場国とその選手にまつわるエピソードが報道されていることだ。このへんの内容は、ある程度のサッカーの知識がないとちんぷんかんぷんの人が多いのではないか。
 しかしこの報道は、日本チームを通してスポーツナショナリズムをくすぐるだけでなく、サッカーそのもののおもしろさとそのドラマ性に分け入るために重要な内容である。そこからどこの国が予選リーグを突破するか、あるいは優勝チームはどこかということへの間にも及ぶだろう。1カ月という長い、W杯全体に対する関心を持続させることは、けっこう大変なのであるぞ。
 さらに各国のテストマッチの戦績の報道もしている。とくに日本との対戦国に対して詳しい。日本の第1戦のオーストラリアは、オランダとのテストマッチ(1-1の引き分け)からしても、監督であるヒッディンクイズムが浸透して、手強いぐらいのチームに短期間に強化されているようだ。日本は勝てればいいが悪くても引き分けなければ、予選リーグ突破は難しい。後1週間で(12日-月)その運命の日が来る。

「さいしょはグー」の掛け声で始まるようになったわけ

2006-06-04 12:10:37 | 子ども・子育て・保育
 時々行くテニスサークルのときのじゃんけんは、「じゃんけんショ」「あいこでショ」なので、私が幼いときからなじんでいる掛け声なので、ほっとする。
 そこのリーダーは、東京で育ったという60代半ばの人である。若い人もみんなそれにしたがって、ダブルスのチームづくりをつくったりするときじゃんけんをする。

 テニススクールで、じゃんけんするときがあった。私はタイミングが合ったつもりでパーを出したら、なにやら不正をしたような反応をされた。やり直しとして声をかけたのは「さいしょはグー」であった。わたしは、かつてからそのじゃんけんの掛け声に違和感を持っていたが、その体験をすることとなった。相手の人はどうやら30代のようであった。
 じゃんけんの掛け声で標準化されているのは、辞典などによると「じゃんけんポン」である。しかし当然のことながら、わらべ歌が各地で独特の言い回しであるように、地方によってさまざま卦け声がある。「じゃんけんホイ」「じゃんけんポイ」などで、関西は「いんじゃんホイ」という。ただし再度じゃんけんをする際は、おおかた「あいこでショ」である。

 ところが現在は大方「さいしょはグー」といってから「じゃんけんポン」が全国に標準化してしまっているようだ。これはなぜだろう。
 わたしの体験から割り出したのは、70年代だろうかテレビでドリフタ―ズの「8時だよ全員集合!」という番組が圧倒的人気だった。小学生がそれを見ないと学校での話の輪に入れないほどだった。その番組で「さいしょはグー」をやったのが始まりではないか、という仮説を持っていた。
 どこかの地方でやっていたのをドリフが取り上げたのか、ということも考えてみた。いずれにしても「8時だよ全員集合!」から広まったのに間違いない、と思い続けている。
 その仮説はどうやら正しいようだ。ある学生によるとドリフのメンバーだった志村けんが、自分がやり始めたといっているとのことである。

 何はともあれテレビ番組が影響力あったことは確かだが、それが全国標準化するほど広がるのは、子どもたちに受け入れられる事情があるに違いない。
 私の想像では、じゃんけんの開始の掛け声は、相撲の立会いのような阿吽(あうん)の呼吸が必要である。それが成立しないと「後出し」といったことに象徴されるようにズルをしたとしてもめる。
 公正にじゃんけんをすることを誰かがリードする、あるいはみんなが参加する力が衰えた、あるいはその苦労をさけるようになったのではないか、と考えてみた。見方を変えれば「さいしょはグー」という掛け声はじゃんけんに向かう一斉行動を公正に行うための手段として合理性を持っているということだろう。

 しかしこういったものは、幼い時から慣れ親しんだものでない場合受け入れがたい気持ちが、私の中でくすぶっている。「さいしょはグー」といってからじゃなくていいのではないか、と。
 それにわたしのチョキは、グーの状態で親指と人差し指が開くものだった。なぜか女性が、全国標準のチョキである人差し指と中指を出すものだった。これは親指と人差し指が開くものが和バサミで、人差し指と中指を出すのが洋バサミということだ。
 わたしが使っていたチョキは、和バサミの形からきたものなのだ。それからすると古くはそれが標準だった可能性が考えられる。今は和バサミを目にすることはなくなったし、知らない人が多くなってしまった。

 保育園や幼稚園の幼児期の子どもが、「さいしょはグー」とやっているのだろうな・・・。