絵本と児童文学

絵本と児童文学、子ども、保育、サッカーなどの情報を発信する

議会での仮面は許されるのか

2003-04-29 21:59:28 | 生活・教育・文化・社会
[81] 議会での仮面は許されるのか (2003年04月29日 (火) 21時59分)

                        
「覆面レスラー」として興行しているザ・グレート・サスケ氏が、岩手県議に当選した。氏は職業であるプロレスを、仮面でキャラクターを作りその演出によって、その業界では認知されている。プロレスラーの仮面のまま立候補し選挙活動をしたので、議会にも仮面で出席するとのことだ。それを氏は、選挙公約であるという。
 このような氏の動きに対して、増田知事が「苦渋や喜びの表情を読み取れるようにすべき」といち早く異論を唱えた。それに第2会派である自民党が「神聖な議場に顔の見えない人が入るべきではない」と反対を表明した。
 しかしその後、リング用の仮面より顔の露出の多い議会用を装着するとしたので、それを歩みよりとして知事は容認の見解を出した。ここまでの推移をみるかぎり、想定し得なかった仮面への対処に苦慮しながら、サスケ氏のトップ当選という勢いと氏の所属している第1会派である自由党という政党の力学で進行しそうである。
 ところで顔の表情は、人間の人格とパフォーマンスについて認知するもっとも重要な部位である。卑近な例では、ある時期に国会の証人喚問を静止画像にしたし、法廷の写真撮影を禁止していることや容疑者を逮捕するとき顔を隠すなどは、顔によって人間をさらさないことを意味している。
 議会は、時には政治的対立から激しい論戦になる場合もある。そのために議会のルールとマナーによって議論の場を維持しようとする。岩手県議会としては「議員は議会の品位を重んじなければならない」とし、帽子やコートの着用つえの携帯も禁じているとのことである。
 この会議規則からしたら、議会では仮面がなじまない、とみるのが順当である。議員になることによって、議会では支持者との関係だけではない公人としての課題が求められる。議会という意見表明とそれにともなう議論というコミュニケーションの場に、仮面を容認することの問題は大きいということを指摘しておこう。
 仮面が許されたら、多くの議員はとまどいと負担を抱えるだろう。なぜなら仮面をする側が、他の人に表情さらさないだけ「目出し帽効果」で優位となるため議員の平等がくずれる。しかも議会用の仮面にするとしても、原型はプロレスで必要な威嚇のデザインに変化させたものであろう。議会用の仮面をつけるとしたことは、氏は顔を覆い隠すことの問題を認めたが、解決を果たしたことにはならない。
 仮面は人格の象徴でもある顔を覆い隠すので、議員としてゆるされない匿名性を含んでいる。本人の確認を誰かがしなければならないようなことが、あってよいのだろうか。しかも「目出し帽効果」となると、議会での論議とコミュニケーションは一方的なものになる可能性が強い。
 仮面容認の理由に、かつらと同様の携帯物でなく装着するものと解釈しているとある。一般的かつらは、変装ではなく化粧などの延長で、自分を整える意味である。仮面は変装のための装着であり、もし「目出し帽効果」の議員が他にもでたら論議が成り立つだろうか。
 サスケ氏の仮面は、職業上必要としているものであり、その限りにおいて認知されているに過ぎない。議会では、公人としての議員であるために職業上のアイテムを装着したり服装をしないことが、議員として尊重し合うことになる。サスケ氏は仮面を公約だというが、元来公約は議員活動の政策のことである。したがって仮面は公約に該当しないばかりか、議員になってそれを取らなければならないというジレンマに、サスケ氏は陥っているのである。それは、あらかじめ想定し得たことではなかろうか。
 考えるにサスケ氏は、議会ではリングのような高揚感でいつもいれるわけではない。時には意気消沈もするだろうが、そのときの仮面姿を想像してみる必要もあるのではないだろうか。
 プロレスというエンターテーメントの職業と認知されているとはいえ、議員としての顔による人格表明しないことを容認する「ものわかりのよさ」で議会が対応するのはいかがなものか。議員が対等に論議の出来る条件のために、知事と議会に品位と良識を期待するものである。
(この文章の状況把握は、『朝日』『毎日』『読売』の各新聞の記事を参考にしたものである)


15 真っ向勝負、じゃなくってサービス、だった

2003-04-21 21:47:40 | 当世世間事情
[80] 15 真っ向勝負、じゃなくってサービス、だった! (2003年04月21日 (月) 21時47分)

 ひさしぶりに郵便局へいった。以前に比べて、職員の声がいくぶん高い調子で笑顔が印象的だった。4月1日からの公社発足に際してのキャッチコピーは、「真っ向サービス」として稽古中の朝青龍の顔をアップにした写真であり、新聞1面使ってアピールした。ポストの色も変わった。これまでの朱系の赤ではなく、アメリカ的赤(色の名前が分からない。世界を制覇している飲料水のイメージに使っている色)である。ただしこのカラーイメージ展開は、今のとこる全国的にしていない。
 ところで「真っ向サービス」というキャッチコピーは、インパクトは強いが、ぼくにはお客さんに向けには思えない。むしろ同業種の民間企業と真っ向勝負宣言、の意味をもっているのではないだろうか。それを推進し競争で差異化をはかるために、内部・職員の意識改革に重点がある、とぼくはみた。
 郵便局の接客の印象は、これまでも充分ゆきとどいていた。こびるようなところがなく、誠実な印象である。いくぶん高い声と笑顔に変わったとしたら、人とより好意的にコミュニケーションを取ろうとする場合のパフォーマンスにふさわしいものだ。職員の意識改革の、具体的姿なのだろうか。
 ところで同業種のCMは、人形がドアにぶつけてこぶを作ったり(この会社は業務荷物重点から宅配に力を入れてきているようだ)、ネコによるイメージだったりだ。いわゆるソフト路線である。だからそれらと異なるセンスにしたのだろうか。でもこぶをつくるCMは、会社をソフトイメーしにするだけではなく、けなげなまでのサービスを尽くすとも解釈できるし・・・。
 郵便局よ、真っ向サービスでくだびれないでくれたまえ。

絵本ガイド-その1 『のりものいっぱい』柳原良平作 こぐま社(03・1・25発行)

2003-04-16 10:52:38 | 絵本と児童文学
[79] 絵本ガイドーその1 『のりものいっぱい』柳原良平作 こぐま社(03・1・25発行) (2003年04月16日 (水) 10時52分)

 この絵本は、「じどうしゃ」ということばに赤の色画用紙(昔ケント紙といったかもしれない)に水色の乗用車をコラージュ(貼りつけ)で描いているページから、始まる。次いでタクシー、バス、パトカー、きゅうきゅしゃ、しょうぼうしゃ、トラック、ごみしゅうしゅしゃと続く。
 次にでんしゃ、しんかんせんなど電車分野で、きゃくせん、タグボートなど船分野となり、「のりものいっぱい のりたいなー」のページでそれまでの乗り物すべてを描いて、最後は「いってきまーす」と新幹線に乗った子どもが手を振って終了する。
 子どもはのりものを好むので、のりものの絵本の出版点数は、相当な数に上るに違いない。作家名がないものも多いが、日本では山本忠敬の絵によるものがよく知られている。氏の作品は、ざっと『ずかん・じどうしゃ』『とらっく とらっく』『のろまのローラー』『しょうぼうじどうしゃじゅぷた』(すべて福音館書店発行)などが上がる。外国の作品も多いが、多くはのりものを擬人化した物語である。
 この絵本は対象年齢を乳児にもおいた、いわばのりもの図鑑的内容と構成をしている。自動車、電車といった、のりものの分野ごとに展開していることから理解できる。 図鑑的となるととかく無機的になりがちだが、物語にすることを抑制しながら親しみやすさがあふれている作品になっている。
 のりものへの親しみの表現は、作者が無類の船好きということもあろうが、受け手へ配慮として力を注いでいることが伝わってくる。それは、のりもののに目をつけていること。じどうしゃなどはライトが目になっているが、ふねやヘリコプターにも目をほどこしている。次ぎに冒頭のじどうしゃと「のりものいっぱい のりたいなー」と最後のしんかんせんと裏表紙のきゃくせんに、微笑みや笑顔の顔を描いている。
 さらに親しみやすさを創り出しているのは、なんといっても絵でる。色彩が上品で完成度が高い。とかく子ども受けねらい、あるいは店頭での商品としてのアピール力を考えての刺激的色彩の絵本が多いなかにあって、この絵本の色彩感覚は温かく繊細でもあり、幼い子どもになじませたいものである。
 絵はコラージュのため、詳細な部分を省略している。そのデフォルメがそののりものを輪郭あるいは中核になるものをしっかり伝えようとしている。左から開いていくが、のりものはページを開く右側を向いていて、進む動きも感じることが出来る。コラージュに線で窓などを描いているが、これがとても繊細で温かさを感じるものになっている。とかくのりものゆえに無機的になりがちなのをコラージュ表現であることでやわらかくし、親しみを感じさせている。いわゆる赤ちゃん絵本として、子どもがのりものに関心が向く時期にふさわしいものである。作者が子どもへの思いとのりものへの愛着があればこそ出来る作品であろう。
 図鑑的絵本の場合、ベースに乳児をも対象としていてもしっかりした説明が必要である。この絵本は、のりものを自動車、ふねといったようにカテゴリー(分野)に分けている。それを子どもが覚える訳ではないが、ベースには押さえておく必要がある。
 しかし幼い子どもの認識力とおもしろさを盛り込むために、この種の作品を制作する際の提案を試みることにする。子どもの暮らしでおこるのりものとのかかわり、たとえば親の乗る車やバイクあるいは子のもの乗車体験、さらに街で見かけるのりものから解きほぐしていく、というのはどうだろう。その際子どもは、音と結びついてのりものに関心を持つので、それも挿入したいものである。若干物語性を盛り込むことになろうが、図鑑としてのカテゴリーと説明をベースにおいてさえいれば、絵本の性格が崩れさせなくても可能ではないだろうか。子どもの暮らしと関心のあるのりものとの関連、そして必要な知識がうまく融合せてかつおもしろさもある、というイメージである。

 ところで作者の柳原良平(71歳)について、ふれておかなければならない。氏は昭和30(55年)、40(65年)年代にサントリーのCMキャラクター「アンクル・トリス」を創った人である。洋酒といわれていたウイスキーを、庶民のものにするためにCMの立場から重要な役割を果たしたのである。
 アンクル・トリスのキャラクターとは、直線的な線描きで鼻高で太った人物である。時代背景としては、ハリウッド映画やアメリカンポップスなどを通して伝えられた豊かなアメリカ文化に憧れていた人が多かった。太っているということは恰幅が良いという言葉があるように豊かさの象徴であり、外国のウイスキーは庶民では手が届かないので、酒好き人は廉価なトリスを呑みながら酒だけではなく、文化をも取り込んだ思いになったのであろう。ついでに付け加えておくとこのキャラクターCMは、3月27日から22年ぶりに復活した。時代が廉価な酒を必要としているのだろう。

 なお柳原良平は、こぐま社から赤ちゃんシリーズとして他に、
『かおかおどんなかお』(88年1月初版)
『ゆめゆめにこにこ』(98年3月初版)
『このにおいなんのにおい』(品切れ)
を出版している。
(03・4・7)-絵本ガイドは、リニュアール後に「いざない」のコンテンツに移動します。

新緑の躍動、心新たに

2003-04-15 05:09:13 | 身辺のこと・自然
[78] 新緑の躍動、心新たに (2003年04月15日 (火) 05時09分)

ソメイヨシノが風に舞い、いっきに新緑が美しくなって来ました。わが家のビオトープは、シュンランが緑の花の勢いがなくなってきたと思ったら、ヤマブキが黄色の花をたくさん咲かせ、ミツバツツジの花が日ごとに鮮やかな色になってきています。また今年はヤマスミレが一面に薄水色の可憐な花を咲かせ、ギボウシが勢いよく鮮やかな緑で背丈を伸ばしています。ギボウシはウルイともいい山野草として食べることも出来るものです。
 池の魚の動きが活発になり、雨上がりで水がきれいなったときは、水面を泳ぐ姿を遠くからながめるのも楽しいものです。

 キャンパスのそばの水田では、11日の肌寒さを感じる日のでありながら田の仕事を始めていました。田に水を入れて代掻き、あるいは早苗を水田の苗代で育てるための作業をしていたようでした。
  8日から授業が始まり、履修科目を決めるための受講すのであろう多くの学生と新入生の初々しい姿で、キャンパスははつらつとした賑わいを見せています。私は、2、3年生のゼミは新しい学生との出会いがあり、軌道に乗るまでは毎年のことながら緊張とともに新鮮な気持ちになります。
 50周年記念の校舎建設は、センター棟が私の研究室の真向かいで工事が進行しております。50㍍ぐらいだろうクレーン車が2台で、鉄骨が組み立てられていきます。ちょうど2、3階ぐらいにさしかかっています。

14 にぎわいのエリアにアルにある公的施設の、オープンスペースは

2003-04-14 14:19:59 | 当世世間事情
[77] 14 にぎわいのエリアにある公的施設の、オープンスペースでは (2003年04月14日 (月) 14時19分)

 このところある駅前のショッピングビルのなかにある公的施設に、会議のために定期的に出かけている。80年代からだろうか、都市ではにぎわいのなかに他の目的施設と複合して公民館や図書館など公的施設を設けるようになった。暮らしの動線にあるので、利用しやすい。
 私が足を運んでいる場所は、ある階のフロア-に2つの公共施設を設けている。その2つの施設を仕分けするのに、通路というよりはコンコースといってもよいぐらいのオープンスペースである。
 その空間は一般的には無駄なようでも、私から見れば公的建築にもポストモダンが行き渡ってきていると実感できるほど、よいことと思っている。そこにはベンチが程よく配置されている。ある時間帯は、高校生のたまり場になる。数人が語り合っているようであり、デイトのような風景も目にする。私はこのまま彼らのたまり場空間が続くように、ひそかに願っているのだ。
 今都市では、中高生のたまりがない。公園でたまって喋っていると通報される、という体験を多くの彼らがしている。そんなこともあって、児童館が夜間開館し彼らの受け皿にするという事業が、東京のある区では実施している。バンドの出来る空間も、用意しているという。
 もっとも中高生の生活空間のあり方は本来、家の部屋の密室化、学校が勉強以外の多様さに対応していない、街が中高生だけではなく人々の暮らしを考えてつくられていない、など多面的にとらえなければならないことでもある。
 ところで寒さが身にしみるようになってから、オープンスペースに小さな異変が起きた。中高年の、最近それまでの生活関係から「離脱」したと思われる人達が、休息しているのが目に止まるようになった。厳しい夜にそなえての、安堵のひとときなのだろうと思った。しかし何回かそこを通っているうち、違うということに気がついた。彼等はとてもしゃきっとして緊張感さえ漂わせているのだ。きっとその空間で違和感を持たれないように、精いっぱい力を尽くして自分を守っているのではないだろうか。
 人間は関係性からの「離脱」は出来ないのだな、と。


『イラクの小さな橋を渡って』-イラクの人々の暮らしに思いをはせる

2003-04-07 15:36:52 | 生活・教育・文化・社会
[75] 『イラクの小さな橋を渡って』-イラクの人々の暮らしに思いをはせる (2003年04月07日 (月) 15時36分)

 ニュースでイラク戦争の報道が続いて、20日近くになる。報道では、米英の攻撃開始して1週間ぐらいから「戦争」という言葉を使うようになった。連日の報道を受けとめるのは、正直なところつらい。しかし当分この報道は続くだろうし、それから逃れてもいけないと思っている。気持ちが萎えないためにも、時間を割いて『イラクとアメリカ』(岩波新書)などといった本を何冊か読んでいる。
 爆弾の炸裂する下に国家、権力、政治、軍事などに翻ろうされている、普通の暮らしを営んでいるイラクの人々がいる。すでに人々は普通の暮らしではおぼつかない危険にさらされている、あるいは危険に遭遇しているだろう。
 池澤夏樹・文/本橋成一・写真『イラクの小さな橋を渡って』(光文社、952円+税)を読んだ。この本は、池澤が02年10月下旬から2週間イラクに足を踏み入れて書いたものと、本橋の写真と共に構成されている。03年1月25日発行されたものであり、査察続行で戦争回避に期待をつないでいる。それが崩れて戦争報道のまっただなかにあっても、なお力の持っている本である。
 カラー写真の上に文章が語るところから始まる。

 「もしも戦争になった時、どういう人々の上に爆弾が降るのか、そこが知りたかった」
 「2001年、国連は経済制裁によるイラクの死者の数を150万人と推定するレポートを発表した。
  このうち62万人が5歳以下の子供だった」
 「実に明るい人たちだ。しかもおそろしく親切」
 「この国は全体として十数年前の段階で足踏みしている」
 「食べる物は充分にあったし、質も申し分ない」
 「小さな橋を渡った時、戦争というものの具体的イメージがいきなり迫ってきた」
 「この子たちをアメリカの爆弾が殺す理由は何もない」

 抑制的な筆致に、静の写真が織り交ぜられている。どこにもある人々の暮らしへの思いと、イラクという文明発祥の地への想像力をかきたてさせてくれる本である。