絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

ドラえもん

2004-02-28 06:45:16 | 子どもからの発見
ドラえもん   (2004年02月28日 (土) 06時45分)

■どのようなルートか定かではないが、ドラえもんに興味を持ち出している。画用紙にクレヨンで、大きな丸二つを対称に描き、その中に小さな丸を書いた。その中央の下に線を描いた。描いてから「ドラえもん」と言ったので、ドラえもんの顔を描いたのだ。顔の輪郭は描かなかったが、目と唇を描いたのだ。
 それまで点をたくさん描き横長の丸い線を結んで「おいも」と言っていたのからすると、飛躍したものだ。ぼくに「ドラえもんかいて」と言ったので描こうとしたが、まったく思い浮かばない。知っていそうで、自分の興味に取り込んでいなかったことに気づかされた。しょうがなく同じように目と唇を描いて顔の輪郭でかこった。そしたら「りんご、りんご」と言った。あごの部分がりんごの下の線にそっくりになっていたことに気づかされた。

■またドラえもんのことを言うときは、声を高くして喉にかかるように出す。明らかにドラえもんのアニメの声を真似ている。そういえばこのところ、ときには高い声か裏声(声がひっくり返るようになる)でしゃべるようになった。どうも自分の言いたいことを伝えようとしたときになるみたいだ。自分の感情表現が声の質の変化にも結びつくようになる兆しかもしれない。また時々「すみません」「しつれいします」「・・なもんで」とお辞儀を加えながら言うことがある。言葉や声を親の真似をしているのだ。


歌への関心

2004-02-24 00:18:10 | みるふぃーゆのコラム
歌への関心  (2004年02月24日 (火) 00時18分)

 1歳6ヶ月の息子は、喋る調子とは別に、なにやら歌っているような調子で声を出していることがあります。遊んでいるとき、お風呂に入っているときなど、時々、「あれっ?歌ってるのかな?」という程度ですが。鼻歌のようにも聞こえます。

 おもちゃのなかにボタンを押すと曲がながれるものがあり、それはボタンを押すたび「犬のおまわりさん」と「ミッキーマウスマーチ」が交互に流れるのですが、彼は曲の区別はとっくについているらしく、「犬のおまわりさん」ばかりを聞くのです。「ミッキーマウスマーチ」が流れるとすぐボタンを押して「犬のおまわりさん」にかえてしまうのです。あげく私や夫の肩に手をかけ、じっと人の顔を見つめるのです。「歌え」という要求です。歌を聴いているというより、歌っているところをじっとみつめて自分の口を動かすような時もあり、「歌うことを獲得しようとしている」というかんじも受けます。

 1歳6ヶ月児のリアルタイムの報告でした。


薪ストーブは「きがあついね」

2004-02-23 10:50:07 | 子どもからの発見
薪ストーブは「きがあついね」  (2004年02月23日 (月) 10時50分)

■薪ストーブの木が燃えてる火を見て「きがあついね」といった。マトを得たおもしろい表現だ。
言葉が目に見えるモノや自分の欲求をあらわしていたのが、3歳頃から言葉だけの機能をもつものとして使うようになる。自分の言葉によって他人が行動したり、見えないことを言葉で言うことを身につけていくことは、子どもにとっては大変な出来事だろう。そのような言葉の力を獲得すると、モノの擬人化や比喩的表現を出来るぐらい言葉をあやつるおもしろさを体験して、考える手段としての言葉にもなっていく。

■家の屋根から全体を眺め、「かいのうち」「かいのうち」と確信ありげに繰り返した。周りの風景を見るようになったことと、他と区別した自分の所属の意識の芽生えか。そういえば、関心のある近所の車や大型バイクを2歳半ぐらいから触ったりしなくなった。

■自分のことを「かい」といっているが、ときには「ぼく」と言うこともある。モノを「かりる」というようになり、所有の意識がはっきりしてきた。2歳10ヵ月ぐらいからだろうか、店で「かう」ということが分かったとき、「もらう」と区別するようになった。時々「・・です」といった言い方をする。

24動く道路が右明けを奨励 25トイレの絵文字

2004-02-22 15:59:52 | 当世世間事情
[122] 24動く道路が右明けを奨励  25トイレの絵の字 (2004年02月22日 (日) 15時59分)


 2月中旬羽田を利用したら、動く道路では「お急ぎの方のために・・・左側にお立ちください」とアナウンスし表示もしていた。右側は、あきらかに歩く人を想定しているのである。羽田は年に1回以上は利用しているが、初めて気がついた。最近やったとしたら、エスカレーターでできたマナーから援用したのか。それともエスカレーターの右明けは、ここが震源地としてつくられたのか。

25 トイレの絵文字

 日本では、60年代の自動車の普及による標識が増えるなどとともに絵文字が普及してきた。日常生活で絵文字が力を発揮しているのは、トイレのそれではないだろうか。
 数年前体験したあるホテルでは、男女とも黒色で性別が分かる顔の絵文字であった。私が体験したヨーロッパと同じものであった。
 最近利用したホテルでは、ホテル名を反映させてか、すべての表示の色を紫にしていた。トイレも男女ともその色で性別は顔の絵で分かるようにしていた。ところが絵文字の下に男性は青、女性はピンクを貼り付けていた。利用頻度が高いと思われるトイレには、さらに男性用女性用と文字の表示を加えていた。
 日本で最も普及しているのは、男性は青のズボン姿で女性はピンクのスカート姿の絵文字である。これは絵文字であるとともに、男性は青で女性はピンクという、色による識別の方が容易とされているためである。日本のカラーイメージと性別がこれほど結びついている文化は、国際的にも珍しいのではないだろうか。
 ところで私が住んでいる市では、市役所が所管する施設のトイレの絵文字を男女とも緑色として、もじどおり絵文字とし、だんだん増やしている。性別とカラーイメージの固定的文化を溶解させていく意図なのだが、評判はどうだろうか。苦情が出ないか、気がかりである。だって学生にこのことを話題にしたとき、性別と色が固定した方がトイレなど分かりやすくて便利だ、という意見がちらほら出たぐらいだから。

歌をうたうことと歌の絵本と

2004-02-22 11:41:24 | 子ども・子育て・保育
歌をうたうことと歌の絵本と (2004年02月22日 (日) 11時41分)

 大人が子どもに歌をうたい聞かせるということは、語りかけることでありコミュニケーションの意味を持ちます。とくに3歳ぐらいまではそうありたいものです。0歳から2歳ぐらいまでは、子どもへの言葉かけのなかで、ある定式化された行動をうながす時など、わらべうたのような音をつけて語りかけるのもいいのではないでしょうか。たどえば「まんまにしますよ。おなかがすいた、たべようよ」といったようにです。
 1歳過ぎからは、歌をうたって聞かせると耳を傾けるようになり、歌のある部分を声に出せるようになります。この場合歌をたくさん覚えることや音程やリズムといった技術は、まったくとらわれる必要はありません。会話以外に声を出すことが、快であるという体験が大事でしょう。会話の声より大声で歌らしいフレーズが出ると、きっと快の体験になると思われます。とくに1歳半から3歳ぐらいまでは、内言が蓄積しながらもそれを外言化できない(しゃべられない)時の感情のもつれを解消することになります。それに「こいぼり」「こいのもり」というのを「こいのぼり」といえるようになることをいう、構音をうながすようにもなります。
 2歳半ぐらいからは、歌を声で表現することがめばえ、さらに歌は感情が凝縮されているので、それを表現したり自覚して味わう体験になります。子どもはうたうことによって、その歌に込められている感情を体験することになります。個人差がありますが、大人が日頃うたってやって子どもに歌が蓄積している場合は、3歳ぐらいからはある場面のときそれに関連した歌を口ずさむようになります。
 子どもにうたう場合は、家庭では声は大きくなくてもよいので語るようにしたいものです。可能であれば、曲にふさわしいテンポを選択すること、それにはずむのか滑らかなのかくらいの曲想の区別はつけたいものです。また1番だけを何回かうたう方がよいし、 4、5歳児ぐらいから曲全体になり物語性のある曲(たとえば「大きな古時計」)は、歌う側が味わってうたいたいものです。
 子どもと歌をうたうとき、歌の絵本がうたうよりどころになり、歌の想像力を膨らませるための役割を果たします。
 
■私の手元にある歌の絵本は、次のようなものです。
『あかちゃんどうよう』 「きせつのうた」「どうぶつのうた」「みんなのうた」全3冊 絵 わらべきみか (ひさかたチャイルド発行 価格 2340円+税)
 歌のタイトルを象徴するコラージュのような絵がシムプルに描かれており、付随的な絵(たとえばコ
 ップなど)がちりばめられている。1歳過ぎからは子どもが絵を指差してものの名前を言ったりす
 る。製本が厚手でサイズ(15×15㌢)も子どもが扱えるものに作られている。 1冊に12曲で、楽
 譜の掲載あり。

『うたのえほん』 つちだよしはる え (グランまま社発行 価格1500円+税)
『うたのえほんⅡ』 つちだよりはる え (グランまま社発行 価格1500円+税)
「うたのえほんⅢ」 つちだよりはる え (グランまま社発行 価格1500円+税)
 物語性を感じ取れる絵である。 1冊に48曲で全144曲。 明治からの国定教科書の唱歌、大正
 からの童謡と戦後の子どもの歌、外国曲も掲載されている。対
 象は赤ちゃんから小学生まで。



高校時代の記憶を蘇らせる

2004-02-10 15:53:51 | 身辺のこと・自然
[121] 高校時代の記憶を蘇らせる (2004年02月10日 (火) 15時53分)

 あまり行ったことのない銀座にでかけた。高校時代の同学年で首都圏に住んでいる人の、同窓会のためだ。幹事の方のご苦労にほだされて、初めて参加した。参加者で私の記憶にあった人は30%に満たない。学年ごとにクラスが変わったので、教室をともにした人が多くいたはずなのに、思い出せない。クラス名、担任教師さえも記憶はたよりない。話をしているうちに記憶がたぐり寄せられ、家に帰ってからじわっと記憶が蘇ってきた。
 これは、単に長い年月を経ての再会という理由だけではない。私は学校所在地ではない遠くから通っていた、少数者であったことにもよる。さらに高校時代のことは、長年自分の中でどうも封印していたようだ。
 その訳は、あの頃はあることだけに打ち込んでいたが、文化祭、体育祭といったクラスでの行動は参加しなかったのに象徴するように、今振り返るとみんなと波長を合わせないという意味で「仙人」のような生活をしていたのだ。みんなが懸命に勉強しているのに、活字からは目を離さなかったものの自然体で生活していた。当時はそんな生活であっても居場所があった。学校が生徒に対して、とても寛容であったのだ。いまどきの学校とは違って、おおらかに高校生活を送れたものだ。「仙人」のようだったからだろうから、人生の進路に向き合っていた。進路を決めるときは、今思えばたわいないが「得手に帆を揚げる」「鶏口と為るも牛後と為る無かれ」といった言葉が、自分を後押ししてくれたことを思い出した。
 当時地域の主たる産業である漁業、石炭などが不調になり、地域経済は落ち込んでいた。時代は高度経済成長の波が高まり、多くは地元を離れた。そんなわけで1800キロほど離れているだろう首都圏に、現在高校の同学年の15%を超える人たちが暮らしている。
 同窓会を契機に今まで封印していた高校時代のことが、頭を駆け巡っている。ある断片を思い出すと、そこから連想的にいくつかの記憶がつながって蘇ってくる。それが新しい要求つくるのだから、不思議である。高校時代にさまざまなことを語り合った人を、思い出している。その人がどんな人生を送っているだろう、といったことが当分頭をいったりきたりするのだろう。
 私にとっては、人生の進路を考えその後の職業の選択を決めた時と向き合うのも、人生の第4コーナーに差し掛かった今、必要なことなのかもしれない。その動機付けという意味で、同窓会はインパクトの強い体験であったのだ。

ボローニャで輝いている中田

2004-02-08 14:45:35 | サッカー
[120] ボローニャで輝いている中田 (2004年02月08日 (日) 14時45分)

 久しぶりにセリエAをみた。今朝4時30分からの、ウディネーゼVSボローニャである。ボローニャは中田がパロマから移籍加入してから好調なので、元気な中田のプレーを見たいと思っていた。アウェーながら1:3でボローニャが勝った。
 3点とも中田が得点にかかわった。1点目は中田がハーフウエイラインぐらいからロングフィードしたボールが、シュートにつながった。2点目は中田が30メートルぐらいからのフリーキックを、壁を破って豪快に決めた。3点目は、中田が右タッチライン際をドリブルであがって、ボールを中央にマイナスにクロスボールを出したのが得点になった。11カ月ぶりの得点とこれだけの活躍は、マンオブザマッチ(MVP)の獲得も当然といったところだった。
 中田はパロマで2シーズン目であったが、1度もフルタイム出場することがなかった。降格の危機にあったボローニャが、マッツォーネ監督を迎えそれに連動するかのようにシーズン途中で中田がレンタル移籍をした。マッツォーネ監督は、中田がイタリアでのサッカーの道を確固たるものにしたペルージャ時代の監督である。マッツオーネ監督と中田は、お互いに評価し信頼しあっている関係にある。
 マッツオーネ監督は36年に及ぶ監督歴があるが、輝かしい戦績というよりは「残留請負人」とも言われるように、チームの危機を回避し蘇生させる力のある監督である。いわば育成型の監督といってよいタイプである。そのためにチームだけではなく、これまで数々の選手をも復調させたエピソードを持っている。中田も右のトップ下のポジションを得て、水を得た魚のごとく確信に満ちたプレーをしていた。コーナーキックを蹴り、時にはチームメイトに指示を送っていた。中田の広い視野に基づいたポジションニングとそれに必要な運動量、正確で攻撃的なパスなどセリエA水準のプレーを久しぶりに見ることができた。
 ボローニャは、中田加入後の5試合を強豪ミランに負けただけで、降格の危機を脱したようである。中田が好調で輝きを取り戻しているのが、なによりもうれしかった。
 昨晩のマレーシア戦のナショナルチームは4:0で勝ったものの、ついそれと比較してしまった。セリエAの方が、パスのスピードが速いのでプレーの判断が早い、それに攻撃のテンポの変化がある、キックの質が高いなど水準高く、試合としてもおもしろい。もっともマレーシア戦は、格下チームとの戦い方のテストであったが、それにしてもサイドから崩してFW久保がシュートを決める場面がなかったし、スピードに乗った攻撃的パスが少ない試合であり、課題は多い。どうみてもナショナルBチームの感は否めなかった。

過疎から元気を発進する障害者施設

2004-02-02 16:57:53 | 福祉
[119] 過疎から元気を発信する障害者施設 (2004年02月02日 (月) 16時57分)

 その地に知的障害者の更生施設が設立されたのは、82年であった。今年度からさらに、授産施設を発足させた。いずれも町立民営ということである。そのゾーンには養護学校の高等部もあり、1800人ほどの地域に障害者のコロニーが作られているといってもよいだろう。
 町は北海道の日本海沿岸にあり、産業は漁業と農業で、人口4000人あまりである。多くの日本の地方がそうであるように、人口は最高時の25%ぐらいとなった過疎地である。
 私は発足した授産施設が、どのような事業展開をしているかじかに見られるのを期待して訪ねたのであった。国道から少し入った雪につつまれてまっ白な丘陵地に、物語をかもし出すような赤い屋根の建物があった。
 事業内容は、布団のクリーニング、魚介類の加工、牛肉の加工の3部門を設けていた。魚介類と牛肉は、地元で生産されたものを使用している。素材の良さがよい製品を生み出し、札幌市のデパートで販売されギフト商品にも選ばれ好評とのこと。さらに生協との取引の可能性が出てきているとのことである。布団のクリーニングも好評を得て、需要地域が拡大しつつあるとのことであった。
 立地条件に即した事業内容を考えられているだけでなく、利用者の仕事のやりがいに配慮されていることが特徴である。布団クリーニングでは、汚れをていねいに落とす作業をいとわないことが、布団をよみがえらせることに結びつくことが喜びとなる。魚介類と牛肉の加工の製品が大都市のデパートに陳列され好評であることが、仕事への誇りをも創り出すだろう。ちなみに利用者の月額の工賃(賃金)が、2万円とのことだ。初年度からこれだけの金額を生み出すのは、驚くべきことなのだ。
 また、20年の歴史を持つ更生施設では、パンを作っている。これもよい素材を使っていることもあり、味は好評である。さらに地元産の米を素材にした、パンの生産を構想中とのことであった。
 これらの事業は、一部の商品が好評であったとしても、生産するすべての商品の消費の確保、販路の確実性がなければ継続が不可能になる。一般的事業でいう営業活動である。所長は、いわば営業活動に力を注ぐことが多いという。
 施設の職員は、130キロほどある都市旭川市にトラックで販売に行くとのことだ。製品ごと収納できる特別仕様のトラックを、高額で備えていた。夏の人手の多いときでも地元だけでは1日5万円ほどの売り上げが、そこでは20万ほどの売り上げになる。就労が難しい地域で、起業をしているといってよいであろう。
 また、パン作りではレストランと連続しているので、お客さんに見えるところで作業をする。時には中学生が総合学習で、パン作り体験をしに来る。そのときは利用者が中学生へ指導する立場になる。中学生がていねいな仕事と熟練振りに驚くとともに、利用者には仕事に対する誇りを自覚する機会にもなる。そのような交流が中学生に人間観を立ち止まって考えることになるだろうし、利用者にとっては生きがいと人間としての自尊心を創出しているのである。
 20年の歳月に、地域に根づく施設のあり方を実践してきた成果は確かなものがある。グループホームが3ヵ所となり、地域の人が利用者を名前で呼ぶことに象徴的なように住人としてともに暮らしているように思える。昨年の利用者同士の結婚の際は、地域の人もパーティーの実行委員会に参加し、祝福の輪が広がったとのことであった。利用者の処遇に、人権の尊重をかかげているのが反映されたのだ、と感じた。
 新設された授産施設の建築は設備も含めて3億円だった。町の補助が2億円だが、財政規模からしたら小さくない負担である。しかし地域にとっては、人々のつながりをつくり、新しい文化をつくり、起業は活力となり、元気の発信というかけがえのない人間を励ますいとなみになっているのである。
 この地域の1月下旬としては、珍しく穏やかな気候であった。施設を後にしたとき、陽の光で雪が輝いていた。遠く水平線に目をやると、雪に包まれた天売、焼尻島がくっきりと見えた。原風景でもあるこの景色を見たのは、もう何十年ぶりだろうという感慨をもち、人々のいとなみに幸いのあることを願ったのだった。

広場でのサッカー

2004-02-02 14:13:19 | 子どもからの発見
広場でのサッカー  (2004年02月02日 (月) 14時13分)

 風が冷たいものの、いい陽気である。広場に、サッカーをしに出かけた。とはいってもぼくがやるためではなく、近くに住む3歳2ヵ月の海と一緒である。3号ボールを初めて外で使う日となる。
 広場は1000坪ほどだろうか、大人がソフトボールをしていた。隅の方を使って、ぼくはゆっくりボールを押し出すようにドリブルをして一緒にやるように誘発するが、「サッカー」と口ずさんでそれらしいフォームをしてひたすら走る。ボールを時々足で触るそぶりをしながらなお走る。
 海はすでにテレビでサッカーを見ているためか、サッカーは走るものと象徴的にとらえているようである。ときおり「ニッポン、がんばれ」ともいう。テレビで得たサッカーを、ごっこのように再現しているのである。ぼくのやろうとしていたことでは、数回ボール交換しただけだったが、初回だからやむをえない。完成度の高い内容の映像再現としてのごっこではない、ボールを扱うおもしろさをどう体験させていくか、考えていくことにした。現実をみようみまねで獲得することの方が子どもの力になるものだし、子どもが映像から学ぶことを内容によっては過信してはいけないと考える。
 顔が紅潮したのを見て上着を脱ぐようにうながしたら、ぼくにも上着を脱ぐよう言った。ちょっと寒かったが脱いだ。ぼくの上着を自分の脱いだ上着のそばへ置いて、いっそう共感的感情が生じたようだった。
 途中で空を見上げてジェット機の雲を見つけて「はしごだ!」といったので、一瞬意味がわからず反応が遅れたら、「消防車のはしごとおんなじだ」と付け加えた。なるほど飛行機雲は2本線だった。「おんなじだ」というのは、3歳ならではの形の弁別に関心を持つ特徴を現しているということだ。
 また「どうしてサッカーするの」とも聞かれた。「いい天気だからだよ」と即答したが、その答えでよかったか迷っている。いい天気の日はサッカーをする、と思ってしまうかもしれない。「ぼくがやりたいからだよ」と言えば、ぼくの呼びかけでサッカーをするとなるので、その方がよかったかな。
 この「どうして」というのは、しばらく接触がなかったのにぼくが呼びかけたことにもよるだろうが、5歳頃までは何かにつけて「どうして」を連発することになるだろう。言葉を考える手段として使えるようになることであり、対応は大事にしたい。その場しのぎで関心をそらすのではなく、さりとてすべてを説明し尽くすのでもなく、理解できる範囲にとどめながら、場当たり的ではない一貫性をもった対応が必要だろう。内容によっては秩序の形成になるものも含んでいるので、大人自身のあり方が問われることでもある。
 ぼくは70歳を越えただろうお年寄りに目がいくが、ソフトボールに加わっていた人がいた。広場の枝打ちをしていた人、ウォーキングの人、ベンチにすわって辺りを眺めている女性は、海に話しかけてきた。
 ひろった石を大事そうにポケットに入れ、大仕事を終えたような気分で帰路についた。住宅地の道を歩くのだが、車が通るときは端によって立ちどまって通過を持つ。これは1歳過ぎからの散歩の際、自転車、バイク、車とすれ違うときに立ち止まったことが定着したのである。子どものテンポに合わせて歩いて10分ほどで家に着くと、母親に得意げに何かを告げていた。

<近所に住んでいる子どもと交流したとき、これを通して発見したことを随時綴ることにする。>