島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

番外 藤原宮子

2018-12-14 | 天皇陵巡り番外
    
 奈良市の北、すなわち平城京から少し北の丘陵地にも、古墳や陵がたくさん並んでいます。
東大寺の北西方向にある鴻ノ池運動公園の駐車場に車を停めて、元明・元正・聖武天皇陵と共に、藤原宮子(フジワラノミヤコ)の墓と言われる佐保山西陵(サホヤマノニシノミササギ)の七ツ石(ナナツイワ)を訪ねました。
 この陵はその横に出来た遊園地、写真の雪岩山で有名だった奈良ドリームランドの開発に伴って、破壊されたようです。
22年前に、そこで遊ぶ40代アベックが娘に写真を撮られていましたが、その頃から寂しくなりかけていた奈良ドリームランドは、12年前に閉園となっていました。
   
 やっと見つけた、この汚れた看板だけの七ツ石、第42代文武天皇の妃である藤原宮子(~754)は藤原不比等の長女ですので、まあ平民です。
   
 どれが七ツ石なのか?全てで七ツ石と言うのか不明ですが、左の変な形の石が墓陵石らしいかもしれません。
 宮子の父である藤原鎌足の次男不比等も、実は天智天皇の御落胤という貴の説もありますし、宮子自身は紀州の海女であり、文武天皇がその美貌を見染てしまい、海女ではちょっとと言うことで、不比等の養女にしてから文武の妃にしたという賤の説もあります。
    
 なんとも寂しい史蹟周辺です。
 宮子の最大の功績は、文武天皇の後継ぎになる男子首皇子(オビトノミコ)(後の聖武天皇)を産んだことです。
 その後藤原一族が娘を天皇に嫁がせ、次の天皇の外戚になるという形を作った、最初の娘が宮子です。
   
 七ツ石の隣にあった黒髪山稲荷神社。
首皇子を産んだ後、宮子さんは引きこもり状態(うつ病?)なってしまったようで、737年50歳頃にやっと天皇になってた我が息子聖武と再会したぐらいです。
その後、夫文武天皇が亡くなってから50年近く経って、70歳ぐらいで亡くなってここに葬られたようです。

   返事
花水木さん:「27歳って儚げな感じですよね」と書かれてますが、
    「儚い」はなかなか読めませんでした。
    人に夢と書いて「はかない」と読むんですね。
    昔墓地の宣伝で、「墓の無い生活は、はかない」というのが有りましたが、
    「はかない」を「墓無い」と書くのならわかりますが、
    「儚い」と書くのは、ちと寂しいですね。
    「儚」と書いて「きぼう」と読みたいと、夢のような青臭いことも考えました。
     私は26歳で結婚したので、27歳は新婚生活中でしたが、
    確かにやや儚げでしたね。

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