ゆうゆうの教会便り

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「聖書探訪」と「聖書に親しむ集い」

2021-12-12 21:36:55 | 美竹教会
美竹教会では、左近深恵子牧師によってタイトルのような集いが持たれています。
集いはZoomというアプリを使ってオンラインで行われています。
月の第一、第三の木曜日が「聖書に親しむ集い」で第二週の木曜日が「聖書探訪」です。

「聖書に親しむ集い」の聖書箇所は事前にメールで知らされますが「聖書探訪」は
(ワクワク感を出すため、かな?)事前にはどの箇所を探訪するのか知らされません。
「聖書探訪」参加二回目の私は楽しみでワクワクしました。(^^)

私達の理解を深めるために深恵子牧師からレジュメが参加者と希望者に送られます。
今日は12月の「聖書探訪」のレジュメを載せますね。
( )内は新しい聖書の訳だそうです。

1時間半の集いの中に15分の黙想があるのが私には新鮮でした。 賛美歌も歌います。
最後に一人ひとりが順番に祈る時間があるのですが、これは少々苦手です。 (-_-;)  


   2021年12月9日 聖書探訪 預言書を食べ、味わう 第9回 
   イザヤ42:1~9  讃美歌♫ 94番
  
   1~4節
    イザヤ書40~55章にある4つの「主のしもべの歌」の一つ。

   1節
   見よ、わたしの僕、わたしが支える者を(私が支える僕)。
   わたしが選び、喜び迎える者を(私の心が喜びとする、私が選んだ者を)。
   彼の上にわたしの霊は置かれ(私は彼に私の霊を授け)
   彼は国々の裁きを導き出す(彼は諸国民に公正をもたらす)。
   しもべ 伝統的な称号だが、捕囚の絶望の只中ではそれは“自然”なことではない。
     イスラエルに主との関係、務めを果たす役割を思い起こさせる。
   「見よ、これが・・・である」は、王の任命を想起させる。
     マルコ1:11 イザヤ42:1が詩編2:7と組み合わされている。
   わたしが選び選びの理由は神のもとにだけある。

   2節
   彼は叫ばず、呼ばわらず(声を上げず)、声を巷に響かせない(巷にその声を響かせない)。
   世の王と異なる方で神の裁きをもたらし、打ち立てる。

   3節
   傷ついた葦を折ることなく(折らず)
   暗くなってゆく灯心を消すことなく(くすぶる灯心の火を消さず)
   裁きを導き出して、確かなものとする(忠実に公正をもたらす)
   裁きをもたらすことは、預言者の慰めの言葉が、政治的状況において、あるいは信仰的において、
   廃れつつあるイスラエルに命をもたらすとの解釈。
   あるいはトーラーに対する主のしもべの態度が説明されているとの解釈。
   葦 まっすぐに立つ。物差し、尺度、法則、原理、基準。
   灯心 聖書では神のみことば、すなわち神の律法(詩編119:105)
   〇マタイ5:17

   4節
   暗くなることも、傷つき果てることもない(彼は衰えず、押しつぶされず)
   この地に裁きを置くときまでは(ついには、地に公正を確立する)。
   島々は彼の教えを待ち望む。
   島々諸国民。あるいは地中海沿岸地方に散らされたユダヤの民
   裁き(公正):ミシュパート。口語訳は「道」、他に「定め」「正しい法」「公正」「判決」など。
         原義は「判決」または「裁定」。これらの節において3回登場(1、3、4節)。
         神の統治を再び秩序立てること。「しもべ」が中心になって担う。

   〇マタイ12:16~21 イザヤ42:1~4を引用。 

   5~9節
   5節
   主である神はこう言われる。
   神は天を創造して(天を創造し)、これを広げ(これを延べ)
   地とそこに生ずるものを繰り広げ(地とそこから生ずるものを広げ)
   その上に住む人々に息を与え
   そこを歩く者に霊を与えられる。(その中を歩む者に霊を授けられる方)
   神の創造者としての力と知恵がほめたたえられている。
   息を与え人間の創造に関しては、生命(の息)を与えると言う一つの行為に限定。

   6節
   主であるわたしは、恵み(義)をもってあなたを呼び
   あなたの手を取った。
   民の契約、諸国の光として
   あなたを形作り、あなたを立てた。
   (あなたの手を取り、あなたを守り、あなたを民の契約とし、諸国民の光とした。)
   恵みをもって「恵み」は「正しさ、正義」。倫理的な意味よりも神と人との関わりの概念
   6節で語りかけられている「しもべ」はイスラエル。
   わたしはあなたを・・・にする神がイスラエルを世全体の救いの契約、諸国民の光とする

   7節
   見ることのできない目を開き(目の見えない人の目を開き)
   捕らわれ人をその枷(牢獄)から
   闇に住む人をその牢獄(獄屋)から救い出す(連れ出す)ために(である)。
   主語について 主である、あるいはしもべであるとの解釈。揺れ動く。
   見ることのできない目は、生まれながらに備わった苦難、囚われ人は人為的な苦難?
   古代世界において、経済的な貧しさによる投獄が主であった。

   8節
   わたしは主、これがわたしの名。
   わたしは栄光をほかの神に渡さず
   わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
   (私の栄光を他の者に、私の誉れを偶像に与えることはない)
   このような救いのわざにおいて、神はご自身が真の神であることを明らかにされる。
   その救いのわざにおいて承認される→神が他の誰にも栄光と栄誉とを渡さない

   9節
   見よ、初めのことは成就した、(先にあったことは実現した。)
   新しいことをわたしは告げよう(そこで、私は新しいことを告げよう)。
   それが芽生えてくる前に(起こる前に)
   わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。

   5~9節
   しもべは主によって呼ばれ、取られ、形作られ、抗しがたいほどに力づけられている。
   しもべは主との決定的な関係を他者にもたらすために生きる。
   しもべは世に神の秩序をもたらす(創世記12:3)。
   しもべによって実行されるべきは創造主の意志。しもべが契約を交わすことができるのは、
   主が契約を望んでおられるから。光をもたらすことができるのは、主が闇に立ち向かわれるから。
   負債が帳消しにされ、貧しい者が解放されるのは、主が脆弱なものを心にかけ、働きかけてくださるから。

独り言:夫が亡くなって五年目の冬、初めてすき焼きを作って食べました。
    大好きなすき焼きはとても美味でした。
    そして独りのすき焼きはやはり寂しいものでした。


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。


今年も青いこの子は公園に来てくれるでしょうか。<ルリビタキ♂>
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