毎週礼拝に出席し、毎日聖書を読んで神様の御言葉を聴く、ということは(受け身でいられるからでしょうか)
私には比較的負担なく続けることができます。
しかし、神様への祈りは、私にとってはかなり難しいことで、どうしてもおざなりになってしまいます。
「主の祈り」を心を込めて祈ればいいかナ~などと思ってしまいます。 (^^;)
そんな私に、旧約聖書、特に「詩編」の祈りを通して祈りについて学ぶという主題は魅力的でした。
「旧約聖書の祈りに学ぶ」と題して11月10日(日)美竹教会でキリスト教講演会がもたれました。
講師は左近豊先生。
以下は講演会のまとめ、というよりは講師の左近先生らいただいたレジメからの抜書きです。
抜き書き(まとめ)でも長くなりました。 二回にわたって掲載させていただきます。
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0) 初めに
神学者D・ボンヘッファーは「旧約聖書『詩編』は祈りの学校であると述べています。
祈るには、子どもが言葉を習得する際、親の語り口から学ぶようにして、神の語り口で、神にかたりかける言葉を
身に着ける必要があり、旧約聖書の詩編を通して詩編の言葉、語り口、理論、思考回路、文法、文化、価値観を
身につける必要があると述べています。
詩編は私たちに私たちの考えとはかなり異質な考え方、ものの見方、生き方を示し、私たちを徹底的に改革することを
促しさえします。
この「(聖書が促す)新しい視点こそが、教会を単に他から隔離された信仰共同体とすることではなく、
新しい創造における新しい人間のあり方を示すヴィジョンの担い手とする」ものです。
聖書に根ざした祈りは、普段の私たちの生活とは異なる新しい生活を可能にします。
そしてそれには学校で学ぶような修練が求められます。
1) 詩編の祈りの前提
詩編の祈りの前提として以下の三点を挙げます。
〇 言葉にならない思いを祈りとして
聖書の民は、喜びも哀しみも感謝も嘆きも知恵も激情も、祈りとして詩に詠んできました。
きりがないほどの悲惨な体験を、理路整然と神学的に語ることはできないことが多かった聖書の世界の人々は、
支離滅裂な思いを神の御前に形にしてゆく営みを重んじました。
その時、祈りは詩の言葉となって紡ぎだされたのです。
〇 隔ての中垣を超えてゆく祈り
嘆きや悲しみは本来、人を孤立化させるものでありながら、共同体の祈りとして共有される二律背反的な特徴があります。
大澤真幸さんは「極限的に個人に向かっていくベクトル(方向性)と、逆に強い共同性へと向かってゆくベクトルが
共存するところに痛み、悲しみの不思議な特徴がある」と述べています。
痛みを知っている者は、共感の不可能性をよく知っている。
だからこそ、他者の痛みにも敏感になり、その人の哀しみを尊重し、軽々に共感できないものとして重んじる、
という形での「真の共感」が形成されます。
〇 悲しみを祈るということ
「人間存在は、その最も深い所では究極的には受難である」(V・フランクル)と言われるように、苦悩する存在である人間は
その苦しみをもって神の前にどのように生きるのかを問われています。
苦しみや悲しみの感情は、一見、論理的なものでなく条件反射のようなもので自然に備わっているように思いますが、
実は哀しみという感情は学び、身に着けてゆくものだとも言われます。
斎藤孝氏は、哀しみは「文化的に継承されてきた感情で」「学習が無ければ、人は哀しみという感情を本当に理解することなく
成人してしまうこともある。」「そこに詩や文学が働きかける時、出来事や経験が多様な哀しみの表現を取って人の心に認識され、
感情として刻まれる」と指摘しています。
以上を踏まえたうえで確認しておきたいのは、詩編は天才的な一人の詩人が一個人の経験を言葉にしたものではなく、
何世代にもわたって何人もの人々が、共同体が、その時代に特有な経験と哀しみを、推敲し、磨きをかけ、
ふさわしい表現を模索し格闘しながら紡いできた言葉だということです。
聖書の祈りは、今の私たちの苦しみの体験を孤立化させません。
旧約聖書に刻まれた嘆きと共鳴することで、個人の苦しみは孤独に終わらず、苦難と救いの歴史を歩んできた聖書の民の
苦しみに連ねられる可能性が拓かれます。
詩編の祈りによって、あてどなく漂流する哀しみが連綿と連なる潮のうねりのような流れに、滅びではなく救いへと向かう
歴史に、繋がれてゆきます。
耐えがたい魂の傷を負うあなたの傍らでともに泣くものがいることを告げてくれます。
詩編はその祈りをもって時空を超えて信仰者を霊的に育むものです。
祈りを手引きして世々の聖徒らの祈りに結び付け、しばしば個人で陥りやすい孤独と独善的な祈りから信仰者を守ってきました。
神の民として祈る言葉を与えてくれます。
詩編は嘆きで終わりません。
詩編を大別してみますと、順境の時、逆境の時、そして逆境をへた上での新しい境地において歌われるものに分けられます。
逆風に身をさらして逆境を生きるところから、一転、感謝や讃美の言葉へと変わり、希望をはるかに望み見る経験へと
昇華されて行く、その時をも言葉にしています。
2) 逆境における祈り
人生はいつも平穏ではなく、そうでないことの方が多いものです。
すべての人間は自分の「エジプトの労役と、バビロン捕囚の内に生きている」と言えます。
逆境にあることを忘れようとして、あたかも順境にあるような祈りをすることがありますが、そうしなくてよいことに
詩編は気づかせてくれます。
悲哀、嘆きをなかったかのように覆い隠したり、楽観主義で乗り切ることが聖書の信仰ではないのだと気づかせてくれます。
嘆きの祈りを大事にすることは、決して私たちの信仰生活をゆがめるものではありません。
不信仰なことでもなく、むしろ大胆な信仰の業と言えましょう。
内なる神への疑念を押し殺して神から目をそむけるよりも、耐えがたい不条理に煮えたぎる思いを神に向かって
真っすぐに訴えることこそ信仰なのです。
嘆きの詩編は、悲しみのあまり、祈ることができない、どう祈っていいのか分からないものに、祈りの道筋を整えるのです。
私たちは詩編詩人たちの哀しみの表現、祈りの言葉に導かれ、自分の哀しみを詩人たちと共有し、助けられ言葉にしてゆけます。
「神よ!」と呼びかけ、悩み悲しみを包まず述べて、救いを求め回復を願い、そして感謝へと手引きされて行きます。
詩編88編では、苦難にある、孤独の淵に捨て置かれた詩人が主に向かって激しく呼びかけています。
「わたしの叫び・・・わたしの祈り・・・わたしの声・・・」に耳を傾けて下さることを願い
「わたしは呼び・・・わたしは手をひろげて」訴えます。しかし主はお答えになりません。
この詩は、不条理と不可能をあえて未解決なままにしています。
しかし、答えが無くとも沈黙には陥らず、神を疑ったり、神を捨てて無神論に落ちることもありません。
「あなたの憤りが押さえつけ、あなたの起こす波に苦しめられ、あなたは遠ざけ、あなたは私を忌むべきものとした」と
神に挑んでも答えはありません。
ついにはっきりと「なぜわたしの魂を突き放し なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」と問いかけます。
「闇」という言葉でこの詩篇は閉じられています。
私たちがこのような詩を、祈りを繰り返し口にし、嘆く者とともに嘆き悲しみに留まると時、神に見捨てられ、
答のない沈黙のうちに十字架につけられ死にて葬られた「悲しみの人」をしるのです。
嘆きの詩編の言葉は、現代の私たちにも訴えてきます。
****************** 明日に続きます。 m(_ _)m (
下線はゆうゆうが引きました。)

セイタカアワダチソウの中に止まった<ノビタキ>です。
もう南へ旅立ったことでしょう。
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