明日香から西南地域の山には終末期古墳が集まっていて、真魚シ(マユミノオカ)と呼ばれています。
その辺りにある、草壁皇子の陵と真陵の両方を捜してる時に、道を一筋間違えたのか、このマルコ山古墳に行き当たりました。
写真の中の耕運機操作中のおじさんに尋ねて、草壁皇子の陵を目指します。
草壁皇子(クサカベノミコ)は、両親ともに天皇であり叔父と姪でもある天武・持統の二人の間に産まれています。
また妃の阿閇皇女(アヘノヒメミコ)(後の元明天皇)は、父親が天智天皇ですし、母親は姪娘(メイノイラツメ)なので、持統天皇とは異母姉妹(その上異母同士は姉妹です)。
その間に産まれた子供は、元正天皇・文武天皇・吉備内親王と、皇族同士の濃い血の中で、草壁皇子は産まれ育っています。
血の濃さのためか、草壁皇子は27歳の若さで亡くなり、母の持統天皇の執念も実らず、天皇になれませんでした。
死後は、息子天武が天皇になったので、天皇の父親が天皇でないのは何かと不都合なのか、追尊天皇(ツイソンテンノウ)として、岡宮天皇(オカノミヤ)(662~689)と追号されました。
歴代天皇には数えられていませんが、墓は陵と呼ばれ、宮内庁の管理下に置かれています。
この眞給u陵(マユミノオカノミササギ)(奈良県高取町)は正面に回れませんので、石垣と垣根の下から正面を仰ぎ見るようにして、写真に納めました。
この陵に行きつく前に、細い峠道をえっちらおっちら自転車で登って行くと、峠の頂上には「的場」姓が多いい大きな家が密集していました。
この小さな看板に沿って進むと、春日神社という社があり、その境内にあったのが束明神古墳(ツカミョウジンコフン)です。
束明神古墳、今でこそ神社横の小さな盛り土ぐらいにしか見えませんが、昭和59年の発掘によって、直径60mぐらいの大規模な八角形墳で、わずかに残っていた被葬者の若い歯牙から、こちらの方が本当の草壁皇子(岡宮天皇)の墓だったとする方が妥当なようです。
眞給u陵からは坂を下って御所方面に出、斉明天皇陵にも寄って帰ったのは、もう1年前の出来事です。
返事
花水木さん:大化の改新後に薄葬令が出され、
持統天皇も火葬にされて、骨壺に納められたそうです(盗掘されましたが)
お釈迦さんも火葬で、その仏舎利が分けられていますので、
仏教と共に火葬は広がったと思います。
私も田舎で土葬に参加してますが、
昔はきれいに焼くのもなかなか大変で、薪代もバカにならなかったでしょうね。
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