絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

初夏の庭

2008-04-29 15:49:03 | 身辺のこと・自然
 初夏思わせる気候です。大型連休はわたしの地域は好天の予報です。早朝から仕事で移動したところ、平日より電車などは空いていました。

 わが家のささやかなビオトープガーデンは、いわゆる庭として植栽などした空間よりは、季節の変化を反映するのでおもしろいです。
 野鳥は、冬季間見えなかったスズメが頻繁に来るようになりました。6~8羽ぐらいが群れで来ます。ときおりヒバリも来ます。冬の間庭を支配的だったムクドリがめっきり来なくなり、ヒヨドリが複数でやってきます。
 池は、アメンボがどこからか2匹やってきて、変化をもたらせています。メダカが水面で泳ぐのが見えるようになりました。以前は常時水面を泳いでいたようだが、野鳥が立ち寄るせいか、近寄ると深みを泳ぎ、時々しか見られなくなりました。水槽に分けて飼うと産卵するとのことなので、もうじきやってみようと計画しています。
 草花はランの原種といってもよいエビネが咲き誇っています。数が増えたので、存在感を増しました。シランが数が増えたのでいいし、アマドコロの白い花は趣があります。在来種の野草だけなので、公園の花壇のような彩はなく、地味なものです。
 昨年までなかった野草が、いくつかひょっこり見られます。これがビオトープのおもしろさで、図鑑で調べては名前を覚えてゆくのが楽しみでもあります。
 時折様々なチョウも立ち寄ります。そのうちシジミチョウが多くなるでしょう。
 3キロほど離れた、テニススクールの高木の緑が鮮やかになりました。ガマズミが白い花を付け始めました。その林の中を時折ウグイスがさえずります。少しずつさえずりがたどたどしさを抜け出して、耳に満足を与えてくれるようになりました。

街頭絵本読み聞かせ

2008-04-26 14:39:58 | 子ども・子育て・保育
 今日のNHKの「おはよう日本」で、街頭絵本読み聞かせをしている人の紹介があった。保育士(男性)が、夕方駅のわずかの空間を利用して行き交う人に、絵本の読み聞かせの活動をしているのだ。大人や子どもづれの親が、立ち止まって耳を傾けていた。活動場所からして、対象は子どもというより大人を視野に入れている。
 その昔、街頭紙芝居が盛んだったことからすると、絵本の読み聞かせを街頭でやるということも考えられることだ。大道芸、ストリートミュージックなどが珍しくなくなったので、「出し物」を変えたものとして受け入れやすいかも知れない。
 もともと日本の道は、子どもが遊び、人々が行き交いコミュニケーションをとる機能を持っていた。60年代から道路が車中心になったのと、暗に政治的示威活動抑制のために道路使用の規制が始まった。とくに大都市の道路は、整備されていくほどにすばやく通り過ぎる無機的空間になった。
 さて、絵本の読み聞かせに耳を傾けるのは、絵本は大人が内に持っている子ども性を呼び覚ましてくれるモノだからだ。そもそも大人は成熟して頂点にいきつくのではなく、年輪のように内に子ども性を持っているものである。絵本の語りを受け入れることは、大人の日常性をしばし置いて、誰もが持っていて気づかない自分の子ども性と出会える幸せな時間になる。知らない人に提供される、絵本を介しての安心するコミュニケーションでもあるのだ。
 それに現代社会は、文化が大人と子どもの境界がなくなっている側面もある。同時に優れた絵本は、子どもを対象として制作したものでも大人にも満足を与える普遍的力を持っているのである。

 図書館等での母親を中心にした、読み聞かせサークルが盛んである。子どもの文化財のあり方に、大人が向き合うことは国民的教養がにじみ出ていることではないか。またこういった活動は、活字離れが著しい中、子どもの生活に読書が位置づく環境作りにもなるだろう。
 テレビ、ビデオなど完成度の高いビジュアルな文化との接触が多くとも、絵本という肉声を通した、いわばアナログなモノがすたれないで力を持つものである。それは人と人のコミュニケーションを求める、人間としての自然な行為でもある。

 テレビで紹介された男性は、張上げた高めの声であった。声の表現、間などの語りの総合的表現を、今後熟達していくだろう。なにはともあれ、街頭に飛び出して絵本を介したコミュニケーションをしている若者に、拍手を送りたい。
 それに保育は自分の表現だけではなく、普通では見逃しがちな子どもの成長をコツコツと見届ける地味な営みでもある。若い保育士が、保育園でも子どもに安心を与える仕事を蓄積していくことも期待したくなったのだ。

野茂はどうなる

2008-04-21 18:36:02 | テニス・他のスポーツ
 朝から野茂英雄が、ロイヤルズを戦力外になったと報道された。故障のリハビリに励みながら久しぶりにMLBのマウンドを踏んだが、今後どうなるか大いに心配である。これまで2回経験している戦力外とは、異なる岐路に立たされるようである。
 中継ぎとして3試合に登板したが惨憺たる結果なので、ヒルマン監督(前日本ハム)といえども、日本のように情実のないスポーツビジネス文化なので、致し方ないだろう。
 野茂は、今日の2桁を越える日本選手が活躍するようになった道をつけた人である。しかも日本の野球の水準の高さを、アメリカに圧倒的に印象つけたその功績は計り知れない。
 昨年秋からはベネズエラのウインターリーグに出場して、懸命に復活にかけていただけに、更なる活路を見出すことを祈る思いである。

聖火をめぐる攻防

2008-04-20 17:54:46 | 生活・教育・文化・社会
 オリンピック聖火が、長野市をリレーする26日がいよいよ迫ってきた。この間ロンドンに始まった(4月6日)聖火リレーへの抗議行動は、パリ(7日)でさらにエスカレートし、その後は聖火リレーに人を近づけない厳重な警備のもとでリレーされている。
 本来の聖火リレーの意味は失われ、オリンピック委員会と中国の威信をかけた行事になっている。
 サンフランシスコ(9日)ぐらいからは、聖火リレーを声援する中国人の行動が加わり、政治問題の色が濃くなっている。いずれも人を寄せ付けないため、聖火が見えないところでの、リレーとなっている。

 長野市は善光寺が出発点とされていたが、寺側が辞退したため別な場所に変更された。善光寺は長野市の象徴であり、多くの人が訪れる場所として選んだだろうが、今回のチベット問題への中国政府への抗議ということからして、仏教寺院としては当然の辞退であろう。
 善光寺を出発点としたならば、国際的に見れば仏教寺院が中国政府を擁護し、チベットの仏教徒同胞への理解を示さない、というメッセージを発することになるのである。

 今回の聖火は、3月24日にアテネで採火されたたものが、いったん北京に運ばれて胡錦濤国家主席を中心にすえて出発式が行われた。北京から1カ月かけて世界中をリレーするという計画に、今日の中国の事情を色濃く反映したものである。欧米型の民主主義でない、いわば近代的な国家でない一党独裁国家であり、中国が国家の威信を国際的に発信するイベントとして位置づけているといえよう。
 そのコースの都市は、中国ゆかりの地が多く選ばれている。ロンドンは中華街の歴史が長い、パリは現在の国家を作った人たちが若いとき学び、サンフランシスコはその開発に中国人が大量に移民した地である。アジアでは華僑の多いバンコク、さては香港、マカオとなっている。

 聖火リレーで、今日の中国の人権弾圧問題を中心に、近代国家としての仕組みを持っていないという問題が露呈した感がある。国際社会は、オリンピック開催に中国の近代化を期待していたが、道半ばである。むしろ「中華思想」が依然として底流にあるのではないか、とらえる向きもある。人口が世界の20%弱を占め、中国製品が隅々まで席巻し経済成長が著しい。世界中に中国人街があり、途上国と位置づけられているものの、ポストアメリカと見る人もいるぐらいである。
 聖火リレーを中国批判する機会と考える場合、欧米ではチベット弾圧という人権問題への批判であるが、日本ではそれだけではなく反中ナショナリズムの立場から批判している人も多い。
 日本は近隣国外交としては、欧米と同じ立場で行動するのは難しい。ダライ・ラマ14世が、アメリカへ行く途中に立ち寄った際日本で記者会見したことが、精一杯ということか。欧米からは、日本は中国の人権弾圧問題に対して沈黙している、と見られる可能性は否めない。


本格的合唱を聴く

2008-04-19 20:47:01 | 音楽
 会場である16時30分にホールへ着いたら、入場しようとしている人が長蛇の列でつながっていた。その多さに驚きながら、1200円の当日券を買って入った。開始時には1800人入るホールが、空席がちらほらくらいの大勢になった。
 市民混声合唱団と銘打つ合唱に、どうしてこんなに駆けつけるのだろう。知り合いを誘っただけでは集まらないだろうに、と思ってプログラムを読むと、創立28年で、16回目の定期演奏会であった。
 曲目の1部が林光の世界であり「死んだ男の残したものは」も聴くことができた。2部は無伴奏合唱曲で、初演曲と信時潔の曲であった。
 女性の声がピアニッシモをきれいに歌うぐらいすぐれていたし、声による表現力も確かであった。どこの合唱団もそうだが、男性が人数も少なく声も全体のバランスが取れないぐらい弱いのが残念であった。
 3部のオペラの合唱のときは、テノールとバスに5人ずつのエキストラが入った。音大の1年生のようであったが、男性の声に輝きと重厚感がでた。オペラの合唱はハーモニーもさることながら、声を聞かせなければならない。安心して楽しく聴けるほど変化したのだった。
 合唱団に歴史があり、指揮者が声楽家のせいもあってか声がよくできてたので、久しぶりに本格的で完成度の高い合唱を聞くことができたのだった。

2年生になりました

2008-04-12 22:17:14 | 子どもからの発見
 雨が降り暖かくなって、わが家の小さな庭ながらも、生命が躍動しています。思わぬところにシャガが10本ほど根づき花を咲かせています。スミレがこれまた去年と違ったところに、何本か可憐な花を咲かせています。こんなことがビオトープガーデンの、面白さです。
 在来種の野草を基本にしているので、エビネがぐんと伸びてきてシュンランはまだ花の活気は失っていません。ミツバツツジが花をつけ、朝つぼみなのが昼すぎにはいくつか咲きました。ヤマブキが、例年になく花をたくさんつけています。淡い黄色い花は趣があります。

 隣の子どもたちは進級して、兄が2年生で妹が年長になりました。
 春休みに小学校の校庭に4人で遊びに出かけたら、集団登校方式で整列して歩きました。海が班長(5年生)で、「背の順になって」などさまざま注文をつけます。わたしは副班長(6年)となり後ろに並んで歩いたのでした。整列という学校文化がこのように受け継がれているのかと、確認できました。災害時でも暴徒化しないで秩序だって行動するのが基本になっている、日本人の原点はここにあり、といった感じです。
 学校では校長先生が、ウーパールーパーという両生類の生き物(メキシコ原産)を飼っている水槽の掃除をやっていて、それを見ることができました。ふき(5歳)が兄からその生き物の事を聞いていて、見るのを楽しみにしていたので、偶然に身近にじっくり見ることができて満足しました。
 校門からすぐの広場には池があって、鯉が泳いでいます。孔雀などの動物もいます。広い中庭には、ウサギやニワトリなどいくつかの動物が飼われていました。
 大都市の車通りの多い道に面したところにありますが、子どもたちや大人が自由に校庭で遊べる、いまどき珍しい学校です。
 そこで海とサッカーをやりました。ボールテクニックを教えたいのですが、なかなか受け入れないのでやったことありません。学校ではサッカーで遊んでいるらしく、このごろは様になってきています。
 1対1で得点争いをするのをやりました。海は自分が勝つと思っていたらしいが、真剣にやるとまだわたしが優勢です。秋ごろから比べたら上達していたので、早晩かなわなくなるでしょう。前歯が生え変わり、顔に幼さがだんだんなくなるぐらい成長してきました。
 黄色い帽子をかぶらなくてもよくなり、学校の仕組みが分かり、高学年の人ともコミュニケーションが多くなっているせいか、しゃべり方が変わってきています。少しばかりの余裕のようなものを感じられます。


ついに「オニ安」だ!

2008-04-08 16:09:16 | 当世世間事情
■ついに「オニ安」だ!

 わが街の駅ビルの家電量販店が、3月下旬からセールをやっている。人が移動するときなので販売が見込めるシーズンなのだろう。その店は「オニ安」と銘うってセールをやっている。「激安」より最上級の、いわば価格破壊のイメージを伝える言葉として作ったのだろう。
 わたしはそこを利用しているが、「オニ安」ひかれてというよりは、店員の商品の説明がていねいで的を得ているからである。
 昔は「廉売」といわれていた記憶がある。今はなくなった年末セールに使われたようである。競争が激化して、「激安」「超〇〇」などの言葉が踊るようになった。「セール」とも言われているが、デパートは「クリアランスセール」というようになっている。

■好調なインドア・プレイグラウンド

 07年6月11日のコラムに書いたインドア・プレイグラウンドが、スポーツ店だった所に移動していた。以前の5倍ぐらい、バスケットコートぐらいだろうか、利用者が多くビジネスとしては好調なのだろう。
 平日の昼頃通った時はまばらだったが、土曜日の午後から見たときは、2歳から5歳ぐらいの子どもでごった返していた。
 子どもとあそんでいる親は少なく、周りの椅子に座って所在なげに見たり、おしゃげりしたり、本を読んだりといったところだ。都市の住宅事情、遊べる空間等の問題もあるだろうが、子どもと遊ばない、遊べない親が多いとわたしは見ている。遊びの空間と時間を買う、消費するというように変貌していることはたしかである。
 市の児童館に付随した「子どもセンター」というものが何カ所かあり、職員がいて空間や遊具も整っている。しかし、いかんせん利用者が少ないのは、人が集まりにくいが所であること、駐車場がないなどと思われる。「子どもセンター」は無料だが、そこに行くより非日常空間でカネを出した方が、かっこいいということか。

石井桃子氏の死去を悼む

2008-04-07 15:10:39 | 絵本と児童文学
 2日石井桃子氏(101歳)が逝った。氏は、日本の児童文学が良質なものにする基盤づくりに、偉大な功績を残した。
 作家として、創作は多くの人に読み継がれた『ノンちゃん雲に乗る』がある。この執筆は、戦時中の小国民文学時代(国民学校)といわれており、出版は47年におこなわれて、今日まで読み継がれている(現在は福音館書店発行)。
 今日の児童文学に影響を及ぼし、子どもを本の心地良さにいざなった仕事は、翻訳であろう。ミルンの「クマのプーさん」(40年出版)、ピーターラビット、うさこちゃん(今はミフィー、ブルーナー作)と、さきがけて日本に紹介して今日の人気に先鞭をつけたことになった。戦時下にありながら、イギリスの児童文学に接触するという国際性が、他の児童文学関係者とは異なる多様な仕事と子どもへのまなざしのおおらかさユーモアをもたらしたのではないか。
 それに今日の良質な児童文学の指標となっている「岩波少年文庫」「岩波子どもの本」シリーズを岩波書店の編集者として、戦後まもなく本づくりをした。
 また今日では多くやられている文庫活動を、60年代から自宅を開放しおこなった。
 いずれもさきがけての仕事をやりきる実行力は、賞賛されよう。決して気取らず日本の子どものために地道に多様な活動をした。長きにわたるその仕事は、今日の日本の児童文学・文化の良質さを維持する流れへと影響を与えている。
 今後当分関係雑誌などで追悼あるいは評伝のような特集が組まれるので、氏の児童文学に果たした功績を読み解くことにしよう。

*なお石井桃子の業績に触れた直近発行のの本では、雑誌『飛ぶ教室』07年秋号-第11号(光村図書発行 定価1000円)がある。


地域の児童合唱団を聴く

2008-04-05 21:22:34 | 音楽
 夕方にこの地域の児童合唱団のコンサートを、聴きに行きました。小学生10人ぐらいで後は中、高と社会人で構成されていました。人数が少ないのに、プログラムは合唱、ダンス、キンカンアンサンブル、打楽器アンサンブル、合唱ミュージカルとバラエティーにとんだものでした。合唱曲の「7つのフランスの子供の歌」が演奏され、昔歌ったことがあるので懐かしさがこみ上げてきました。久しく聞くこともなく、忘れていたのでした。
 正味2時間20分のステージにするのには、指導者の情熱がなければできないことでしょう。
 限られた地域で児童合唱を維持するのは難しいのに、25年ぐらい続いているのがすごいことです。大勢の関係者がステージに上がる場面では、子どもを抱っこしながらの人も何人かいました。
 指揮が交代したばかりであるせいか、ボイストレーニングはやっていないようでした。技術主義でないよさもあるが、声での表現という観点からすると、どんなものだろうと考えさせられました。指揮者は、若い打楽器が専門の人でした。
 子どもたちのたちとそれを支える指導者と親たちが、歌うという文化を楽しみ絶やさないようにと、願いを強くしたのでした。


あさのあつこ『バッテリー』がテレビドラマ

2008-04-04 20:05:23 | 絵本と児童文学
 昨日は博物館に、隣の子どもたちをつれていった。道を迷いながら車で行く途中で、サクラ、コブシ、シデコブシの花、ケヤキなどの高木の芽吹き、そして草花とたくさんの春を感じ取ることができた。
 博物館では、常設展示のこの街の歴史や生物などの自然の展示を見た。そこではかねてからの謎だった、ひとつが解けた。わが家の庭に来る野鳥で、羽がスズメに似ていて一回り大きい鳥が、ヒバリであることが分かった。ヒバリが小さな庭に来るとは思ってもいなかったので、ささやかなことだが身近な野鳥の名前が分かったことは、わたしにとって収穫だった。博物館は2回目だったが、そのときの関心によって読み取るものが違うものだと、改めて感じた。
 子どものめあては、『ダイナソー-パダゴニア・巨大恐竜の謎』の映画を見ることだった。これが「全天周映画」といって、プラネタリウムを映す天井が円形にできているところに映すものである。そのために恐竜が迫ってくるし、航空映像は飛行機に乗っている感覚になる。内容は古代生物の研究から割り出した、恐竜の紹介などでいわゆる教育映画である。

 さて、昨日からNHKテレビのドラマとして、あさのあつこの『バッテリー』が始まった。毎週木曜日20時から45分間、10回連続とのことだ。『バッテリー』は、作品が800万部のベストセラーであり、その人気からすでにコミック、ラジオドラマ、映画とすべてのメディアで表現されている。
 作品は、原田巧という類まれな才能に恵まれな中学生ピッチャーを主人公としている。思春期の子どもの特徴を押さえつつ家族や友人との関係、学校など子どもを取り巻く環境にぶつかりながら展開されていく。ずば抜けた才能を持った主人公にすることにより、問題を際立たせ分かりやすくし、しかもエンターテーメント性も表現しているのが、多くの人に受け入れられているのだろう。
 わたしは原作を脚本にし、テレビドラマにどのようにしているのかに関心を持っている。さいわい撮影がロケのようなので、テレビドラマとしては満足できる。関心を持ったひとつに、巧の母親をしているのが、斉藤由貴であった。デビューの映画「優駿」を見ただけに、中学生の母親役がにあうのに歳月を感じさせられたのであった。