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ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

平和の祈り

2013-11-18 22:42:19 | 「先週の講壇より」
美竹教会の週報にはいつも「先週の講壇より」として説教の一部が載りますが、
今週は、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」が掲載されました。
今年の美竹教会の主題は「祈り」です。
祈りの苦手な私ですが、この「平和の祈り」をはじめとして、沢山の祈りを読み、
詩編の祈りにも学び、なんとか神様に率直に素直に正直に自分の本当の気持ちを
祈れるようになりたいと心から願っています。 



フランシスコの平和の祈りは、13世紀にイタリア半島で活動したフランシスコ会の創設者、
アッシジのフランチェスコ(聖フランシスコ)に由来するとされた祈祷文。
実際にはフランシスコの作ではないが、そのように広く信じられて愛唱されており、
マザー・テレサやヨハネ・パウロ2世、マーガレット・サッチャーなど著名な宗教家や政治家が
演説の中で引用や朗誦を行い、公共の場で聴衆と共に唱和するなどして有名。 (Wikipedia よりの引用です)


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
昨日の礼拝で上田先生が話されたように、神の御心ならば、来年四月に美竹教会は新しく
左近豊(とむ)先生を牧師としてお迎えします。
上田先生とは三月でお別れです、とても寂しいことですが、四月からは左近先生に導かれ、
中心に神のいます教会を守って行けますようにと祈っています。



<ノスリ>という名の猛禽、ピンボケです、m(_ _)m
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「神殿を建てる」

2013-11-17 20:53:08 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「列王記上」8章27節~32節 & 「ヨハネによる福音書」2章13節~22節  
タイトルは「神殿を建てる」でした。

テキスト「列王記上」の記事は聖書の中で一番長い祈り、新しい神殿を建てた「ソロモンの祈り」の一部です。
神殿が新しくなるという事は信仰も新しくされることです。
教会は神の神殿ですから、私たちも一週間の始めの礼拝で新しくされています。
新しい信仰生活とは何かをご一緒に考えましょう。

美竹教会は主の御心ならば、来年三月に新しい牧師を迎えることになります。
このことは新しい神殿を建てること以上の出来事で、私たちの信仰生活も新しくならねばなりません。

人間的な礼拝堂が建てられることがよいと思われますが、本当に人間らしい生活とは
神に依って自分生きているという生活、その神を礼拝する生活です。 
それによって希望、平安、救いの確信が与えられるという事です。
そのための教会を立てたいと私たちは望むはずです。

「マルコによる福音書」の中で、主は「祈りの家を強盗の巣にした」と怒られました。
商人の扱う牛、羊、鳩は神への献げ物として売られていたものですし、両替商は献金のための両替をしていた
ものですから、イエスは神殿での商売を禁じたのではありません。
礼拝の形骸化を怒られたのです。

礼拝堂は人間が楽しむ場ではなく、神を礼拝することが中心であるべき場なのですから。
礼拝堂は楽しみも食事も、すべては神を中心になされる聖なる場所で、最も私たちが人間らしく生きる場所です。
教会では、説教と聖餐、洗礼式の聖礼典がそれを確信させてくれます。

主を礼拝するということは、勝手なやり方で、例えば自宅にいてもできるというものではありません。

礼拝はまず、主の御心に適う神の民としての会衆の中で神を賛美することが必要です。
アブラハムの時代には神殿はありませんでしたが、神の民がいました。神殿よりもまず、
神の民が共に集まって礼拝することが大切です。 

教会における交わりは普通の人間関係とは違いますし、そうあってはならないものです。
この世の人間関係は give and take の関係ですが、この関係の中には助け合いはあっても救いはありません。
これだけささげたから神からこうしてもらえる、という生活に救いはありません。
神は打ち砕かれた悔いた魂を求めておられます。

今日の「ヨハネによる福音書」のテキストで、神殿を清められたイエスは、信仰を新しく始めるように
熱心に勧められたのです。
私たちが真の生活をして神と共に生きるようにと、御自分の命を捨てられて勧められたのです。

最大の罪であった神殿冒涜を咎めるユダヤ人に、イエスは三日で建て直すと言われました。
御自分は神殿を建てる力がある(信仰の中身を新しく作り直すことができる)という言葉は神のみに言える御言葉です。
神のみが人の信仰を立て直すことができる。
十字架の死を信じる信仰、御自分の死によって真実の信仰を私たちに与えると言われたのです。

主が建てられる神殿は手で建てられるものではありません。
イエスは三日で甦り、御自身の体なる神殿を建てられました。
その主に応える道はただ一つ、礼拝堂で説教を聞き、聖餐を守り、神を賛美することです。
                                           (以上、文責はゆうゆうにあります。)


下線はゆうゆうが引きました。
「人間的な礼拝堂が建てられることがよいと思われる・・・」という部分がよくわかりませんでした。
聞き間違いかもしれません。 ホームページの「9.説教集」に掲載されたらよく読んでみましょう。 



公園の水場にきた<アカハラ(♀)>です。
都市公園に少しずつ冬鳥が入り始めました。


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今日は「子供たちのお楽しみ会」でした。
バーベキュー、焼きそばをみんなで作って食べました。
その後は俳優で朗読家の河崎早春さんの絵本の読み聞かせとプチ運動会でした。 
きっときっと楽しかったことでしょう。
以上、参加できなかった“ゆうゆう”の(想像)報告でした。 (^-^)
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私の祈り

2013-11-16 22:44:30 | その他
子供の頃から死が怖かった私は「生まれてしまったことは敗北だ」と思う大人になりました。
釈迦の「毒矢の教え」を知った時「毒矢に当たった今、小難しい理屈、深遠な真理を問うよりも、
いかに解毒するかが大事だ」という教えに納得するよりも「やっぱり人間として生まれたことは
毒矢に当たったことなのだ」と、釈迦の譬に強く共感しました。

虚無的に生きてきたわけではありませんが、自分の死を考えると、世の中、身の回り、すべてのことに
決定的な思い入れを持つことはできず、不条理もあって当たり前、と思ってきました。
何よりも究極の恐怖である自分の死を、当たり前のことサラサラ受け流せるようになりたかったのかも知れません。

そんな私に「エジプトの苦役」や「バビロンの捕囚の苦しみ」が襲いました。
生きながら亡き者とされたような出来事でした。
耐えがたく、受け入れ難く、どうしても納得できません。
これが不条理ということなのでしょう。
自分の感情がコントロールできず鬱々と毎日を過ごしました。

苦しみの中で、私は何十年ぶりに神様に祈り、聖書を読みました。

神様に哀しみを打ち明け、傲慢だった自分を反省し許しを請いました。
そして苦しみに耐えられる強い力を与えてくださいとひたすら願いました。

一人で祈り、一人で聖書を読んで三年が過ぎて、ようやく母教会の美竹教会の礼拝に通う様になりました。
今は、教会での交わりから大きな慰めと学びを与えられています。
今は、教会生活の無い、神様から離れた生活は考えられず、自分が生きていることが肯定できるようになりました。
少しでも神様を証しできるように毎日を大切に生きたいと思うようになりました。
哀しみは決してなくなったわけではなく(多分死ぬまで続くことでしょう)神にひたすら願った
哀しみに耐える力があるのか無いのかは分かりません。

私の祈りは何の訓練も修練も受けていない独りよがりのものでした。
先日の講演会で「詩編」は祈りの学校と言われる、と学びました。
これからは心を込めて「詩編」を毎日読み続けたいと思いました。



公園の<キジバト>です。


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キリスト教講演会のまとめ(2)

2013-11-15 16:20:19 | その他
3)嘆きの向こうへ導く言葉
主イエスが十字架の上で口にされた詩編22編も嘆きの詩編の一つですが、この詩は22節から23節で嘆きから讃美へと
ガラリとトーンが変わっていて、違和感を覚えます。
これを理解するには、詩篇の祈りがどこでなされていたかを思い起こして下さい。
詩編は礼拝の中で用いられてきました。
礼拝において私たちが経験することがこの詩にも反映されていると考えることができます。
日常での悲しみや困難、罪の意識を神の御前に告白する時、そこで、神の御言葉(救済宣言)が神の権威を委ねられた
祭司や長老によって語られます。
神の救いの宣言「恐れるな、おののくな、わたしはあなたと共にいてあなたを助ける」という言葉です。
御言葉を戴いた人はもはや以前のようでなく、目を上げ、涙を振り払って神を称える者とされます。
嘆きから讃美への劇的な変化が生じる、と分かります。
このような様子を記した個所は聖書の中には出てきませんが、言わずもがなのことで誰でもよく知っているという事もありましょう。
一か所、「サムエル記上」1章12節以下の「ハンナの祈り」の場面はこれに類する出来事を記しています。
嘆きから讃美へ、という変化は礼拝体験や信仰的歩みにおいて経験するでしょう。
礼拝で語られる神の言葉によってわたしたちは罪ゆるされ、救いの確証を与えられ、死と罪を突破する復活の希望が与えられ
「もはや前のようではない」命に生きる者とされて世に押し出されて行きます。
詩編にはそのようなダイナミックな動きが窺がわれます。

4)新しい命を望み見る祈り
受け入れがたい哀しみ、破れを、哀歌と嘆きの詩編は言葉を持って導き、そこでこそ出会いたもう主にまみえることを得させます。
それと並行して、旧約の嘆きは、先だって進まれる復活の主との新たな出会いを讃美するために、これまで見たことも聞いたこともない
驚くべき現実へと私たちを導きます。

詩編30編も典型的な嘆きの一篇です。7節から13節には三つの時の移り変わりが明らかです。
順境の時、逆境の時、そして12節―13節は新しい境地を歌っています。
逆境を経て新しい境地への移行「あなたは嘆きを踊りに変え」「粗布を脱がせ」「喜びを帯にしてくださった」と歌います。
新しい命をお与えになれるのはこの神だけなのです。
哀しみの淵のおぞましさを知っているからこそ、詩人は今、新しい命に入れられた喜びを生き生きと讃美します。
この詩の最後の言葉は「感謝」です。

詩編30編の中で、順境から逆境へ、そして新しい境地への移行が起こっていますが、これは詩編全体の動き、さらに信仰共同体の
霊的生活、礼拝生活における動きでもあり、新約聖書にも重なりが見られます。(「フィリビの信徒への手紙」2章7節以下)
イエスの御生涯をみると「キリストは神の身分であった」揺るぎのない永遠の神の権威と栄光を持っておられた(順境の)イエスは
御自分を無視して僕の身分になりへりくだって死に至る。
これは主イエスにとって嘆きと苦闘の時、逆境の時でした。
そのイエスは死なれ、三日目に「神はキリストを高くあげ、あらゆる名に勝る名をお与えになりました」とあります。
まさに新しい現実、誰も思い描くことのできなかった驚くべき復活の命へ、新しい境地へと導かれるのです。
誰も想定できない出来事が起こる。主の復活をはまさに、ワンダー、驚きであり、ワンダフル、素晴らしいこととして起こるのです。

5)現代版、嘆きの詩編
独り息子が21歳の誕生日に無残に殴り殺されると言う体験をした詩人、アン・ウィームスは、それまで溢れて出ていた言葉を失い、
沈黙の闇に悶え苦しむことになりました。
言葉に長けていた詩人は衝撃的な悲劇に見舞われて言葉を失いましたが、嘆きの詩編に導かれて祈りの語彙を獲得し、
嘆きを深めて言葉を回復してゆきました。

その後、Weemsは旧約聖書の嘆きの詩編の詩人たちの歩みに寄り添い、50編の嘆きの詩を編みました。
時がたって悲しみや痛みが癒えたからではありません。
「怒りとハレルヤはわがうちに怒涛の如く渦巻いている。悲しみと笑いが隣り合ってわが心を占めている」と彼女は言います。
悲しみの言葉を語るウィームズは新たな驚きへと導かれました。涙を流されるイエスのイメージを思い浮かべたと言うのです。
「主イエスは涙を流された。その涙をもって主イエスは嘆き苦しむ者の永遠の友となられた。イエスはいつもそして今も伴い給う。
主は涙を流されながら、涙を流す者の方を抱いて言われる。『悲しむ者は幸いである。その人は慰められるであろう』と。
「神共にいます」主は悲しむ者と共におられる。主イエスは涙を流された。」
この時からWeemsの嘆きの調子が変わります。痛みと苦しみ、そして死を身に負われた主イエスに改めてまみえて変えられたのです。
涙は今なお止まらないけれど、暗闇の中でたったひとりで涙を流しているのではないということを知ったのです。
涙で目がかすみながらもイエスが十字架の上で嘆きの詩編を口ずさまれる姿を見ているのです。

Weemsは歌います。
「いつの日か、いつの日か、神は、子を奪われて慰められることさえ望まない母の目から流れ落ちる涙をぬぐってくださる。
目を凝らせば神の御手が彼らの空に星の輝きを戻しておられるのを見ることでしょう。一つ、また一つと。 
ここに新しい物語が始まります。

6)終わりに
詩編は、私たちの順境の時も逆境の時も、健やかなる時も病むときも、それらを言葉にして神にささげた祈りの宝庫です。
私たちの日々の生活で経験するあらゆる思いと詩編の言葉は深く切り結び、対話し、私たちを養うのです。
私たちは、詩編を通して、嘆き、哀しみ、喜び、感謝、あらゆる思いを神の御前に携え献げる祈りへと招かれています。

**************************************************

以上、左近先生による講演「旧約聖書の祈りに学ぶ」のまとめです。



公園のカイツブリ、寒さに向かう今頃になって雛を一羽孵しました。
独りっ子の雛に父さん、母さんは甘々・・・・・(笑)


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キリスト教講演会のまとめ(1)

2013-11-14 22:50:34 | その他
毎週礼拝に出席し、毎日聖書を読んで神様の御言葉を聴く、ということは(受け身でいられるからでしょうか)
私には比較的負担なく続けることができます。
しかし、神様への祈りは、私にとってはかなり難しいことで、どうしてもおざなりになってしまいます。
「主の祈り」を心を込めて祈ればいいかナ~などと思ってしまいます。 (^^;)
そんな私に、旧約聖書、特に「詩編」の祈りを通して祈りについて学ぶという主題は魅力的でした。

「旧約聖書の祈りに学ぶ」と題して11月10日(日)美竹教会でキリスト教講演会がもたれました。
講師は左近豊先生。

以下は講演会のまとめ、というよりは講師の左近先生らいただいたレジメからの抜書きです。
抜き書き(まとめ)でも長くなりました。 二回にわたって掲載させていただきます。

********************************************************************************

0) 初めに
神学者D・ボンヘッファーは「旧約聖書『詩編』は祈りの学校であると述べています。
祈るには、子どもが言葉を習得する際、親の語り口から学ぶようにして、神の語り口で、神にかたりかける言葉を
身に着ける必要があり、旧約聖書の詩編を通して詩編の言葉、語り口、理論、思考回路、文法、文化、価値観を
身につける必要があると述べています。
詩編は私たちに私たちの考えとはかなり異質な考え方、ものの見方、生き方を示し、私たちを徹底的に改革することを
促しさえします。
この「(聖書が促す)新しい視点こそが、教会を単に他から隔離された信仰共同体とすることではなく、
新しい創造における新しい人間のあり方を示すヴィジョンの担い手とする」ものです。
聖書に根ざした祈りは、普段の私たちの生活とは異なる新しい生活を可能にします。
そしてそれには学校で学ぶような修練が求められます。

1) 詩編の祈りの前提
詩編の祈りの前提として以下の三点を挙げます。

〇 言葉にならない思いを祈りとして
聖書の民は、喜びも哀しみも感謝も嘆きも知恵も激情も、祈りとして詩に詠んできました。
きりがないほどの悲惨な体験を、理路整然と神学的に語ることはできないことが多かった聖書の世界の人々は、
支離滅裂な思いを神の御前に形にしてゆく営みを重んじました。
その時、祈りは詩の言葉となって紡ぎだされたのです。

〇 隔ての中垣を超えてゆく祈り
嘆きや悲しみは本来、人を孤立化させるものでありながら、共同体の祈りとして共有される二律背反的な特徴があります。
大澤真幸さんは「極限的に個人に向かっていくベクトル(方向性)と、逆に強い共同性へと向かってゆくベクトルが
共存するところに痛み、悲しみの不思議な特徴がある」と述べています。
痛みを知っている者は、共感の不可能性をよく知っている。
だからこそ、他者の痛みにも敏感になり、その人の哀しみを尊重し、軽々に共感できないものとして重んじる、
という形での「真の共感」が形成されます。

〇 悲しみを祈るということ
「人間存在は、その最も深い所では究極的には受難である」(V・フランクル)と言われるように、苦悩する存在である人間
その苦しみをもって神の前にどのように生きるのかを問われています。
苦しみや悲しみの感情は、一見、論理的なものでなく条件反射のようなもので自然に備わっているように思いますが、
実は哀しみという感情は学び、身に着けてゆくものだとも言われます。
斎藤孝氏は、哀しみは「文化的に継承されてきた感情で」「学習が無ければ、人は哀しみという感情を本当に理解することなく
成人してしまうこともある。」「そこに詩や文学が働きかける時、出来事や経験が多様な哀しみの表現を取って人の心に認識され、
感情として刻まれる」と指摘しています。


以上を踏まえたうえで確認しておきたいのは、詩編は天才的な一人の詩人が一個人の経験を言葉にしたものではなく、
何世代にもわたって何人もの人々が、共同体が、その時代に特有な経験と哀しみを、推敲し、磨きをかけ、
ふさわしい表現を模索し格闘しながら紡いできた言葉だということです。
聖書の祈りは、今の私たちの苦しみの体験を孤立化させません。
旧約聖書に刻まれた嘆きと共鳴することで、個人の苦しみは孤独に終わらず、苦難と救いの歴史を歩んできた聖書の民の
苦しみに連ねられる可能性が拓かれます。
詩編の祈りによって、あてどなく漂流する哀しみが連綿と連なる潮のうねりのような流れに、滅びではなく救いへと向かう
歴史に、繋がれてゆきます。
耐えがたい魂の傷を負うあなたの傍らでともに泣くものがいることを告げてくれます。
詩編はその祈りをもって時空を超えて信仰者を霊的に育むものです。
祈りを手引きして世々の聖徒らの祈りに結び付け、しばしば個人で陥りやすい孤独と独善的な祈りから信仰者を守ってきました。 
神の民として祈る言葉を与えてくれます。

詩編は嘆きで終わりません。
詩編を大別してみますと、順境の時、逆境の時、そして逆境をへた上での新しい境地において歌われるものに分けられます。
逆風に身をさらして逆境を生きるところから、一転、感謝や讃美の言葉へと変わり、希望をはるかに望み見る経験へと
昇華されて行く、その時をも言葉にしています。

2) 逆境における祈り
人生はいつも平穏ではなく、そうでないことの方が多いものです。
すべての人間は自分の「エジプトの労役と、バビロン捕囚の内に生きている」と言えます。
逆境にあることを忘れようとして、あたかも順境にあるような祈りをすることがありますが、そうしなくてよいことに
詩編は気づかせてくれます。
悲哀、嘆きをなかったかのように覆い隠したり、楽観主義で乗り切ることが聖書の信仰ではないのだと気づかせてくれます。
嘆きの祈りを大事にすることは、決して私たちの信仰生活をゆがめるものではありません。
不信仰なことでもなく、むしろ大胆な信仰の業と言えましょう。

内なる神への疑念を押し殺して神から目をそむけるよりも、耐えがたい不条理に煮えたぎる思いを神に向かって
真っすぐに訴えることこそ信仰なのです。
嘆きの詩編は、悲しみのあまり、祈ることができない、どう祈っていいのか分からないものに、祈りの道筋を整えるのです。
私たちは詩編詩人たちの哀しみの表現、祈りの言葉に導かれ、自分の哀しみを詩人たちと共有し、助けられ言葉にしてゆけます。
「神よ!」と呼びかけ、悩み悲しみを包まず述べて、救いを求め回復を願い、そして感謝へと手引きされて行きます。

詩編88編では、苦難にある、孤独の淵に捨て置かれた詩人が主に向かって激しく呼びかけています。
「わたしの叫び・・・わたしの祈り・・・わたしの声・・・」に耳を傾けて下さることを願い
「わたしは呼び・・・わたしは手をひろげて」訴えます。しかし主はお答えになりません。
この詩は、不条理と不可能をあえて未解決なままにしています。
しかし、答えが無くとも沈黙には陥らず、神を疑ったり、神を捨てて無神論に落ちることもありません。
「あなたの憤りが押さえつけ、あなたの起こす波に苦しめられ、あなたは遠ざけ、あなたは私を忌むべきものとした」と
神に挑んでも答えはありません。
ついにはっきりと「なぜわたしの魂を突き放し なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」と問いかけます。
「闇」という言葉でこの詩篇は閉じられています。

私たちがこのような詩を、祈りを繰り返し口にし、嘆く者とともに嘆き悲しみに留まると時、神に見捨てられ、
答のない沈黙のうちに十字架につけられ死にて葬られた「悲しみの人」をしるのです。 
嘆きの詩編の言葉は、現代の私たちにも訴えてきます。

******************   明日に続きます。 m(_ _)m     (下線はゆうゆうが引きました。)



セイタカアワダチソウの中に止まった<ノビタキ>です。
もう南へ旅立ったことでしょう。


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「悪いのはわたしです。」

2013-11-12 23:02:02 | 今日の聖句
今日の聖句は「サムエル記下」24章10節~17節です。

民を数えたことはダビデの心の呵責となった。ダビデは主に言った。「わたしは重い罪を犯しました。
主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」
ダビデが朝起きると、神の言葉がダビデの預言者であり先見者であるガドに臨んでいた。
「行ってダビデに告げよ、主はこういわれる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。
わたしはそれを実行する』と。」
ガドはダビデのもとに来て告げた。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三か月間的に追われて逃げることか、
三日間あなたの国に疫病が起こることか。よく考えて、わたしを遣わされた方にどうお応えすべきか、決めてください。」
ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」
主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされた。
ダンからベエル・シェバまでのたみのうち七万人が死んだ。
御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。
「もう十分だ。その手を下ろせ。」
主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた。
ダビデは、御使いが民を打つのを見て、主に言った。
「ご覧ください。罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。
どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。」


「・・・・私が悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。・・・・・」
ダビデは民思いの率直で純真な王だったことが分かります。
「サムエル記」は何度読んでも飽きません。 ダビデ王、素敵です。

今日から「列王記」を読みます。 いよいよソロモンの物語、楽しみです。



公園の秋色 <カラスウリ>


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「秋のお楽しみ会」お知らせ

2013-11-11 22:54:44 | CS(教会学校)

教会学校の子供たちを中心に「秋のお楽しみ会」をいたします。

日時は 11月17日(日) 礼拝後です。

お楽しみの数々は・・・・・・・

子ども達と一緒に壮年部による焼きそば&バーベキュー大会
子どものための読み聞かせ  俳優で朗読家の河崎早春さんによる読み聞かせです。
子どもプチ運動会 サテ、何をやるんでしょうね~ 楽しみですね~

参加費は大人500円、子どもは無料です。
お父様、お母様、お子達を連れて日曜の午後、ぜひご参加ください!


お問い合わせは美竹教会(電話 03-3409-7401)まで。



<カルガモ>の羽ばたき。

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讃美歌187番

2013-11-11 22:43:06 | 讃美歌
昨日の礼拝で歌いました。 讃美歌187番です。

1) 主よ、命の言葉を 与え給え 我が身に
   我は求む、ひたすら 主より給う 御糧(みかて)を

2) ガリラヤにて 御糧を 分け給いし 我が主よ
   今も活(い)ける 言葉を 与え給え 豊かに


アメリカにおいて広く用いられている聖書の歌である。ヨハネによる福音書6章35節「わたしが命のパンである。
わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく,わたしを信じる者は決して渇くことがない。」との山上の説教の部分である。
原作者Mary Artemisia  Lathbury(1841-1913)は、牧師の娘としてニューヨーク州マンチェスターに生まれ、最初は美術の教師となり、
のにち青少年の雑誌の記者となった。 詩文をよくし、数巻の文学的著作がある。

この歌と讃美歌50番の歌はニューヨーク州ショートークア(Chautauqua)湖畔で催されるサマースクールの集会のために作ったもので
「聖書研究の歌」と題されていた。
2つの讃美歌ともWilliam Fiske Sherwin(1826-1888)により作曲されたが、187番は特に歌詞と曲との完全な融合の典型とされている。

ショートークア(Chautauqua)は、エリー湖の東岸、ナイアガラの滝で有名なバッファロウから南に湖畔沿いに下った所にあり人口僅か7500人の町であるが、
町を挙げての芸術、文化興隆により自前のオーケストラを持ち、オまた上演のための劇場などを有している。

この町で毎年開催されるサマースクールには全国から8,000人の学生が集まり芸術、音楽、ダンス、観劇、その他色々な分野の研修が行われている。
このサマースクールは、1874年にメソデイスト派により始められたが、エキュメニカルに発展しており内外からの牧会者、教師たちの研修の場として
大きな貢献をして来た。   (以上、ネットからの引用です。)


讃美歌187番はココをクリックしておききください。



公園の脇を流れる川に<キセキレイ>がいました。


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「預言者の見た夢」

2013-11-10 21:35:21 | 説教
今日の礼拝説教 
テキストは「列王記上」3章4節~14節 と 「イザヤ書」35章1節~10節
タイトルは「預言者の見た夢」 でした。


今日は、イザヤ書のテキストからイザヤに示された神の御心を学びたいと思います。
ココではイザヤは、私たちが未だ見ていない「その日、その時」の大きな幻を描いています。

預言者は、当たり前のような平常な日々が崩れ去った恐ろしい「あの日、あの時」を生き延びて、引きずって今生きています。
彼らはそうして生き延びることを喜んではいませんでした。

このイザヤの歌は今から2600年前、紀元前6世紀の時代を映しています。
時は、ネブカドレサル率いる新生バビロニア帝国が経済も政治も生活も、そして思想までも支配していた時代、
エルサレムの神殿も宮殿も破壊され、農地も焼かれて荒れ果て倉庫の備蓄も奪われ、人的には知識人、賢者、
腕の立つ職人たちもバビロニアに連れて行かれました。

荒れ果てた国には生き延びたことを後悔する、取り得の無い弱い惨めな人が残されています。
王朝最後の王ゼデキアは捕らえられ、目の前で息子たちを殺され、自らは両目を抉り取られてバビロニアに引かれ
死ぬまで牢に入れられました。
彼の見た色のついた最後の景色は殺されるわが子の姿だったのです。

ユダの地が色彩を失いモノクロの世界となった「あの日、あの時」を見た預言者イザヤにとっては将来を
楽観的に考えることはできませんでした。

神はこの不条理を放っておかれるのか、なぜ神は沈黙されているのか、イザヤは呻きます。
イザヤは切に神が沈黙を破ってほしいと叫んだはずです。
イザヤの気持ちを思う時、日本の隠れキリシタンの苦しい最期を描いた遠藤周作の「沈黙」という作品を思い浮かべます。
苦しむ漁民を見て神父ロドリゴは「神はなぜ沈黙されているのか」と叫びます。
イザヤの気持ちも同じだったと思います。

しかし、主はイザヤに、救いの言葉は将来から来る、その日その時は来る!と言われました。
神は「恐れるな」と言われるのです。
滅びの道に立たされている時、未来が読めない新しい事への恐れのある時、神は常に先に立って進んでこられました。
聖書の民はずっとこの道を歩んできたのです。 アブラハムしかり、モーセの出エジプトもそうでした。

私たちは誰もが「あの日あの時」を持っています。
そして、その私たちの「その日その時」は決して自分からは出てこないのです。
私たちに「その日、その時」の希望を与えるのは神からの言葉なのです。

イザヤは35章の聖句で「その日その時」の希望を述べています。
光は闇に勝った、暗闇で輝いているのは聖書です。
荒れた地の現実の中に「その日その時」の壮大な幻(ビジョン)は外から私たちの内に介入してきます。
神の民は幻を持っています、 
神の言葉の語られるところ=幻(ビジョン)を持たない民は滅びます。

*********************************

私たちの国籍は天にあり、私たちは旅人であり、この世の寄留民です。
私たちは目の前の時代とかかわりながら浮世に溺れず、浮世離れせず「その日その時」の幻を見て生きるべきです。

主が贖ってくださり、復活の主を見る私たちが精神世界の高みに到達するのは至難の業です。
教会の礼拝の場は決して自らを高めるためのものではなく、毎週、原点に立ち返る場なのです。

                                   (以上、文責はゆうゆうにあります。)


お説教の前半と ****** 以降のつながりがよくわからなかったのですが m(_ _)m 
「あの日あの時」の苦しみを乗り越える「その日その時」を神様は必ず備えてくださると信じて
待ち望みつつ生きてゆきたいと思いました。
私たちは旅人ではありますが、現実の世界とのかかわりを捨てることなく、それに溺れることなく
御言葉を証しし、一人でも多くの方に福音をお伝えできたらと思いました。




公園の上空を舞う<ノスリ>という猛禽です。



美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
今日の礼拝説教は左近豊牧師による説き明かしでした。
午後からの「キリスト教講演会」では同じく左近先生が「旧約聖書の祈りに学ぶ」というタイトルで
「祈りの学校」と言われた詩編から神への祈りについて話されました。
祈りが苦手な私には、祈りの修練、という言葉が印象的でとても参考になりました。
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「身に余る恩寵」

2013-11-09 20:29:00 | 「先週の講壇より」
先週の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。
説教のテキストは「サムエル記下」7章1節~16節 タイトルは「身に余る恩寵」でした。




明日は「永眠者記念日礼拝」です。 左近豊先生が御言葉の説き明かしをしてくださいます。
午後1時からは「キリスト教講演会」です。左近豊先生がお話なさいます。
東京、渋谷駅から徒歩7分、どうぞ美竹教会にお出かけください。

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。



秋の公園の<ダイサギ>です。


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