島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

藤原(北)家2.

2020-10-07 | 天皇陵巡り番外
 
 807年第50代桓武天皇第3皇子伊予親王の謀反をでっちあげて、恵美押勝の乱(764年)後もなんとか残っていた藤原南家の残党を一曹オた式家と北家ですが、810年薬子の変(クスコノヘン)で、藤原式家の仲成・薬子の兄妹を殺し、藤原四子体制は北家の一人勝ちになりました。
  写真は、私の働く伏見区の老人ホームから坂道を降りて行くと住宅街の一画にある、あまり有名ではないですが伊予親王巨幡墓(コハタノハカ)です
 
 鎌足①から数えて6代目の藤原氏長者、北家冬嗣⑥(フユツグ)(775~826)は第52代嵯峨天皇と強く結びつき、出世街道をまい進し、とうとう長女順子(ノブコ)を第54代仁明天皇に輿入れさせ、待望の孫第55代文徳天皇を産ませています。
  写真は、立石電機(オムロン)の社長さん旧宅。
私の産まれた家の真向かいに有ったので、今ほど大会社でもなかったからか、子供の時はこの家の庭で私のような庶民の子でも遊ばせてもらえました。
ここから私が1歳にして早くも行ってる、文徳天皇陵までは徒歩5分です。
 
 冬嗣の次男良房⑦(ヨシフサ)(804~872)は、842年承和の変で大伴氏・橘氏など他氏排斥を実行し、娘明子(メイシ・アキラケイコ)を文徳天皇に嫁がせ、産まれた第56代清和天皇の外祖父として、摂政の地位も得ました。
 良房は兄の長良(ナガラ)の三男基経⑧(モトツネ)(836~891)を養子として、藤原氏長者を継がせています。
 866年応天門の変で大伴氏・紀氏を排斥した基経は、同母妹高子を清和天皇に嫁がせ、第57代陽成天皇を産ませますが、高子さんと基経は折り合いが悪く、陽成天皇で一旦天皇の外戚の地位は藤原北家から離れました。
しかし、政権はまだ藤原北家が握っていて、基経は何やかんやごねながら(887年の阿衡事件(アコウ))、実質上の関白にもなっています。
  写真は、基経の墓と言われてる許波多神社(コハタジンジャ)内に有る宇治陵36号です。 
 
 基経は娘を第59代宇多天皇になんとか入れましたが、内親王しか産まれませんでした。
しかし、もう一人の娘穏子(オンシ・ヤスコ)を第60代醍醐天皇に入内させ、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇が産まれたので、ここに完全に北家が外戚の地位を握りました。
  写真は、宇治陵総拝所前に建つ藤原氏塋域の碑ですが、そうそうたる名が並んでいます

       返事 
花水木さん:ややこしいですよね。
    わかったつもりで書いていますが、すぐ忘れてしまうぐらいややこしいです。
     サッカーは単純な割に目が離せないし、あまりにもゴールが少ない。
    得点シーンだけ録画で見たらよいスメ[ツかもしれません。
     そろそろラグビーが始まりそうですが、
    昨年の興奮を皆さんが忘れていなければ良いのですが。

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1 コメント

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Unknown (花水木)
2020-10-09 19:23:04
今回は更に難しくて、途中で気絶しました、なんてね。
漢字、しかも今の世でもびっくり、キラキラネームと越える難解な読み方。お手上げです。

唯一、立石電機、その工場が三島に昔ありました。
当時は初任給が一番高く、人気があったらしいです。

ラグビー、ちゃんと観た事が無くて・・・
機会があれば観戦しますね。
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