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Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「エッセンシャル・キリング」イエジー・スコリモフスキ

2011-08-27 03:53:19 | cinema
ESSENTIAL KILLINGエッセンシャルキリング
2010ポーランド/ノルウェー/アイルランド/ハンガリー
監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ
脚本:エヴァ・ピャスコフスカ
音楽:パヴェウ・ミキーティン


忘れないうちに書いておくのだが
音楽がよい。
いや音楽と言えるのか
打楽器や民族楽器的な微分音と摩擦音を含む管弦による
プリミティヴな音響は
どことなく寺山修司的な「異郷の郷愁」のような響き
主人公の「男」が言葉をいっさい発しないのにするどく呼応して
音楽も音楽としての語りをいっさい発しない
この徹底した製作の態度に感心する。

***

ということで、
スコリモフスキは前回の「アンナ~」で
突然巨匠の仲間入りをしたようなのであるが、
70年の『早春』でクールにCANを使ってしまった監督であるからには、
2010年においてもどこまでもどこまでもクール
いっさいの微温的妥協のない作品を撮っていたのだった。

主人公の男は
冒頭の険しい荒野の舞台がアフガンであるらしいことが示される以外は
何者でなんのためにそこにいてなんのために米兵をぶっとばしたのか
いっさい示されることは無い。

その男が一旦は捕囚の身となりながらも再び逃亡してからは
もはやどこへ逃げるべきか、逃げてどうするのか
全くそこに目的性はなくなってしまう。

ただ殺されないように、捕まらないように
追っ手から逃げる。
寒いし腹は減るし怪我はするし
生身の人間なので当然かっこよく逃げるなんてことはできないし
そもそもかっこよく逃げる必要なんてどこにもないのだ

鼻水だってだらだら流しながら
人だって殺しながら
母乳でさえかすめ取ってしまう
必死というのは実に心細く
滑稽で
しかも笑えない
大胆で激しいのに
小動物のようにおびえている。

目的がないのだから
ラストシーンを迎えることなどできない
終わりがあるとするとそれは
もはや演じる方が死ぬか
観ている方が死ぬかのどちらかしかない

そういう極限+鈍さなのだ
結局のところ誰もが
特にワタシの居住している国では
そういう極限的鈍さを生きているのではないのか
などとマトメにひとからげにするのはやめておこう。
皆がそうであっても
結局自分の逃亡は自分でしか生きられない。

そうしてまたもや生きることのなにがしかを
映画に教えてもらうのだった。




@イメージフォーラム





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