アートをよく理解できないボクのような者でも、このマチにとってどうするのがいいのかを考えました。
"アート"には似合わないけど、どうするのが得なのか損なのかの判断でもいいとも思いました。
このマチにも活動家だけではなく、静かに支援してくれている会員が結構いました。
また、芸術を志す人の参加も出てきました。
地道な活動は無駄ではなかったと思います。
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以上、2009年4月10日から5回連続で投稿した♯247 NPOと、2021年11月30日から4回連続して投稿した♯3943記し継ぐべきこと⑭滝川から太郎吉そして解散へ、の文章を抜粋し切貼し、少し加筆し編集したものを記しました。
これからはボクが今思う“A・C・T 正式解散”についてです。
かくいうボクは、なまくらでぐうたらですから、活動は気の向いた時だけでした。ここ数年は、前庭の草むしりすらできなくなっている状況でした。
偉そうにこんなことを記することがおこがましいのを覚悟の上、記し続けています。
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反五十嵐包囲網は、五十嵐家の長兄から音楽愛好の市職員代表に石蔵の使用を断る連絡があったのが起点です。代表はただちにメンバーに伝え、善後策を話し合ったんだと思います。そして、どうにかならないか五十嵐家に掛け合ったけど、断られたんでしょう。(そのあたりの経緯は五十嵐威暢氏には伝えられなかったようです)
どうにもならないのがわかって、メンバーたちが怒り心頭に達したのは理解できます。そして彼らが鬱憤を晴らすため、同僚や親しい職員に実情を知らせる、のもわかります。実情を聞いた職員らが、また親しい職員に知らせるのです。そんなのがあっという間に広まりました。
それに、当時の総務部長が筆頭になって、このNPOはイノマタ系だ!って吹聴したことも大きな影響を与えました。
その勢いたるや、ものすごいものだったようです。市職員という閉鎖されたところに長らく居ついた環境といううものは、総じてこんなもんです。そしてこのことに何ら関係しない職員にも、五十嵐はとんでもない奴だ!ってことを植え付けたんです。
今いうところの同調圧力ってのが働いたのかもしれません。いろいろある中、多くの職員は、五十嵐はとんでもない奴だ!って思ったのでした。このことは、あっという間の出来事でした。
滝川市の悪態、まだまだ続きます。