もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

7 022 三木清「人生論ノート」(新潮文庫:1941)感想5

2017年12月10日 03時01分33秒 | 一日一冊読書開始
12月9日(土):  

152ページ     所要時間6:00    蔵書

著者41歳~44歳連載(1897―1945:48歳)。兵庫県生まれ。哲学者。京都帝国大学卒業後ドイツ・フランスに留学し、リッケルト、ハイデッガーらに師事。帰国後、マルクス主義哲学、西田哲学を研究。哲学的論稿や著作を発表すると同時に批評家としても活躍。1930年治安維持法違反で検挙される。1945年再度反戦容疑で逮捕され、終戦を迎えたが釈放されず、獄中で死去

【目次】死について/幸福について/懐疑について/習慣について/虚栄について/名誉心について/怒について/人間の条件について/孤独について/嫉妬について/成功について/瞑想について/噂について/利己主義について/健康について/秩序について/感傷について/仮説について/偽善について/娯楽について/希望について/旅について/個性について(1920年:23歳)/後記/解説(中島健蔵)

俺は本書を2冊持っている。いずれも1982年発行で第68刷と第69刷である。そのうち今回読み直した文庫の巻末に1982.12.1と記されていて、既に多くの線や赤線が引いてあった。35年前、間違いなく俺はこの本を読了している。そして、若いころの俺はこの本をまるでお守りのようにずっと持ち歩いていたのを覚えている。

今回の読書は、本書が俺にとって特別な存在だということ、ページ数が152ページということもあって、速読のルールを破って、鉛筆を持ち続けて1ページずつ精読していった。途中、赤ボールペンや黄色のラインマーカーまで持ち出して読んだ。もちろん、それでも6hぐらいですべて了解などとは口が裂けても言えないが、この数日の読書で、俺のものの考え方の根っこに三木清の読書の影響が意外なほど強く残っていることを確認することになった。

一方で、若い時に座右の書としていたにもかかわらず、いかに多くのことを忘れているかを思い知らされもした。ただ、その分だけ今回の読書は新鮮な気分の読書になった。

それでなのか、今回の読書で若い時には全く意に介しなかったことが大変気になった。それは、三木清が、各論を展開する前提となっている当時の日本社会のあり様に対する批判的言辞が、まるで現在の日本社会の状態、ありていに言えば教養も、品性もない政治屋のアベ自民による独裁政治を批判しているように感じてしまったことだ。

本書の連載が行われた1938年~1941年というのは、226事件があって、軍部大臣現役武官制が復活、日中戦争の深みにはまり込み、無謀なアメリカとの全面対決に突入する真珠湾攻撃をまさに目前にした時期である。軍部が権力を握り、近衛文麿が大政翼賛会という光輝くがらんどうをつくり、治安維持法で言論弾圧の限りが尽くされた時期である。

本書で三木清が述べる日本社会の状況が、今の日本を彷彿とイメージさせるということは、結局今のアベ自公政権によって日本が置かれている状況がそのあたりなのだということになる。こういったことに類する言論はこれまでに何度も接しているし、歴史を知る者として俺自身「そうじゃないか」と感じてきてはいたが、「人生論ノート」の中で行われる批判の論調が、あまりにも今の日本に当てはまるのを俺には感じられてしまい、改めて「そうか、やっぱりそこまで来ているのか」と思わずにいられなくなった。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして、今のアベ自公政権で一番軽んじられているのが歴史だという事実は笑えない現実だ。

ところで、三木清の論説は味わい深い部分、今いちな部分、いろいろであるが全体としてみた場合、やはり感想5は揺らがない。比較的易しい言葉で書かれているとは言え、そこは哲学者の言葉である。読んだその場で腑に落ちるのもあるが、むしろ一晩おいて翌日職場で昨夜の読んだ部分などが思い出されて、じわじわと「なるほどなあ、そうだよなあ…、さすがやなあ…」みたいに腑に落ちる部分も多かった。今後、たくさんの付箋と新たな線を追加した本書を、改めて座右の書とすることで、本書の滋味を味わって生きていきたいと思う。ちなみに、本書の内容は、世間で常識とされていることと真逆のことが意外と実は真実なのだという展開で論じられることが非常に多いことを付言しておきます。

以下、ごく一部を参考までに、
・三十代の者は四十代の者よりも二十代の者に、しかし四十代に入った者は三十代の者よりも五十代の者に、一層近く感じるであろう。8ページ
・死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。11ページ
・幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。略。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。18ページ
・幸福になるということは人格になるということである。21ページ
・すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。43ページ
・孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。65ページ
・嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。72ページ
・利己主義者は期待しない人間である。従ってまた信用しない人間である。それ故に彼はつねに猜疑心に苦しめられる。略。人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未来に延ばし得るかという問題である。91ページ
あらゆる秩序の構想の根底には価値体系の設定が無ければならぬ。しかるに今日流行の新秩序論の基底にどのような価値体系が存在するであろうか。倫理学でさえ今日では価値体系の設定を放擲してしかも狡猾にも平然としている状態である。103ページ *アベ愚か者政権 
・行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである。110ページ
・偽善者が恐ろしいのは、彼が偽善的であるためであるというよりも、彼が意識的な人間であるためである。118ページ
多少とも権力を有する地位にある者に最も必要な徳は、阿る者と純真な人間とをひとめで識別する力である。これは小さいことではない。もし彼がこの徳をもっているなら、彼はあらゆる他の徳をもっていると認めても宜いであろう。119ページ *アベ愚か者政権

【内容紹介】死について、幸福について、懐疑について、偽善について、個性について、など23題――ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木清の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。その多方面にわたる文筆活動が、どのような主体から生れたかを、率直な自己表現のなかにうかがわせるものとして、重要な意味をもつ。
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