京都福王寺の五叉路ぐらいのバス道ですが、高雄や嵐山や金閣寺などに行く丁度別れ道になりますので、行楽の季節には昔からかなり混む交叉点です。
この丁度角の一段高い所に建つのが福王寺神社(フクオウジジンジャ)です。
近くには文徳・光孝・宇多・村上・円融の御陵もあり、私が産まれ、大学時代も一人で過ごした鳴滝にも近いので、懐かしい場所でもあります。
この福王寺神社の祭神が、光孝天皇女御皇太后班子女王(ハンシ・ナカコジョオウ)(833~900)で、福王寺神社由来のこの木の額には、この地が一説には班子女王の陵墓かとも伝えられている、と書いてありました。
第50代桓武天皇の皇子仲野親王は、あまり有名な人でもないのに、ここからまあ近い同じ嵐電沿線の帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅近くの、大きく立派な高畠墓(タカバタケノハカ)に葬られています。(昨年8月のブログ参照)
この仲野親王の17人の子の一人が班子女王です。
光孝天皇がまだ時康親王時代にその妃になった班子女王ですが、家系的には従兄(仁明天皇)の息子と結婚したことに成ります。
夫の時康親王も気さくな人柄だったようですし、班子女王自身も至極お気楽な正確だったようです、知らんけど!
時康親王(光孝天皇)自身の子供も40人ほどいるようですが、二人の間にも源元長(ミナモトノモトナガ)・是忠親王(コレタダ)・是貞親王(コレサダ)・定省親王(サダミ)の4皇子と4人の女の子、計8人の子をなしています。
その内綏子内親王(スイシ)は、第57代陽成天皇の妃になって、前々回のブログで陽成が贈った小倉百人一首の歌の相手方だったようです。
夫の時康親王が55歳で思いもかけずに第58代光孝天皇に成ったので、班子女王の子供も含めてすべての子を臣籍降下させましたが、最後に息子定省親王が復活して、光孝の死後第59代宇多天皇になったので、班子女王も皇太后を贈られています。
息子宇多天皇の10年の在位をずっと見届け、息子の開いた仁和寺近くで、夫光孝や息子宇多の御陵近くのここに葬られたのなら、まあこの地が班子女王の陵であったとの説も納得できました。
早いですねえ。
私はひのきの花粉症かばあさまからもらった鼻かぜかは不明ですが、鼻水垂れ流し&くしゃみが止まらず
ぼんやりしてます。