絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

伝統を踏襲している運動会

2008-09-30 19:48:30 | 子ども・子育て・保育
 27日(土)は、近所の小学校の運動会を見た。8時40分開始に間に合うように行く。
 ブラスが盛んな学校なので、開会式の音楽はその演奏ですすんだ。小学校では水準が高いそうだが、初めて野外で聞いてその音に新鮮さを感じた。トランペットでのファンファーレは、小学生の音が繊細に感じ、なかなかなものだ。
 君が代は、さすがにCDだったが。しかも起立を求めたりしない、多くの人の持っている感覚のものだった。聖火リレーをしてそれを灯したりしたが、応援合戦などは昔と変わらないもの。 
 進行のアナウンスを、子どもがやっていた。そういえばプログラムの言葉も児童会ということだった。

 会場はメイン(本部)を中心に、左が退場門(劇では下手)で右(上手)が入場門と、これも伝統的なもの。バック(本部の向かい側)に子ども席があり、メインが見やすいように競走や表現(集団演技)をする。徒競走はスタート位置を距離ごとに変えて、ゴールはすべてメインの位置にしていた。バック側に国旗、校旗のポールと聖火があるのは、メインを中心にしているからである。
 この会場の作りは、おそらく戦前から踏襲されているものだろう。
 入場門から出るので、子どもは自分がやるものの2つ前から席を立って準備をする。その間グランドでの種目(徒競走や表現)を見ないことになる。
 子どもを中心に考えると、入退場門というのをやめて座席から出て種目の開始の状態にすると、入場門で待つ「苦痛」を和らげ、他の種目も見られてよいと思うのだ。
 メイン(本部)に見せるため、上手から出て下手に下がるという「思想」をやめるということだ。おそらく学校当事者は、この会場設営とそれにともなう徒競走のゴールをメインにする、といった競技形態や演出は気づいていない可能性がある。
 それに紅白に分けて得点を競うということは、どのように意味を持っているのだろう。おそらく子どもを懸命に集中して向かう気持ちに動員する意味なのだろう。競争が優勝劣敗をつくるのだが、この際の紅白は、スポーツのチームとして競う条件がないのだ。偶然に構成されただけだからだ。これは子どもにとっては大人が考える以上に関心があり、悲喜こもごもを作り出す。

 こういった運動会にまつわる学校文化は、明治20年代から西洋風の体操など可能にするため、「規律正しい団体行動を身につける」ことを目的として始まった。
 それが明治30年代になり富国強兵の国策を学校に反映させる意味で、競争を強調するものになった。それを象徴する種目として棒倒し、騎馬戦、組体操といったものであり、70年代まで残っていた。このように指導したのは、嘉納治五郎である。それがやがて軍国主義時代の要請にそって、教科に教練に踏襲されたと思われる。
 88年(平元年)の指導要領改訂で、徒競走をなくして興味走やワープリレーなど、競争をなくしたり、練習をしないでできるダンスをして子どもの「負担」を少ない運動会にした学校もあった。

 ところで教員はそろいのティシャツを着ていたが、子どもに対して威圧感のようなものはまったくなく、目立たないように丁寧にかかわっていた。学校の子どもと教員の関係も変わったものだ。そうだ、親が見ているしね。しかし威圧的な指示などしなくても、子どもたちはちゃんと行動していた。
 隊列行動を過剰に要求することもなく、全体にやわらかいものだった。各学年がやる表現をいう種目は、集団行動をほどほどになされ子どもたちは楽しんでいることが伝わってきた。
 このような学校の指導姿勢は、校長の開会の話が子どもに即した内容を語りかけるようしていたことで理解できた。子どもが大事にされているし、今時の学校と親がトラブルが少ないのだろう、と推測した。
 子どもたちが楽しそうに一生懸命やっていたので、わたしはすがすがしい思いをしたのだった。



ネコふんじゃった

2008-09-27 20:23:58 | 子どもからの発見
■ ネコふんじゃった
 ふき(年長)はピアノ教室を続けているが、ピアノでの遊びの幅が広くなってきている。「ネコふんじゃった」は冒頭部分弾いてしばらく途絶えていたが、教えてほしいと言い、すぐに最後まで弾けるようになった。弾けるようになって2週目になったら、テンポを早くしたり、様々に楽しむようになった。
 今週から曲をつくり、楽譜にとどめておいてもらうようになった。曲をつくるといっても4小節だが、伴奏は身に着けているドミソ、シファソの和音がちゃんと合っている。メロデーは、学習している範囲のドからソまでの音域であるが、リズムは八分音符も入れて工夫が見られる。目下作った3曲は時々繰り返し弾いている。本人はどうやら曲を作ったと思っているようだ。

■ 音楽で涙する
 7月のことであるが、海(小2)が独り言のように、
「音楽の時間泣いちゃった」
という。なにごとがあったかと思って、
「泣いた?何があったの!」
と反応すると、ためらいながら静かに、
「涙、そうそうを聞いてだよ。涙が出てしまったんだ」
ということだ。音楽を聞いて感激の涙なのだ。CDで何回も聞きたい、というので買ってきた。外を見つめてじっと聞いていた。
 それからはあまり聞かないが、何かの折りかけてくれという。ピアノを習っていないのに、メロデーを探り弾きして2小節までたどり着いた。その続きをやるかどうか、見守っていくことにする。


事故米、汚染米、非食用米

2008-09-20 15:55:13 | 生活・教育・文化・社会
 台風は未明の3時に房総半島館山から60キロの海上を通過とのことで、わが家の地域も雨音が激しく感じるほど降った。早朝になったら雨がやんで午前中は曇りで、午後は薄日がさす穏やかな秋の日となった。
 庭で咲き誇るノハギにたくさんのシジミチョウ、キチョウなどが飛び交っている。ムラサキシキブの実の色が、遅まきながら色鮮やかになっている。虫をあっちこっちから取ってきて放しているので、それが「定住」している。バッタ、カマキリと、夜の虫の音もアンサンブルからオーケストラのようになってきている。

 汚染米の責任を取って、大田農水大臣が辞任した。事務次官も。責任を取るというよりは、まったくお粗末な対応しかできなくて、投げ出したのではないか。この米にかかわった末端業者に自殺者が出たし、事務所費問題も追求されると厄介だし、この際選挙区で選挙対策するのが保身のために大事だ、と。
 この人はかなり傲慢な人のようだが、福岡選出というから「九州男児」の心意気とでも思っているかもしれない。
 農水省が売った業者と、その後かかわった業者の犯罪性を明らかにできないまま、使用した業者つまり消費者へ商品を提供する業者名を公表した。多くは零細でだまされた被害者なのだが、消費者からは風評被害をこうむることになりやすい。
 農水省は在庫をさばくために、工業用利用業者ではなく食料米業者に売ったのが、この事件の原因である。食料米業者であれば、そのルートに強いことは明らかで、目的外利用を疑い監視を厳しくて、見届けるのが行政としてのあり方である。
三笠フーズなど購入業者が、目的外利用を隠蔽してやったことと、このところの規制緩和政策でできたであろう中間の、闇の儲け業者が介在して犯罪にしてしまった。それをさせた農水省の責任は、きわめて大きいはずだ。
 輸入米は食品加工に使われていると、わたしは知っていたが、汚染米(事故米)を製品生産業者が知らずに使わされたことは、やはり問題だ。
 今回の汚染状況は、健康被害出るほどではないとの専門家の見解である。保管、廃棄に莫大な費用がかかるだろうし、もし汚染米を使用するなら、無害であることを公表して飼料や加工食品使用する、という方法もあったであろう。それは農水省がリードしてやってもいいことではないかろうか。
 
 この中間業者は、偽札あるいは麻薬で得たカネを市場に正規の貨幣として利用できるようにする犯罪を「洗浄、マネーロンダリング」というが、そのような役割を果たして、ぼろもうけをしているはずである。農水省以外の機関の手によって早く明らかにすることが、使用した末端業者の風評被害を少なくるることにつながる。

 ところで行政用語では「事故米」といい、その実態は「汚染米」である。新聞報道では、基本は実態の「汚染米」としつつ、これらの言葉を文脈に適切なように両方併用している。
 NHKは「事故米」とも言うが、基本は「非食用米」と画面に表示し「食用に使えない食用米」といっている。「食用に使えない食用米」とは意味不明だが、被害にあった業者や食べた人への配慮であいまいにしているのかもしれない。さもなくば問題の核心をそらす表現をしているのだろうか。
 新聞が使用する「汚染米」が、事実を的確に表現する概念ではないだろうか。

大地震がくる

2008-09-15 17:08:07 | 当世世間事情
■ 大地震がくる
 木曜日に「あさって大地震が来ますよ」といわれたので、わたしはすぐに「地震予知装置もうまく作動するにいたっていないのに、そんなこと分かるはずないじゃないか」と真顔で答えたのだった。
 後で分かったことだが13日(土)大地震が来ると、盛り上がっていたとのことだった。どうやらネット上らしい。遠い距離の人も話題にしていたので。
 平凡な日常に緊張感を持てる、ミステリーあるいは冗談として楽しむぐらい軽い気持ちなのだろうが、わたしから見ればそのようにデマはあってはならない、と思ってしまう。軽いデマであっても、ある状況によっては取り返しのつかない集団ヒステリー状態をつくるのではないか、と心配するのである。それを意図的にやる人間が出ても困るしな。

■ インドネシア人の介護士
 今日は敬老の日でもあるせいか、インドネシアから来日した介護士の受け入れ職場(横浜市)を訪問したことを、朝のNHKニュースで4分間やった。
 来日1カ月ぐらいを経ているので、お年寄りに向かって微笑んで、挨拶を日本語でしていた。日本人の特徴的動作である、お辞儀とうなずきの動作を多くして、好意的にコミュニケーションをしようとしていた。
 6か月の日本語と日本の文化研修をへて、2月から職場に配属される。
インドネシアでは入浴を熱いお湯に入るということがないので、それには珍しさと驚きの様子でもあった。大勢で一緒に入るということも、おそらく驚くことだろう。イスラム教なので、仕事中でも1日5回のお祈りを保障しなければならない。テレビでは、廊下の行き止まりのような空間に敷物を敷いて、洋服の上に白いものをまとい、お祈りをしていた。
 60万円の研修費を施設側が負担して受け入れるのだが、低賃金に人件費を抑えて経営をしているのに、希望する施設がいるというのも素直に理解できない。104人が各施設で、2月からどのように仕事をするか、注目することにする。
 NHKはインドネシアの介護士受け入れについては、継続的に報道している。


絵本の読み聞かせ向上のために

2008-09-13 21:00:56 | 絵本と児童文学
 絵本の読み聞かせの個別レッスンをした体験を下に、子どもに絵本の世界を語って伝えられるようになっていく道筋の目安を作ってみました。
 読み聞かせを向上させていくことは、端的に言うと
 ①演じるような表現をするのではなく、聞き手に伝えよう、届けようという対話姿勢を持つこと。
 ②話を連続させながらドラマ性を伝えるために、間の取り方と話の展開が変わる時の気持ちの切り替え(結果として声の表情が変わる)の工夫をする。
 ③文字を読むことから語りにするためには、象徴的には擬態語(ちょっと、たんたん、ぶらぶら、といった言葉)と周辺言語(言葉のニュアンスにそった表現。たとえば長いが、なが~いというように)をそれらしい調子で表現できる。
 と要約されます。

 これらは多くの人が個性を持ちながらも、技術として獲得できることです。
 この段階別に示したことは、向上するための自己診断に役立たせるためのものです。知り合いや友人と語り合い聞き合いを、大いにすることが大事です。

【初級】
1 自分の声がどのような声であるか特徴を知る。自分の好きな絵本あるいは自分の声に合っている分野の絵本の読み聞かせ体験を積む。どのような分野が自分にあっているかを診断する。当面は自分の声にあっている分野のものに習熟していく。
  分野例 ぁ子どもの活気に満ちたもの 作品例『ぐりとぐら』
       ぃ物語性があり静的な感じのもの 作品例『しろいうさぎとくろい      うさぎ』 
       ぅ大人が子どもに読んでやることにウエイトが置かれているもの。 作品例 乳児向けや知識に関する絵本
       ぇドラマ性の強いもの 作品例『スーホーのしろいうま』 
2 登場人物のキャラクターを区別して声を出す。
  登場人物ごとに気持ちを切り替えると、声も少し変わる。演じるように声を変えなくてよい。
3 フレーズ読みをする。
  文章のフレーズごと、または内容のかたまりとして読む。語りで重要な間が生まれる。
4 ストリーが連続する場合と、場面が変化する場合の読み方。
  *ストリーが続く場合でも、淡々としたり高揚するなどがある。その場合次の
   ページへの続き方によって、最後の言葉の高さを「さげる」「そのまま」
   「上げる」を使い分ける。声をさげる場合は、そのストリーが一段落して次
   の展開になるとき。声をそのままの場合は連続しているとき。声を上げるの
   は次のページが高揚するとき。
  *めくり方の早さは、ストリー展開にそったものになる。
  *ストリーの途中で場面が変わる場合があるが、気持ちを切り替えてそれにと
   もなって声の調子が変わるとよい。
5 その場面にふさわしい言葉の使い方ができる。
  周辺言語といわれているもので、長いが「なが~い」と言う、あるいは擬態語
  をその状況にふさわしい声の表現をする。
6 声の高低の使い分けをする

【中級】
1 双方向的読み方ができる。
  自己表現が前面に出るのではなく、聞く人に対して伝えるという感覚で読める。
2 絵本のテーマにふさわしいムードをつくり、声の調子を変えられる。
  絵本の全体にながれているテーマ性にふさわしいムードで始まり、ストリー展  開や登場人物によって声調や声を変えたりできる。ただし語りであり、声を変
  えることにウエィトをおくような演じることは避ける。
3 絵本の読み手の解釈を子どもに伝える。
  読み聞かせをする人は、作品を子どもに伝える介在者であるので、絵本のテー
  マ性などを読み解き、それを内に秘めながら伝えようとする。
4 対象(年齢、人数)と状況(室内、外、クラスなど)によって、声の大きさを  変える。
5 自分の好きなものありいは声にあったものだけでなく、様々な分野の絵本を読
  むことができる。

【上級】
1 経験をたくさん積んで、対象と状況に対応できる。
  絵本の持っている感情に流されることなく、表現することができる。たとえば
  絵本の内容の悲しさで涙ぐまずに、その感情を表現できる。
2 絵本の解釈ができる。
  絵本のテーマ性、場面の展開の機微にわたる解釈し表現できる。
3 下読みをしなくても即興でも読めるようになる。
  文章のフレーズを一瞬で読み取り、聞き手の側を向いて語れる。


「投げ出し」は起死回生の奇襲戦略

2008-09-09 16:36:15 | 生活・教育・文化・社会
 早寝早起きの睡眠タイプなので、21時からのテレビは報道番組を就寝モードでリラックをして見るのが、普段のわたしの入眠儀式でもある。1日(月)は、それが途中から総理の辞任記者会見に変わった。国の最高権力者が突然やめるというのは、重大事である。就寝モードでなく、活性してしまったのだ。会見時間は、テレビの報道番組中と次の日の新聞報道可能なために選んだものだ。とにかく衝撃的なほうが、激情化させるにはよいのである。
 ところがこの国は、去年国会で所信表明直前に辞任という、情けないというか破廉恥といってよい行動をした前例があるだけに、さもありなんというのがわたしの受け止めであった。
 これは「死に体」化しつつある自民党の、選挙のために最後に残された起死回生をはかる奇襲作戦になるだろうと。その意味では同じ「途中投げ出し」でも、今回は周到に選挙戦を考えての行動である。そこには無責任と言うレベルでは言い切れない、選挙戦略を優先させるやり方であり、この国の民主主義の危なさと統治機能の崩壊さえ思うのである。
 報道によると海外の反応も、このニュースの扱いは事実の小さい報道とのことである。日本の経済的影響力が衰えもあるだろうが、またお家の事情が発生したかぐらいのとらえ方なのだろう。国際的信頼はおろか、軽い国になっているということを、わたしは自覚したのだった。

 福田首相は総裁立候補直後、思わぬ風が吹いて就任したので「貧乏くじかもしれない」と言っていた。国の最高権力者に就任する人が、あの投げ出しの事態の中で「火中の栗を拾う」と言う気概は最初からなかったのだ。
 参院選の結果は政権不信任をついつけたのだから、本来は衆院を解散し総選挙をやるべきところ、自民党は政権を継続するためには何でもやって、権力に座り続けてきた。

 起死回生の戦略は、最大なものはメディアの政治利用である。その第1幕は、辞任表明からすぐ始まった総裁選立候補劇である。臨時国会で課題山積を放り出したのに、それへの責任を問うことはしないで、連日テレビも新聞もトップでこの動向を伝えている。しかもこの時期を選んだのは、民主党の党首選をメディアからつぶすためである。
 立候補をしている多くの人は、自分の選挙区での当選が危ない状況にあるから、この際メディアに露出することと、いわゆるハクをつけるねらいがるあるとの見方もある。政治家も地に落ちたものだ。

 じつは第1幕の前のプロローグがあった。それは「安心実現内閣」と銘打った重鎮をそろえた内閣改造である。これがあったから、衝撃よりも辞任の際にいみじくも言った「選挙を自分以外の人で戦う」と言うことに、堰を切ったように走り出せたのだった。

 第2幕は明日から22日(月)まで2週間ぐらい続く、総裁選報道である。政権党であるが、その党の責任者を選ぶことをアメリカの大統領選もどきのことが続けるのである。自民党内輪の選挙なのに、全国の選挙情勢や演説が聴かされるのは、かなわんな。
 衆参与野党逆転(いわゆるねじれ)は、議会の機能不全を起こしているわけではなく、政治が非常に分かりやすくなったし、法案も決まっている。民主党にたいして国会を政局がらみにしているというが、政権政党である自民党が選挙戦略で政治空白を作っていることは、愚民政治と言ってもよいだろう。

 自民党のプロバガンダを、これから2週間も聞かされる。政治のメディア利用で国民を激情させる劇場型政治をいつまでも続けさせてよいのだろうか。以前の劇場型政治に喝采を送ったことが、今日の社会保障、労働等の負が大きくなったことを、多くの人がすでに学習しているはずである。メディアを深く読み取り、ごまかされない良識が問われているのではないだろうか。

 ところでいうまでもなく福田首相と内閣は、自民党総裁が決まって、臨時国会で総理大臣が選ばれ組閣をするまで、最高権力者なのだ。それなのに防衛関係の会議等その業務とをサボっている、とのことだ。安倍辞任の時も12日間首相不在にした国だからな、まったく困ったものだ。


バーレーンから勝ち点3

2008-09-07 14:36:39 | サッカー
 W杯最終予選がいよいよ始まった。アゥエーのマナマで未明の3時半キックオフ。
 立ち上がりから日本は攻撃的に展開し、先取点を取るゲームプランで臨んだ。玉田がファルをもらったフリーキックを、30メートルぐらいのところから中村俊輔の地をはう弾道がゴールに吸い込まれた。それが18分であり、その後もセカンドボールへのよりの速さ、前線からのプレスなどで試合を支配した。
 左サイドから中央でフリーの中村俊輔がパスを受けシュートしたら、幸運にハンドになって、44分に遠藤がキーパーの動きを見透かしてPKを決めた。これもバーレーンに心理的ダメージを与えただろう。

 劣勢にたたされたバーレーンは攻撃するしかない。後半立ち上がり強い当たりとスピードを増しパスもつないだ展開をした。しかしバーレーンは退場者を出したし、日本はバーに阻まれるシュートをして、優位は変わらなかった。バーレーンのペースの時間帯もあったが、疲労が見えてきた。
 40分、途中で入った中村憲剛の中央からのミドルシュートが決まった。2点差は安全圏とはいえないので、この3点目は勝利を引き寄せた。これでほぼ結果を手にしたと選手もベンチも思ったに違いない。
 42分、左サイドからクロスが入り手薄になっていた右から得点された。その後すぐの43分、ペナルティーエリア付近の中央上がったボールを、闘莉王がヘッドでクリアーしたが、前に出ていたキーパーの上を越えてゴールとなった。
 この2点は、これまでたびたび日本が体験している、終了間際に集中力がきれることを想起させるものだった。アウェーで勝ち点3を取ったことはよいことだが、これまでの課題を越えられていない部分があるということでもある。
 FWは玉田でよかったし、選手交代も成功していた。

 3時起床に備えて21時に寝た。サッカー見てからは、9時からのテニススクールに出かけた。残暑厳しくからだへの負担が大きかった。

(^_^) 成長はいつとまったのか

2008-09-05 11:39:36 | みるふぃーゆのコラム
【みるふぃーゆコラム】

 子どもの1年の成長は、はっきりとみえます。
幼稚園の保育参観にいくと、より一段と実感できるのです。
ホールに集まった保護者の前で、ちょっとだけ歌などの日頃の成果を発表してくれるのだけれど、
 年少組は、発表しません。お部屋ですごしています。
 年中組は、「お~、やるようになったんだ」とおもいます。
 年長組は、「さすがっ」と感心します。

 担任の先生方にも目を向けてみましょう。
2年前、学校を卒業して新採だった先生が、今年から、あらたな新採の職員とともに年少組を担当している。新採の2年前とちがって、子ども達への対応も保護者への対応もちゃんと「先生」というかんじです。

 そして、私は思うのです。私は去年からなにか成長したというか変わったところがあるかしら?去年などといわず、4年前5年前からは?あ~、私はいつから成長しなくなったのだろう…。

 いずれ、成長どころか、現状維持が難しくなるのだろうなあ。努力しないと現状維持できなくなって、そのうち努力しても現状維持が難しくなる。身も心も。
 たとえるなら30代のオリンピックの選手かな。がんばれ 谷亮子! がんばれ 私!!

                       

錦織敗退する

2008-09-02 11:48:55 | テニス・他のスポーツ
 全米オープンの4回戦の錦織とデルポトロ(アルゼンチン)の試合は、ライブで放送しました。7時52分から開始。第1セットは立ち上がり3ゲーム先取したが、その後はデルポトロのペースで試合が進み、3-6、4-6.3-6で、錦織は敗れベスト8には進めませんでした。
 しかしデルポトロは、19歳と若いながらもランキング17位のシード選手であり、ランキング126位の錦織の試合内容は悪くはありませんでした。デルポトロは身長が195センチで、腕の長さを生かして錦織のワイドを使った遠いショットを拾うし、サーブは200キロを超えるスピードのもので、ボールの威力も相当なものと思われました。錦織が打ち返しても威力のあるボールのため甘いボールを返すことになり、それを打ち返されることがしばしばでした。そんなわけで防戦に費やすことになりました。
 錦織は、カウントを40まで持ち込みながらも、挽回されて失うゲームが多かったことも印象に残りました。錦織は多様で変化に富んだ攻撃をたびたびしながらも、デルポトロのボールの威力のせいもあってか、得意のフォアのショットの力のはぉつきも少なく、ミスをしていました。
 試合時間は2時間10分でした。錦織はグランドスラムが2回目であり、今後は常連になり、上位争いに加わる日が遠くないと、可能性を感じさせる試合でした。


歌う声と表現

2008-09-01 17:14:26 | 音楽
*このコラムは6月1日(日)に書いたが未完成だった。タイムリーではないが、掲載することにする。

 たまたまBSの「日本のうた」途中から見たら、秋川雅史と島津亜矢が歌っていた。
 「千の風」でメジャーになった秋川だが、その後流行歌、叙情歌などといわれているジャンルを歌っている。番組では「イヨマンテの夜」「長崎の鐘」など歌っていた。かねてより気になっていることだが、クラシックの発声(ベルカント)と歌唱法のままで歌っていた。「イヨマンテの夜」は、オペラのように声そのものを聞かせようようとするのだ。
 流行歌や叙情歌といったいわば大衆歌謡といったジャンルをベルカント唱法そのままで歌うのは、その歌の表現としていかがなものか、とかねてから思っている。
 大衆歌謡といわれているジャンルは、ベースに日本固有の民謡や浪曲などを経験している人がいる。あるいはこれまでの歌手の影響を受けながら、オリジナルな声と歌唱をつくり出す人も多い。またクラシックをベースにしている人もいる。とくにシャンソンやタンゴといった外国のジャンルである。これらはクラシックをベースにしつつも、そのジャンルに必要な声と歌唱にするものだ。

 クラシックの歌い手つまり声楽家は、オペラやリードやオラトリオなどを問わずホールでマイクを使わずに歌うという前提で、そのためにホールいっぱいに届く大きくてしかも共鳴する声を作る。声を作ることに相当な力を注ぐし、声帯を中心にしたからだが楽器がゆえにいかんともしがたい素質が重要な要素を占める。

 さて、クラッシックを基礎にした大衆歌謡歌手もこれまでもいた。またはクラッシックの人が歌謡曲あるいは大衆歌謡を歌う場合がある。テノールで知られている錦織健の場合は、クラッシック以外の歌はそれにふさわしい歌唱に変え歌い、なるほどと思われる表現をする。
 また五朗部俊郎(詳しくは04-7-19のコラム)は、テノール(おそらくリリコレジョーロという音質。やわらかいデリケートなもの)であるが、もっぱらかつての歌謡曲(藤山一郎、伊藤久雄、近江俊郎、霧島昇など)をレパートリーとしたコンサートをしている。これは秋川がレパートリーとしているものとほぼ同じである。
 五郎部の場合はテノールをベースにしながらも、大衆歌謡をしての歌を表現して届けようとしているので聞いていて心地よい。
 そういえば先にあげた藤山、伊藤など歌謡曲でありながらクラッシックのトレーニングを受けた声をベースにしている。戦後まもなくまでは、歌を歌うということが誰にでもできなかったので、音楽関係の学校(大学)でトレーニングを受ける必要性はあった。北島三郎だって、若いときはベルカントの発声とその入門的歌を歌ったことから出発している。

 クラシックをベースにした秋川雅史が大衆歌謡曲をレパートリーに音楽活動することは、それぞれの垣根がなくなり、大衆歌謡に新しい生命を吹きこむようなよさもある。
 好みの問題もあろうが、わたしは大衆歌謡を秋川のようにクラッシックの発声と唱法とのまま歌うことには違和感を覚えている。しかもリードというよりはオペラ的唱法で歌うことに対してである。大衆歌謡のもっている歌の味わいを消し去り、異質のナポリターナにでもしているかのように聞こえるのである。
 もっと言えば、秋川の発声が自然でなく作った声にわたしには思える。そのように声が独自なものとしてあるというが、昔だったらもう少し喉にかかった声だと「団子声」とさえ言われたものだ。歌唱では小さい声(ピアニッシモ)の表現にもう少し工夫がほしい。
 オペラも歌ったことがあるだろうし日々トレーニングしている専門家に対して、荒唐無稽な批評をしていることを自覚しながらも、あえていうことにしたのである。
 しかし秋川はテレビの歌謡番組に出演するし、大衆歌謡のCDをだしそれをレパートリーとしたコンサートもしているので、受け入れられているということだろう。しかしそれは歌以外の要素が大きいのではないか、と言う見方もある。コンクールではないのだから、歌唱力のある人が人気があるとは限らないことは理解できる。

 さて、同時に聞いた島津亜矢は、とにかくうまくて大いに共感した。「ヨイトマケの歌」は圧巻だった。声とその使い方の歌唱力、そしてその歌のテーマを深いところで伝えようとする表現は心打たれるものがあった。
 「ヨイトマケ歌」は、かつて三輪明宏と佐藤光政(音楽コンクール1位の声楽家)をよく聞いていたが、それよりも島津の歌はこの歌のテーマを届けてもらっているように聞いた。
 わたしはよく知らないが、この分野では天童よしみといった歌手がいるのだろうが、島津は器用に歌いこなすのではなく歌唱と表現に深さがある。島津亜矢の歌ははじめて聞いたかもしれない。

*島津亜矢は、その後注意して新聞広告を見ていたら、そうとうな曲数のCDを出しているぐらい、実力と人気がある歌手ということが分かった。