絵本と児童文学

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Jリーグ開幕

2020-02-23 16:49:20 | サッカー
 昼過ぎに30分コースの林までウォーキングに出かけました。昨日は強風にたじろいで取り止めましたが、今日も風が気になるほどでした。
 花粉が相当飛んでいるように感じました。薬を服用していますが、目のかゆみがだんだん強くなっています。
 快晴のため西側の雪が解けた山の稜線が、早春らしい水色の空にはえてくっきり見えました。
 70代から80代と思われる高齢者が十数人歩いていました。珍しく男性ばかりがおしゃべりしながらです。仲間と歩くのもいいものだなと、うらやましく思いました。日曜日なので、ランニングをする人とも多く出会いました。

 JJリーグが開幕し、横浜マとガ大阪の放送(NHK)を見ました。攻撃サッカーで昨シーズン優勝の横浜マは、その対策を十分立てて臨んだガ大阪に1-2で敗れました。
 ガ大阪は横浜マの得点源である仲川の徹底マークをして得点源を封じました。また前線と中盤で厳しいプレスをし、奪って攻撃に転じるスピードあふれる試合でした。デェフェンスもすばやく戻り態勢を整えていました。
 宮本監督の戦術を実践した選手たちはみごとでした。それに40歳の遠藤保仁がフル出場で、しかもチャンスをつぶすプレーも多く見られました。
 シーズン初めの試合ですが、スピードあふれる面白いものでした。
 今シーズから審判の判定にVARを導入しました。試合の結果にを左右するは正確なジャッジになるでしょうが、線審の判定の参加が弱まるようです。主審もすべて自分の判断で試合をコントロースするのではなくなるので、審判の役割は変わることでしょう。選手のきわどいプレーも少なくなるでしょう。

 これからシーズン終了まで毎週Jリーグを見る暮らしになります。特定のクラブに応援しているわけではないので、ダゾーンに入らずNHKが放送するものを見ることになります。

 *24日(月)に、試合内容のポイントについて加筆しました。

 

どうなる、新型コロナウイルス

2020-02-17 20:44:18 | 当世世間事情
 昼過ぎに林へウォーキングに出かけました。1枚脱いで出かけたが、南西の風が強いながらも暑いぐらいぐらいでした。
 今年はスギ花粉の症状がでたので、病院で薬を処方してもらいました。去年は珍しく軽かったので、前年の目薬を使ってしのぎました。ぼくの花粉症は終了したかもしれない、と思っていました。ところが今年はくしゃみと目のかゆみは例年より重そうです。去年だけどうしてなのだろうと、思いを巡らしています。

 ニュースとワイドショーは、連日新コロナウイルスのことばかりです。刻々と事態が変わり、いよいよ感染ルートが多岐にわたる、あるいは判明しないという状況になりつつあります。今のところ自分の免疫力がどのぐらいあるのか、といったといったことぐらいしか考えられません。
 というのも先日ある人との会話で「30歳から風邪やインフルエンザに罹ったことがない」と言ったら、「どうして?」と聞かれて答えに困ったのでした。よくわからないながら「免疫力というのかもしれない」と、とっさに答えたのでした。
 ふと、小学生時代は病気ばかりしていたのはなぜだったか、ということが頭をめぐりました。長い間、自分が風邪やインフルエンザになることは考えたことなく暮らしてきました。
 しかし新コロナウイルスは、ぼくのところまでやってくるかもしれないと、心しておくことにします。今はそんな状況になったと認識しています。とにかく予防に最善を尽くすことにします。たまたまマスクは手つかずの箱がありました。これは以前に花粉症のために買ったものでした。手洗いはまめにする方ですが、さらに帰宅後にもすることにします。厚生省から出た指針をしっかり覚えました。
 
 クルーズ船の封じ込めはうまくいかなかった、と評価されても致し方ありません。形式論かもしれませんが船の人の上陸は検疫が必要ですので、3千人余りのそれに対応できなかった、ということなのでしょう。たくさんの人が乗船しているアメリカの場合は、停泊後すぐに迎えに来てもよかったのではないかと思ったのでした。日本は武漢に迎えに行っておおよそ帰国をさせました。その人たちの入国後の対応も行いました。

 *クルーズ船の船籍はイギリス、所有者(事業者)はアメリカです。

病院での親子の姿から

2020-02-15 16:04:40 | 生活・教育・文化・社会
 半年ごとに眼科に定期健診に通っています。検査と待ち時間で1時間半ぐらいでしたが、待合室での親子と思われる2人連れに、様々思いを巡らしたのでした。
 母親は80歳代と思われ、杖をつきながら歩くことに難儀をしていました。その歩くのを支えになっている娘と思われる人は、60歳代と思われました。それだけならよくある光景ですが、娘と思われる人が全盲でした。
 母親は視力障碍の娘の子育てには、人知れぬ思いと体験があったことでしょう。娘を「手引き」して視力を助けながら育てたでしょうが、老いては立場が逆転して娘に支えられての歩行です。
 病院でもあり待合室は広いのですが、歩行空間は限られています。母親の足を助けるため手を添えた白杖を持たない娘は、ゆっくりたしかな歩行をしていました。母親は娘に手をゆだねてその力を借りていました。母親の足を娘が、娘の目を親が助けあっているのでした。

 かつて視覚障碍の教育にかかわったことがあり、視覚障碍者と交わる経験をした者として、その親子の姿に思いをめぐらしたのでした。この親子こそが「絆」の関係そのものではないか、と。そして老いてからの親子の支え合いにも、思いをめぐらす時間になりました。


自分の「終末時計」が気になる?

2020-02-03 20:40:06 | 身辺のこと・自然
 このところのウォーキングは住宅街の20分コースばかりになっている。昨日と今日は、最近歩いていない30分の林コースのウォーキングをした。林の中の獣道のようなところに足を踏み入れるのはなかなか良いものだ。それに折り返し地点としている所へ行くための自分だけの道を10メートルぐらい作っている。しばらくそこを歩いていなかったので、枯れ葉に埋もれてなくなっていた。また道らしくしようと思い、それを励みに30分コースに行くことにしよう。
 昼頃歩くと晴天のときは、西側の雪を頂いた山々の稜線がきれいで、少しだけ立ち止まって見いるのも楽しみの一つである。
 
 地球環境の危機あるいは戦争勃発の危険を「終末時計」として時計で表すことがある。地球の危機に切迫感を感じさせるのによい方法である。それを人間の命に例えると、寿命を予測するようで、心穏やかでなくなる。

 しかし死とかかわるビジネス等では「終活」といって取り組んでいる。数カ月前その業者が「フェア」開催として、それへの誘いの電話があった。家族が登録したようで、明るく気風のよい調子の誘いにはひるんでしまって、話には乗らなかった。
 「終活」は人生のしまい方として、自ら積極的にやっている人もいる。しかしぼくにはできない。やり残していることが多いと思っているのか、まだ生活、活動中と思っているのか、「終活」というくくりでは考えたことがない。
 60歳代の時、「エンディングノート」というのを渡された時がある。受け止められなくて内容もみなかった。世間からそうみられるだ、と思ったものだった。
 かつての知人たちも少しずつあの世へと旅立っている人もいるが、自分の「終末時計」はどのぐらい残っているかは知らない。知らないから今を送れるのであろう。

 からだの衰えは自覚できる。物忘れは、少しずつ気づいたときに対策を立てて、生活に支障ができないようにしている。それに認知症についての解説のテレビを見たり本を読んでも、客観的に知識を得て理解しようとする。
 しかし1月11日の「NHKスペシャル・認知症の第1人者が認知症になった」は、認知症の研究と臨床を仕事にしている医師が自らが認知症になったドキュメンタリーを見たが、怖かった。認知症の当事者が認知症について講演をしていたし、実の娘の支援・介護も印象に残った。ドキュメンタリーゆえに、自分のことのように見てしまったようだ。
 認知症は予想はつかないものなので、予防によさそうなことはとにかくやってみよう、と思っている。

 ラジオで和田秀樹(精神科医)さんが、瀬戸内寂聴(1922年生まれ 98歳)さんと橋田壽賀子(1925年 95歳)さんを例にして、書くことはいいことではないか、という話をしていた。この2人の文筆家の例を一般化するんのは無理があると思いつつ、刺激を受けたのか、こうしてささやかなコラムを書くのを再開した一因になったようである。

ぼーっと生きていたっていいんだ!

2020-02-02 15:13:27 | 当世世間事情
 NHKの番組「チコちゃんに叱られる!」は、内容は当初昔の「日本人の質問」(司会古館、回答者に大桃美代子など)に似ていると思った。その番組は、身の回りの何気ないことの理由や意味を気づかせるものだった。
 例えば電車の「シルバシート」と命名されたいきさつは、「チコちゃんに叱られる」の設問にもなっていた。シルバーという言葉は、たまたま大量にあったシルバー色の布を電車の「優先席」に使ったといういきさつがあってのことだ。その後語源とは意味が違いながらものに「シルバー人材センター」といった年寄、老人、高齢者の名称になっている。ぼくは言葉が生まれるいきさつとして興味深く感じていた。なお当時(70年代)は席を譲る人には今の「優先席」のような幅広い人ではなく、おおよそ年配者へのことだった。

 「日本人の質問」はクイズ番組なので3人の回答者は、回答を繰り返しながら正解にたどり着いていた。その過程で回答者の知性が刺激しあうとことに謎解きのような面白さがあった。視聴者がその過程の知的面白さに参加していた。正解を得点化して競うクイズ番組と違う面白さがあった。
 ところが「チコちゃんに叱られる!」は「日本人の質問」のような知性を高揚させるというクイズ番組とは、まったく異なるのだ。一見クイズ番組のように回答者3人と置きながらも、一人を指名しヒントなしに問いかける。設問も一見日常生活の不思議を取り上げているようだが、およそ知らなくても知的な暮らしができるような、学問的な専門性の強いなものがほとんどである。

 「チコちゃんに叱られる!」は、クイズ番組のような形式をとりながら、指名した一人の回答者の誤った回答をするのを「ぼーっといきているんじゃねーよ!」とののしるのだ。しかもののしり罵声をあびせるのが5歳という設定のキャラクター人形ある。この5歳という設定がゆえにそれができるというもの。その意外性、逆転性にバラエティーの面白さを求めているのだろう。
 しかし5歳というキャラクターは、横柄、尊大、傲慢の限りを尽くしているではないか。5歳のキャラクター人形にさせていることは、はたしてユーモアで済まされるのか、もしや万能感に満ちたパーソナリティ障碍を持っている人のようにもみえないだろうか。と書いたが、お笑いを知らない「昭和の人間」といわれそうだ。番組の仕組みとしては、新しいバラエティークイズ番組としてこれまでにない工夫をこらしている。
 正解を解説する専門家に「チコちゃんってすごいね。5歳なのにそんなことも知っているんだ」といった趣旨のことを言わせる。さらにその後のナレーションを抑制的知性の印象の強い森田アナが、回答者がチコちゃんにののしられて後に「のほほんとしてたらチコちゃんに叱られますよ」といってしめる。
 チコちゃんはCGで操作されているようだし、しゃべりは台本があったとしても絶対的人間として状況に応じているので、相当なベテランの人なのだろう。それにその場ではパソコンを使っているだろうし、編集も緻密にやっているのだろう。

 ところで回答者がののしられるのが漫才のボケで、チコちゃんの突っ込みという役割と思い、絶対者のチコちゃんに痛快さを感じて視聴するのが一般的だろうし、番組の知的面白さを感じるというのが趣旨なのだろう。
 しかし出題の内容が専門性が高いものが多く、そのことを知らなくても十分知的な生活を送れるのではないか。だから「ぼーっと生きていていいんだ!」と思うのだ。
 チコちゃんを5歳のキャラクター人形という設定で、回答者を一刀両断をする絶対者にしている。それに共感しているうちに、万能感を持った人間の、その力に共感してはいないだろうか。
 世界や日本を闊歩している、ト〇ンプやア〇首〇といったタイプの人に共感する人とダブってしまうのは、考えすぐであればよいのだが。

 なお、NHKで昨年日本の城郭を扱うクイズ式進行をした番組があった。回答者が落語家の三遊亭昇太と俳優の高橋英樹という城郭に詳しい人で、司会はTBSの昼の時間帯をバラエティーのMCをしている人だった。司会者が回答者に教えられるという、意外性をもった形式になっていた。司会をした人がお笑い出身であるが、自分の番組を仕切っている感じと異なる進行はどんな思いだったのだろう。