もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

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171109 痛快!むちゃくちゃ面白い!大好き❤:【異議あり】日本史を二分するのは「北条時代」だ 時代区分を見直す中世史家、保立道久さん

2017年11月09日 23時00分02秒 | 考える資料
11月9日(木):    
朝日デジタル【異議あり】日本史を二分するのは「北条時代」だ 時代区分を見直す中世史家、保立道久さん
                      2017年11月9日05時00分
  歴史には時代区分がある。だが、日本史で一般的に使われる「平安」も「鎌倉」も「室町」も問題だと指摘し、新たな区分を提案する歴史家が現れた。名付けを見直し、区切る事件を変える。歴史の大きな流れが理解しやすくなるというのだ。明治以前を「古墳→大和(やまと)→山城(やましろ)→北条→足利→織豊(しょくほう)→徳川」にすべきだ、というそのわけは。

 ■王権の拠点→武家の氏族名で、大きな流れ理解しやすく
  ――時代区分を変える必要などあるのでしょうか。
  「時代区分は、歴史を少しでも分かりやすくするための印です。学界も習慣的に使っていますが、社会への影響が大きく、もっと深く考えるべきだと思いました」
  「ヨーロッパや中国などの外国は、王朝交代で時代を区切ります。日本の天皇は『万世一系』ですから難しいのですが、前近代の政治の中心は王権です。王権の変化で区切るほかありません」
  ――では、最初の王権はいつできたのでしょうか。
  「3世紀初頭、邪馬台国の卑弥呼の時代と考えます。その頃、前方後円墳の原型といえる古墳が纒向(まきむく)(奈良県桜井市)に営まれ始めた。そこで従来3世紀末か4世紀初めとされる古墳時代の開始を、邪馬台国の成立時とします」
  「前方後円墳は、つぼを横倒しにして半分埋めた形なんです。後円部に埋葬された人の魂が、つぼのくびである前方部を抜けて天に飛翔(ひしょう)します。こういう神話を信じた人たちが邪馬台国をつくった。古墳時代は神話時代です。ただ、その神話は天皇家のものとは限りません」
  ――古墳時代の次は大和時代となっていますが、どこで区切るのでしょうか。
  「大王の血筋が確定して後の天皇家の世襲が始まり、大和(奈良県の旧称)に都が置かれるのが6世紀半ばの欽明大王の時期です。それ以後が大和時代です。古墳時代の大王の根拠地は、大和よりも近畿中枢の淀川水系や河内(大阪府東部)でした」
  「欽明の次の敏達で前方後円墳の造営も最後となり、神話時代が終わって文明化の時代になります。これを天皇家が推進したわけです。文明化はいわゆる奈良時代に始まったと考えがちですが、もっと前からだと思います」
     *
  ――名称に違和感があるのが山城時代です。京都府南部の旧称ではありますが、平安時代でいいのでは?
  「784年に平城京(奈良市など)から山背(やましろ)国長岡(京都府長岡京市など)へ遷都します。その10年後、すぐ北に再遷都して左京・右京をもつ平安京を作ろうとした。しかし、右京に住む王族・貴族は激しい政争で没落し、すぐに右京は荒れ果て、平安京というものはなくなったんですね。むしろ大津、宇治、大山崎などを結んだ『山城京』というべき都市を拠点にする王権でした。そこで大和時代を長岡京遷都で終わらせ、以後を山城時代とします」
  「大和・山城の二つの時代を学校で扱う時は、王家の文明化のエネルギーが大きかっただけに、内紛も激しかったことを教えるべきです。いわゆる平安時代って政治的には少しも平安じゃない。大地震が頻発したことも必ず伝えなければなりません」
  ――続く北条時代は鎌倉時代の言いかえですか。
  「始まりが違います。時代が決定的に変化するのは、武家の源頼朝が征夷大将軍になった1192年ではなく、1221年の承久の乱、後鳥羽上皇が起こしたクーデターです。ここで覇権を握ったのは武家の北条氏で、上皇は軍事権を失って隠岐に流されました。頼朝は平清盛とは異なる性格の武家で新しい世の中をつくったとされますが、2人とも京都出身で本質的な区別はできません」
  ――承久の乱の前に源氏は断絶していますが、2代将軍の頼家を殺したのは北条氏です。北条時代では正統性に欠けませんか。
  「当時もそう思われていたでしょう(笑)。だから北条泰時は武家の法典として御成敗式目を制定して、『徳政』を称しました。しかし実際には武力がすべて。北条政権は約110年続いた強力な全国軍事政権でした。貴族の経済的基盤だった荘園を握り、武家荘園制に変えた。北条氏は東国を拠点とした『武臣王』といえる存在です。鎌倉時代という呼称はこの事実を無視し、もっぱら頼朝のイメージで時代を考える結果をもたらします。これはまずい」
  「北条時代で日本史は二分されます。それ以前は西国中心の国家が文明を受け入れ、天皇家が名実ともに王でした。だから王権の拠点で大和、山城と時代を分けました。ところが源平合戦で東国国家が成立し、承久の乱をへて北条氏が全国を支配する。以後、天皇家は伝統的な王家として残りますが、武家の全国軍事支配ができています。武家国家の成立です。時代区分も武臣王の氏族名がよい。北条時代の次は足利時代。安土桃山時代ではなく、織田信長と豊臣秀吉から織豊時代。江戸時代は徳川時代です」
     *
  ――足利時代の前に南北朝時代はないのですか。
  「建武の新政の後醍醐天皇は、後鳥羽と同じように西軍を率いて足利氏と戦うのですが、敗北して天皇家は軍事権を完全に失います。勝利者の足利氏は、史料でも王と自称しています。なので南北朝も足利時代でいい。また、南朝と北朝の分裂は天皇家のお家の事情というところもあり、足利氏は常に南朝を敵視したわけではありません」
  ――室町時代ではいけないのですか。
 「室町は足利義満の室町御所から採ったのですが、幕府があった場所は室町だけではありません。昭和の初めまでは足利時代という用語が普通でした。皇国史観の中で足利氏が『逆賊』として嫌がられて室町時代の使用が増え、それが続いているだけです」
  ――戦国時代も足利時代ですか。
  「いわゆる戦国時代は足利時代末期の無王の時代です。15世紀に、享徳の乱といわれる関東の足利武王家(関東公方)の内戦と、西国の足利武王家の内戦である応仁の乱が起こりました。東西に内戦があり、実質的に王がいなくなっていました」
  ――徳川時代もあまり聞きません。
  「私も最近まで知らなかったのですが、関西の歴史家には江戸時代でなく徳川時代という人も多いです。徳川家康もやはり関ケ原の東西合戦に勝って全国を支配します」
  ――東西の内戦にこだわりすぎではありませんか。
  「明治以前は、東西合戦で国家と政治の構造が決まっていたのです。徳川時代も戊辰戦争の東西内戦で終わりました。徳川幕府は東から京都を押さえたのですが、西南雄藩が西から京都を押さえて天皇家を担ぎ、西が勝った。東西の合戦をみていくと、政治の構造の中に天皇の位置が浮かび上がってきます」
  ――提案は受け入れられるでしょうか。
  「現状では孤立した意見だろうと思います。学界の賛同を得るには、この時代区分で日本の通史を書いてみる必要があるでしょうね」
     ◇
 ほたてみちひさ 68歳 1948年生まれ。東京大学名誉教授(元史料編纂〈へんさん〉所長)。専攻は日本中世史。時代区分論は、主著の「中世の国土高権と天皇・武家」や、共著「歴史学が挑んだ課題」(歴史科学協議会編)に所収の論文「日本前近代の国家と天皇」に記した。

 ■取材を終えて
  日本史を二分し、天皇が支配した前半はその拠点から、武家が権力を握った後半はその氏族名から時代を名付ける、という提案は明快だ。そもそも学習指導要領には「古代」「中世」など大づかみな時代区分しか見当たらない。新しい時代区分を議論するのは自由だし、教育的な意義もあるだろう。ぜひこの時代区分で通史を書いてほしい。チャレンジする歴史家も本当に少なくなったのだから。 (編集委員・村山正司)
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