『大学教授、発達障害の子を育てる』
岡嶋裕史 著 光文社 講談社 2021年2月
「発達障害」という言葉が認知されて久しい。関連書も多く出版され、一度は目にした人も多いのではないだろうか。本書もその中の1冊ではある。決して目新しいものではないが、「発達障害」と一括りに言っても、個人差が多く、1冊読んだからと言って、その多くが分かるわけではない。本書を読むことによって、「発達障害」の新たな一面を知ることができるのではないかと思う。
本書は私が知る限り、他の関連本と異なるのは著者自身が「発達障害」であったと我が子を通じて気づき、この記録を執筆するにあたり、自分が幼い頃から感じていた特異な感覚や行動というのを他者でも分かるように、文字に起こしていることである。例えば、発達障害の人は知覚過敏であると言われている。著者の場合、聴力に関しては機能的には問題ないものの、周囲の人からは「人の話を聞いていない」と評価されている。彼の説明によると単純に呼ばれても聞こえていないだけなのらしい。それは、「音としては聴こえているけど、認知していない」ということのようである。人は一般的に雑踏の中でも知っている人の声や音を拾い上げるメカニズムになっているが、彼の場合、それができないようである。雑音の中の様々な音はそのままごちゃまぜの音としてしか聴こえないという。彼は一般的な人の音の認知機能に関してこのような感想を述べている。「人間の音声域の情報を全部残したら、他にもまだ色々な雑音がまじっているだろうし、仮に人の声だけを抜き出したとしても、それがどうでもいい人か、家族や友だちかの判定までしなければならない。高度というか、めんどくさい処理である。これをふつうの人は適正に、リアルタイムにやっているかと思うと、くらくらする。みんなすごいや!(p115)」。もちろん、我が子のことも記載しているが、それが自分とはまた異なる感覚や言動を持っており、自分とどのように異なるのかということも分かりやすく説明している。それだけを抜き出して読むだけでも、発達障害は多種多様であることがよく分かる。
著者は大学で情報学を研究しているため、「発達障害」に関する症状をコンピュータに例えて説明している。これが案外分かりやすい。表紙の袖に本文の一部を改変してそのことに関して掲載しているので、それをそのまま引用する。「知的障害はCPU(中央処理装置)がトラブルを抱えている状況であり、発達障害は入出力装置(コミュニケーション装置)がトラブルを抱えている状況であると思う。ディスプレイやマウス・キーボード・タッチパネルといった入出力装置に問題のあるコンピュータは、とてもとても使いにくい。どんなに内蔵されているCPUが高性能だったとしても、である。だから、知的障害より発達障害のほうが症状が軽い、社会に適応しやすいという話ではない。また、両者を併発している子も多い。もちろん、併発しているこのほうが、人生で抱える困難は大きくなる」
本書は自らの経験、我が子のことを踏まえて、現在の教育システム、とりわけ障害を持つ子、定型発達の子が共に机を並べる共生教育について言及している。当事者から言わすとこのシステムはどちらにも負荷が大きすぎるのではないかという。著者は人が集まるところが苦手だったため、中学校までは卒業したものの、高校には行かずに大検で高校卒業の認定を受けている。そして、大学に進学したのは20歳の時。その間、著者は自宅にこもってゲームをやり込んでいたという。そして、彼はその時の5年間を「至福の5年間」と言っている。そのような彼だからこその妙な説得力がある。もちろん、その理由については論理的かつ経験的に伝えている。そして、現在社会は「多種多様性」を認めた「共生社会」の流れで進められているが、その「共生」というのはどういうことなのか改めて考えさせられた。またそのことだけでなく、「コミュニケーション」そのものについてや、コロナ禍の日常にいたるまで深くも軽やかに「発達障害」という視点から今の社会の本質に迫っている。
本書は最新の発達検査における区分なども掲載されているので、是非ともその辺りもしっかりと目にして欲しい。
文責 木村綾子