12月3日(木):
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琉球新報:代執行訴訟 翁長知事陳述書全文 2015年12月2日 19:01
陳述書(翁長雄志沖縄県知事)
1 知事に立候補した経緯と公約
2 沖縄について
(1)沖縄の歴史
(2)沖縄の将来像
3 米軍基地について
(1)基地の成り立ちと基地問題の原点
(2)普天間飛行場返還問題の原点
(3)「沖縄は基地で食べている」基地経済への誤解
(4)「沖縄は莫大(ばくだい)な予算をもらっている」沖縄振興予算への誤解
(5)基地問題に対する政府の対応
(6)県民世論
4 日米安全保障条約
5 前知事の突然の埋立承認
6 前知事の埋立承認に対する疑問-取消しの経緯
(1)仲井眞前知事の埋立承認についての疑問
(2)第三者委員会の設置と国との集中協議
(3)承認取消へ
(4)政府の対応
7 主張
(1)政府に対して
(2)国民、県民、世界の人々に対して
(3)アメリカに対して
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1 知事に立候補した経緯と公約
今年、日本は戦後70年の節目の年を迎えました。わが沖縄県も27年間の米軍統治時代を経て本土復帰を果たし、先人のたゆまぬ努力により、飛躍的な発展を遂げてまいりました。
しかしながら沖縄県には、県民自らが持ってきたわけでもない米軍基地を挟んで「経済か」、「平和か」と常に厳しい二者択一を迫られ、苦渋の選択を強いられてきた悲しい歴史があります。
保守の方々は「生活が大切だ。今は経済だ」と主張したのに対し、革新の方々は「命を金で売るのか、ウチナーンチュの誇りはどうするのか」と批判し、県民同士がいがみあっていたのです。政治家の一家に生まれ育った私は、小さい頃からそのような状況を肌で感じており、将来は県民の心をひとつにして、この沖縄の政治状況というものを打破できないだろうかと考えるようになりました。ですから私の持論は、沖縄では保守が革新の敵ではなく、革新が保守の敵でもない。敵は別のところにいるのではないかということです。
平成24年、日米両政府から、普天間基地へのオスプレイ配備が発表されました。配備を強行しようとする政府に対し、平成25年1月、オスプレイの配備撤回と普天間飛行場の閉鎖・撤去、県内移設断念を求め、県内41市町村長と市町村議会議長、県民大会実行委員会代表者が上京し、政府に建白書を突きつけました。政治的な主義・主張の違いを乗り越え、オール沖縄で行った東京行動のような取組み、活動こそが、今、強く求められていると思っております。
建白書を携えた東京行動から私が県知事へ立候補するまでの約2年の間に、普天間基地の県外移設を訴えて当選した県選出の与党国会議員が中央からの圧力により次々に翻意し、辺野古移設容認に転じました。さらに平成25年の年末には、安倍総理大臣との会談後、仲井眞知事が辺野古埋立申請を承認するに至るなど、県内移設に反対する足並みは大きく乱れました。しかしながら世論調査の結果を見ますと、普天間飛行場の辺野古移設に対する県民の反対意見は、約8割と大変高い水準にあり、オール沖縄という機運、勢いは衰えるどころか、さらに高まっていました。
これは、県民が沖縄の自己決定権や歴史を踏まえながら、県民のあるべき姿に少しずつ気づいてきたということだと思います。
そのような中、海底ボーリング調査など移設作業を強行する政府の手法は、これまで安倍総理大臣や菅官房長官が繰り返し述べてきた「誠心誠意、県民の理解を得る」、「沖縄の負担軽減」といった言葉が、空虚なものであることを自ら証明したようなものでした。
日本の安全保障は日本全体で負担すべきであり、これ以上の押し付けは沖縄にとって既に限界であることを政府に強く認識してもらいたいと考えています。
私たちは、今一度心を一つにして、「オール沖縄」あるいは「イデオロギーよりはアイデンティティー」で結集して頑張っていかなければならない。
沖縄が重大な岐路に立つ今、私の力が必要という声があるならば、その声に応えていくことこそ政治家の集大成であるとの結論を出し、那覇市長から沖縄県知事に立候補したものであります。
沖縄県知事選挙にあたり、公約について以下を基本的な認識として訴えました。
○建白書で大同団結し、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める。そして、あらゆる手法を駆使して、辺野古に新基地はつくらせない
○日本の安全保障は日本国民全体で考えるべきものである
○米軍基地は、今や沖縄経済発展の最大の阻害要因である。基地建設とリンクしたかのような経済振興策は、将来に大きな禍根を残す
○沖縄21世紀ビジョンの平和で自然豊かな美ら島などの真の理念を実行する
○アジアのダイナミズムに乗って動き出した沖縄の経済をさらに発展させる
○大いなる可能性を秘めた沖縄の「ソフトパワー」こそ、成長のエンジンである
○新しい沖縄を拓き、沖縄らしい優しい社会を構築する
○平和的な自治体外交で、アジアや世界の人々との交流を深める
2 沖縄について
(1)沖縄の歴史
沖縄には約500年に及ぶ琉球王国の時代がありました。その歴史の中で、万国津梁の精神、つまり、アジアの架け橋に、あるいは日本と中国、それから東南アジアの貿易の中心になるのだという精神をもって、何百年もやってまいりました。
ベトナムの博物館には600年前に琉球人が訪れた記録が展示されていました。中国の福州市には、異国の地で亡くなった琉球の人々を埋葬している琉球人墓があり、今も地域の方が管理しております。また、琉球館という宿も残っております。それから、北京では国子監といいまして、中国の科挙の制度を乗り切ってきた最優秀な人材が集まるところに琉球学館というのがあり、そこで琉球のエリートがオブザーバーで勉強させてもらっておりました。このような形で、琉球王朝はアジアと交流を深めてまいりました。沖縄名産の泡盛は、タイのお米を使ってできています。タイとの間にも何百年にわたる交易と交流があるわけです。
そういった中で1800年代、アメリカ合衆国のペリー提督が初めて日本の浦賀に来港したのが1853年です。実は、ペリー提督はその前後、5回沖縄に立ち寄り、85日間にわたり滞在しております。1854年には独立国として琉球とアメリカ合衆国との間で琉米修好条約を結んでおります。このほか、オランダとフランスとの間でも条約を結んでおります。
琉球はその25年後の1879年、日本国に併合されました。私たちはそのことを琉球処分と呼んでおります。併合後、沖縄の人々は沖縄の言葉であるウチナーグチの使用を禁止されました。日本語をしっかり使える一人前の日本人になりなさいということで、沖縄の人たちは皇民化教育もしっかり受けて、日本国に尽くしてまいりました。その先に待ち受けていたのが70年前の沖縄戦でした。「鉄の暴風」とも呼ばれる凄惨(せいさん)な地上戦が行われ、10万を超える沖縄県民を含め、20万を超える方々の命が失われるとともに、貴重な文化遺産等も破壊され、沖縄は焦土と化しました。
このように沖縄は戦前、戦中と日本国にある意味で尽くしてまいりました。その結果どうなったか。サンフランシスコ講和条約で日本が独立するのと引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に一方的に差し出され、約27年にわたる苦難の道を歩まされることになったわけであります。
その間、沖縄県民は日本国憲法の適用もなく、また、日本国民でもアメリカ国民でもありませんでした。インドネシア沖で沖縄の漁船が拿捕(だほ)されたときには沖縄・琉球を表す三角の旗を掲げたのですが、その旗は何の役にも立ちませんでした。
また当時は治外法権のような状況であり、犯罪を犯した米兵がそのまま帰国するというようなことも起こっていました。日本では当たり前の人権や自治権を獲得するため、当時の人々は、米軍との間で自治権獲得闘争と呼ばれる血を流すような努力をしてきたのです。
ベトナム戦争のときには、沖縄から毎日B52が爆撃のために飛び立ちました。その間、日本は自分の力で日本の平和を維持したかのごとく、高度経済成長を謳歌(おうか)していたのです。
(2)沖縄の将来像
私の知事としての県政運営方針は「沖縄21世紀ビジョン基本計画」を着実に1つ1つ進めていくことが基本となると思っております。
この計画の特徴は、「強くしなやかな自立型経済の構築」と「沖縄らしい優しい社会の構築」を施策展開の基本として明示するとともに、基地問題の解決にも力を入れているところです。
「強くしなやかな自立型経済の構築」を実現していく上で大きな力となるのが、うやふぁーふじ(先祖)から受け継いできた、沖縄の自然、歴史、伝統、文化、あるいは万国津梁の精神といった、いわゆるソフトパワーの活用です。アジアのダイナミズムというのは、今やヨーロッパ、アメリカをしのぐ勢いであり、既に沖縄はそのうねりに巻き込まれつつあります。かつて沖縄はまさしく日本の辺境、アジアの外れという場所でしたが、今はアジアの中心、そして日本国とアジアを結ぶ大変重要な役割を果たすようなところにきています。
沖縄には、チャンプルー文化、いちゃりばちょーでー(一度出逢ったら皆兄弟)として知られる文化や生き方があります。これは小さな沖縄が周辺の国々に翻弄(ほんろう)されながらも一生懸命生き抜き、積み重ねてきた歴史から来るものであり、誇るべきものであります。
自立型経済の構築に向けて、今一番勢いがあるのが、観光リゾート産業です。昨年、過去最高の観光入域客数を記録しましたが、外国人観光客、特に、中国や韓国、台湾を始めとするアジア各国からの観光客の大幅な増加が大きく貢献しています。外国人観光客の伸びは、今年に入っても衰えることなく、100万人を超えています。
また、航空・物流企業の努力により、アジアを結ぶ国際物流拠点としての地位もみえてきました。また、海底ケーブルをつなぎながら日本と台北、あるいはシンガポールそれからまた沖縄につなげるといったように、情報通信産業の拠点になる要素が出てまいりました。
日本の排他的経済水域の面積は世界第6位ですが、東西約1000km、南北約400kmの中に、有人島40を含め160の島々が広がる沖縄県は、大いにそれに貢献しています。また、伊平屋島沖に熱水鉱床が発見されるなど、海底資源という意味でも沖縄は大きな可能性をもっており、そういったことに私たちはもっと目を向け、アジアと日本の架け橋としてどのような役割を果たしていくか考え、実行していく中で、沖縄のあるべき将来像というものが作れるのではないかと思っております。
「沖縄らしい優しい社会の構築」につきましては、41市町村で、協働のまちづくり、人と人が支え合って助け合っていく仕組みづくりに取り組んでいます。私が那覇市長のとき、那覇市でも協働のまちづくりに取り組みました。ボランティア、NPO、あるいは民生委員・児童委員、自治会や企業の皆さんの中には、地域のため、他人のために頑張っている人がたくさんおられます。500名を超える方々を協働大使に委嘱するとともに、活動拠点の一つとして、前の銘苅庁舎内に「協働プラザ」を設置しました。他の市町村も、那覇市に負けないくらい素晴らしいまちづくりに取り組んでいます。こういったものが、県民同士が支え合って助け合って生きていく沖縄らしい優しい社会の構築、沖縄全体の発展につながるものだと思っております。
基地問題の解決を図ることは、県政の最重要課題です。基地の整理縮小を図ることは当然ですが、将来的には、平和の緩衝地帯として沖縄があってもらいたいと思っています。日本の防衛のためといって基地をたくさん置くのではなく、平和の緩衝地帯としての役割をこれから沖縄が果たしていき、アジアと日本の架け橋になることを夢見ながら今、私は県政に取り組んでいます。
3 米軍基地について
(1)基地の成り立ちと基地問題の原点
沖縄の米軍基地は、戦中・戦後に、住民が収容所に入れられているときに米軍が強制接収を行い形成されました。強制的に有無を言わさず奪われたのです。そして、新しい基地が必要になると、住民を「銃剣とブルドーザー」で追い出し、家も壊して造っていったのです。沖縄は今日まで自ら進んで基地のための土地を提供したことは一度もありません。
まず、基地問題の原点として思い浮かぶのが1956年のプライス勧告です。プライスという下院議員を議長とする調査団がアメリカから来まして、銃剣とブルドーザーで接収された沖縄県民の土地について、実質的な強制買い上げをすることを勧告したのです。当時沖縄県は大変貧しかったので、喉から手が出るほどお金が欲しかったと思います。それにもかかわらず、県民は心を1つにしてそれをはねのけました。そして当時の政治家も、保守革新みんな1つになって自分たちの故郷の土地は売らないとして、勧告を撤回させたわけです。今よりも政治・経済情勢が厳しい中で、あのようなことが起きたということが、沖縄の基地問題を考える上での原点です。私たちの先輩方は、基地はこれ以上造らせないという、沖縄県の自己決定権といいますか、主張をできるような素地を作られたわけであります。
また、サンフランシスコ講和条約発効当時は、本土と沖縄の米軍基地の割合は、おおむね9対1であり、本土の方が圧倒的に多かったのです。ところが、本土で米軍基地への反対運動が激しくなると、米軍を沖縄に移し、基地をどんどん強化していったのです。日本国憲法の適用もなく、基本的人権も十分に保障されなかった沖縄の人々には、そのような横暴ともいえる手段に対抗するすべはありませんでした。その結果、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設を集中させるという、理不尽きわまりない状況を生んだのです。
(2)普天間飛行場返還問題の原点
政府は、普天間飛行場返還の原点を、平成8年に行われた橋本・モンデール会談に求め、沖縄県が県内移設を受け入れた原点を、平成11年に当時の県知事と名護市長が受け入れたことに求めています。
しかしながら、普天間基地の原点は戦後、住民が収容所に入れられているときに米軍に強制接収をされたことにあります。
政府は、県民が土地を一方的に奪われ、大変な苦痛を背負わされ続けてきた事実を黙殺し、普天間基地の老朽化と危険性を声高に主張し、沖縄県民に新たな基地負担を強いようとしているのです。私は日本の安全保障や日米同盟、そして日米安保体制を考えたときに、「辺野古が唯一の解決策である」と、同じ台詞を繰り返すだけの政府の対応を見ていると、日本の国の政治の堕落ではないかと思わずにはいられません。
また、政府は過去に沖縄県が辺野古を受け入れた点を強調していますが、そこには、政府にとって不都合な真実を隠蔽(いんぺい)し、世論を意のままに操ろうとする、傲慢(ごうまん)で悪意すら感じる姿勢が明確に現れています。
平成11年、当時の稲嶺知事は、辺野古を候補地とするにあたり、軍民共用空港とすること、15年の使用期限を設けることを前提条件としていました。つまり、15年後には、北部地域に民間専用空港が誕生することを譲れない条件として、県内移設を容認するという、苦渋の決断を行ったのです。さらに、当時の岸本市長は、知事の条件に加え、基地使用協定の締結が出来なければ、受入れを撤回するという、厳しい姿勢で臨んでいました。
沖縄側の覚悟を重く見た当時の政府は、その条件を盛り込んだ閣議決定を行いました。ところが、その閣議決定は、沖縄側と十分な協議がなされないまま、平成18年に一方的に廃止されたのです。
当時の知事、名護市長が受入れに際し提示した条件が廃止された以上、受入れが白紙撤回されることは、小学生でも理解できる話です。
私は、政府が有利に物事を運ぶため、平然と不都合な真実を覆い隠して恥じることのない姿勢を見るにつけ、日本国の将来に暗澹(あんたん)たるものを感じずにはいられません。
(3)「沖縄は基地で食べている」 基地経済への誤解
よく、「沖縄は基地で食べているのではないか」とおっしゃる方がいます。その背後には、「だから少しぐらい我慢しろ」という考えが潜んでいます。
しかしながら、経済の面で言いますと、米軍基地の存在は、今や沖縄経済発展の最大の阻害要因になっています。米軍基地関連収入は、復帰前には、県民総所得の30%を超えていた時期もありましたが、復帰直後には15・5%まで落ちており、最近では約5%です。駐留軍用地の返還前後の経済状況を比較しますと、那覇新都心地区、小禄金城地区、北谷町の桑江・北前地区では、返還前、軍用地の地代収入等の直接経済効果が、合計で89億円でありましたが、返還後の経済効果は2459億円で、約28倍となっております。また雇用については、返還前の軍雇用者数327人に対し、返還後の雇用者数は2万3564人で、約72倍となっております。税収は7億9千万円から298億円と約35倍に増えました。基地関連収入は、沖縄からするともう問題ではありません。経済の面から見たら、むしろ邪魔なのです。実に迷惑な話になってきているのです。
日本の安全保障という観点から一定程度我慢し協力しているのであって、基地が私たちを助けてきた、沖縄は基地経済で成り立っている、というような話は、今や過去のものとなり、完全な誤解であることを皆さんに知っていただきたいと思います。基地返還跡地には、多くの企業、店舗が立地し、世界中から問い合わせが来ています。
仲井眞前知事のときに、普天間飛行場等の返還予定駐留軍用地が返されたときの経済効果を試算しました。現在の基地関連収入が501億円あります。返還後の経済効果を試算したところ、8900億円との結果が出ました。約18倍です。普天間飛行場やキャンプキンザーが返されたら、民間の施設がここに立ち上がって、ホテルなどいろいろなものが出来上がって、沖縄経済がますます伸びていくのです。基地があるから邪魔しているのです。ですから、基地で沖縄が食っているというのは、もう40年、30年前の話であって、今や基地は沖縄経済発展の最大の阻害要因だということをしっかりとご理解いただきたいと思います。
(4)「沖縄は莫大な予算をもらっている」 沖縄振興予算への誤解
沖縄は他県に比べて莫大な予算を政府からもらっている、だから基地は我慢しろという話もよく言われます。年末にマスコミ報道で沖縄の振興予算3千億円とか言われるため、多くの国民は47都道府県が一様に国から予算をもらったところに沖縄だけ3千億円上乗せをしてもらっていると勘違いをしてしまっているのです。
都道府県や市町村が補助事業などを国に要求する場合、沖縄以外では、自治体が各省庁ごとに予算要求を行い、また、与党国会議員等を通して、所要額の確保に尽力するというのが、通常の流れです。しかし、復帰までの27年間、沖縄県は各省庁との予算折衝を行えず、国庫補助事業を確保するための経験は一切ありませんでした。一方で沖縄の道路や港湾などのインフラは大きく立ち後れ、児童・福祉政策なども日本とは大きく異なるものであり、迅速な対応が要求されていました。
復帰に際して、これらの課題を解決するために、沖縄開発庁が創設され、その後内閣府に引き継がれ、県や市町村と各省庁の間に立って予算の調整、確保に当たるという、沖縄振興予算の一括計上方式が導入されました。また、脆弱(ぜいじゃく)な財政基盤を補うため、高率補助制度も導入され、沖縄振興に大きな成果を上げつつ、現在に至っています。
しかしながら沖縄県が受け取っている国庫補助金等の配分額は、全国に比べ突出しているわけではありません。
例えば、県民一人あたりの額で見ますと、地方交付税や国庫支出金等を合わせた額は全国6位で、地方交付税だけでみると17位です。沖縄は内閣府が各省庁の予算を一括して計上するのに対し、他の都道府県では、省庁ごとの計上となるため、比較することが難しいのです。ですから「沖縄は3千億円も余分にもらっておきながら」というのは完全な誤りです。
一方で、次のような事実についても、知っておいていただきたいと思います。沖縄が米軍施政権下にあった27年間、そして復帰後も、全国では、国鉄により津々浦々まで鉄道網の整備が行われました。沖縄県には、国鉄の恩恵は一切ありませんでしたが、旧国鉄の債務は沖縄県民も負担しているのです。また、全ての自治体で標準的な行政サービスを保障するため、地方交付税という全国的な財政調整機能があります。沖縄には復帰まで一切交付されませんでした。
(5)基地問題に対する政府の対応
平成27年4月に安倍総理大臣と会談した際に総理大臣が私におっしゃったのが、「普天間の代替施設を辺野古に造るけれども、その代わり嘉手納以南は着々と返す。またオスプレイも沖縄に配備しているけれども、何機かは本土のほうで訓練をしているので、基地負担軽減を着々とやっている。だから理解をしていただけませんか」という話でした。それに対して私は総理大臣にこう申し上げました。「総理、普天間が辺野古に移って、そして嘉手納以南が返された場合に、いったい全体沖縄の基地はどれだけ減るのかご存じでしょうか」と。これは以前、当時の小野寺防衛大臣と私が話をして確認したのですが、普天間が辺野古に移って、嘉手納以南のキャンプキンザーや、那覇軍港、キャンプ瑞慶覧とかが返されてどれだけ減るかというと、今の米軍専用施設の73・8%から73・1%、0・7%しか減らない。では、0・7%しか減らないのはなぜかというと、普天間の辺野古移設を含め、その大部分が県内移設だからです。
次に総理大臣がおっしゃるようにそれぞれ年限をかけて、例えば那覇軍港なら2028年、それからキャンプキンザーなら2025年に返すと言っています。それを見ると日本国民は、「おお、やるじゃないか。しっかりと着々と進んでいるんだな」と思うでしょう。しかし、その年限の後には、全て「またはその後」と書いてあります。「2028年、またはその後」と書いてあるのです。沖縄はこういったことに70年間付き合わされてきましたので、いつ返還されるか分からないような内容だということがこれでよく分かります。ですから、私は、総理大臣に「沖縄の基地返還が着々と進んでいるようには見えませんよ」と申し上げました。
それから、オスプレイもほぼ同じような話になります。オスプレイも本土の方で分散して訓練をしていますが、実はオスプレイが2012年に配備される半年ぐらい前から沖縄に配備されるのではないかという話がありました。当時の森本防衛大臣などにも沖縄に配備されるのかと聞きに行きましたが、「一切そういうことは分かりません」と言っておられました。
その森本さん自身が学者時代の2010年に出された本に「2012年までに最初の航空機が沖縄に展開される可能性がある」と書いておられます。防衛省が分からないと言っているものを、一学者が書いていてそのとおりになっているのです。私はその意味からすると、日本の防衛大臣というのは、防衛省というのはよほど能力がないか、若しくは県民や国民を欺いているかどちらかにしかならないと思います。森本さんの本には「もともと辺野古基地はオスプレイを置くために設計をしている。オスプレイが100機程度収容できる面積が必要」ということが書いてあります。そうすると今24機来ました。何機か本土に行っています。しかし、辺野古新基地が建設されると全て沖縄に戻ってくるということです。それが予測されるだけに、私は総理大臣にこのような経緯で、政府が今、沖縄の基地負担軽減に努めているとおっしゃっていることはちょっと信用できませんということを申し上げました。
また、13年前、当時のラムズフェルド国防長官が普天間基地を視察されました。そして基地を見て「これは駄目だ、世界一危険だから早く移転をしなさい」ということをおっしゃったことが報じられました。そして今、菅官房長官なども再三再四、世界一危険とも言われる普天間飛行場は辺野古に移すと言っておられます。私が日本政府に確認したいのは、ならば辺野古新基地が造れない場合に、本当に普天間は固定化するのですかということです。アメリカ政府、日本政府の主要の人間がこれだけ危険だと言っている普天間基地を、辺野古新基地ができない場合に固定化できるのですかということをお聞きしているわけです。私のこの問いに対し、安倍総理大臣からは返事がありませんでした。
2プラス2共同発表には、世界一危険だと指摘されている普天間飛行場の5年以内運用停止が明示されていません。普天間飛行場の5年以内の運用停止について、前知事は県民に対して「一国の総理大臣および官房長官を含め、しっかりと取り組むと言っている。それが最高の担保である」と説明しています。5年以内運用停止は前知事が辺野古新基地に係る公有水面埋立承認に至った大きな柱であります。しかし、米国側からは日米首脳会談でも、この件に言及することはありませんでした。5年以内運用停止は埋立承認を得るための話のごちそう、「話クワッチー」、空手形だったのではないかと私は危惧しております。
今日まで、基地問題がさまざまな壁にぶつかる時に、時の政府は、基地問題の解決あるいは負担軽減策等々、大変いい話をして、その壁を乗り越えたら知らんふりをするということを繰り返してきました。その結果、多くの県民は今ではそのからくりを理解しています。これが70年間の沖縄の基地問題の実態なのです。
(6)県民世論
普天間飛行場の返還を20年間できなかったということについて、政府に反省がないと思います。なぜ20年間、返還を実現できなかったのですかということに政府は答えておられない。ですから、平成25年、前知事が辺野古新基地に係る公有水面埋立承認をしたことばかり強調されているわけです。
平成26年、沖縄県は選挙に始まり、選挙に終わった年でした。まず、1月に行われた名護市長選では、辺野古移設反対の候補が再選を果たしました。
11月に行われた知事選挙では、現職知事を相手に、私が圧倒的な得票で当選を果たしました。そして12月、全国的には自由民主党が290議席という形で圧倒的に勝利した総選挙では、沖縄の4つの小選挙区全てで自由民主党候補が敗れました。
このような圧倒的な民意が示された中で、地元の理解を得ることなく日米安保体制・日米同盟をこれから安定的に維持できるのか。私が当選した時点で政府側から色々な意見交換や話し合いがあってもよかったのかなという思いがありますが、政府は必ず辺野古新基地を造るというスタンスであり、実現しませんでした。
それから菅官房長官は、沖縄県民の民意について、いろいろな意見があるでしょうと発言されています。昨年の名護市長選挙、特に県知事選挙、衆議院選挙、争点はただ1つでした。前知事が埋立承認をしたことに対する審判を問うたのです。私と前知事の政策面での違いは埋立承認以外に大きなものはありません。ですからあの埋立承認の審判が今度の選挙の大きな争点であり、その意味で10万票の差で私が当選したことは、沖縄県民の辺野古新基地建設反対という明確な意思が示されたものであります。
4 日米安全保障条約
私は、自由民主党の県連幹事長をしておりましたので、日米同盟、日米安保を十分理解しておりますが、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設を押し付け続けるのは、いくらなんでもひどいのではないですかということを申し上げているわけです。
しかし、政府は、どこそこから攻められてきたらどうするのだ、沖縄に海兵隊がいなければとても日本は持たないのではないかという発想で日米安保を考えています。
世の中はソビエトが崩壊しました。中国も、昔のような中国ではありません。米国と中国がどういう形で米中関係を築いていくか等、こういったことを考えると、70年代のまま全く同じように在沖米軍基地があるべきなのか考える必要があります。30年前、私は自由社会を守るべきだと体を張って頑張りましたが、ソビエトが崩壊し中国の形が変わった今でも、政府からは今度は中東問題のために沖縄が大切、シーレーンのためにも沖縄が大切と、どのように環境が変わっても沖縄には基地を置かなければいけないという説明が繰り返されております。
沖縄一県に日本の防衛のほとんど全てを押し込めていれば、いざ、有事の際には、沖縄が再び戦場になることは明らかです。
私は自国民の自由、平等、人権、民主主義を守れない国が、どうして世界の国々にその価値観を共有することができるのか疑問に思っています。
同時に、日米安保体制、日米同盟はもっと品格のある、誇りの持てるものでなければアジアのリーダーとして、世界のリーダーとしてこの価値観を共有することができないのではないかと思っております。
私はこれまでに橋本総理大臣、小渕総理大臣、そしてその時の野中官房長官、梶山官房長官等々、色々と話をする機会がありました。野中先生なども国の安全保障体制の考え方に違いがありませんが、当時、県会議員の1、2期の私に、土下座せんばかりに「頼む。勘弁してくれ。許してくれ」とお話をされるような部分が、どの先生にもありました。後藤田正晴先生も私が那覇市長になった15年程前にお会いしたら「俺は沖縄に行かないんだ」とおっしゃいました。私は沖縄が何か先生に失礼なことをしたのかなと思ったのですが、その後の話に胸が熱くなりました。「かわいそうでな。県民の目を直視できないんだよ、俺は」とおっしゃったのです。こういう方々がたくさんおられました。
そういった中で、日本の安全保障あるいはアジアの安定、日米同盟の大切さ、あるいは中国が台頭してきている米中の関係等も全て踏まえながら、沖縄への思いを伝えながらの対話でありました。私も基本的には「こんなに基地を置いてもらっては困りますよ」と申し上げましたが、沖縄への深い思いを抱いていた当時の先生方とは、対話は成り立っていたのです。
しかしながら、この5、6年というのは全くそれが閉ざされてしまっています。沖縄の歩んできた苦難の歴史への反省や洞察が十分ないまま、沖縄が何か発言すると、政府と対立している、振興策はあれだけもらっていて何を文句を言っているのだ、生意気だと非難されます。今のような状況を考えますと、戦後27年間、その間に日本の独立と引換えに沖縄が切り離され、米軍施政権下に置かれ続けた、あの時代は何だったのだろうと思います。
いつまでも昔の話をするなという方がいるかもしれません。しかし、本当の対話を可能にするには、こういう昔の出来事の話からしなければならないのです。仮に海兵隊が全ていなくなれば、あるいは少しは残ったとしても、私は「過去は過去」という話になり得ると思います。しかし、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設を置いたまま、これから10年も20年、あるいは30年もとなると、やはり日米安保、日米同盟というのは砂上の楼閣に乗っているような、そういう危ういものになるのではないかと思っています。
今後よく読んで勉強させていただきます。
琉球新報:代執行訴訟 翁長知事陳述書全文 2015年12月2日 19:01
陳述書(翁長雄志沖縄県知事)
1 知事に立候補した経緯と公約
2 沖縄について
(1)沖縄の歴史
(2)沖縄の将来像
3 米軍基地について
(1)基地の成り立ちと基地問題の原点
(2)普天間飛行場返還問題の原点
(3)「沖縄は基地で食べている」基地経済への誤解
(4)「沖縄は莫大(ばくだい)な予算をもらっている」沖縄振興予算への誤解
(5)基地問題に対する政府の対応
(6)県民世論
4 日米安全保障条約
5 前知事の突然の埋立承認
6 前知事の埋立承認に対する疑問-取消しの経緯
(1)仲井眞前知事の埋立承認についての疑問
(2)第三者委員会の設置と国との集中協議
(3)承認取消へ
(4)政府の対応
7 主張
(1)政府に対して
(2)国民、県民、世界の人々に対して
(3)アメリカに対して
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1 知事に立候補した経緯と公約
今年、日本は戦後70年の節目の年を迎えました。わが沖縄県も27年間の米軍統治時代を経て本土復帰を果たし、先人のたゆまぬ努力により、飛躍的な発展を遂げてまいりました。
しかしながら沖縄県には、県民自らが持ってきたわけでもない米軍基地を挟んで「経済か」、「平和か」と常に厳しい二者択一を迫られ、苦渋の選択を強いられてきた悲しい歴史があります。
保守の方々は「生活が大切だ。今は経済だ」と主張したのに対し、革新の方々は「命を金で売るのか、ウチナーンチュの誇りはどうするのか」と批判し、県民同士がいがみあっていたのです。政治家の一家に生まれ育った私は、小さい頃からそのような状況を肌で感じており、将来は県民の心をひとつにして、この沖縄の政治状況というものを打破できないだろうかと考えるようになりました。ですから私の持論は、沖縄では保守が革新の敵ではなく、革新が保守の敵でもない。敵は別のところにいるのではないかということです。
平成24年、日米両政府から、普天間基地へのオスプレイ配備が発表されました。配備を強行しようとする政府に対し、平成25年1月、オスプレイの配備撤回と普天間飛行場の閉鎖・撤去、県内移設断念を求め、県内41市町村長と市町村議会議長、県民大会実行委員会代表者が上京し、政府に建白書を突きつけました。政治的な主義・主張の違いを乗り越え、オール沖縄で行った東京行動のような取組み、活動こそが、今、強く求められていると思っております。
建白書を携えた東京行動から私が県知事へ立候補するまでの約2年の間に、普天間基地の県外移設を訴えて当選した県選出の与党国会議員が中央からの圧力により次々に翻意し、辺野古移設容認に転じました。さらに平成25年の年末には、安倍総理大臣との会談後、仲井眞知事が辺野古埋立申請を承認するに至るなど、県内移設に反対する足並みは大きく乱れました。しかしながら世論調査の結果を見ますと、普天間飛行場の辺野古移設に対する県民の反対意見は、約8割と大変高い水準にあり、オール沖縄という機運、勢いは衰えるどころか、さらに高まっていました。
これは、県民が沖縄の自己決定権や歴史を踏まえながら、県民のあるべき姿に少しずつ気づいてきたということだと思います。
そのような中、海底ボーリング調査など移設作業を強行する政府の手法は、これまで安倍総理大臣や菅官房長官が繰り返し述べてきた「誠心誠意、県民の理解を得る」、「沖縄の負担軽減」といった言葉が、空虚なものであることを自ら証明したようなものでした。
日本の安全保障は日本全体で負担すべきであり、これ以上の押し付けは沖縄にとって既に限界であることを政府に強く認識してもらいたいと考えています。
私たちは、今一度心を一つにして、「オール沖縄」あるいは「イデオロギーよりはアイデンティティー」で結集して頑張っていかなければならない。
沖縄が重大な岐路に立つ今、私の力が必要という声があるならば、その声に応えていくことこそ政治家の集大成であるとの結論を出し、那覇市長から沖縄県知事に立候補したものであります。
沖縄県知事選挙にあたり、公約について以下を基本的な認識として訴えました。
○建白書で大同団結し、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める。そして、あらゆる手法を駆使して、辺野古に新基地はつくらせない
○日本の安全保障は日本国民全体で考えるべきものである
○米軍基地は、今や沖縄経済発展の最大の阻害要因である。基地建設とリンクしたかのような経済振興策は、将来に大きな禍根を残す
○沖縄21世紀ビジョンの平和で自然豊かな美ら島などの真の理念を実行する
○アジアのダイナミズムに乗って動き出した沖縄の経済をさらに発展させる
○大いなる可能性を秘めた沖縄の「ソフトパワー」こそ、成長のエンジンである
○新しい沖縄を拓き、沖縄らしい優しい社会を構築する
○平和的な自治体外交で、アジアや世界の人々との交流を深める
2 沖縄について
(1)沖縄の歴史
沖縄には約500年に及ぶ琉球王国の時代がありました。その歴史の中で、万国津梁の精神、つまり、アジアの架け橋に、あるいは日本と中国、それから東南アジアの貿易の中心になるのだという精神をもって、何百年もやってまいりました。
ベトナムの博物館には600年前に琉球人が訪れた記録が展示されていました。中国の福州市には、異国の地で亡くなった琉球の人々を埋葬している琉球人墓があり、今も地域の方が管理しております。また、琉球館という宿も残っております。それから、北京では国子監といいまして、中国の科挙の制度を乗り切ってきた最優秀な人材が集まるところに琉球学館というのがあり、そこで琉球のエリートがオブザーバーで勉強させてもらっておりました。このような形で、琉球王朝はアジアと交流を深めてまいりました。沖縄名産の泡盛は、タイのお米を使ってできています。タイとの間にも何百年にわたる交易と交流があるわけです。
そういった中で1800年代、アメリカ合衆国のペリー提督が初めて日本の浦賀に来港したのが1853年です。実は、ペリー提督はその前後、5回沖縄に立ち寄り、85日間にわたり滞在しております。1854年には独立国として琉球とアメリカ合衆国との間で琉米修好条約を結んでおります。このほか、オランダとフランスとの間でも条約を結んでおります。
琉球はその25年後の1879年、日本国に併合されました。私たちはそのことを琉球処分と呼んでおります。併合後、沖縄の人々は沖縄の言葉であるウチナーグチの使用を禁止されました。日本語をしっかり使える一人前の日本人になりなさいということで、沖縄の人たちは皇民化教育もしっかり受けて、日本国に尽くしてまいりました。その先に待ち受けていたのが70年前の沖縄戦でした。「鉄の暴風」とも呼ばれる凄惨(せいさん)な地上戦が行われ、10万を超える沖縄県民を含め、20万を超える方々の命が失われるとともに、貴重な文化遺産等も破壊され、沖縄は焦土と化しました。
このように沖縄は戦前、戦中と日本国にある意味で尽くしてまいりました。その結果どうなったか。サンフランシスコ講和条約で日本が独立するのと引き換えに、沖縄は米軍の施政権下に一方的に差し出され、約27年にわたる苦難の道を歩まされることになったわけであります。
その間、沖縄県民は日本国憲法の適用もなく、また、日本国民でもアメリカ国民でもありませんでした。インドネシア沖で沖縄の漁船が拿捕(だほ)されたときには沖縄・琉球を表す三角の旗を掲げたのですが、その旗は何の役にも立ちませんでした。
また当時は治外法権のような状況であり、犯罪を犯した米兵がそのまま帰国するというようなことも起こっていました。日本では当たり前の人権や自治権を獲得するため、当時の人々は、米軍との間で自治権獲得闘争と呼ばれる血を流すような努力をしてきたのです。
ベトナム戦争のときには、沖縄から毎日B52が爆撃のために飛び立ちました。その間、日本は自分の力で日本の平和を維持したかのごとく、高度経済成長を謳歌(おうか)していたのです。
(2)沖縄の将来像
私の知事としての県政運営方針は「沖縄21世紀ビジョン基本計画」を着実に1つ1つ進めていくことが基本となると思っております。
この計画の特徴は、「強くしなやかな自立型経済の構築」と「沖縄らしい優しい社会の構築」を施策展開の基本として明示するとともに、基地問題の解決にも力を入れているところです。
「強くしなやかな自立型経済の構築」を実現していく上で大きな力となるのが、うやふぁーふじ(先祖)から受け継いできた、沖縄の自然、歴史、伝統、文化、あるいは万国津梁の精神といった、いわゆるソフトパワーの活用です。アジアのダイナミズムというのは、今やヨーロッパ、アメリカをしのぐ勢いであり、既に沖縄はそのうねりに巻き込まれつつあります。かつて沖縄はまさしく日本の辺境、アジアの外れという場所でしたが、今はアジアの中心、そして日本国とアジアを結ぶ大変重要な役割を果たすようなところにきています。
沖縄には、チャンプルー文化、いちゃりばちょーでー(一度出逢ったら皆兄弟)として知られる文化や生き方があります。これは小さな沖縄が周辺の国々に翻弄(ほんろう)されながらも一生懸命生き抜き、積み重ねてきた歴史から来るものであり、誇るべきものであります。
自立型経済の構築に向けて、今一番勢いがあるのが、観光リゾート産業です。昨年、過去最高の観光入域客数を記録しましたが、外国人観光客、特に、中国や韓国、台湾を始めとするアジア各国からの観光客の大幅な増加が大きく貢献しています。外国人観光客の伸びは、今年に入っても衰えることなく、100万人を超えています。
また、航空・物流企業の努力により、アジアを結ぶ国際物流拠点としての地位もみえてきました。また、海底ケーブルをつなぎながら日本と台北、あるいはシンガポールそれからまた沖縄につなげるといったように、情報通信産業の拠点になる要素が出てまいりました。
日本の排他的経済水域の面積は世界第6位ですが、東西約1000km、南北約400kmの中に、有人島40を含め160の島々が広がる沖縄県は、大いにそれに貢献しています。また、伊平屋島沖に熱水鉱床が発見されるなど、海底資源という意味でも沖縄は大きな可能性をもっており、そういったことに私たちはもっと目を向け、アジアと日本の架け橋としてどのような役割を果たしていくか考え、実行していく中で、沖縄のあるべき将来像というものが作れるのではないかと思っております。
「沖縄らしい優しい社会の構築」につきましては、41市町村で、協働のまちづくり、人と人が支え合って助け合っていく仕組みづくりに取り組んでいます。私が那覇市長のとき、那覇市でも協働のまちづくりに取り組みました。ボランティア、NPO、あるいは民生委員・児童委員、自治会や企業の皆さんの中には、地域のため、他人のために頑張っている人がたくさんおられます。500名を超える方々を協働大使に委嘱するとともに、活動拠点の一つとして、前の銘苅庁舎内に「協働プラザ」を設置しました。他の市町村も、那覇市に負けないくらい素晴らしいまちづくりに取り組んでいます。こういったものが、県民同士が支え合って助け合って生きていく沖縄らしい優しい社会の構築、沖縄全体の発展につながるものだと思っております。
基地問題の解決を図ることは、県政の最重要課題です。基地の整理縮小を図ることは当然ですが、将来的には、平和の緩衝地帯として沖縄があってもらいたいと思っています。日本の防衛のためといって基地をたくさん置くのではなく、平和の緩衝地帯としての役割をこれから沖縄が果たしていき、アジアと日本の架け橋になることを夢見ながら今、私は県政に取り組んでいます。
3 米軍基地について
(1)基地の成り立ちと基地問題の原点
沖縄の米軍基地は、戦中・戦後に、住民が収容所に入れられているときに米軍が強制接収を行い形成されました。強制的に有無を言わさず奪われたのです。そして、新しい基地が必要になると、住民を「銃剣とブルドーザー」で追い出し、家も壊して造っていったのです。沖縄は今日まで自ら進んで基地のための土地を提供したことは一度もありません。
まず、基地問題の原点として思い浮かぶのが1956年のプライス勧告です。プライスという下院議員を議長とする調査団がアメリカから来まして、銃剣とブルドーザーで接収された沖縄県民の土地について、実質的な強制買い上げをすることを勧告したのです。当時沖縄県は大変貧しかったので、喉から手が出るほどお金が欲しかったと思います。それにもかかわらず、県民は心を1つにしてそれをはねのけました。そして当時の政治家も、保守革新みんな1つになって自分たちの故郷の土地は売らないとして、勧告を撤回させたわけです。今よりも政治・経済情勢が厳しい中で、あのようなことが起きたということが、沖縄の基地問題を考える上での原点です。私たちの先輩方は、基地はこれ以上造らせないという、沖縄県の自己決定権といいますか、主張をできるような素地を作られたわけであります。
また、サンフランシスコ講和条約発効当時は、本土と沖縄の米軍基地の割合は、おおむね9対1であり、本土の方が圧倒的に多かったのです。ところが、本土で米軍基地への反対運動が激しくなると、米軍を沖縄に移し、基地をどんどん強化していったのです。日本国憲法の適用もなく、基本的人権も十分に保障されなかった沖縄の人々には、そのような横暴ともいえる手段に対抗するすべはありませんでした。その結果、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設を集中させるという、理不尽きわまりない状況を生んだのです。
(2)普天間飛行場返還問題の原点
政府は、普天間飛行場返還の原点を、平成8年に行われた橋本・モンデール会談に求め、沖縄県が県内移設を受け入れた原点を、平成11年に当時の県知事と名護市長が受け入れたことに求めています。
しかしながら、普天間基地の原点は戦後、住民が収容所に入れられているときに米軍に強制接収をされたことにあります。
政府は、県民が土地を一方的に奪われ、大変な苦痛を背負わされ続けてきた事実を黙殺し、普天間基地の老朽化と危険性を声高に主張し、沖縄県民に新たな基地負担を強いようとしているのです。私は日本の安全保障や日米同盟、そして日米安保体制を考えたときに、「辺野古が唯一の解決策である」と、同じ台詞を繰り返すだけの政府の対応を見ていると、日本の国の政治の堕落ではないかと思わずにはいられません。
また、政府は過去に沖縄県が辺野古を受け入れた点を強調していますが、そこには、政府にとって不都合な真実を隠蔽(いんぺい)し、世論を意のままに操ろうとする、傲慢(ごうまん)で悪意すら感じる姿勢が明確に現れています。
平成11年、当時の稲嶺知事は、辺野古を候補地とするにあたり、軍民共用空港とすること、15年の使用期限を設けることを前提条件としていました。つまり、15年後には、北部地域に民間専用空港が誕生することを譲れない条件として、県内移設を容認するという、苦渋の決断を行ったのです。さらに、当時の岸本市長は、知事の条件に加え、基地使用協定の締結が出来なければ、受入れを撤回するという、厳しい姿勢で臨んでいました。
沖縄側の覚悟を重く見た当時の政府は、その条件を盛り込んだ閣議決定を行いました。ところが、その閣議決定は、沖縄側と十分な協議がなされないまま、平成18年に一方的に廃止されたのです。
当時の知事、名護市長が受入れに際し提示した条件が廃止された以上、受入れが白紙撤回されることは、小学生でも理解できる話です。
私は、政府が有利に物事を運ぶため、平然と不都合な真実を覆い隠して恥じることのない姿勢を見るにつけ、日本国の将来に暗澹(あんたん)たるものを感じずにはいられません。
(3)「沖縄は基地で食べている」 基地経済への誤解
よく、「沖縄は基地で食べているのではないか」とおっしゃる方がいます。その背後には、「だから少しぐらい我慢しろ」という考えが潜んでいます。
しかしながら、経済の面で言いますと、米軍基地の存在は、今や沖縄経済発展の最大の阻害要因になっています。米軍基地関連収入は、復帰前には、県民総所得の30%を超えていた時期もありましたが、復帰直後には15・5%まで落ちており、最近では約5%です。駐留軍用地の返還前後の経済状況を比較しますと、那覇新都心地区、小禄金城地区、北谷町の桑江・北前地区では、返還前、軍用地の地代収入等の直接経済効果が、合計で89億円でありましたが、返還後の経済効果は2459億円で、約28倍となっております。また雇用については、返還前の軍雇用者数327人に対し、返還後の雇用者数は2万3564人で、約72倍となっております。税収は7億9千万円から298億円と約35倍に増えました。基地関連収入は、沖縄からするともう問題ではありません。経済の面から見たら、むしろ邪魔なのです。実に迷惑な話になってきているのです。
日本の安全保障という観点から一定程度我慢し協力しているのであって、基地が私たちを助けてきた、沖縄は基地経済で成り立っている、というような話は、今や過去のものとなり、完全な誤解であることを皆さんに知っていただきたいと思います。基地返還跡地には、多くの企業、店舗が立地し、世界中から問い合わせが来ています。
仲井眞前知事のときに、普天間飛行場等の返還予定駐留軍用地が返されたときの経済効果を試算しました。現在の基地関連収入が501億円あります。返還後の経済効果を試算したところ、8900億円との結果が出ました。約18倍です。普天間飛行場やキャンプキンザーが返されたら、民間の施設がここに立ち上がって、ホテルなどいろいろなものが出来上がって、沖縄経済がますます伸びていくのです。基地があるから邪魔しているのです。ですから、基地で沖縄が食っているというのは、もう40年、30年前の話であって、今や基地は沖縄経済発展の最大の阻害要因だということをしっかりとご理解いただきたいと思います。
(4)「沖縄は莫大な予算をもらっている」 沖縄振興予算への誤解
沖縄は他県に比べて莫大な予算を政府からもらっている、だから基地は我慢しろという話もよく言われます。年末にマスコミ報道で沖縄の振興予算3千億円とか言われるため、多くの国民は47都道府県が一様に国から予算をもらったところに沖縄だけ3千億円上乗せをしてもらっていると勘違いをしてしまっているのです。
都道府県や市町村が補助事業などを国に要求する場合、沖縄以外では、自治体が各省庁ごとに予算要求を行い、また、与党国会議員等を通して、所要額の確保に尽力するというのが、通常の流れです。しかし、復帰までの27年間、沖縄県は各省庁との予算折衝を行えず、国庫補助事業を確保するための経験は一切ありませんでした。一方で沖縄の道路や港湾などのインフラは大きく立ち後れ、児童・福祉政策なども日本とは大きく異なるものであり、迅速な対応が要求されていました。
復帰に際して、これらの課題を解決するために、沖縄開発庁が創設され、その後内閣府に引き継がれ、県や市町村と各省庁の間に立って予算の調整、確保に当たるという、沖縄振興予算の一括計上方式が導入されました。また、脆弱(ぜいじゃく)な財政基盤を補うため、高率補助制度も導入され、沖縄振興に大きな成果を上げつつ、現在に至っています。
しかしながら沖縄県が受け取っている国庫補助金等の配分額は、全国に比べ突出しているわけではありません。
例えば、県民一人あたりの額で見ますと、地方交付税や国庫支出金等を合わせた額は全国6位で、地方交付税だけでみると17位です。沖縄は内閣府が各省庁の予算を一括して計上するのに対し、他の都道府県では、省庁ごとの計上となるため、比較することが難しいのです。ですから「沖縄は3千億円も余分にもらっておきながら」というのは完全な誤りです。
一方で、次のような事実についても、知っておいていただきたいと思います。沖縄が米軍施政権下にあった27年間、そして復帰後も、全国では、国鉄により津々浦々まで鉄道網の整備が行われました。沖縄県には、国鉄の恩恵は一切ありませんでしたが、旧国鉄の債務は沖縄県民も負担しているのです。また、全ての自治体で標準的な行政サービスを保障するため、地方交付税という全国的な財政調整機能があります。沖縄には復帰まで一切交付されませんでした。
(5)基地問題に対する政府の対応
平成27年4月に安倍総理大臣と会談した際に総理大臣が私におっしゃったのが、「普天間の代替施設を辺野古に造るけれども、その代わり嘉手納以南は着々と返す。またオスプレイも沖縄に配備しているけれども、何機かは本土のほうで訓練をしているので、基地負担軽減を着々とやっている。だから理解をしていただけませんか」という話でした。それに対して私は総理大臣にこう申し上げました。「総理、普天間が辺野古に移って、そして嘉手納以南が返された場合に、いったい全体沖縄の基地はどれだけ減るのかご存じでしょうか」と。これは以前、当時の小野寺防衛大臣と私が話をして確認したのですが、普天間が辺野古に移って、嘉手納以南のキャンプキンザーや、那覇軍港、キャンプ瑞慶覧とかが返されてどれだけ減るかというと、今の米軍専用施設の73・8%から73・1%、0・7%しか減らない。では、0・7%しか減らないのはなぜかというと、普天間の辺野古移設を含め、その大部分が県内移設だからです。
次に総理大臣がおっしゃるようにそれぞれ年限をかけて、例えば那覇軍港なら2028年、それからキャンプキンザーなら2025年に返すと言っています。それを見ると日本国民は、「おお、やるじゃないか。しっかりと着々と進んでいるんだな」と思うでしょう。しかし、その年限の後には、全て「またはその後」と書いてあります。「2028年、またはその後」と書いてあるのです。沖縄はこういったことに70年間付き合わされてきましたので、いつ返還されるか分からないような内容だということがこれでよく分かります。ですから、私は、総理大臣に「沖縄の基地返還が着々と進んでいるようには見えませんよ」と申し上げました。
それから、オスプレイもほぼ同じような話になります。オスプレイも本土の方で分散して訓練をしていますが、実はオスプレイが2012年に配備される半年ぐらい前から沖縄に配備されるのではないかという話がありました。当時の森本防衛大臣などにも沖縄に配備されるのかと聞きに行きましたが、「一切そういうことは分かりません」と言っておられました。
その森本さん自身が学者時代の2010年に出された本に「2012年までに最初の航空機が沖縄に展開される可能性がある」と書いておられます。防衛省が分からないと言っているものを、一学者が書いていてそのとおりになっているのです。私はその意味からすると、日本の防衛大臣というのは、防衛省というのはよほど能力がないか、若しくは県民や国民を欺いているかどちらかにしかならないと思います。森本さんの本には「もともと辺野古基地はオスプレイを置くために設計をしている。オスプレイが100機程度収容できる面積が必要」ということが書いてあります。そうすると今24機来ました。何機か本土に行っています。しかし、辺野古新基地が建設されると全て沖縄に戻ってくるということです。それが予測されるだけに、私は総理大臣にこのような経緯で、政府が今、沖縄の基地負担軽減に努めているとおっしゃっていることはちょっと信用できませんということを申し上げました。
また、13年前、当時のラムズフェルド国防長官が普天間基地を視察されました。そして基地を見て「これは駄目だ、世界一危険だから早く移転をしなさい」ということをおっしゃったことが報じられました。そして今、菅官房長官なども再三再四、世界一危険とも言われる普天間飛行場は辺野古に移すと言っておられます。私が日本政府に確認したいのは、ならば辺野古新基地が造れない場合に、本当に普天間は固定化するのですかということです。アメリカ政府、日本政府の主要の人間がこれだけ危険だと言っている普天間基地を、辺野古新基地ができない場合に固定化できるのですかということをお聞きしているわけです。私のこの問いに対し、安倍総理大臣からは返事がありませんでした。
2プラス2共同発表には、世界一危険だと指摘されている普天間飛行場の5年以内運用停止が明示されていません。普天間飛行場の5年以内の運用停止について、前知事は県民に対して「一国の総理大臣および官房長官を含め、しっかりと取り組むと言っている。それが最高の担保である」と説明しています。5年以内運用停止は前知事が辺野古新基地に係る公有水面埋立承認に至った大きな柱であります。しかし、米国側からは日米首脳会談でも、この件に言及することはありませんでした。5年以内運用停止は埋立承認を得るための話のごちそう、「話クワッチー」、空手形だったのではないかと私は危惧しております。
今日まで、基地問題がさまざまな壁にぶつかる時に、時の政府は、基地問題の解決あるいは負担軽減策等々、大変いい話をして、その壁を乗り越えたら知らんふりをするということを繰り返してきました。その結果、多くの県民は今ではそのからくりを理解しています。これが70年間の沖縄の基地問題の実態なのです。
(6)県民世論
普天間飛行場の返還を20年間できなかったということについて、政府に反省がないと思います。なぜ20年間、返還を実現できなかったのですかということに政府は答えておられない。ですから、平成25年、前知事が辺野古新基地に係る公有水面埋立承認をしたことばかり強調されているわけです。
平成26年、沖縄県は選挙に始まり、選挙に終わった年でした。まず、1月に行われた名護市長選では、辺野古移設反対の候補が再選を果たしました。
11月に行われた知事選挙では、現職知事を相手に、私が圧倒的な得票で当選を果たしました。そして12月、全国的には自由民主党が290議席という形で圧倒的に勝利した総選挙では、沖縄の4つの小選挙区全てで自由民主党候補が敗れました。
このような圧倒的な民意が示された中で、地元の理解を得ることなく日米安保体制・日米同盟をこれから安定的に維持できるのか。私が当選した時点で政府側から色々な意見交換や話し合いがあってもよかったのかなという思いがありますが、政府は必ず辺野古新基地を造るというスタンスであり、実現しませんでした。
それから菅官房長官は、沖縄県民の民意について、いろいろな意見があるでしょうと発言されています。昨年の名護市長選挙、特に県知事選挙、衆議院選挙、争点はただ1つでした。前知事が埋立承認をしたことに対する審判を問うたのです。私と前知事の政策面での違いは埋立承認以外に大きなものはありません。ですからあの埋立承認の審判が今度の選挙の大きな争点であり、その意味で10万票の差で私が当選したことは、沖縄県民の辺野古新基地建設反対という明確な意思が示されたものであります。
4 日米安全保障条約
私は、自由民主党の県連幹事長をしておりましたので、日米同盟、日米安保を十分理解しておりますが、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設を押し付け続けるのは、いくらなんでもひどいのではないですかということを申し上げているわけです。
しかし、政府は、どこそこから攻められてきたらどうするのだ、沖縄に海兵隊がいなければとても日本は持たないのではないかという発想で日米安保を考えています。
世の中はソビエトが崩壊しました。中国も、昔のような中国ではありません。米国と中国がどういう形で米中関係を築いていくか等、こういったことを考えると、70年代のまま全く同じように在沖米軍基地があるべきなのか考える必要があります。30年前、私は自由社会を守るべきだと体を張って頑張りましたが、ソビエトが崩壊し中国の形が変わった今でも、政府からは今度は中東問題のために沖縄が大切、シーレーンのためにも沖縄が大切と、どのように環境が変わっても沖縄には基地を置かなければいけないという説明が繰り返されております。
沖縄一県に日本の防衛のほとんど全てを押し込めていれば、いざ、有事の際には、沖縄が再び戦場になることは明らかです。
私は自国民の自由、平等、人権、民主主義を守れない国が、どうして世界の国々にその価値観を共有することができるのか疑問に思っています。
同時に、日米安保体制、日米同盟はもっと品格のある、誇りの持てるものでなければアジアのリーダーとして、世界のリーダーとしてこの価値観を共有することができないのではないかと思っております。
私はこれまでに橋本総理大臣、小渕総理大臣、そしてその時の野中官房長官、梶山官房長官等々、色々と話をする機会がありました。野中先生なども国の安全保障体制の考え方に違いがありませんが、当時、県会議員の1、2期の私に、土下座せんばかりに「頼む。勘弁してくれ。許してくれ」とお話をされるような部分が、どの先生にもありました。後藤田正晴先生も私が那覇市長になった15年程前にお会いしたら「俺は沖縄に行かないんだ」とおっしゃいました。私は沖縄が何か先生に失礼なことをしたのかなと思ったのですが、その後の話に胸が熱くなりました。「かわいそうでな。県民の目を直視できないんだよ、俺は」とおっしゃったのです。こういう方々がたくさんおられました。
そういった中で、日本の安全保障あるいはアジアの安定、日米同盟の大切さ、あるいは中国が台頭してきている米中の関係等も全て踏まえながら、沖縄への思いを伝えながらの対話でありました。私も基本的には「こんなに基地を置いてもらっては困りますよ」と申し上げましたが、沖縄への深い思いを抱いていた当時の先生方とは、対話は成り立っていたのです。
しかしながら、この5、6年というのは全くそれが閉ざされてしまっています。沖縄の歩んできた苦難の歴史への反省や洞察が十分ないまま、沖縄が何か発言すると、政府と対立している、振興策はあれだけもらっていて何を文句を言っているのだ、生意気だと非難されます。今のような状況を考えますと、戦後27年間、その間に日本の独立と引換えに沖縄が切り離され、米軍施政権下に置かれ続けた、あの時代は何だったのだろうと思います。
いつまでも昔の話をするなという方がいるかもしれません。しかし、本当の対話を可能にするには、こういう昔の出来事の話からしなければならないのです。仮に海兵隊が全ていなくなれば、あるいは少しは残ったとしても、私は「過去は過去」という話になり得ると思います。しかし、国土面積のわずか0・6%しかない沖縄県に、73・8%もの米軍専用施設を置いたまま、これから10年も20年、あるいは30年もとなると、やはり日米安保、日米同盟というのは砂上の楼閣に乗っているような、そういう危ういものになるのではないかと思っています。