吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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京都八坂神社と水の女神 No344

2013-03-20 01:04:24 | 神霊界考察
『玄奘三蔵の原罪 No334』にて以下の事を記した。

鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』には
龍宮や八大龍王神などが登場するが
この中の「提婆達多品第十二」によると文殊師利菩薩が
龍宮に大乗の悟りの道を伝えたことになっている。
ここで娑伽羅龍王の三女という八歳の龍女が登場する。
女性や子供は悟りを得ることが出来ないと信じる菩薩たちの前で
この八歳の龍女は悟りと成仏を表わす宝珠を
仏陀に捧げて菩薩たちの悟りについての観念を破壊する。
この少女こそは龍宮綿津見の神であり少童神と呼ばれる存在であり
水の女神たる少彦名神のことである。
法華経によると童女は変成男子したともあり
水の女神たる少彦名神が男子として描かれる所以ともなっている。


ここでは龍宮に文殊師利菩薩が大乗の道を伝えたことになっているが
もともと龍宮から流出したものと筆者は考えている。
さてこの水の女神たる娑伽羅龍王の三女という八歳の龍女であるが
一般には善如龍王神と考えられている。
ところが異説では婆梨細女という話がある。
出所は信濃国分寺所蔵の『牛頭天王之祭文』などだ。
龍宮へ赴いた牛頭天王は娑伽羅龍王の三女の婆利采女を后にしたとある。
『牛頭天王之祭文』

※娑伽羅龍王=沙竭羅龍王=釈迦羅龍王
※婆梨細女=婆利采女=婆利妻女=頗梨采女

以前筆者の『少彦名神考察HP』
京都の祇園社と少彦名神について考察したことがある。
調べてみると2004年頃の考察だ。
その記事を転記したい。

祇園の四条通りの西の楼門をくぐり八坂神社に入るとまず正面に疫神社がある。
この疫神社にて祇園祭の締めくくりに疫神社夏越祓として茅野輪クグリが行われる。
疫神社に祭られるのは蘇民将来となっている。
しかしながらこの疫神社は八坂神社でもっとも神氣が強く不思議に思って由緒を調べてみた。
もともとこの地には高句麗からの渡来人である八坂連が定住していたらしい。
元慶元年(877)都下に疫病が流行した際に摂政右大臣藤原基経が
この八坂の地に祭られる「天神社」に疫病平癒祈願して霊験があったそうだ。
この神社は別の文献では「役神社」となっている。
藤原基経はこの霊験にいたく感動してこの地に居宅を寄進して
観慶寺(かんぎょうじ)を建てている。
文献では時代が1年錯誤するが
南都の僧円如が貞観十八年(876)六月十四日に、
この役神社の側に藤原基経の助力を得て、
薬師・千手観音などの像を祀った堂宇を建立したのが
八坂神社のはじめとも言われている。
観慶寺(かんぎょうじ)は藤原基経に神の感応があったということで感神院とも呼ばれている。
またこの行為を須達長者が釈迦のために造った祇園精舎に因んで祇園寺とよび、
天神堂(役神社)は祇園社と呼ばれるようになったとのことである。
そしてこの観慶寺は藤原氏だけあって興福寺の管轄となってゆく。

基経は藤原長良と乙春との子であるが
長良と難波連淵子との間に出来た異母兄弟に藤原淑子(ふじわらのしゅくし)がいる。
この淑子は宇多天皇の平癒祈願のため887年に勅命を受け
今の哲学の道にある大豊神社に医薬祖神の少彦名命を奉祀している。

また藤原基経(836-891)は阿衡事件(あこうじけん)を起こし、
菅原道真に進言され鉾を収めているが
その子である藤原時平 (871-909)の讒言により道真は大宰府にに左遷されている。
39歳の若さで早逝したために、道真の祟りだといわれた。
時平の死後、藤原氏の実権は弟の忠平に移ることになった。
さてこの弟の藤原忠平であるが
皇室の守護神として御所にお祀りしていた少彦名神 大國主命を
鞍馬の由岐神社に940年に勅命を受けて遷宮を執り行った責任者であり
その儀式は国家的一大儀式であったと言われている。

基経の姉 息子共に勅命により少彦名神の祭祀を執り行っているが
これはなぜなのか?

たぶん八坂の地に祭られていた「疫神社」とは
もともとは「薬神社」で少彦名神を祭祀していたものと思われる。
摂政右大臣藤原基経は少彦名神を祭祀していたからこそ疫病平癒祈願したのであろう。
そして霊験があったこととが広まり
異母姉の淑子の宇多天皇の平癒祈願につながったのであろうと思われる。


※蛇足ではあるが平安時代に作成された扶桑略記によると
感神院の主祭神は天神となっている。具体的には延久二年の記載となる。
京都五條天神社の天神が少彦名神であるように感神院の天神というのも
少彦名神と考えて良かろう。
それに八坂神社の末社の五社の中の天神社そのものの祭神も少彦名命となっている。
もともとの主祭神がこんな小さな社に押し込められてしまったことを考えると
申し訳なさでいっぱいになる。

以上の様に祇園社のもともとの由来を天神である少彦名神と考察しているが
この薬神社がどのような経緯で祇園社となったのかを考察すると
少彦名神の薬神社が同じ読みの厄神社となり疫神社となって
同時に少彦名神を娑伽羅龍王の三女の婆梨細女とした人たちが
牛頭天王も共に祀るようになり
時間の経過と共に牛頭天王が主祭神になったものと考えられる。
扶桑略記より80年程度後に書かれた本朝世紀には
天神ではなく牛頭天王御足焼損と記載されている。
また『牛頭天王と蘇民将来』のHPを読んでいて思ったのだが
武塔天神の方が牛頭天王より先出していることから
少彦名神の天神が武塔天神となったいう経緯も考えられる。
武塔天神と牛頭天王の関係についてもいずれ考察したい。


ところで以前京都八坂神社の疫神社に参拝したときに
左手に植えられている柊が非常に気になったことがあった。
柊は熊本の小天の天社宮少彦名神社の神籬ともされている。
しかしその時の感応はそれを表わすものではなかった。
調べてみると広島県福山市新市町戸毛の祇園神社の原点とも言われる
延喜式内 須佐能袁能神社の摂社である疱瘡神社の祭神が
比比羅木其花麻豆美神(ヒヒラギ ソノハナ マツミノカミ)となっている。
備後国風土記にはこの神社について「疫隅国社」とあり
疱瘡神社も単なる摂社とは思えない。
また京都下鴨神社の境内摂社で建速須佐乃男命を祀る出雲井於神社は
下鴨で最も古いお宮で柊社と呼ばれ
ここに植えた木が全て柊の葉になるという伝説を持つ。
ちなみに出雲の出雲井神社も
出雲で最も古い神社という富家の伝説があるが
このの祭神は久那斗神となっている。
どうも疫神社の柊は出雲の柊を意味しているように思える。
つまりは比比羅木其花麻豆美神の御神徳ということになるのだが
この女神の由緒は大國主命の後胤の多比理岐志麻流美が娶った
活玉前玉比売神の母親神ということしか判っていない。








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茅の輪のお守り (さくら)
2017-08-06 21:19:53
吉田様
この記事に書かれている京都八坂神社の摂社、疫神社の夏越のお祭で、帰りしなに疫神社を通ると、「吉田様に茅の輪のお守りを買うように」と言われました。
私が代表として行った、「八岐大蛇の呪もろともの、呉音霊から呉音神の神事」で、吉田様の信仰している御神霊さま「豊玉姫神」「少彦名神」が力を貸してくださいました。
その「少彦名神」からのお願いですので、吉田様にお守りをお渡ししたいのです。
何かいい方法があれば、お教えください。
上手く機会があえば九州熊本、「白山姫神社」でお渡し出来ればなぁとは、思います。
「少彦名神」さん、お渡しする努力いたしました。

あと、この記事に阿衡事件のことがかかれていますね。「天拝山」の私のコメントに阿衡事件の事をかいてしまいました。
この記事を読み込んでいなくてすみませんでした。


返信する
追記 (さくら)
2017-08-09 01:52:49
上記の文は私の頭の中での最終変更した文章になります。
私のいう「豊玉姫神」姿は昔の美しい女性でしたが(最初のみ)→古代鰐、マチカネ鰐だと思っています。大まかにいえば、龍神になります。北を守る玄武であるのなら、私の産土神の住吉神社は亀に乗る神様をお祀りしていますので、マチカネ山の近くです。玄武のイメージでもあります。
二回感じましたが、二回目は姿なく波動のみ。
基本、波動だけで会話はできません。
一方的にこんなことを要望しているという感覚を受けるのみです。

ですので、疫神社からの声も厳密に言えば、「少彦名神」ではなく、私が検討した結果『役小角』であろうと思われます。今回の一連の出来事を私の裏でメインで導いていたのは、どうも『役小角』と日本の宗教家達でしたので、最後は仏教の力と修験道の力に頼りました。「将軍塚による天台宗阿闍梨による満月の日の護摩業。」最後に、神道の大祓の力で締めくくりました。「夏越の大祓」
呉音霊の祭祀をしていて、このような結果になったのは、意外です。
私は何も能力はありません。運び役を請け負ったのみです。「少彦名神」も波動です。光の帯として写真に姿は写りますが、神様系統は波動しかわかりません。会話できません。漢字の変換できるようにと指示を受けたときも、姿はありません。でも、何となく「少彦名神」だなぁと解るのです。それは、吉田様のブログで「豊玉姫神」と「少彦名神」を知ったからだと思います。
でも、以前から縁がある神様だった気がします。
呉音霊さんも結局、「法華の香風」も唐音で呉音でないのでしたら、私の感覚は間違いです。癖の強い荒神ではないかとは思いました。
私には理解できないと思います。
まだ、検証は続くのではないでしょうか。

最後に、「建軍神社」のコメントで空海さんのことを、天才すぎて、完璧すぎて、と書いてしまったのを後悔していました。私は「空海さんを尊敬している」とここに書かせて頂きます。





返信する
吉田一氣 (さくら様への返信)
2017-08-10 13:21:05
現在南の島に旅行中ですので
後日返信します。
返信する
神籬 (さくら)
2017-09-03 13:23:36
吉田さまへ
あの茅の輪のお守りは、現実的物理的にお渡ししなくて好い結果になりました。
不思議なことです。
神籬を新たに作成するみたいです。
お気持ちだけは慮ってくださいね。
返信する
DEEP RIVER (はいせ)
2021-02-28 16:31:53
私事で恐縮ですが、静岡の小梳神社に導かれ、少将の井が出て来ましたが、正直意味がわからんと思っていたのです。単純に少彦名神が自分の想像以上に自分に関わりのあるご神霊だと言いたいだけなのかと思っていたのです。浅慮でした。

こちらの記事で吉田様は、「少彦名神を娑伽羅龍王の三女の婆梨細女とした人たちがいた」のでは?ということを記載されています。また、別記事のコメントで少彦名神≒呉音霊?呉音神?とした人たちがいたとも言われていたかと思います。

武塔天神は毘沙門天と唐代の武将李靖が習合した道教の神である托塔李天王と関連付ける説もあるそうで、毘沙門天を中尊とし、吉祥天と善膩師童子を脇侍とする三尊形式の像は武塔天神の説話の影響を感じさせます。ちなみに三尊形式の像は奈良朝護孫子寺、信貴山奥の院、京都・鞍馬寺、神戸市北区唐櫃の六甲山多聞寺 (!)、高知・雪蹊寺などが有名なようです。
毘沙門天は宝塔を持ちますが、能作生珠塔だったりしないのかしら?

つまり、これは権限譲渡の暗示なのではないかという気がしているのです。
『東京の牛嶋神社神社の伝承 NO483』の記事にて
「本質的な問題は周由来の呉系姫氏が祭祀する呉音霊がこの生玉宝珠とどういう関係にあるのかが
解明されなければならない。」と問題を提起されています。
生玉宝珠とは呉音霊≒イツキヤマト大神の激しさをコントロールするハミト大神、ハズキ大神のことであり、ハミト大神、ハズキ大神の系譜として縄文神との関わりがあり、666⇒567⇒576⇒369の権限譲渡を意味するのではないかと感じているのです。
そしてその象徴となるのが金の神座ではないのかと・・・。

武塔神社は広島県三次市甲奴町小童(こうぬちょうひち)にあり、天然記念物のケヤキがあるそうです。
また、中国語には mudan(牡丹)という語があり、さくら様もコメントされていたので気になって調べてみたところ、薬効成分はペオノールで、消炎、解熱、止血・鎮痛、浄血、月経痛、子宮内膜炎などに効用があると言われている。漢方では主に婦人病薬に配剤されているとのことです。
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