27日(土)は、近所の小学校の運動会を見た。8時40分開始に間に合うように行く。
ブラスが盛んな学校なので、開会式の音楽はその演奏ですすんだ。小学校では水準が高いそうだが、初めて野外で聞いてその音に新鮮さを感じた。トランペットでのファンファーレは、小学生の音が繊細に感じ、なかなかなものだ。
君が代は、さすがにCDだったが。しかも起立を求めたりしない、多くの人の持っている感覚のものだった。聖火リレーをしてそれを灯したりしたが、応援合戦などは昔と変わらないもの。
進行のアナウンスを、子どもがやっていた。そういえばプログラムの言葉も児童会ということだった。
会場はメイン(本部)を中心に、左が退場門(劇では下手)で右(上手)が入場門と、これも伝統的なもの。バック(本部の向かい側)に子ども席があり、メインが見やすいように競走や表現(集団演技)をする。徒競走はスタート位置を距離ごとに変えて、ゴールはすべてメインの位置にしていた。バック側に国旗、校旗のポールと聖火があるのは、メインを中心にしているからである。
この会場の作りは、おそらく戦前から踏襲されているものだろう。
入場門から出るので、子どもは自分がやるものの2つ前から席を立って準備をする。その間グランドでの種目(徒競走や表現)を見ないことになる。
子どもを中心に考えると、入退場門というのをやめて座席から出て種目の開始の状態にすると、入場門で待つ「苦痛」を和らげ、他の種目も見られてよいと思うのだ。
メイン(本部)に見せるため、上手から出て下手に下がるという「思想」をやめるということだ。おそらく学校当事者は、この会場設営とそれにともなう徒競走のゴールをメインにする、といった競技形態や演出は気づいていない可能性がある。
それに紅白に分けて得点を競うということは、どのように意味を持っているのだろう。おそらく子どもを懸命に集中して向かう気持ちに動員する意味なのだろう。競争が優勝劣敗をつくるのだが、この際の紅白は、スポーツのチームとして競う条件がないのだ。偶然に構成されただけだからだ。これは子どもにとっては大人が考える以上に関心があり、悲喜こもごもを作り出す。
こういった運動会にまつわる学校文化は、明治20年代から西洋風の体操など可能にするため、「規律正しい団体行動を身につける」ことを目的として始まった。
それが明治30年代になり富国強兵の国策を学校に反映させる意味で、競争を強調するものになった。それを象徴する種目として棒倒し、騎馬戦、組体操といったものであり、70年代まで残っていた。このように指導したのは、嘉納治五郎である。それがやがて軍国主義時代の要請にそって、教科に教練に踏襲されたと思われる。
88年(平元年)の指導要領改訂で、徒競走をなくして興味走やワープリレーなど、競争をなくしたり、練習をしないでできるダンスをして子どもの「負担」を少ない運動会にした学校もあった。
ところで教員はそろいのティシャツを着ていたが、子どもに対して威圧感のようなものはまったくなく、目立たないように丁寧にかかわっていた。学校の子どもと教員の関係も変わったものだ。そうだ、親が見ているしね。しかし威圧的な指示などしなくても、子どもたちはちゃんと行動していた。
隊列行動を過剰に要求することもなく、全体にやわらかいものだった。各学年がやる表現をいう種目は、集団行動をほどほどになされ子どもたちは楽しんでいることが伝わってきた。
このような学校の指導姿勢は、校長の開会の話が子どもに即した内容を語りかけるようしていたことで理解できた。子どもが大事にされているし、今時の学校と親がトラブルが少ないのだろう、と推測した。
子どもたちが楽しそうに一生懸命やっていたので、わたしはすがすがしい思いをしたのだった。
ブラスが盛んな学校なので、開会式の音楽はその演奏ですすんだ。小学校では水準が高いそうだが、初めて野外で聞いてその音に新鮮さを感じた。トランペットでのファンファーレは、小学生の音が繊細に感じ、なかなかなものだ。
君が代は、さすがにCDだったが。しかも起立を求めたりしない、多くの人の持っている感覚のものだった。聖火リレーをしてそれを灯したりしたが、応援合戦などは昔と変わらないもの。
進行のアナウンスを、子どもがやっていた。そういえばプログラムの言葉も児童会ということだった。
会場はメイン(本部)を中心に、左が退場門(劇では下手)で右(上手)が入場門と、これも伝統的なもの。バック(本部の向かい側)に子ども席があり、メインが見やすいように競走や表現(集団演技)をする。徒競走はスタート位置を距離ごとに変えて、ゴールはすべてメインの位置にしていた。バック側に国旗、校旗のポールと聖火があるのは、メインを中心にしているからである。
この会場の作りは、おそらく戦前から踏襲されているものだろう。
入場門から出るので、子どもは自分がやるものの2つ前から席を立って準備をする。その間グランドでの種目(徒競走や表現)を見ないことになる。
子どもを中心に考えると、入退場門というのをやめて座席から出て種目の開始の状態にすると、入場門で待つ「苦痛」を和らげ、他の種目も見られてよいと思うのだ。
メイン(本部)に見せるため、上手から出て下手に下がるという「思想」をやめるということだ。おそらく学校当事者は、この会場設営とそれにともなう徒競走のゴールをメインにする、といった競技形態や演出は気づいていない可能性がある。
それに紅白に分けて得点を競うということは、どのように意味を持っているのだろう。おそらく子どもを懸命に集中して向かう気持ちに動員する意味なのだろう。競争が優勝劣敗をつくるのだが、この際の紅白は、スポーツのチームとして競う条件がないのだ。偶然に構成されただけだからだ。これは子どもにとっては大人が考える以上に関心があり、悲喜こもごもを作り出す。
こういった運動会にまつわる学校文化は、明治20年代から西洋風の体操など可能にするため、「規律正しい団体行動を身につける」ことを目的として始まった。
それが明治30年代になり富国強兵の国策を学校に反映させる意味で、競争を強調するものになった。それを象徴する種目として棒倒し、騎馬戦、組体操といったものであり、70年代まで残っていた。このように指導したのは、嘉納治五郎である。それがやがて軍国主義時代の要請にそって、教科に教練に踏襲されたと思われる。
88年(平元年)の指導要領改訂で、徒競走をなくして興味走やワープリレーなど、競争をなくしたり、練習をしないでできるダンスをして子どもの「負担」を少ない運動会にした学校もあった。
ところで教員はそろいのティシャツを着ていたが、子どもに対して威圧感のようなものはまったくなく、目立たないように丁寧にかかわっていた。学校の子どもと教員の関係も変わったものだ。そうだ、親が見ているしね。しかし威圧的な指示などしなくても、子どもたちはちゃんと行動していた。
隊列行動を過剰に要求することもなく、全体にやわらかいものだった。各学年がやる表現をいう種目は、集団行動をほどほどになされ子どもたちは楽しんでいることが伝わってきた。
このような学校の指導姿勢は、校長の開会の話が子どもに即した内容を語りかけるようしていたことで理解できた。子どもが大事にされているし、今時の学校と親がトラブルが少ないのだろう、と推測した。
子どもたちが楽しそうに一生懸命やっていたので、わたしはすがすがしい思いをしたのだった。