■アナウンサーは鼻濁音指導を受けていないのか
テレビのアナウンサーの鼻濁音が微妙な人がいるのが気になっている。NHKのアナも、とくに女性が多いようだ。発音のトレーニングで指導をしないのだろうか。鼻濁音がなくなったら、少ない日本語の音がさらに五音減ることになる。なにより柔らかい日本語の音が崩れてしまうのは重大事だ。
ちなみに世界に5000語(消滅している言語が続いているので実際はもっと少ない)ぐらいあるといわれている言語の、ほとんどが500ぐらいの音に対して、日本語は100余りしかない。音が極端に少ないため、同音異語が多いのである。
「はし」という音の言葉が「橋」「箸」「端」「梯」といったようにいくつもの言葉がある。同じ音の言葉を、話し言葉では文意で区別し、書き言葉では漢字で区別して理解している。同音異語が「だじゃれ」「なぞかけ問答」など様々な言葉あそびを生んでいる。
■鼻濁音とは
ところで鼻濁音とは、「がぎぐげご」が言葉の語頭以外で使われる、鼻に抜ける柔らかい音にすることだ。それが日本語の法則なので、鼻濁音消えていくことは、時代によって言葉が作られたり使かわれなくなったりするのとは違う、日本語の根幹揺るがす重大事なのだ。
ついでに「お」と「を」は厳密には音が違う。「を」は「うお」という発音である。これを区別して使う人はほとんどいなくなっている。
昔は「ゐ」と「い」、「え」と「ゑ」の発音も違っていたとのことだ。歴史的な言葉あるいは方言に使われる、日本語の音が少なくなっている。
一方に外国語の音が増えている。例えば「ばびべぼ」「ヴァヴィヴェヴォ」という表記が認められるようになったのは、そんなに昔ではない。スマートフォンの「フォン」という音は新しいし、「ホン」と発音しても誤りではない。外国語の音と表記の問題は、別な枠組みで考えなければならない問題である。
鼻濁音に具体的に触れてみよう。
語頭の言葉 鼻濁音例 鼻濁音の地名
が がけ がん かがみ すがた ながの しが かがわ おおがき
ぎ ぎんざ ぎんみ くぎ かぎ とちぎ あまぎ
ぐ ぐんま ぐあい くぐる かぐら かわぐち
げ げんき げき くらげ かげ じょうもうこうげん
ご ごりら ごらく りんご あご かごしま えちご ひょうご なごや
鼻濁音例の言葉は、鼻濁音の音を使わないあるいは使えない人が増えているのである。地名の鼻濁音は、ほとんどの人が鼻濁音を使っている。とくに地名の地元の人が鼻濁音を使っていない人はいないのではないだろうか。テレビの気象情報で、「かごしま」の「ご」を鼻濁音でない発音の人がたまにいる。
言葉の語頭以外の鼻濁音の他に気になるのは、助詞の「が」の音である。助詞の「が」を鼻濁音でない人の言葉は、ぼくには汚い日本語として聞えてくる。しかも言葉がよどんで「わたしが・・・」と止まって「が」鼻濁音でない場合は不快になるぐらいである。
■鼻濁音の復活のヒント
クラッシックの歌や合唱では、指導者が鼻濁音をしっかり発音できるように求める。ポピュラーの歌では無頓着の場合が多い。
例えば「翼をください」の「・・ねがいごとが・・つばさがほしい」といったくだりの「が」が鼻濁音でなく歌っている人が多いのは悲しいぐらいになる。
こういうぼくは、鼻濁音が完璧と自認していたが、歌のレッスンで鼻濁音にするよう修正を求められることがある。そんな時は鼻濁音の「がぎぐげご」を強すぎずに鼻に抜けるように出すと修正できる。
大学生に日本語の音のことの説明をして各自ためしてもらったら、鼻濁音ができない人が多数だった。「合唱の時よく注意をされたが、何のことかわからなかった」という反応もあった。「別にどっちだっていいではないか」という反応が多かったので、鼻濁音が消えてしまうのではないかと危機感を持ったものだった。
孫が小学4,5年生の時いくつかの言葉の鼻濁音の発音を確かめたら、できなかった。できないというより、区別があるということが知らなかった。そこで説明して発音させてみたら、すぐ理解できた。小学生ぐらいまでに鼻濁音の発音をできるようにすると自然に身につくのではないか、というのが実感である。
■日本語の音は
由紀さおりの歌がアメリカで注目されたときがあるが、関心が高まった要素のひとつに日本語の音の美しさがあるといわれた。
ドイツ語、フランス語、イタリア語、韓国語(朝鮮語)それぞれの言葉の音を皆さんどう感じるだろうか。
ぼくにはイタリア語、ベトナム語などの音が親しみやすい。ベトナムの寺院で僧侶の読経を聞いていると、ベトナム語の抑揚がともなっているので、まるで音楽を聞くように心地よく思うのである。逆に余り親しみをもてない音の言葉もある。
言葉はそれぞれの民族の基本的文化なので、それぞれかけがえのないものであり優劣をうけるようは発想はあってはならないことはいうまでもない。それぞれの言葉のの音の特徴を相対化してみるのもよいのではないだろうか、ということである。
日本語の根幹にかかわる鼻濁音を衰退させてはならない。せめて言葉の伝達者でもあるアナウンサーの皆さん、鼻濁音の発音をできるように、お願いしたい。それにとくに保育士、小学校教員に注意を喚起をしたい思いである。
テレビのアナウンサーの鼻濁音が微妙な人がいるのが気になっている。NHKのアナも、とくに女性が多いようだ。発音のトレーニングで指導をしないのだろうか。鼻濁音がなくなったら、少ない日本語の音がさらに五音減ることになる。なにより柔らかい日本語の音が崩れてしまうのは重大事だ。
ちなみに世界に5000語(消滅している言語が続いているので実際はもっと少ない)ぐらいあるといわれている言語の、ほとんどが500ぐらいの音に対して、日本語は100余りしかない。音が極端に少ないため、同音異語が多いのである。
「はし」という音の言葉が「橋」「箸」「端」「梯」といったようにいくつもの言葉がある。同じ音の言葉を、話し言葉では文意で区別し、書き言葉では漢字で区別して理解している。同音異語が「だじゃれ」「なぞかけ問答」など様々な言葉あそびを生んでいる。
■鼻濁音とは
ところで鼻濁音とは、「がぎぐげご」が言葉の語頭以外で使われる、鼻に抜ける柔らかい音にすることだ。それが日本語の法則なので、鼻濁音消えていくことは、時代によって言葉が作られたり使かわれなくなったりするのとは違う、日本語の根幹揺るがす重大事なのだ。
ついでに「お」と「を」は厳密には音が違う。「を」は「うお」という発音である。これを区別して使う人はほとんどいなくなっている。
昔は「ゐ」と「い」、「え」と「ゑ」の発音も違っていたとのことだ。歴史的な言葉あるいは方言に使われる、日本語の音が少なくなっている。
一方に外国語の音が増えている。例えば「ばびべぼ」「ヴァヴィヴェヴォ」という表記が認められるようになったのは、そんなに昔ではない。スマートフォンの「フォン」という音は新しいし、「ホン」と発音しても誤りではない。外国語の音と表記の問題は、別な枠組みで考えなければならない問題である。
鼻濁音に具体的に触れてみよう。
語頭の言葉 鼻濁音例 鼻濁音の地名
が がけ がん かがみ すがた ながの しが かがわ おおがき
ぎ ぎんざ ぎんみ くぎ かぎ とちぎ あまぎ
ぐ ぐんま ぐあい くぐる かぐら かわぐち
げ げんき げき くらげ かげ じょうもうこうげん
ご ごりら ごらく りんご あご かごしま えちご ひょうご なごや
鼻濁音例の言葉は、鼻濁音の音を使わないあるいは使えない人が増えているのである。地名の鼻濁音は、ほとんどの人が鼻濁音を使っている。とくに地名の地元の人が鼻濁音を使っていない人はいないのではないだろうか。テレビの気象情報で、「かごしま」の「ご」を鼻濁音でない発音の人がたまにいる。
言葉の語頭以外の鼻濁音の他に気になるのは、助詞の「が」の音である。助詞の「が」を鼻濁音でない人の言葉は、ぼくには汚い日本語として聞えてくる。しかも言葉がよどんで「わたしが・・・」と止まって「が」鼻濁音でない場合は不快になるぐらいである。
■鼻濁音の復活のヒント
クラッシックの歌や合唱では、指導者が鼻濁音をしっかり発音できるように求める。ポピュラーの歌では無頓着の場合が多い。
例えば「翼をください」の「・・ねがいごとが・・つばさがほしい」といったくだりの「が」が鼻濁音でなく歌っている人が多いのは悲しいぐらいになる。
こういうぼくは、鼻濁音が完璧と自認していたが、歌のレッスンで鼻濁音にするよう修正を求められることがある。そんな時は鼻濁音の「がぎぐげご」を強すぎずに鼻に抜けるように出すと修正できる。
大学生に日本語の音のことの説明をして各自ためしてもらったら、鼻濁音ができない人が多数だった。「合唱の時よく注意をされたが、何のことかわからなかった」という反応もあった。「別にどっちだっていいではないか」という反応が多かったので、鼻濁音が消えてしまうのではないかと危機感を持ったものだった。
孫が小学4,5年生の時いくつかの言葉の鼻濁音の発音を確かめたら、できなかった。できないというより、区別があるということが知らなかった。そこで説明して発音させてみたら、すぐ理解できた。小学生ぐらいまでに鼻濁音の発音をできるようにすると自然に身につくのではないか、というのが実感である。
■日本語の音は
由紀さおりの歌がアメリカで注目されたときがあるが、関心が高まった要素のひとつに日本語の音の美しさがあるといわれた。
ドイツ語、フランス語、イタリア語、韓国語(朝鮮語)それぞれの言葉の音を皆さんどう感じるだろうか。
ぼくにはイタリア語、ベトナム語などの音が親しみやすい。ベトナムの寺院で僧侶の読経を聞いていると、ベトナム語の抑揚がともなっているので、まるで音楽を聞くように心地よく思うのである。逆に余り親しみをもてない音の言葉もある。
言葉はそれぞれの民族の基本的文化なので、それぞれかけがえのないものであり優劣をうけるようは発想はあってはならないことはいうまでもない。それぞれの言葉のの音の特徴を相対化してみるのもよいのではないだろうか、ということである。
日本語の根幹にかかわる鼻濁音を衰退させてはならない。せめて言葉の伝達者でもあるアナウンサーの皆さん、鼻濁音の発音をできるように、お願いしたい。それにとくに保育士、小学校教員に注意を喚起をしたい思いである。