このブログでは何度も少彦名神を祭る神社は
菅原道真の天神社や大國主命神社に主祭神が
乗っ取られやすいと記載してきたが
京都の哲学の道にある大豊神社は
由緒がしっかりと残る少彦名神を祭る天神社となっている。
この大豊神社は藤原淑子が宇多天皇の病気平癒を願って
887年に医薬祖神の少彦名命を奉祀したものである。
平安時代までは医薬祖神といえば少彦名神であり
大國主命ではなかった事を理解せねばならない。
そして八坂神社の前身の天神社も少彦名神を祭祀する社であった。
元慶元年(877)京都に疫病が流行した際に
摂政右大臣藤原基経がこの天神社に参り霊験あらたかだったので
この地に観慶寺(かんぎょうじ)を建てている。
少彦名神を天神としてではなく薬師如来として祭祀した訳だ。
でも当時の神道崇敬者はこの寺を感神院と呼んでいる。
藤原淑子と藤原基経は異母兄弟である。
また藤原基経の子供の藤原忠平が御所にお祀りの少彦名神・大国主命を
御所の北方に当る鞍馬の地の由岐神社に遷宮させている。
ちなみに京都で最初に少彦名神を祭祀したのは
弘法大師空海であり五條天神社の由緒に残る。
延暦13年(794年)平安京遷都の折に
病気退散のため社前に靭(ゆき)を掲げて祈願し、
室町時代以降は疫神、医道の祖神とされたという歴史を持つ。
ではその前の奈良で最初に少彦名神が祭られた神社はというと
奈良市高畑町の手間天神社である。
この神社の由来は不明であるが飛鳥時代より祭られてきており
奈良で最も古い神社のひとつであると確信している。
この記事は『京都八坂神社と水の女神 No344』にて詳細を記載しているので
重複する内容となる。
さて話が戻って大豊神社は元社(旧社地)があり
裏山になる東山三十六峰の第十五峰目の椿ヶ峰に奉祀されていたとのこと。
一度出向きたいと願っていたがそこまでの道が存在しない。
友人が昨日なんとかそこにたどり着き参拝して写真を送ってきた。
その写真を披露したくてこの記事を書いた次第である。
この日我が友は人生で初めて携帯スマホで写真を撮り
それをLineで送ってきた。
カメラを起動させてもなぜか真っ暗と言ってきたが
カバーを逆に付けていたそうだ。
元社の写真がどうしても欲しかったので無理させてしまったが
幾つになっても人は少しづつ成長するものだとつくづく感じた。
スマホの無限の可能性に気づいて欲しいものである。
菅原道真の天神社や大國主命神社に主祭神が
乗っ取られやすいと記載してきたが
京都の哲学の道にある大豊神社は
由緒がしっかりと残る少彦名神を祭る天神社となっている。
この大豊神社は藤原淑子が宇多天皇の病気平癒を願って
887年に医薬祖神の少彦名命を奉祀したものである。
平安時代までは医薬祖神といえば少彦名神であり
大國主命ではなかった事を理解せねばならない。
そして八坂神社の前身の天神社も少彦名神を祭祀する社であった。
元慶元年(877)京都に疫病が流行した際に
摂政右大臣藤原基経がこの天神社に参り霊験あらたかだったので
この地に観慶寺(かんぎょうじ)を建てている。
少彦名神を天神としてではなく薬師如来として祭祀した訳だ。
でも当時の神道崇敬者はこの寺を感神院と呼んでいる。
藤原淑子と藤原基経は異母兄弟である。
また藤原基経の子供の藤原忠平が御所にお祀りの少彦名神・大国主命を
御所の北方に当る鞍馬の地の由岐神社に遷宮させている。
ちなみに京都で最初に少彦名神を祭祀したのは
弘法大師空海であり五條天神社の由緒に残る。
延暦13年(794年)平安京遷都の折に
病気退散のため社前に靭(ゆき)を掲げて祈願し、
室町時代以降は疫神、医道の祖神とされたという歴史を持つ。
ではその前の奈良で最初に少彦名神が祭られた神社はというと
奈良市高畑町の手間天神社である。
この神社の由来は不明であるが飛鳥時代より祭られてきており
奈良で最も古い神社のひとつであると確信している。
この記事は『京都八坂神社と水の女神 No344』にて詳細を記載しているので
重複する内容となる。
さて話が戻って大豊神社は元社(旧社地)があり
裏山になる東山三十六峰の第十五峰目の椿ヶ峰に奉祀されていたとのこと。
一度出向きたいと願っていたがそこまでの道が存在しない。
友人が昨日なんとかそこにたどり着き参拝して写真を送ってきた。
その写真を披露したくてこの記事を書いた次第である。
この日我が友は人生で初めて携帯スマホで写真を撮り
それをLineで送ってきた。
カメラを起動させてもなぜか真っ暗と言ってきたが
カバーを逆に付けていたそうだ。
元社の写真がどうしても欲しかったので無理させてしまったが
幾つになっても人は少しづつ成長するものだとつくづく感じた。
スマホの無限の可能性に気づいて欲しいものである。