絵本と児童文学

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再び『ちびくろ・さんぼ』のこと

2005-04-30 06:58:41 | 絵本と児童文学
 『ちびくろ・さんぼ』が売れている。ネット販売のamazonで、25(月)にトップでした。今日は8位と、その健闘ぶりは驚きです。それは絵本ではめずらいしこどであり、もし新刊だとすればまれな事例のはずです。
 17年ぶりの復刊ということは、その年月は長く本来は世間から忘れ去られるぐらいのはずです。しかし多くに人の中に生き続けていたのです。復刊を待ち望んでいた人がいたわけだから、差別本として絶版にしたことに無理があったのかもしれません。
 怖いはずのトラを、さんぼが機知でくぐりぬけてケーキにして心ゆくまで食べてしまうという、良質の明るいおもしろさがあります。子どもの冒険心と達成感を満たしてくれます。しかも次々のトラとの出会いが、繰り返しの表現技法なので子どもに満足感とを与えます。

 ところで『ちびくろ・さんぼ』の絶版問題を論じたの本を紹介することにします。
■杉尾敏明・棚橋美代子著『焼かれた「ちびくろサンボ」-人種差別と表現・教育の自由』 92 年11月発行 青木書店 
■径書房編集部著『ちびくろサンボ絶版を考える』 90年8月発行 径書房
■灘本晶久著『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』 99年6月発行 径書房
■ジョン・G・ラッセル著『日本人の黒人観-問題はちびくろサンボだけではない』 91年発行 新評論
■市川伸一編『ちびくろさんぽの出版は是か非か』 北大路書房



41 新しいツールをどう受け入れていくか-自筆とワープロ

2005-04-29 09:59:38 | 当世世間事情
41 新しいツールをどう受け入れていくか-自筆とワープロ

 新しい商品を出すことで優位を保っていたソニーが、薄型テレビなどに後れを取って振るわないとのこと。最先端を走り続けることを宿命とされているので、社長交代をもって巻き返しに転じようとしているようだ。
 わたしは新しいツール(道具、手段)を追い続けているつもりはないが、利便性と高品質のもの取り入れたいものだと思っている。パソコンは、仕事に欠かせないものとして取り込んでいる。ところでこういった新しいツールの個人的使用はそれぞれとしても、社会的に認知されていくには、新旧の摩擦が起きるのが常のようだ。

 学生がレポートや卒論をワープロで作成するのを原則としたのは、わたしの場合は「W98」以降だっただろうか。00年ごろからは提出をメールで送信するようにとしているが、それはようやく2年生で60%ぐらいが実行するようになったといったところだ。
 ワープロは知的生産の技術にとって、大きな力を発揮する。学生にパソコンそのものを使いこなせるようになることを期待しているが、個人差が大きい。
 わたしは、効率性と知的生産のレベルアップによいのであれば、実習日誌をワープロで書いてもよいとしている。ところが別の実習科目で、計画をワープロを使用したら自筆にするよう、やり直しを指示されたという。学生は、どうして自筆でなければならないか分からないとしていた。日誌のワープロ使用の一般化にはもう少しかかりそうである。
 わたしの担当科目の実習の場合は、日誌の記述のワープロ使用を可としているがほとんどの人が自筆で書いている。ところで気になることがある。文章の誤りを訂正するとき、学生が訂正印を押すことである。訂正印は、どのように訂正したか、あるいは他人が故意に書き換えることを防止するためである。いまや訂正印は契約書、会計等の数字などに使うだけかと思っているが、どこで指導を受けているのか日誌の誤記に訂正印を使っている。これは作業も大変だろうし、むしろ読みにくくなる。
 そういえば、わたしが公文書をボールペンで書いて時期に、実習日誌をペン書きでなければならないとしていたのを、驚いたことを思い出した。


今、あさのあつこが注目されている

2005-04-24 21:15:20 | 絵本と児童文学
[242] 今、あさのあつこが注目されている (2005年04月24日 (日) 21時15分)

 今、児童文学作家あさのあつこが注目されている。書店では『バッテリー』の3巻までの文庫本(角川書店発行)が平積みになっている。出版社の広告を目にしていないが、そのうち3桁ぐらいの数字が出るのではないか、とわたしは予想している。『バッテリー』は、96年に出版され(教育画劇発行)、その後巻を増やし1月発行の第6巻を持って完結した。それを機にメディアに注目され出した。これからもっと大衆的注目も、増すこと間違いなしである。
 『バッテリー』は、出版されてから完結するまでの9年間で、地味な児童文学界にあって、しかも紙芝居出版を主としていたマイナーな出版社である教育画劇なのに、関心が高い。大手出版社の販売手法をとらないのに、である。
 実際は、角川書店による03年12月1巻目の文庫本化以降、注目度が高まったが。『バッテリー』の人気は、メディアミックス時代だけにNHKラジオで放送され、月刊のマンガ雑誌である『Asuka』(角川書店)でも連載中である。早晩アニメにもなるだろうと、わたしは予想している。
 恋愛小説(小説、ドラマなど)が百花繚乱の文学界にあって、およそ縁遠い中学1年生の野球少年をめぐる物語である。それに多くの人が共感していることに、わたしは関心を持っている。児童文学でいうヤングアダルトを対象としたものなのだが、読者は子どもだけではなく、20台から中学生を抱えている親にも読まれているのではないか、と推測している。その要因のひとつに、文庫本化したものは表現を若干変えるのと漢字を多く使って、対象をヤングアダルトと限定していないこともある。

 ところで『バッテリー』の内容についてふれねばなるまい。舞台は作家の出身地である岡山県である。少年野球時代から注目されていた、天才ピッチャー原田巧が父親の転勤を機に祖父の下へ引越しをする。その春休み、キャッチャーの永倉豪との出会いから始まる。2人はバッテリーを組むことになる。彼らが新田東中になった1年間の野球部の活動を中心に、家族、学校で繰り広げられる。
 物語はリアリズムであり、随所に出てくる風景、厚みのある人物像とその心理、人の関係性など描かれており、その筆致は巧みである。自然描写と状況表現は、その場をイメージできるようであり、しかも物語のドラマティクな展開に織り成すことで、人物の心理や場の空気や時間の経過などを間接的に表現する効果を生み出し、読者に心地よさをもたらしている。人物像はそれぞれの厚みがあり、時折気持ちを詳細に描き、それが中学生の心理をよく表現している。登場人物の個性(キャラクターといってもいい)の色合いが、展開のなかで関係性を対立や補完が織り成し、物語をいっそうおもしろくさせている。あさのあつこは、この人間の関係性をテーマにしている、といってよいのではないだろうか。
 1巻目が巻番号ないことで分かるように、当初から長編を構想してはいなかった。それが2年後の98年に2巻、00年に3巻と続くことになる。2巻以降は、学校の部活を中心に教師、生徒、そして事件などドラマティックに展開していく。

 物語を成功させている要素に、野球を素材にしていることがある。野球が国民的スポーツで読者に内容が了解されやすいのと、役割分業というスポーツ文化の特徴から、人間個人を鮮明に描きやすいという側面がある。しかもその上に人間の関係性が必要であり、タイトルでもあるバッテリーがそれを如実に表している。
 野球といえば、マンガとアニメで『巨人の星』が一時代をつくり、そのスポ根ものの対抗軸に友情をテーマにした『キャップテン』(ちばてつお)があった。『バッテリー』は児童文学であるから、それらと同列にすべきではないが、野球というスポーツ文化をどうとらえているか、という点を比較すると面白と思ったものだ。
 『バッテリー』は人間の深い部分と、リアリズムに徹した上で底流にあるメッセージ性は良質で、生き方の提案も読み取ることができる。ただこれとて少年マンガでいわれている「努力、友情、勝利」という視点で切り取ってアニメにしうるだろう。ただしあさのあつこは、努力が報われるとしていないし、慰めあう友情でもなく、勝利への道を描いているわけではない。しかしそれにも耐えうる良質のおもしろさの物語であり、野球という素材のなせる業でもある。
 次に地方の町を舞台にしていることも見逃せない。随所に表現されている自然のこともあるが、人間関係あるいは物語の舞台をおおよそ読者が把握できる、といったことも上げられる。これは『ズッコケ3人組』が、地方の町を舞台にして成功しているのと類似している。都市を舞台にすると、場面が点と点のつながりとなり、人間に付随しない風景が描きにくいのである。
 さらにあさのあつこの文章にふれることにする。センテンスが短いのが特徴である。シムプルで飾りがない。省略によるリズムのよさ、間のおき方などが、場の空気を読み取れるようである。子どもが心地よくどんどん読み進むだろう文章である。

 さて、作家あさのあつこについてふれることにする。わたしは3月13日(日)のNHKBS2の「週刊ブックレビュー」の特集出演したのを見た。とくに女性の作家にありがちな、世間との波長が違うライフスタリルをしているわけではない。3人の子どもを育てた普通の母親でもある、生活のにおいを感じさせる誠実な人のように見えた。もっとも児童文学者は、浮世離れしていては創作ができないものなのだ。わたしには、作風と人柄が一致した誠実な市井の暮らしをしている人に思えた。
 1954年生まれで、子育てに手がかからなくなってから書くようになったという。91年の『ほたる館物語』でデビューし、今日まで44冊を出版しているので、児童文学作家としては多いほうといってよい。後藤竜二の同人誌『季節風』への執筆がきっかけだとう。後藤竜二より一回り若いが世代であるが、時代の制約を受けながらなおも生きる活力を持った子どもたちを、子どもの立場に立ちながらリアリズム手法で書き上げていく共通点を持っている。
 また作家として影響を受けているのは、藤沢周平と辺見庸とのことだ。いずれもわたしも関心のある作家である。藤沢周平は、平易は表現で自然描写にすぐれおり、市井の人を繊細に描く。あさのあつこの文章は、藤沢周平の影響を受けているかもしれない。辺見庸は骨太で鋭い社会派でありながら、一気に読ませるいい文章を書き、ノンフィクションが多い。
 そういえば辺見は、この1年ぐらいメディアに登場していないようだ。病気療養といった記事をどこかで読んだような気がする。わたしは、辺見の発言がなくなっているのを寂しく思っている一人である。
 あさのあつこは、今後もヤングアダルト向けのものを書いていくとしているが、別冊文芸春秋に「ありふれた風景画」を連載開始する。またこれまでの作品を、7本ほど漫画化されて雑誌に連載されているという。

参考資料 HP作家の読書道  HPあさのあつこ著『バッテリー』ファンサイト・白玉
       雑誌『子どもと読書』5・6月号(親子読書地域文庫全国連絡会 編集発行) 
       特集あさのあつこの作品世界



40 危ない自転車

2005-04-22 09:21:36 | 当世世間事情
[241] 40 危ない自転車 (2005年04月22日 (金) 09時21分)


 先日工事中で片道通行となっていた道を、運転していたときである。前方右からケータイを使いながら自転車に乗っていた女性が近づいてきた。話に夢中のようで自転車がふらふらしていて危険を感じたので、わたしは最徐行してすれ違う直前に止められるぐらいにした。自転車の人はすれ違うとき、わたしの車に倒れてきてサイドミラーがたたんだ状態になった。女性はそれでも電話で夢中で、何事もなかったかのように立ち去った。
 わたしは危うさを感じて徐行したのだが、まさか倒れ掛かるまでになるとは予想しなかった。もしすれ違うときに止めるぐらいにしていなかったら、正面にぶつかったかも知れないと想像したら、ぞっとしたのだ。
 事故になった場合、このような状況でもわたしの前方不注意となるだろう。ケータイは車の運転中だけでなく、自転車に乗りながら使っているのが最近目につく。

 自転車といえば、家の近くの夜道を歩いていたら、無灯運転で曲がり角からスピードを落とさないで出てきてわたしと衝突した。運転していた女性がびっくりしてひたすら謝ったが、幸いにとっさにわたしは右半身になって防御をしていた。腕と車輪が股にぶつかったが、難を逃れたのだった。わたしのウエイトが自転車の衝撃に耐えられたのだろうし、テニスをやっていることが瞬時に防御の反応をさせたのかもしれない。
 歩行者が自転車からの事故にあうことは、かなり前から問題になっている。歩行者が被害にあうと、その場ではたいしたことがないと思ったが、大怪我で長期間通院した例も聞いたことがある。かりに両者の話し合いになっても、保険に入っていないため被害者が費用負担をしなければならないことが多いようだ。
 わたしも自転車に乗るので、歩行者への配慮や事故を起こさないよう気をつけている。そんなこともあってある年齢を境に、傘を差しながらの自転車に乗ることはやめている。

[05・05・04追記]
 NHKラジオによると、埼玉県で昨年自転車事故での死亡は53人であり、うち高齢者は29人に上る。高齢者に死亡事故減少対策に乗り出すという。
 上記のとは違う番組では、自転車は車両なので車道を走るのが原則とのことである。

『ちびくろ・さんぼ』の復刊

2005-04-21 19:38:25 | 絵本と児童文学
[240] 『ちびくろ・さんぼ』の復刊 (2005年04月21日 (木) 19時38分)

 先日書店に行ったら、その店の特別販売扱いの場所であるカウンターのそばに、なつかしい赤い表紙の『ちびくろ・さんぼ』が平積みされていた。もっともゆきわたっている岩波書店で出版されていたものが、17年ぶりに復刻されたのである。製本も同じで、岩波の絵本のその2(岡部冬彦絵)を省いて、原作のみにしている。わたしには岩波版より、表紙の光沢が強く仕上げている印象を持った。
 この絵本は、アメリカ南部の黒人に多い人種をモデルにしており、その絵が尊厳して描いたとはいいがたいとし、しかもサンボという名前が黒人蔑称ともとれる(実際は多くの子どもの愛称になっている)黒人差別を助長するとして話題になった絵本である。多くの人に読まれ親しまれていて、当時も活発に流通していたのに、1988年に岩波書店はあっさりと絶版にした。それとともに当時おそらく10社を超えると推定される出版されてていた『ちびくろ・さんぼ』が一斉に絶版になった。
 そのこともあってこの絵本は、書店からも図書館からも姿を消したのである。図書館では廃棄したというよりは、書庫に保存し申し出があった場合閲覧に応えるという扱いをしたところが多い。わたしは絶版後のまもなく、古書店で書き込みありだったものを3000円で手に入れて、喜んだものだった。
 当時は絶版反対論が多く、その立場の評論本が複数出版された。もともとこの絵本は、トラが登場することでも分かるように、インドを舞台にした本である。イギリスの植民地だったので、今から100年ぐらい前に、インドに在住していたイギリス人のバンナーマンがわが子のために作った絵本である。
 問題になった本は、その原作をアメリカ人によって絵が描かれ、1927年にニューヨークで出版されたものである。アメリカではこの本も多くの人にゆきわたり、60年代までの黒人との社会的分離政策をとっていた時代にも、黒人社会でも良書として多くの子どもにゆきわたっていたのだった。
 今回瑞雲舎(ずいうんしゃ)によって発行されたのは、岩波書店版であった

『ちびくろ・さんぼ』 ヘレン・バンナーマンぶん フランク・ドビアスえ 光吉夏弥やく 05年4月15日発行  瑞雲舎 1050円

である。この本のおもしろさからすると、そうとうゆきわたるのは間違いないだろう。4月19日(火)の朝日新聞によると、15日発行の初版4万で、すぐに1万増刷とのことだ。絵本が初版で1万以上つくるのは珍しいぐらい、多い部数であるからその関心の高さと多くの人が待ち望んでいたとみてよいであろう。
 瑞雲舎は過去にも、シナという言葉が中国人の蔑称とされて福音舘書店が絶版にした『シナの五にんきょうだい』を発行したことがある。
『シナの五にんきょうだい』クレール・H・ビショップぶん クルト・ヴィーゼえ かわもとさぶろうやく1995年10月発行 瑞雲舎発行 1938年ニューヨーク

 ここで私の手元にある他の『ちぶくろ・さんぼ』の絵本を、紹介する。詳細な作品分析や評論は、別な機会にゆずることにする。

■『ちびくろ・さんぼ』 ヘレン・バンナーマンぶん フランク・ドビアスえ 光吉夏弥やく1953年12月発行 岩波書店 1927年ニューヨーク

■『ブラック・サンボくん』 ヘレン・バナマンぶん 坂西明子え 山本まつよやく 1989年8月発行 子ども文庫の会
*『ちびくろ・さんぼ』絶版に反対の立場から、原作に近い形で制作したものである。

■『おしゃれなサムとバターになったトラ』 ジュリアス・レスターぶん ジェリー・ピンクニー さくまゆみこやく 1997年11月発行 ブルース・インターアクションズ発行 1996年アメリカ 
*アメリカ版『ちびくろ・さんぼ』に対して、サムという名前にし、知恵をもってトラを負かした黒人の子ども、というメッセージで作られた絵本である。とくに絵が誇り高い黒人像を描き出している。

■『チビクロさんぽ』 へれん・ばなまんげんさく 森まりもほんやく(かいさく)1997年10月発行 北大路書店
*絶版を惜しみ、さんぼをチビクロという犬にしてストーリのおもしろさを生かそうとしたものである。

■『トラのバターのパンケーキ』 ヘレン・バンナーマンさく フレッド・マルチェリーノえ 1996年アメリカ
1998年10月発行 評論社発行 
*アメリカ南部の黒人というイメージの絵ではなく、インド人を描き名前もババジくんとした。

■『ちびくろさんぼのおはなし』 へれん・ばなーまんさく・え なだもとまさひさやく1999年5月発行 径書房 
*『ちびくろ・さんぼ』絶版は、優れた文化を無残にも放り投げるもの、として反対を展開していた径(こみち)書房が原作出版100年記念として発行した原作である。



39 早朝の電車乗客の変化

2005-04-20 12:19:59 | 当世世間事情
[239] 39 早朝の電車乗客の変化 (2005年04月20日 (水) 12時19分)

 わたしはおよそ週1回、6時過ぎの電車を利用している。この電車は寒くて暗い12月から2月頃までは、例年ひとつのシートに3、4人ぐらいの乗車である。
 それが暑い期間になると、わたしの乗車駅から座れないときがあるぐらいになる。理由は仕事に向かう人や都心で深夜まで活動し(遊んで)、始発電車で帰るという若者がいるからである。
 わたしの乗車駅で下車する人がいるので、目的地の50分間は座ることが可能となる。夏のその時間は明るく暑いので、風景として理解できる。人間の行動は、季節に左右されるものだと了解している。今週の場合は大勢の人が下車したし、わたしが乗車したときは座れない人がいるぐらい早朝から活動する人が多くなってきた。山登りへ行く人、高校生でスポーツなどの朝練習に向かう人など様々である。

 ところで暗くて寒いこの冬に、座席がほぼ埋まるぐらい多く乗車していた。なかにはぐっすり寝込んでいる若者がおり、深夜行動するのは季節が関係なくなったのかな、と考えた。今年の冬はどうなるか、また観察してみることにしている。





幼稚園に通い始めて

2005-04-19 05:12:12 | 子どもからの発見
幼稚園に通い始めて (2005年04月19日 (火) 05時12分)

 かいが幼稚園へ行くようになっての急な変化は、自分のことをぼくというようになったのと、言葉のやり取りで「はい」を頻繁に使うことです。
 わたしの推測では、幼稚園生活の説明を受けて「やくそくですよ わかりましたか」「はい」といったやり取りをしているのではないだろうか、ということです。ぼくというのは、同年齢の子どもとの関係を持つために、自分の位置を示すためでしょう。それまでの自分の名前やおれと言うのが消えていきそうです。
 1週間たったら、ほほに赤みがさしてきたし、しぐさにメリハリがでてきました。同年齢の子どものなかにいるのが楽しいようです。
 妹のふきは、かいが幼稚園バスに乗る1日目に自分も行くと思い込んでバス停で泣き出したのでした。ところがその日の夕方、「ふきようちえんにいくのあきらめた」としみじみといいました。そしてだんだんかいと距離ができて、2歳らしくちょっと幼くなったようです。それまで張り合っていたのでしょう。ふきは、これで背伸びしなくて楽になるでしょう。昼寝をきちんとするようになったことにも、現れています。

新しい学生たちとの出会い

2005-04-18 04:54:56 | 身辺のこと・自然
[238] 新しい学生たちとの出会い (2005年04月18日 (月) 04時54分)

 キャンパスを囲む水田に水が入りました。田植えに向けての準備が日々進んでいます。15日(金)の夕方は、田の側にヒバリがかん高い声で鳴いていました。近距離で見たのは初めてなので、わたしのこころがざわめきました。

 わたしがかかわっている保育課程の新2年生の履修者人数は、毎年定員をオーバーするのではないかと心配しますが、今年はちょうどよく収まりました。

 2年生の総合演習Ⅱは、毎年セクシュアリテーとジェンダーをテーマにしています。テキストの輪読を中心に進めますが、文章を書く課題を多くしています。その年の構成員によって学びは変わりますので、今年はどうなるでしょう。このところ新聞を読む、ニュース報道を常に把握する、といった学生が少なくなってきています。そういった状況の変化に対応すべく、わたしも進め方を工夫しています。

 3年生の専門演習のテーマが「絵本と児童文学」なので、社会福祉から見たら傍系のテーマです。社会福祉を専攻する学生だけに、たとえば子育ての場合でも虐待問題に関心を持つ学生が多いという傾向があります。その点「絵本と児童文学」というテーマは、子どもの負の部分に焦点を当てるわけではありません。
 子どもの発達と絵本と児童文学という文化財のあり方を考えるのは、ポジティブな発想と分析力を必要とします。答のたくさんある分野だけに、その思考の仕方に戸惑う学生もいますが、2年間で複眼的なものの見方を獲得してほしいのです。そのことは社会福祉や保育を学ぶとき、多面的なとらえ方につながっていく可能性を持っています。社会福祉を、厚みを持った学びにできるようにしていきます。さて、今年はどんなゼミになるでしょうか。

 授業は、保育課程学生の3年生に2科目しているますので、ほぼ同じ学生に週2回出会うことになります。前年度は、前方に座って関心が高く聞いている学生が大勢いましたが、今年はどうでしょうか。例年のように整然と聞いており、1限目の授業はいまのところ学生が時間前にほとんど集まっています。これが連休明けが過ぎても続いて欲しいと思うことしきりです。

 卒業して仕事を始めた学生から、メールが届きます。驚きや発見や戸惑いと様々のようで、わたしとしては学生時代の姿から仕事ぶりに想像をめぐらしています。卒業生からのメールは、うれしいものです。




地域の歴史の片鱗を感じ取る

2005-04-17 12:41:50 | 身辺のこと・自然
[237] 地域の歴史の片鱗を感じ取る (2005年04月17日 (日) 12時41分)

 わが家の庭は、地面にはスミレが白に淡いムラサキでたくさん咲き、ニホンタンポポが3株ほど花をつけている。低木であるミツバツツジが、鮮やかな色の花を増やし続けている。ヤマブキが今年はたくさんの花をつけた。大型連休明けぐらいまでは、これらの花を楽しめそうだ。
 野鳥は4月に入ってまもなくこなくなり、今はスズメだけである。スズメの常連は、おととしが2羽、去年が雛がかえり5羽となり、今年は今のところ2羽である。そのうち雛をかえして増えるかもしれない。鳥の図鑑によると、スズメは短命とのことだ。
 池はメダカが流れに向かって群れて活気よく泳ぎ、底にいるドジョウやフナも時には見られるようになった。タニシやヌマエビも健在である。池に生えているアシ等のいくつかの植物も、芽を出したり緑を増したりしている。生命力が旺盛になった池は、流水でないので水質維持のためにポンプの面倒を見る頻度を増やさなければならない。

 わたしが通い始めた新しいテニススクールは、自転車で10分ほどで、これまでより近いところである。この市に住んで10年を超えたのだが、私の行動はもっぱら駅に向かっての商店街、あるいは必要あっての公共施設であった。この街の歴史を読み取れるものにあまりめぐり合っていなかった。
 テニスコートの場所は、これまでの行動範囲とは異なる住宅地でもなく商店街でもない方向である。そこにこの地の歴史を感じ取れる風景があったのだ。自転車での道すがら見える風景は、百年は優に超えているだろう1、20メートルの巨大なケヤキに囲まれた屋敷が点在している。
 テニスコートの近くの神社からは、日曜日に祭囃子が終始聞こえていた。この神社は大きな建物ではないので、おそらく土地の鎮守の神、あるいは氏神(八幡宮など)といわれている神社であろう。農村の名残が祭囃子という形で残っており、その音を聞きながら自分の住んでいるところへの関心が膨らんだのだった。
 空に伸びるように生えているケヤキの巨木は、3日は、芽吹きがわずかにはちきれそうで、10日には若芽が一斉に萌えるようになり、17日はあたかも空気をいっぱい吸い込んだからのように緑を濃くしている。
 関東ではケヤキを街路樹にも使っているが、どこでも人の手を加えられている。本来のこの木の勇壮な姿を、久しぶりに見たのであった。
 これからのわたしの生活に、巨木のケヤキに四季の変化を感じ取れるので、奥行きが加わった思いである。


居残り保育、預かり保育、延長保育

2005-04-13 07:48:38 | 子ども・子育て・保育
居残り保育、預かり保育、延長保育 (2005年04月13日 (水) 07時48分)

 保育で使われている言葉は、保育者が仕事の上で出てくる言葉が広がって一般化する、つまり保育の概念になる場合が多い。基準の保育時間を超える保育に対しての言葉が、いくつかある。
 『保育所保育指針』では、延長保育としているので、それが法制度上の概念である。延長という言葉は長く伸びるという意味なので、夕方延びるというニュアンスがついてまわる。しかし朝に対しても言うのである。ちなみに都市部の保育園では、朝7時から夕方7時までの保育時間が多くなっている。

 現場では預かり保育、という場合が多くみられる。幼稚園の場合、子どもが降園した後にも保育するのを預かり保育とすることが多い。学校でいえば放課後である。本来保護者のもとに帰るが、代わりに預かるとニュアンスだろうか。幼稚園の保育時間は、このところ2時から3時降園が一般的になってきている。預かり保育の子どもの降園時間は、5時から6時頃が多いようである。
 預かり保育というのは幼稚園だけではなく、保育園でも延長保育に切り替えないで経験的に使い続けていることはよくみられることである。
 預かり保育とは大人の側あるいは園側の言葉であり、正規と異なるあるいは親の代替というニュアンスもある。子どもにとってよい言葉であるか、再考する必要があるのではないだろうか。

 また、現在どのくらい使われているか定かではないが、居残り保育という言葉がある。降園時間後も部屋に残るという意味では、その状況を表している現場から発生した言い方である。わたしには「いのこりさん、へやにあつまってね」といった保育者の言葉が残っているほど、なじみのあるものである。子どもの言葉は、わたしは悪い感じはしないのだが。
 
 今年度からモデル事業として出発する幼保一体施設としてしての総合施設は、保育園的機能の長時間保育をする。先行的に実施している総合施設は、どのような概念を使っているだろうか。延長保育とも違うと思うのだが、職員配置等の運営のことともに気になるところである。