育児が一段楽した頃、母は編機で軍手を編む内職を始めました。
編機のザーザーいう音を聞きながら、そばで遊んでいた記憶があります。
近所の農家の手伝いに行ったこともありましたが、あまり役に立たなかったようです。
子供たちに手がかからなくなった昭和30年代後半、近くにある農機具販売会社で事務員として働き始めました。
55歳まで勤めたといいますから、約20年間の事務員生活です。
事務員を辞め、その後、夫の勉も数年で職を辞しましたので、ようやく平穏な時が訪れました。
旅行をしたり読書をしたり、満ち足りた生活をしていたのだと思います。
68歳の時、夫の勉が直腸がんであることが判明します。
70歳の時、夫を亡くしました。
気丈に独居生活をしていましたが、近所の人々が亡くなったり、転居してしまったりし、代わりにイギリス人やオーストラリア人などの外人が住むようになったのです。
軽種馬を育てる牧場が、海外から経験者を集めたのです。
話し相手もいなくなり、寂しくなったのでしょう、長男のボクが住む滝川のケアハウスに住みたいと申すのです。
平成14年(2002)12月23日に滝川市内のケアハウスに転居したのです。甲子74歳でした。
それから12年、ケアハウスにお世話になり、86歳の今も元気に過ごしています。
親孝行のボクのこと、ちゃんと生きているかの確認のため、週に一度は母のところを訪ねるのです。
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母は運動が苦手だったといいます。
運動会はいつもピリなので、大嫌いだったそうです。
その資質、ボクが少し引き継ぎ、ボクの長男が色濃く受け継いています。
母の男兄弟3人は恋愛結婚だそうです。
当時は見合い結婚が主流ですから、珍しい情景です。
しかし母は、見合い結婚です。
男兄弟をうらやましく思っているのでしょう。
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このシリーズ、次回の叔父昭永で終わります。
ボクにかかわりのない読者には、何も面白くないのだと思います。
しかし、このブログは、世の理不尽・不条理を訴えるほか、過去の思い出を忘れないうちに記し残すことと、ルーツをわかる範囲で記し残し、後世の血縁者が先祖調べしたいならその一助にしてもらいたい目的があります。
そのあたりをご理解していただき・・・つまらないところは読み飛ばしてください。