昨日のEテレの「ハートネットTV・未来へのアクション」は、木之元剛三氏の仕事についてだった。ぼくはテレビを見ながら、日本サッカーのプロ化、Jリーグ発足に人生をかけた人を偲んだ。新聞の死亡記事を読んでいたが、素通りしてはいけない人の死去なのだ、と肝に銘じた。1月15日、67歳だった。
氏は古川電工(現在のシェフ千葉)の選手だったが、26歳の時グッドパスチャー症候群にかかり、肝臓を2つを摘出して週3回の透析をしながらの生活だった。余命5年ぐらいと告げられながらであり、体の維持を第1にした、いわば闘病生活だった。
そのような条件でありながら、サッカーへの情熱を失わず、日本のサッカーを世界水準に押し上げるにはプロ化を具体化することだ、という思いを持ち続けた。それがかなったのは、氏が42歳である93年のJリーグの発足だった。
氏が選手だった70年代の日本リーグは、大手企業が力を入れていたが、球技場は閑散としていた。釜本(ヤンマー)という国際級の選手、漫画『赤き血のイレブン』のモデルになったといわれて人気のあった永井(古河電工)がプレーをしていたが、プロ野球全盛の時代でアマチュアであるサッカーには光が当たらなかった。
ぼくがサッカーへ接近したのが70年代半ばだったが、サッカー雑誌は月刊『サッカーマガジン』だけで、協会発行の『サッカー』もぼくは読んでいた。
テレビでは毎日曜日17時30分からテレビ東京で「ダイヤモンドサッカー」という番組をやっていた。この番組を楽しみにして見たのだった。軽妙な解説の岡野氏と実況アナはサッカーの面白さと奥深さを伝えてくれた。
当時はいや協会関係者などプロリーグは別世界のことだと思っていた。今日のようにスタジアムに何万人も入って、サポーターが歌で応援するようになるとは想像できなかった。サッカーは世界中で最も愛されているスポーツなのに、日本では野球のように大衆化されていなかった。
80年代に奥寺がドイツでプロになり長く続けていたのが、世界のサッカーを見るかすかな窓であった。それにドイツのサッカーについては研究したり紹介されることがあった。
その理由を野球との比較でみてみよう。アメリカから入った野球が旧制中学で普及した。今日の甲子園大会として引き継がれているのが大きな役割を果たしただろう。
旧制中学は義務教育ではなかったが都市部の進学者は少なくなかった。主催が新聞社でいち早く全国大会をひらいて郷土意識を高揚させながら普及していった。当時はスポーツとは趣を異にしながらも大相撲があった。これは郷土意識と結びついて力士を応援したのだった。通信、交通が全国に簡単につながらなかった時代に、この2つの種目は全国と郷土をともなって関心を持つものだった。
サッカーは日本では、師範学校で取り入れられるところから出発した。大学の競技者なので大衆的普及は難しかった。
それは10%に満たない進学エリートの学生がサッカーをやったということで、大企業がサッカー部を持つということは「名刺代わり」であり「会社意識」醸成、あるいは厚生事業でもあった。
サッカーの普及の歴史から、日本リーグ参加チームは、日立、三菱、古河の、丸の内御三家(丸の内に本社があった)から、東洋工業(現マツダ)、ヤンマー、日本鋼管、松下電器(現パナソニック)ヤマハなど大手企業だった。
この条件がむしろ大衆的動きからのプロ化ではなとも、理念をともなった出発を可能にしたともいえる。
さて、木之元氏は、限られた命をサッカーのプロ化を実現しようと執拗に追い続けていた。協会関係者、サッカーチームを持っている会社幹部などに働き続けていた。
それが川渕氏を本気にさた。氏が会社を辞めてプロ化に向けて動き出すこととなった。氏はサッカーから離れれビジネスの世界に身を置いていた。しかし50歳代で子会社を任されるとはいえ先が見えてきたと判断し、高みを目指す意味と人生の後半戦をサッカーにかけてみようと決断したのだった。そう決断する素地は木之元氏がつくっており、それをビジネス世界で得た力を発揮し、志を高く持ちJリグという名称でスタートさせた。
掲げた理念は地域密着だった。チームを所有していた会社にとっては、チーム名が消えて財政負担をするのは割の合わないことと思うのが普通だろうが、そこは大手でサッカーへの理解のある企業ゆえに協力した。唯一反対をしたのはジャイアンツの親会社だったベルディ川崎だった。
*記憶だけで書いているので不完全なものです。まだ木之元物語は続きます。後に加筆修正します。
<未完>
氏は古川電工(現在のシェフ千葉)の選手だったが、26歳の時グッドパスチャー症候群にかかり、肝臓を2つを摘出して週3回の透析をしながらの生活だった。余命5年ぐらいと告げられながらであり、体の維持を第1にした、いわば闘病生活だった。
そのような条件でありながら、サッカーへの情熱を失わず、日本のサッカーを世界水準に押し上げるにはプロ化を具体化することだ、という思いを持ち続けた。それがかなったのは、氏が42歳である93年のJリーグの発足だった。
氏が選手だった70年代の日本リーグは、大手企業が力を入れていたが、球技場は閑散としていた。釜本(ヤンマー)という国際級の選手、漫画『赤き血のイレブン』のモデルになったといわれて人気のあった永井(古河電工)がプレーをしていたが、プロ野球全盛の時代でアマチュアであるサッカーには光が当たらなかった。
ぼくがサッカーへ接近したのが70年代半ばだったが、サッカー雑誌は月刊『サッカーマガジン』だけで、協会発行の『サッカー』もぼくは読んでいた。
テレビでは毎日曜日17時30分からテレビ東京で「ダイヤモンドサッカー」という番組をやっていた。この番組を楽しみにして見たのだった。軽妙な解説の岡野氏と実況アナはサッカーの面白さと奥深さを伝えてくれた。
当時はいや協会関係者などプロリーグは別世界のことだと思っていた。今日のようにスタジアムに何万人も入って、サポーターが歌で応援するようになるとは想像できなかった。サッカーは世界中で最も愛されているスポーツなのに、日本では野球のように大衆化されていなかった。
80年代に奥寺がドイツでプロになり長く続けていたのが、世界のサッカーを見るかすかな窓であった。それにドイツのサッカーについては研究したり紹介されることがあった。
その理由を野球との比較でみてみよう。アメリカから入った野球が旧制中学で普及した。今日の甲子園大会として引き継がれているのが大きな役割を果たしただろう。
旧制中学は義務教育ではなかったが都市部の進学者は少なくなかった。主催が新聞社でいち早く全国大会をひらいて郷土意識を高揚させながら普及していった。当時はスポーツとは趣を異にしながらも大相撲があった。これは郷土意識と結びついて力士を応援したのだった。通信、交通が全国に簡単につながらなかった時代に、この2つの種目は全国と郷土をともなって関心を持つものだった。
サッカーは日本では、師範学校で取り入れられるところから出発した。大学の競技者なので大衆的普及は難しかった。
それは10%に満たない進学エリートの学生がサッカーをやったということで、大企業がサッカー部を持つということは「名刺代わり」であり「会社意識」醸成、あるいは厚生事業でもあった。
サッカーの普及の歴史から、日本リーグ参加チームは、日立、三菱、古河の、丸の内御三家(丸の内に本社があった)から、東洋工業(現マツダ)、ヤンマー、日本鋼管、松下電器(現パナソニック)ヤマハなど大手企業だった。
この条件がむしろ大衆的動きからのプロ化ではなとも、理念をともなった出発を可能にしたともいえる。
さて、木之元氏は、限られた命をサッカーのプロ化を実現しようと執拗に追い続けていた。協会関係者、サッカーチームを持っている会社幹部などに働き続けていた。
それが川渕氏を本気にさた。氏が会社を辞めてプロ化に向けて動き出すこととなった。氏はサッカーから離れれビジネスの世界に身を置いていた。しかし50歳代で子会社を任されるとはいえ先が見えてきたと判断し、高みを目指す意味と人生の後半戦をサッカーにかけてみようと決断したのだった。そう決断する素地は木之元氏がつくっており、それをビジネス世界で得た力を発揮し、志を高く持ちJリグという名称でスタートさせた。
掲げた理念は地域密着だった。チームを所有していた会社にとっては、チーム名が消えて財政負担をするのは割の合わないことと思うのが普通だろうが、そこは大手でサッカーへの理解のある企業ゆえに協力した。唯一反対をしたのはジャイアンツの親会社だったベルディ川崎だった。
*記憶だけで書いているので不完全なものです。まだ木之元物語は続きます。後に加筆修正します。
<未完>