絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

オノマトペの力-その1

2012-11-26 15:21:25 | 子ども・子育て・保育
 朝からどんより曇っていて、気温が上がらず寒い。やがてシトシトと雨模様になり、そのうちポツリポツリと降り出したので予定していたテニスを取りやめた。昼過ぎからはポツポツと間断なく降り、やがてザーザー降りになった。
 雨の降っている様子をオノマトペ(擬態語・擬音語)で表現すると、その状況と雨量がイメージできる。ウェザーニューズ社(千葉県)という気象の情報を販売している会社では、気象庁の気象観測に加えて、ピンポイントで正確な情報を得るために、全国に気象状況を伝えるモニターを抱えているという。モニターが雨の様子を会社に伝える時に、オノマトペを使う。雨量が多くなる順に記してみよう。
① ポツポツ
② パラパラ
③ サー
④ ザーザー
⑤ ゴォー
 オノマトペの、擬音語はどこの言語にもある。例えば犬の鳴き声を日本語では「ワンワン」だが、イギリス語「バゥバゥ」、フランス語「ヴァヴァ」、中国語「ウンウン」、ロシア語「チャフチャフ」スペイン語「グウウ」となる。
 子どもの頃、英語を習いかけの兄に「犬は英語で何と鳴くか」という、なぞなぞめいた問われ方をした記憶がある。その時は、同じ犬なのに日本とイギリスの犬の鳴き声が違うのか、という疑問を持ったのだった。それが犬の鳴き声の違いではなく、その言語の持っている音によって表現しているためと知ったのは、20代になってからだった。
 さらに擬音語、擬態語つまりオノマトペとその使い方使われ方に関心を持ったのは、子どもの遊びやスポーツなどの指導に深くかかわるようになってからだ。

木のおもちゃ

2012-05-18 10:13:22 | 子ども・子育て・保育
 NHKの「仕事ハッケンデン」は、去年10回ほど連続して終了した。4月から復活したので見ることが多い。番組と言えば、かつて「プロフェショナル」といった、いわば仕事の上昇志向といったもの欠かさず見ていたが、今は「ハッケンデン」のようなものが楽に見られるのでよいという心境である。
 この番組は、1週間ぐらい職場体験をして仕事の専門性の理解とそれを獲得する過程のドキュメンタリーである。この番組は相当な手間をかけなければ出来ないだろうから、NHKでなければ制作は難しいだろう。
 10日は、デパートの洋服のバイヤーを俳優の平岳大がやっていた。金融関係の仕事をした経験があるとのこともあって、1週間の短期間でも番組の内容を十分こなしていた。
 この番組が今後様々な職種に広げていくとすれば、お笑い芸人だけでなく一線を退いたスポーツ選手あるいはある種の専門性や教養を備えているなど、幅広い人の出演が必要になるだろう。

 さて、17日の「仕事ハッケンデン」は、飛騨高山での木のおもちゃ作りのことだった。木で作る家屋や製品と木のおもちゃに関心を持ってきた者として、興味を持って見た。
 職場体験したのはお笑い芸人で、舞台となる会社は10人以上の社員がいて、無垢の木で家具とおもちゃづくりをしている。無垢材で作るのだから商品は高額だし耐久性があるので消費は少ない業界なのに、会社の規模の大きさに驚いた。市場があるのかな、販売をどのようにしているのかなどに思いをめぐらしたのだった。
 職場体験、いや木工職人に入門したお笑い芸人は、木の伐採、製材という制作できる木になる過程を体験する。これは番組づくりとして、おもちゃ制作材になる過程の説明として必要なことでもあった。

 番組終盤のミッションは、おもちゃ展示会で作品を発表するということだ。おもちゃの企画をして制作して仕上げるのだ。
 師匠の指導の下に制作技術獲得体験を経て、創作おもちゃをつくる。彼のアイディアのおもちゃは、自分の幼い娘がハイタッチを好むことと木琴制作をした体験を組み合わせたものにした。あえてテーマをつければ「木で音を出す」ということだろうか。家の形をしたものの屋根に木琴のようにもみえる切り込みを入れて、そこをたたくことによっていくつかの音色がでる。
 さらに家の壁に当たる部分に手を開いた形を切り抜き、それに手の形に棒をつけてモノを強く押すと、中にある木が打たれて音が出る、というものだった。
 この作品は木の音を出すのだが、屋根をたたいて音程はないが木琴のように音を出すのと手の形をした棒をぶつけて音を出すのとは異なる行為である。音を出すおもちゃだがアイディアが別々なものを混合させたもの。そのため子どもがおもちゃを扱う行為は、屋根をたたくことと手の形をした棒を打ち付けるというのが別々になる。しかも音を出す以外の行為はは無理なので、遊びが継続しない可能性が強い。

 木のおもちゃは、素材の性質上制作意図・テーマをひとつにしてシンプルなものがよい。プラスチック素材のように精密で完成されたものというより、半完成品といっていいものがよい。未完成と言うことではなく、制作意図をシンプルでしっかりしていると子どもはその意図に沿って遊ぶだけでなくそれを超えた、バリエーションでもいえるように予想外の遊びをするようになる。それが遊びを継続させて、おもちゃが子どもになじんでいくということでもあり、優れたおもちゃである。典型的なのは積み木であり、制作意図を超えて子どもは能動的に繰り返し遊ぶのである。
 おもちゃのあり方を知らない人が企画するのだから、今回の作品の分析と評価をするのは酷なことと知りながら、番組に刺激を受けてこれまで考えていることを綴ってみた。
 ところで最近の木のおもちゃは、制作者が多くなったこともあってか優れたアイディアのものが多くなっている。ともすれば子どもが繰り返し遊んでおもちゃになじんでいくというよりは、アイディアが優れていて大人も含めてその仕掛けを楽しむというものが多くなる傾向にある。


震災と社会的養護の必要な子ども

2011-06-28 17:09:33 | 子ども・子育て・保育
 震災によって親を失った子ども(震災遺児)のことが気になっているが、その報道は少ない。5月上旬だっただろうか、両親をなくした人が130人余りと報道されたと記憶しているが、昨日のNHK「クローズアップ現代」では、208人とのことだった。一人親になったこともとの総数はNPOが把握しているのは1500人とのことだ。

 親を失った子どもは、社会的養護(里親、児童養護施設)の制度で処遇されなければならないので、児童相談所等の公的機関で把握し、子どもの実情にあった対応が必要である。おそらく公的機関で対応しきれていないのでNPOが力を尽くしているのだろう。
 震災地域は血縁関係が残っているので、表面化しないで社会的養護の制度にそった処遇に行き着いていない例がまだあるかもしれない。

 放送の事例では、家族と仕事を失った祖母が里親になって月5万円の養育費が支給されることだった。里親になった祖母は、親族や家屋そして仕事を失い生活が成り立たない厳しい状況になっていることが紹介されていた。
 児童養護施設での積極的受け入れを可能にする、あるいは里親になった血縁者に経済的負担を過剰にしない特別な措置は出来ないものだろうか。里親自身の生活が、親族や仕事や家屋等失いマイナス状態なのだから、現状の制度の適用だけでは無理ではないか。
 子どもの将来の学びのことなども含めて、あしなが育英会、そして安藤忠雄などがこのたび設立した「桃栗育英会」といった民間の活動への期待をする。しかしなにより、震災という現行制度だけでは十分な対応が難しいという認識に立ち、公的制度の特別な運用によって手厚い養護の手が差し伸べられることを期待したい。

手と道具と指導と

2011-06-25 14:56:37 | 子ども・子育て・保育
 昨年は保育園に見学に行っていた。4月からは、定期的に2つの幼稚園に行っている。子どもの活気ある声と活動を見るのが、自分の生活に張りが生じるし、何よりもわたしへの学びと研究を提供してくれる、ありがたい場であるのだ。保育内容と先生の指導、そして園舎についてさまざま思いをめぐらすのは、わたしにとっては楽しいことである。

 5歳児が、木工作でゴムの動力をつけて動く船を作る活動をしていた。ゴムの動力で船を進めるためには、船体を軽くしなければいけない。しかし一方にはのこぎりで木を切る、玄翁で木と木を接合する(打ち付ける)という活動も大事にする。そのため船が重たくなり、ゴムの動力では進まない。この兼ね合いを上手いく設計にするのは、難しい。

 ちょうどのこぎりで木を切る作業をしていた。柔らかい杉板のコマイ(木舞)を切っていた。
 万力で木を押さえていて、両手でのこぎりを持って作業をしていた。立ち姿の作業の足は、両足はそろっていた。しかものこぎりの角度が70度ぐらいに立てていた。力は入るがスムースに切れない。子どもはあせっているようによみとれた。作業をしている子どもが少人数になったので、その気持ちはわかる。

 それを見て、部外者であるわたしが介入してはいけないことは自明であるが、やってもよさそうに状況を読み取れたので、子どもに声をかけたのだった。

「あなたこっちの手が得意なの。右利きなんだね。それならね、こっちの左手で木を押さえてのこぎりは右手だけで持てばいいんだよ」
「足もこっちの左足を前にして、右足を後ろにしてごらん」
「のこぎりで木をなでるようにしてごらん。力は入れなくていいんだよ」
(と言いながらわたしは、子どものがのこぎりを握っている手を覆ってのこぎりを持ち、引くとき柄を握って、おす時緩めるという感じをつかませるようにした。)
 その間「なでるように」という言葉を何回もかけて、「力を入れすぎないで同じことをやっていると切れるんだよ」とも言った。
 子どもは作業が途絶えることなく楽に進めることが出来たので、やがて切り終えた。子どもの表情は、当初の作業時よりは穏やかな表情になっていた。
 この際の「なでるように」という言葉が指導語である。指導語とは、その状況を的確に把握し、必要な行動に導くための言葉である。「なでるように」という言葉かけによって、子どもが無用な力を入れることなく、のこぎりを板に対して並行に引く動作を繰り返すと切れる、ということが理解できる。
 「ていねいに」という言葉も子どもにかける言葉として大事だが、意欲的に活動をしているのを、落ち着いて活動の質を高めさせようと言う時に、力を持つ言葉である。指導語は保育者にとって宝であり、子どもにとっては活動に動因させてくれ学びを喜びにしてくれる魔法の言葉なのである。

 当初の作業フォームは、両手そろえてのこぎりを持ち、足をそろえていた。わたしが同じフォームで木を切ろうとしたが、のこぎりを扱うことは無理であった。子どもはもっとも作業のしづらい不自然なフォームでやっていたのだった。 
 人間の手足の使用の基本は、利き手で道具を持ち、もう一方の手は添えるのが原則である。両手一緒に使うのは、特殊な状態である。たとえば車のハンドル操作では、両手を使っているようだが、どちらかの手を重点にして、もう一方の手は添えているのである。状況によって左右の重点とする手を代えている。また、釘を打つときは、玄翁を持つ手ともう一方の釘を持つ手は、それぞれ違う動作をする。
 このように手は、常に片方が主でもう一方が添える。またはある目的のため、に片方ずつ独立して動かして作業をするのである。
 足は両方並ぶということは特殊な時で、スポーツでは相撲や柔道は両足そろったら劣勢になる。野球の投げるとバッティングでも両足の時はなく、片足ずつで体重異動をしてプレーをする。
 作業も同じでことで、重いものを持ち上げる時でも両足そろえるのではなく、前後にしたほうがよいのである。多くの作業は、片足ずつ体重を移動させながらするものである。

 担任に作業をするとき腕と足の使い方を、野球の例をとって説明したら、野球体験がある男性保育者は、よく理解できたようだ。人間の腕と足は左右一緒に使うことは、例外的なことなのだ、ということ。
 5歳児の木工作は、程よい抵抗があり道具使い加工するという、子どもにとって作業過程は難しいが完成したときの喜びは大きいものがある。
 それゆえに保育者が、道具の扱い方など指導内容と子どもに分かりやすい指導方法の探究が求められる。子どもにつまずきではなく、抵抗をともなう作業過程を経て達成していく喜び体験をさせるために。

お子様業界の保育園

2011-05-28 08:43:36 | 子ども・子育て・保育
 NHKの「仕事ハッケン伝」(26日・木)は、株式会社保育業界最大手経営の横浜市の保育園が舞台だった。

 横浜市は、70年代から多くの大都市が保育園増設した時に対応が不十分だったことも影響し、今日も保育園の絶対数が足りない。そのため保育園の設置基準を緩めて小規模の個人経営で補ってきたが、待機児が最大数であり続けてきた。待機児解消のため保育園を必要としているため、会社経営の認可保育園が増えている。
 会社経営の保育園といえばかつての大手は、無認可保育園であり公的補助がなく、かつ長時間保育等親のニーズ応えていたので、それに必要な園舎や人材が整っているといいがたい無理があった。そのしわ寄せが原因と思われる事故が連年続き、廃業した。
 児童福祉法改定後、保育園が社会福祉法人以外の会社やNPO等でも認可園になる、いわば保育園に市場原理が導入されているのだ。この制度的変更が、徐々に保育園や保育士の専門性や保育活動に変化をもらしていくだろう。
 都市では待機児解消のために、今のところ会社経営の保育園を認可して量的に補って行くのが、スピードが求められるがゆえに有効なのだろう。認可されて補助金があるのであれば、保育園経営の収益もあがり、十分経営ができるはずである。
 今回保育園の株式会社「JPホールディングス」は、今年度だけで18園を新規開園したというから、急激な規模拡大だ。保育は、お子様産業のひとつになっているのでもある。市場としては需要があるのだが、日本の保育が40年余り蓄積してきた保育の専門性を踏まえた保育の質を提供するのは、まじめに考えた場合無理があるのではないだろうか。

 この番組は、さまざまな仕事と職場を紹介するもので、3回目である。第1回が飲食(餃子、ラーメンなど中華)、第2回がITのソフト作りであった。
 NHKは、これまで企画内容を変えながら職業案内の番組をやっている。わたしの記憶では資格ガイドで、たしか15分ぐらいだった。ある時期まで多くの人が視聴できる時間帯だったが、だんだん早朝時間帯に追いやられた。
 その前は若者が仕事を実体験するもので、仕事に参画していく過程に焦点を当てたドキュメンタリーであり、わたしは興味深く見ていた。職業の実際を見ながら現代社会がわかる面があり、わたしは漁業、ゴミ回収など今でも印象に残っている。時間帯は23時台だったと記憶しているが、わたしは午後からの再放送を見ていた。

 今回の番組の舞台となった保育園は、3階までを保育室としており、36人のスタッフである。自己査定というシステムをつくり、自己評価と幹部による評価で待遇と昇進がされている。いわば人事考課制度を採用しているのである。
 園長の「命を預かっているんですよ」ということの強調は、保育園としての大前提なのだが、それを合えて強調するということは、会社の毀損をさせないためにリスク管理をまずやるということなのだろう。
 それに園児のことを「お子様」と言っていたが、保育園が子どもと親へのサービス産業、いわばお子様業界になってきていることを象徴する言葉として、わたしには聞こえた。もっともある市の公立保育園の保育士が、クラスの子どもを「お子様」といっていたので、そう言うようになっているのかもしれない。わたしには、保育園のあり方にかかわることとして違和感がある。

 さてこの番組は、お笑い芸人を1週間職場体験させその過程で仕事の一部を覚え、達成感を持って終了するという企画である。
 お笑い芸人のキャラクターゆえに、本来苦悩であるはずのつまずき失敗が絵になる、というのがミソである。わたし流に言えば、ドキュメンタリーバラェテー(こんな言い方はないが)の性格を持たせている。
 そんな企画の性格から、お笑い芸人の体験者が失敗しつまずき涙して、それを乗り越えて達成して終わるという筋立てである。このパターンを、あらかじめ打ち合わせをしていると思われる。とくに体験者の受け入れ側には打ち合わせ段階でしていると思われる。受け入れ側が、お笑い芸人に密着し一体化して進行することからも、それがうかがえる。
 お笑い芸人があふれている時世でもあり、ぼろぼろの体験が絵になるので、こういった企画が可能であるのだ。

 今回保育士体験したのは、安田大サーカスのトリオの中のクロちゃんである。保育士養成の短大卒というからまったくの素人ではない。当人は「子ども大好き」といっていた。
 クロちゃんは子どもに親しみをもって接近したが、現在の職業であるお笑い的アピールをしていた。子どもとの垣根をとるために面白さでピールした。それは子どもの側を配慮して自分を表現するというよりは、自分のペースに持ち込むためであった。これでは保育で重要な相互応答的関係はできない。
 クロちゃんは、初期にこの園の保育とは異質の物を振りまいていたので、園長松本(58歳)がドカンとクロちゃんを叱った。それでクロちゃんはしょげる。苦悩といいたいところだが、自分の思い通り行かないという浅いものである。
 状況が必要としていることと、それに近づこうとする自分という葛藤が保育という職業に必要なのだが、それとは程遠い。これはクロちゃんだけの問題ではなく、園長が少しは予見をしてオリエンテーションをしていないことにも起因している。保育や教育というのは、終了したことに注意を与えるには、あらかじめ持ってる仮説との関係であった方がよいのだ。

 クロちゃんは途中つまずいた時、「苦しい。勉強ばかりだ。好きなこと何もできない」と泣き出した。これは番組の企画の筋書きである途中のつまずきなのだが、その表現があまりにも幼く、苦悩でなく駄々っ子のようだった。クロちゃんの声が本当の声とは違うのではないかと思われる高い声であること、子どもに必要なことをするというよりは楽しませようとしたといいつつ自分が戯れていることなど、わたしは保育士のあり方としては気になった。もっともクロちゃんのように子どもとのふれあいを、自己確認にしていると思われる保育士もいないわけではない。
 大人は子ども性を内に持っていて、必要な時にそれを引き出しから取り出してくるのだ。いくつもの引き出しを持てっていて、必要な時にそれを使える人が大人なのだが、そう意味では大人になっているのか、と考えさせられた。もっとも今の時代はそういう意味での大人にならなくとも暮らせるようで、そのような人間が多いのかもしれない。
 それにしてもクロちゃんという芸人は、笑いを作るのではなく、笑われ芸人ではないのか、と考えさせられた。だとするとそれは芸ではなく、人間の素でお笑いをしているということだ。
 芸は自分でない自分をキャラクターとしてつくり、それを強く表現することではないのか。そして素人とも日常とも違う域に達しているものを、表現するものではないだろうか。
 お笑い芸人が大量に作られ消費されていく時代なので、芸か素か境界がはっきりしない芸人が多いから、「仕事ハッケン伝」という企画も成り立つということか。

 VTRを職場で見てゲストも加わってのトークもあるが、番組づくりのため相当カットされていると思われる。短期間で仕事の一部を獲得するのはドラマがあって番組を面白くしているが、その辺を差し引いて見なければ、その業界や職業の専門性について期待をしてみると誤解が生まれるだろう。今回の場合わたしは、保育園への企業進出による「お子様産業化」を見た思いをしている。

 この番組で企業の保育園の保育を体験させたが、必ずしも保育の一般的姿といえないだろう。日本の保育全体は保育内容や発達について考えられており、保育士の専門的水準が高い。
 今回は、あくまでも企画にふさわしい舞台と体験した人によって番組にしたと、とらえた方がよいだろう。保育を知らない人が接近しやすいように、笑いと涙を交えて番組を作っているのである。あくまでも保育への入り口としてヒントになるが、保育そのものを語った番組ではないだろう。

柳美里の虐待から脱出ドキュメンタリー

2011-05-16 10:08:37 | 子ども・子育て・保育

 15日(日)のNHKスペシャルは、「虐待カウンセリング-作家柳美里500日の記録-」だった。
 柳美里が、子どもの虐待をカウンセリングによって改善されるドキュメンタリーである。虐待の発覚は、自身のブログに子どものことを綴ったのを読んだ人が問題にしたためである。柳がブログに書くということは、虐待という意識がない、あるいは弱いからなのだろう。
 わたしは柳の作品を、芥川賞以降3,4本読んだことがある。私小説とは言いがたいが、自分の体験を素材にした小説である。それ以降わたしは関心が継続せず、遠ざかっている。
 その内容は、体験をデフォルメしフィクション化し読者の関心を呼ぶよう構成に工夫を凝らしている。垣間見られる体験がすさまじい内容なので、闇を抱えて生きている人だと、とらえていた。柳の鬱屈した心と表現のパワーがどのように爆発させるのか、普通には生きるより波乱に富んだものになるかもしれない、と思ったものだ。柳にとっては、それが生き方となるだろうことなのだろうが。

 わたしが柳の作品から遠ざかっても、シングルマザーで子どもを生んだということを知ったので、さもありなんという思いだった。ひとつの生き方として、わたしには違和感があるわけではない。

 虐待は連鎖されるといわており、その枠組みで臨床心理士が介入、カウンセリングで改善が試みられている。なお、PTSDやトラウマが長期間のカウンセリングによって改善されることはありえるのだ。ただし、長期間のカウンセリングを通して、本人が自覚するに至り克服しようとしなければ難しく、簡単に改善されることはむしろ少ないようである。
柳の虐待は連鎖されているととらえられ、改善していくために関係が途絶えている父、母、韓国在住の伯父(父の兄)の妻にも会う。
 これまで若くして独力で脚本家、その後作家として生きてきたので、家族と関係がないと思っている柳にとっては、自分を家族の関係で対象化するために必要なことである。さらに結果として、柳が虐待行為に距離を置いて見られることにつながる。

 母に父親のことを聞いたが、語りは少なかった。すでに娘と元夫との関係が疎遠であり、今の生活があるために語れないのではないだろうか。父親の性向を理解するために、父親の生い立ち理解が必要である。そのために伯父の妻の言葉がもっと必要だと思うが、少なかった。
 この辺の事情は、ドキュメンタリーの制作責任者の意図によって編集段階で映像採用を決めるので、なんとも言いがたい。
 ちなみに制作の際、柳以外の映像は撮影した時間の10%も採用していないと予想される。柳の映像の場合は、撮影に対して採用映像は5%以下ではないか、と推測する。

 このドキュメンタリーのテーマである虐待の連鎖でもいいが、わたしは虐待をする人格傾向に注目してみることにする。
 わたしは父親の言葉を注目した。「どんな生き方をしたかったか」という娘美里の問に対して「日本でも突出した学者でありたかった」とのことだった。これは彼の人格と価値観を象徴している言葉に思える。

 この言葉には2つの面があると思われる。1つは社会システムとかかわる仕事ではなく、自分の力だけで周囲に力を誇示して生きた自分を語っている。釘師などがそれであり、何はともあれ一匹狼で生きてきた自分の人生を、娘に肯定して見せた。
 もう1つは、作家として世間に評価されている娘に対して、父親である自分が学者ということで、知性を誇示する心理が働いていた発言なのではないか。

 父親の言葉の知的独立した高度な専門職像は、小説家として柳が実現している。その成功に対して父親として面子を保ち、父親として娘より優位にあるということの表明ともとらえられる。長い別離で老いてからの再会でありながら、家族だった頃と変化していないと、とらえられる。

 この2つ面で共通しているのは、社会システムの中で生きるのではなく、誇大な自己像を描き、それを追い続けるためには手段と内容を問わない、ということである。目標と内容がはっきりしなけらば、虚栄と自己顕示が増大し、どこまで到達したか自己測定ができず、不充足感をいつも持ちいらいらして粗暴な行動、つまり暴力になるのではないだろうか。
 家族がこのような人格の父親が中心であり、それに似たところがあると思われる母では、小説の素材に十分な、ドラマ性を持つ壮絶な家族となるというものだ。ここでの母親の価値観の手がかりになる事例としては、娘(美里)を名の通った高校へ入学させるといったことが象徴しているととらえた。その高校で、柳はつまずき1年で中退するのだ。

 虐待が単純に連鎖をするのではなく、父親の混沌とした自分と肥大化している自己という人格傾向が遠因を作っているのではないか。このところの臨床心理や精神医学でよく言われる、人格障害的な視点から接近するのも必要ではないだろうか。
 と見てきながらも柳の父親のような人は、近代化されていない時代の田舎には特別でなくいたと思われる。通俗的には「激しい気性の人」といった言われ方をした人である。

 柳は、作家であるから記録を書き、複数の臨床心理士や精神科医あるいは社会心理学研究者が分析するといった構成で本を出版したらどうだろうか。多くの人に、人間理解と家族のあり方を考える機会を与えて欲しいものだ
 とはいっても柳は、自分は破格の人生を素材に書いて、小説家という高度な専門家として社会に認知されているので、虐待や家族に対しての専門家が分析したりする内容の本は企画でしないだろう。柳の『命』『ファミリー・シークレット』といった作品にしたほうが小説家としての本業がうまくいくというものだ。
 かつて芸能人などのプライバシーを覗き見する情報で雑誌などの商品にしていたが、今は自らの生活を告白して小説やノンフィクションの商品にする時代にあるのだ。


虐待死の絵本

2010-03-19 22:35:51 | 子ども・子育て・保育
 虐待死あるいは虐待殺人が、このところ連続して報道されている。ずばり虐待死を扱った絵本を紹介しよう。
 内田麟太郎作味戸ケイコ絵の『うまれてきたんだよ』(解放出版社 08年10月20日)である。内田鱗太郎は詩人でもあるが、絵本作者としてたくさんの絵本を書いている。どちらかというとナンセンス分野の絵本が、多くの人に受け入れられているのではないだろうか。
 わたしもそんな思いだった作者に対して「おや?」と、いう思いで手にした。A5の30ページの薄さと文字が少ないことから、装丁だけでは乳児向けと思われそうだ。現に乳児向け絵本コーナーに置かれている図書館が、あったほどだ。
 絵は色鉛筆で丁寧に描かれ、短い言葉の想像を膨らませてくれるよう、よく描かれている。表紙は、白色に絵がグレーを基調に陰影をつけた、うなだれ打ちひしがれた一人ぼっちの幼子がタイトルの下に、全面からしたら上の端の方にある。それ自体が内容を暗示していると読み取れる。ページをめくってみよう。

 ぼく うまれたんだって。

 さんねんで しんだんだって。

 おなかを すかし、とじこめられて いたんだって。
 ひもじくて かみを たべていたんだって。

 しゃべらなかったんだって。
 
 ゆめに おこされ ふるえていたんだって。

 けものの こえで ほえていたんだって。

 あれは なに?
 なにを してるの?

 というように展開していく。この本の内容とテーマからして、おそらく小学生中学年から大人が、誰かに読み聞かせをしてもらったら、心震えるような衝撃を受ける絵本である。
 大人が手にとってさっと文字だけを追って読んでしまうと、絵本の持っているメッセージ性に触れずにやり過ごしてしまう可能性が大きい。それではもったいない絵本である。
 乳幼児検診等の際、いくつか読む本の中にさりげなく入れて、親に読み聞かせをするのもよいだろう。
 読み聞かせのしかたは、ページごとに間をおくのではなく、連続させながら絵を読み取れるぐらいの間をとったり、内容の展開にそって声の表現を変えることも、絵本のメッセージ性を深く感じ取ることが出来るだろう。

子どもの本に喫煙を描くこと

2010-01-11 09:53:55 | 子ども・子育て・保育
 12月30日(水)の「朝日新聞」に「児童誌、喫煙描写で販売中止」というタイトルの囲み記事があった。販売中止の対象は『月刊たくさんのふしぎ』2月号で、「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」である。
 『月刊たくさんのふしぎ』は小学中学年ぐらいから読めて、ぼんやりした不思議を、本格的な知の世界へ導いてくれる、優れた月刊絵本である。
 わたしは定期購読しているが、この本は目を通していなかったので、読み通してみた。おじいいちゃんが孫の小3、4年生に先祖の職業などを素材にして、江戸時代の江戸の暮らしを語る、いわば庶民の暮らしを通して歴史に対する関心を喚起する絵本で、なかなかよく出来ている。歴史へ入っていくのに、おじいちゃんが発明したカラクリを覗くという話に引き込むのに使うなど、子どもに親しみをもたれる制作をしている。作者太田大輔は、イラストレーターである。
 ところで問題となったのは、おじいちゃんは愛煙家でパイプタバコを常用しているため、表紙、中表紙はもとより、物語の語りとしておじいちゃんが5回出てくるうち、4回がパイプをくわえているのだ。そればかりではなく、最終ページに江戸から明治に生きた先祖に対して「そうえいば、おじいちゃんも喜助さんも、たばこ好きだもんね」というくだりもある。
 子どもを対象にした絵本に、喫煙を容認したり受動喫煙に対して配慮されていないのはよくない、という小児科医師の指摘を福音館書店が受けて、販売中止としたのである。

 かなり前から日本でもたばこの広告を自主規制しているし、たばこのケースにははっきり体の有害や未成年の禁止が記述されている。公共の場での分煙あるいは全面禁煙等公共施設や学校・大学がめずらしくなりつつある。方向としては、体に有害な喫煙者を少なくすることに向かっている。神奈川県では、条例で公共の場での禁煙を打ち出すにいたっている。
 ただしたばこの値段が300円と安すぎる。1本あたり5円の増税といっても1箱400円ぐらいである。
 90年代半ばに滞在したカナダでは、一箱700円ほどで、分煙が厳しいく基本的には公共の場でたばこは吸わない、というようになっていた。当時はフランスも同じように、たばこを高額にして喫煙者を抑制する政策を採っていた。
 その頃日本ではテレビのCMでもたばこをやっていた。ドイツの雑誌でもたばこの広告が掲載されていた。現在はドイツでは高額にして喫煙者を抑制する政策に踏み切っている。日本はたばこを高額にして喫煙抑制政策を採りたいのだが、世論の様子見で踏み切れないでいる。

 日本社会は喫煙抑制あるいは禁煙の状況になっているのに、愛煙家を主人公にした月刊絵本が出版されたのは、作者と編集者ともたばこの有害性にまで配慮が及ばなかったのである。なにか日本の現状を反映しているようでもある。
 しかしテレビのドラマや映画では、喫煙シーンはなくなっているのではないだろうか。映画が盛んだった70年代までの映画は、喫煙シーンが物語の場面作りや展開に使われていたので、たびたび喫煙シーンが登場していた。





ユニークな園舎

2009-12-24 18:22:53 | 子ども・子育て・保育
 研修で訪ねた保育園の建物はユニークなもので、設計者の思い入れの強いものに思えた。
 園舎全体の外観が見えるぐらいの距離になったら、コンクリート打ちっぱなしに、縦長のガラスと赤、黄、青がストライブ風に施していたのが分かった。同行した保育者が「パチンコ店に見えるって言っているんですよ」というだけあって、わたしのこれまでの体験からしても保育園とは思えない外観だった。
 建ってまもなくの園舎だが、円形に保育室等が配置されていて、中央が園庭である。そのため壁が曲線の保育室が多い。遊戯室は舞台が円形になっていたて、壁が曲線なので視線のよりどこらがなく不安な気持ちになった。案内していただいた先生によると、担任の先生によってはコンデショが悪い時は、気分が滅入ることがあるとのこと。
 わたしが想像しても机の配置と壁が並行にならないので、保育には使いにくそうだ。子どもたちにも何らかの心理的な影響があるだろうと想像した。野球場のような広さならある部分円形になってもよいのだが、広くない部屋の壁面が直線でないことの問題を考えたのだった。
 内部の廊下はコンリート打ちっぱなしで、ガラスを床までにしていた。足元がガラスだと不安に感じる保育者や子どももいるだろう。それにカラーデザインも施され、刺激の強いオレンジ等が使われていた。なお、ガラスはビルなどでも使われている耐久性の強いものなので強い力が加わっても破損することはない。
 廊下の壁が打ちっぱなし、あるいは床がコンクリートに板を張り付けたものでぶつかったり転んだりすると衝撃のリスクは小さくない。梅雨時は床が盛り上がるとの事である。
 園舎全体を円形にしたのは土地条件等からではなく、設計者の作品としての思い入れのようだ。わたしからみれば長時間生活する場である子どもや働く人が安心して和むような空間ではないように思えた。外観のデザイン、内部意匠のいくつかの試みなど、よくあることだが設計者の独りよがりな傲慢さがあふれている「作品の建物」に思えた。

 その建物は、子育て支援センターと高齢者のたまり場としての機能も複合して備えていた。市としても相当力を入れて建築したに違いない。しかしそこを利用する人や働く人の立場のことをどのように考えたか、インタビューしてみたくなったのだった。また機会があったら、詳細を見てわたしとしても多面的に検討してみようと考えた。
 市や現場が意見を言わない、あるいはいえなかったのだろうか。少なくとも30年はこのままで利用するのだ。
 

森で遊ばせる保育

2009-05-28 10:32:23 | 子ども・子育て・保育
 今朝のおはよう日本(NHKテレビ)で、上越市(新潟県)のNPO緑とくらしの学校が主宰している「幼稚園」を紹介していた。タイトルは「森で遊ばせて子どもを育てる」で、4分間を使っていた。
 園舎を持たずに、里山エリアぐらい山の中に雨宿りするようなテントを張って、そこを拠点に森で活動する保育である。3歳から5歳まで22人を5人の大人で見るとのこと。映像としては斜面を滑り降りる活動などを紹介していた。
 同じようなねらいと形態で保育をしているのは、全国で20ヵ所ぐらいをいうことだ。

 数年前わたしは、別な地域で同じような形態でやっているところへ入れてよいかと、親から相談を受けたことがある。そこは一桁台の子どもということもあり、保育料が高く子育て意識が高い人が選択しているようだった。そのような小規模のも含めれば、そうとうあるのではないか、と想像している。

 園舎を持たないで野外で保育するということは、70年代前後に「お日さまの会」として小児科医毛利氏が主宰して渋谷区という都市環境でやっていたし、東京の世田谷区などで自主保育としてグループでいくつか実施していた。したがって時代によってねらいや形態が違っていても、既成のお仕着せの「学校」的なものと違った環境で育てたいという試みは続けられているのではないだろうか。

 自然と子どもに取り入れた保育を、と考えている園はたくさんあり、それらをネットワーク化しようと試みも行われている。わたしが見たものとしては横浜市の安部幼稚園は年住宅地に残された山を園庭にしている。愛知県の「もりのようちえん」は小規模園舎を山の中の斜面に点在させている。
 また「子どもの時間」という映画にした桶川市の「いなほ保育園」は、わたしは見学したことがあるが、自然空間で遊び場にするにとどまらず、現代文明そのものに問題提起も含んだ実践をしている。

 NHKでは「NHKスペシャル」として長時間とって、里山保育として館山市の保育園と小学生の自然活動の番組を放送した。
 報道は、珍しいニュース性があるものが番組にすることはありうることだ。しかも保育は地域や住民の意思で独自に様々な試みは大いにあったほうがよいだろう。
 なぜ相当なエネルギーを使って、自然環境で育てるということが実践されるのかは、テーマとして研究に値するものだろう。