11月9日(土):
本屋大賞受賞作として世間で喧伝されているので、手に取ったが、今のところ感想は3(⇒訂正4)だ。前回読んだ「モンスター」と違って性的表現部分がほとんど無いのは、この著者には向いている。作品として一定の水準を超えていることは確かだ。ただ、世間でもてはやされるほどの作品とは思えない。むしろ歴史修正主義者らによる推奨という背景が感じられる。
今ひとつ感動できないのだ。まず文章に、素人っぽさが残っている。著者が浅田次郎と比肩されるのは烏滸がましい。文章の達者さが違う。次に、よく資料を調べ上げているように思うが、その解釈の段階で<作者の思い込み>が強く出過ぎている。さらに、その作者の思いの基準が、古臭く保守的で自民族中心主義(エスノセントリズム)に偏っている。
「こんなに立派な日本人がいますよ!」と日本人に知らせたいという作者の気持ちが勝ち過ぎていて、著者と一緒に「日本人ってすごいよね、偉いよね」ってはしゃげる人間は良いのだろう。しかし、「そうかなあ。そないによい面ばかりじゃないでしょ…」と、はしゃげない人間には、作品の視野の狭さ、粗さが気になり、当時の日本の社会のあり様や、植民地の朝鮮半島、満州の人々のあり様について視野を広げて書いて欲しいという思いが残るのだ。
著者の感性を見ると、<遅れてきた司馬遼太郎・城山三郎に憧れる若者(という歳ではないが)>という印象をぬぐえないのだ。
昔、司馬の「菜の花の沖」を読んで、高田屋嘉兵衛の魅力に胸踊らせた後、井上ひさしの「四千万歩の男」を読んだ時、蝦夷地でアイヌを収奪する高田屋の存在の暗さ、陰険さに「同じ対象を描いても、こんなに違うんだ」と驚いたことを思い出した。
著者にも同じことが言えると思う。出光佐三を偉大に描くためにいろいろなことが隠され、合理化されてる気がするのだ。
著者の「観た人が、ああ、生きててよかったなあ、と幸福になる、元気づけられる、勇気がわいてくるものじゃなければならない」という思いは十分共感できる。しかし、司馬遼太郎・城山三郎を気取っているのであれば、こういった大家は少なくとも描く対象が近・現代に近ければ近いほど自らの作品の生臭さや危険性を自覚していた。そこが、決定的な違いであり、著者の作風に浅薄さを覚えるのだ。
いわんや著者が、「たかじんのそこまで言って委員会」などで、ヘイトスピーチを垂れ流す輩(やから)どもと一緒になって無自覚・無神経な言葉を吐いて、はしゃいでいる姿には白けさせられる。特攻隊を美しく描き、不世出の経営者出光佐三を再発見した著者の功績は大きいのかもしれないが、「新しい歴史教科書をつくる会」などの歴史修正主義者と容易に結びついていく気がして残念である。
所詮「物書きなんだから、売れないといけないんだし、俺には時間がないんだ。テレビで偉そうに喋って何が悪いねん。ごちゃごちゃぬかすな!うるさいわい!」というのであれば仕方がない。著者から見れば、共産党嫌いの俺も<左翼の単純バカ>ということになるのだろう。
しかし、視野の狭い右翼的夾雑物が混じっていると、俺は違和感を覚えてしまうし、著者の作品を面白いと思いたい気持ちにブレーキがかかるのだ。作品の中に真実があると思えればこそ、感動もし、落涙もするのだが…。
できれば作家は、作品で勝負して欲しい。作品を読んでいて、作家の容姿や偉そうな言動が頭に思い浮かんでしまうともうダメなのだ。空々しく白々しい気分になってしまう。「探偵!ナイトスクープ」メイン構成作家は勿論続けて欲しいが、「たかじんのそこまで言って委員会」などで、ヘイトスピーチを垂れ流す愚劣な輩(やから)とはしゃぐ姿はもう見せないでほしいのだ。
※なんか書いてるうちに、えらい展開の感想を書いてしまった…。これで下巻で感動してしまったらどうしよう…。まあ、それはそれで真実なのだから、正直に「感動しました」「お見逸れしました」と書くしかないか…。でも、そうはならない気がする。著者は、山崎豊子ではないのだから。
※今、朝刊を見たら、著者は安倍政権の指名でNHKの新経営委員に選任されたそうである。保守系論壇誌に「安部晋三論」を書き下ろし、「再び日本は立ち上がるだろう。安倍晋三はそのために戻ってきたエースである」と安倍さんを称賛しているのだそうだ。「ああ、そうですか…、やれやれ…」である。もう、権力者の靴底を舐めてしまったんですね。まあ、俺と考え方が合うわけないわなあ…。読んでいて感じた違和感も当然か…。作品は作品として読ませて頂きます。ああ、重松清が懐かしくなってきたなあ。
本屋大賞受賞作として世間で喧伝されているので、手に取ったが、今のところ感想は3(⇒訂正4)だ。前回読んだ「モンスター」と違って性的表現部分がほとんど無いのは、この著者には向いている。作品として一定の水準を超えていることは確かだ。ただ、世間でもてはやされるほどの作品とは思えない。むしろ歴史修正主義者らによる推奨という背景が感じられる。
今ひとつ感動できないのだ。まず文章に、素人っぽさが残っている。著者が浅田次郎と比肩されるのは烏滸がましい。文章の達者さが違う。次に、よく資料を調べ上げているように思うが、その解釈の段階で<作者の思い込み>が強く出過ぎている。さらに、その作者の思いの基準が、古臭く保守的で自民族中心主義(エスノセントリズム)に偏っている。
「こんなに立派な日本人がいますよ!」と日本人に知らせたいという作者の気持ちが勝ち過ぎていて、著者と一緒に「日本人ってすごいよね、偉いよね」ってはしゃげる人間は良いのだろう。しかし、「そうかなあ。そないによい面ばかりじゃないでしょ…」と、はしゃげない人間には、作品の視野の狭さ、粗さが気になり、当時の日本の社会のあり様や、植民地の朝鮮半島、満州の人々のあり様について視野を広げて書いて欲しいという思いが残るのだ。
著者の感性を見ると、<遅れてきた司馬遼太郎・城山三郎に憧れる若者(という歳ではないが)>という印象をぬぐえないのだ。
昔、司馬の「菜の花の沖」を読んで、高田屋嘉兵衛の魅力に胸踊らせた後、井上ひさしの「四千万歩の男」を読んだ時、蝦夷地でアイヌを収奪する高田屋の存在の暗さ、陰険さに「同じ対象を描いても、こんなに違うんだ」と驚いたことを思い出した。
著者にも同じことが言えると思う。出光佐三を偉大に描くためにいろいろなことが隠され、合理化されてる気がするのだ。
著者の「観た人が、ああ、生きててよかったなあ、と幸福になる、元気づけられる、勇気がわいてくるものじゃなければならない」という思いは十分共感できる。しかし、司馬遼太郎・城山三郎を気取っているのであれば、こういった大家は少なくとも描く対象が近・現代に近ければ近いほど自らの作品の生臭さや危険性を自覚していた。そこが、決定的な違いであり、著者の作風に浅薄さを覚えるのだ。
いわんや著者が、「たかじんのそこまで言って委員会」などで、ヘイトスピーチを垂れ流す輩(やから)どもと一緒になって無自覚・無神経な言葉を吐いて、はしゃいでいる姿には白けさせられる。特攻隊を美しく描き、不世出の経営者出光佐三を再発見した著者の功績は大きいのかもしれないが、「新しい歴史教科書をつくる会」などの歴史修正主義者と容易に結びついていく気がして残念である。
所詮「物書きなんだから、売れないといけないんだし、俺には時間がないんだ。テレビで偉そうに喋って何が悪いねん。ごちゃごちゃぬかすな!うるさいわい!」というのであれば仕方がない。著者から見れば、共産党嫌いの俺も<左翼の単純バカ>ということになるのだろう。
しかし、視野の狭い右翼的夾雑物が混じっていると、俺は違和感を覚えてしまうし、著者の作品を面白いと思いたい気持ちにブレーキがかかるのだ。作品の中に真実があると思えればこそ、感動もし、落涙もするのだが…。
できれば作家は、作品で勝負して欲しい。作品を読んでいて、作家の容姿や偉そうな言動が頭に思い浮かんでしまうともうダメなのだ。空々しく白々しい気分になってしまう。「探偵!ナイトスクープ」メイン構成作家は勿論続けて欲しいが、「たかじんのそこまで言って委員会」などで、ヘイトスピーチを垂れ流す愚劣な輩(やから)とはしゃぐ姿はもう見せないでほしいのだ。
※なんか書いてるうちに、えらい展開の感想を書いてしまった…。これで下巻で感動してしまったらどうしよう…。まあ、それはそれで真実なのだから、正直に「感動しました」「お見逸れしました」と書くしかないか…。でも、そうはならない気がする。著者は、山崎豊子ではないのだから。
※今、朝刊を見たら、著者は安倍政権の指名でNHKの新経営委員に選任されたそうである。保守系論壇誌に「安部晋三論」を書き下ろし、「再び日本は立ち上がるだろう。安倍晋三はそのために戻ってきたエースである」と安倍さんを称賛しているのだそうだ。「ああ、そうですか…、やれやれ…」である。もう、権力者の靴底を舐めてしまったんですね。まあ、俺と考え方が合うわけないわなあ…。読んでいて感じた違和感も当然か…。作品は作品として読ませて頂きます。ああ、重松清が懐かしくなってきたなあ。