もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

9 052 司馬遼太郎「竜馬がゆく(七)」(文春文庫:1963)感想5

2020年06月07日 19時56分29秒 | 一日一冊読書開始
6月7日(日);      

4101ページ       所要時間9:30         蔵書

著者40歳(1923~1996:72歳)。

セリフのある司馬さんの小説として「竜馬がゆく」はやはり最高傑作のひとつと言える。

第二次長州征伐に敗れた幕府は、江戸で謹慎の身で放置していた勝海舟を大阪に呼び出す。幕府内で誰よりも勝を信頼し、強い支持者だった将軍家茂の意向だった。その家茂が死ぬ。後を継いだ「百才あって一誠なし」の15代慶喜は、嫌っている勝に敢えて長州との終戦の使者を命じる。

一人の供もつれず単身で長州の代表団と安芸で会見した勝は警戒する長州側に「貴殿らは勝者だ」と率直に伝えて見事に事態を収拾をした。しかい、大役を果たした勝に慶喜は無条件和睦が不満で、ねぎらいの言葉もかけない。

天下の坂本龍馬と目されるようになったが、もっとも欲しい船がない。金がないとこぼす竜馬に対して、第二次長州征伐の失敗が思わぬ追い風を吹かせ始める。竜馬がその保守性に絶望し憎悪すらしていた土佐藩が、薩長中心の時勢に出遅れたことに強く焦りはじめ、脱藩浪士だが薩長との強いパイプを持つ竜馬や中岡慎太郎に近づき始めたのだ。

さらに、慶応2年(1866)12月27日、最も強い佐幕主義者であった孝明天皇が死ぬ。幕府は最も強い支持者を失った。

竜馬が土佐藩への不信をぬぐえず、あくまで独立独歩で勤王討幕路線をとるのに対して、中岡慎太郎は時勢の変化に焦る山内容堂の側近若手上士グループ(後藤象二郎、乾退助、福岡某、谷守部ら)に接近、彼らを説き伏せ影響下に置き、彼らとともに土佐全藩をまとめて薩長路線への合流を目指すようになる。

長崎にいる竜馬のもとにも土佐藩の仕置き家老となった後藤象二郎が辞を低くして会いに来る。会見場所は冒険的投機貿易商かつ男好きの美人資産家である大浦お慶の屋敷内。後藤象二郎は世が平穏な時代であればどうしょうもない破れ大風呂敷であるが、乱世の幕末では竜馬も驚くほどの使える人物だった。藩と距離を置こうとする竜馬に土佐藩の側からつながりを求めている。

土佐藩への復帰を求める後藤に対してあくまでも復帰を固辞して、土佐藩と対等、同格の連携を結ぶという竜馬の意思が<海援隊>という名称になる。大浦お慶と薩摩藩を介して1万2000両で風帆船を手に入れ、伊予大洲藩を株主にして念願の蒸気船(45馬力、160トン)を手に入れ、いろは丸と名付ける。瀬戸内を圧するに足る二隻の私設海軍ができあがる。

しかし、竜馬も乗船したいろは丸の大坂に向けた初めての航海で、御三家紀州藩所有の明光丸(150馬力、887トン)と衝突事故が起こる。日本の近代海運史上、最初の事件として良き先例を残すためにも、竜馬は万国公法を盾に天下の紀州家に対して真っ向から挑む。命懸けである。「船を沈めたその償いは 金を取らずに国を取る」長崎の世論も紀州藩対海援隊の喧嘩をもてはやす。長州藩などは竜馬を応援して、御三家紀州藩と戦争を始めることで討幕革命戦の口火を切ろうとまで申し入れてくる。

この騒動に土佐藩家老後藤象二郎、薩摩の五代才助も乗り出してくる。追い詰められたのは紀州藩で、最後は竜馬の命を狙うが、竜馬は天下の剣豪である。うまくいかない。結局、詫び証文をとられた上に船価と積み荷代金8万3000両が払われた。竜馬の圧勝であった。

この時期、アーネストサトウというイギリスの青年外交官の幕府に変わる新たな日本政治の枠組み「列侯会議」論が中岡慎太郎らの奔走で実現する。慶応3年(1867)朝廷の招集の下、伊予宇和島伊達宗城、越前福井松平春嶽、薩摩島津久光、土佐山内豊重らを京都に集めた。4人の雄藩大名の合議政体をつくり、先ず長州への勅勘を解き、京都に復帰させる。一方で徳川幕府に対して朝敵の汚名を着せて一気に討幕戦争に持ち込む。

中岡慎太郎が躍動するように活躍し、彼によって孝明帝の勅勘を受けて逼塞していた岩倉具視を調停工作の切り札として引き出すことに成功する。土佐藩山内容堂気に入りの若手側近乾退助が、中岡に完全に同調していた。

このまま討幕に突き進むことになるのを察知し、恐れた容堂が席を蹴って土佐に帰るが、説得に失敗した乾退助は、謝罪し「今後薩長両藩が討幕の軍を挙げる時、もし藩主の許可を得られなくても、乾退助の一存で土佐の軍を糾合して上洛、討幕軍に合流する」薩土同盟(乾・中岡、西郷隆盛)が結ばれる。

いよいよ時勢が煮詰まってきている。武力討幕による幕府との内戦が既定路線化しつつある。思想は勤王、行動は佐幕という矛盾した立場できた土佐の容堂は完全に行き詰まっている。後藤が長崎の竜馬のもとにきて、「なんとか土佐を救ってくれ」と頼み込む。土佐の夕霧丸に乗って上方へ行く途中、船内で竜馬が後藤に<大政奉還>論を示す。

竜馬のオリジナルではない。3年前、勝海舟、大久保一翁二人の幕臣から聞いていたアイデアである。その時は冗談として聞いたアイデアである。これより早ければ冗談、これより遅ければ武力戦争。まさにこのタイミング、この瞬間にのみ光彩を放つ絶妙の案である。それを竜馬は後藤に伝え、合わせて成立後の新国家・新政府構想として<船中八策>を後藤に手渡し驚愕させる。

既に京都を去り、追いかけてきた後藤から土佐で大政奉還案を聞いた容堂は膝をたたき「よくぞ気付いた。」と驚喜した。いよいよ物語りも、佳境、終章を迎える。

【内容紹介】同盟した薩摩と長州は着々と討幕の態勢を整えてゆく。が、竜馬はこの薩長に土佐等を加えた軍事力を背景に、思い切った奇手を案出した。大政奉還―幕府のもつ政権をおだやかに朝廷に返させようというものである。これによって内乱を避け、外国に侵食する暇を与えず、京で一挙に新政府を樹立する―無血革命方式であった。
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