ゆうゆうの教会便り

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十分の一の献げ物

2014-08-15 08:34:53 | 今日の聖句
マラキ書の3章にある「十分の一の献げ物」が今日の聖句です。

「マラキ書」3章6節~10節  悔い改めの勧告
まことに、主であるわたしは変わることがない。
あなたたでぃヤコブの子らにも終わりはない。
あなたたちは先祖の時代から わたしの掟を離れ、それを守らなかった。
立ち帰れ、わたしに。
そうすれば、わたしもあなたたでぃに立ち帰ると 万軍の主は言われる。
しかし、あなたたちは言う。
どのように立ち帰ればよいのか、と。
人は神を偽りうるか。
あなたたちはわたしを偽っていながら どのようにあなたを偽っていますか、と言う。
それは、十分の一の献げ物と 献納物においてである。
あなたたちは、甚だしく呪われる。
あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。
十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと 万軍の主はいわれる。
必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう。



マラキは、律法を無視する人々に諸規定の中から「十分の一の献げ物」を取り上げて彼らの罪を示し、
それが神の祝福を失っている原因であると指摘し、悔い改めて神に立ち帰るよう迫っている。
自分の所有の十分の一を神に献げることが聖書で最初に記されているのは「創世記」14章で、
申命記、民数記、新約聖書のマタイ、ルカにも記されている。
すべてのものを賜る神への感謝として、すべては神のものであるとの信仰の告白として献げられたのである。 
(以上は「聖書事典」からの抜書きです。)

年金生活の私ですが、なんとか十分の一の献金を続けています。
「マタイによる福音書」23章で、イエスは、十分の一は献げても正義、慈悲、誠実をないがしろにしている
律法学者やファリサイ派の人々を非難しました。
献げ物の多少だけが問題ではないということですね。
心を込めて祈りつつ、なるべく多くの献金を神様の御用のためにささげたいと願っています。



夜行性の<ゴイサギ>は夕暮れになると目がパッチリ、餌捕り開始です。


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