吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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物部氏の三輪での祭祀の背景考察 No263

2011-05-16 22:35:50 | 神霊界考察
九州には物部氏の足跡が多く残るが
物部氏はネット上でも十分情報が得られるので
吉田一氣のブログでは記事としてあまり取り上げていなかった。
今回いくつかの経緯があり三輪の祭祀で
物部氏と蘇我氏の和合の祭祀を再度執り行いたいと考えている。
この両氏族は出雲からの因縁で三輪の神霊封印にからむ。

近年になって籠神社の海部氏のリーク等により
物部氏が古代ユダヤの教義や原始キリスト教に繫がるとの
認識を持つ人たちが増えている。
物部氏と秦氏を同属と考えるような説もある。
面白い説として物部の物とは牛にナカレで、
「牛を拝んではならない」というモーセの意見が語源
となるなどという説もあった。
しかしこれなどはスサノヲが龍蛇族に敵対する牡牛族=鬼で
あったことにちなむものであり勿れの語源は四足という事である。
もっとも牡牛族の足跡を辿って古代オリエントに住むヘブライの民は
もともとユダヤ教などと食い下がられれば万教同根で話が変わるが。

筆者が自分の氏神以外の神社に興味を持つようになったのが
秦氏が建てたという伝承がある三柱鳥居がある蚕の社で
糺すべしとの感応があったのが最初だ。
後で知ったのだがここは『元糺の池』と呼ばれているらしい。
それで神霊背景一刀両断というHPを立ち上げて大本を糺すべく
『祭神及び神名乗っ取り研究会』を1998年頃だかに開いた。
ここ蚕の社にはもともと物部氏の祖神が祀られていたのだが
秦氏に乗っ取られている社だ。
しかし物部氏の祭祀よりも古い祭祀があることに気づいた。
霊的背景は複雑怪奇で挫折したまま今に至っている。

物部氏が古代ユダヤの教義や原始キリスト教に繫がるとの話は
たぶん江戸期か明治期に日ユ同祖論が提唱された時に
籠神社の先代宮司が感応しそれが継承されたものと感じている。
霊的感応として籠神社の宮司がそう感じられたとしても不思議は無い。
ただそれが本当に物部氏オリジナルの血筋そのものが
ユダヤに繫がるのかという点が問題である。
全国の式内社の宮司には秦氏と婚姻関係で繫がる賀茂氏の血が流れる。
秦氏がユダヤと繫がることには特に異論は無い。
(秦氏・賀茂氏・八咫烏連合については別途機会があれば述べたい。)

籠神社の海部氏は系図によると先祖を珍彦=椎根津彦=倭宿禰とする見方と
物部氏系とする見方が出来るような作りらしい。
珍彦は海神族の綿津見系で海部氏系図では三世孫倭宿禰となっているようだ。

もともとの籠神社の海部氏が同格と競うのは尾張氏の熱田神宮であろう。
熱田神宮は天叢雲剣を神体としている神社であるが
明治4年に旧社格では官幣大社に列格している。
籠神社は丹後国一宮で旧社格は国幣中社である。

宇摩志麻遅の弟の天香山命の系譜に
海部氏や尾張氏が繫がるというのが一般的な見方である。
従って海部氏が物部系であるというのは問題が無い。
しかし海部氏が物部氏の中の物部氏というのには違和感がある。
所詮は傍系の戯言と取られても仕方が無い。
今回は倭宿禰の系統を持ち出さずに物部氏としての優位性を
言い出してユダヤと繫がるとしたところに無理がある。

確かに秦氏系に古代ユダヤの教義をもたらした一族がいることは認めるが、
石上神宮に伝わる物部系祭神の
フツ=渡来人といわれる物部氏系初代
フツシ=布都斯魂大神=スサノヲ フツの子
フル=布留御魂大神=ニギハヤヒ フツシの子
宇摩志麻治命 ニギハヤヒの子 物部氏の祖
にユダヤや原始キリスト教の流れは感じられない。
石上神宮に伝わる十種神宝も同じである。
籠神社と石上神宮を比べた場合に神霊界の奥行きの違いは明確である。

問題は籠神社の上にある奥宮の真名井神社である。
ここには水の女神が鎮まっておられる。
籠の字で分かるように籠神社は封印するカゴの意である。
カゴメでかこまれているのはこの水の女神である龍である。
この水の女神こそがこの地に鎮まる神霊ということになる。
それゆえか天橋立神社に祀られる悪龍神が文殊菩薩によって改心し
善龍となったという伝承がこの地に伝わる。
また八大龍王神につながる八乙女伝承も残っている。
そしてこの神霊の系統はもともとは縄文神のクナトノ大神及びアラハバキ神に繫がる。

蘇我氏の縄文神祭祀というものは
真名井の水で清めた勾玉を使って行なっているように感じていたが、
この奥宮の真名井神社はまさにその初代蘇我氏系の祭祀に思える。
このような縄文神祭祀に使う勾玉を清める真名井のある神社は
出雲井神社や丹波の出雲大神宮や三輪の狭井神社等である。
初代蘇我氏系とは出雲の稲田宮主須賀之八耳神から続く家系となる。
海部氏は物部氏の中の物部氏というよりも
蘇我氏の中の物部氏あるいは物部氏の中の蘇我氏
ではなかろうかと感じている。
この二氏を神事的に結びつけるのが忌部氏と思われる。
今回の物部氏と蘇我氏の和合の三輪祭祀では
忌部氏由来の麻の葉紋と翡翠勾玉を活用したい。


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22 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なるほど・・・ (金鷹)
2011-07-13 21:58:27
大変勉強になりました。(^^)
しかし、1つだけ間違いがある。蚕の社の祭神の一つに大国魂の神が居るが、これは土地の神であり、大国主の事ではない。各地にもある国魂の神の事で、土地を護る地主の事。
返信する
太秦之厳眞 (金鷹)
2011-07-13 22:21:19
秦氏が乗っ取りをやったと鶴の一声があれば、皆が右に習えとなるのはかなわぬな。乗っ取ったのは天皇家であり、それを「やれ」と言ったのは藤原だ。物部は蘇我にやられ、蘇我は藤原にやられ、藤原は物部を抹消した。秦氏も藤原によって陰に隠されていた。黒幕は

天武帝と藤原不比等・・・。

秦氏の集い
返信する
金鷹さまへの返信 (吉田一氣)
2011-07-14 10:08:56
コメントありがとうございます。
蚕の社のある木嶋坐天照御魂神社は
京都市右京区太秦にあります。
この近傍で一番古い遺跡や土器情報としては
①片平大塚古墳 6世紀初 前方後円墳 もとは秦氏系 
②天塚古墳 6世紀初 前方後円墳 秦氏系 勾玉発掘
③蛇塚古墳 6世紀末 前方後円墳 秦氏系
等 6世紀初頭から秦氏により古墳が作られています。
それより以前の遺跡が見つかっているとの情報を知りません。
京都での縄文遺跡は西京区の上里遺跡 上終町遺跡 北白川縄文遺跡群
等ありますが、たぶん秦氏が開拓した太秦あたりは
開拓抜きには人が住めない地域だったのでしょう。
渡来人の秦氏が自分たちの土地を求めて開拓したのでしょうが、
この蚕の社も誰も住んだことが無い土地に
秦氏が最初に祀った神社であるというのは
そういう背景から観て間違いないでしょう。
そういう意味でもともとの古い祭祀が残っていた
土地に秦氏が祭祀した伏見稲荷松尾大社などとは構造が違うでしょう。
秦氏はユダヤ系の信仰も持っていたという仮定で
三柱鳥居を考察するというのがよく見聞される説です。
それについては全く問題の無い考察だとは思います。
しかしこの蚕の社には物部の神霊の氣が残っています。
秦氏と物部氏のつながりの奥深い部分の考察は抜くとしても
物部氏であれば素戔嗚尊か饒速日が頭に浮かびます。
そう考えれば天照御魂=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と
考えるべきかと思います。
さてご指摘の蚕の社の大国魂の神についてですが
『天照大神の候補 No130』で記載したように
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_iltuki/e/8b1cfa846cdb4120a2de15ae62662d58
大歳神=饒速日尊と須治比賣の間に出来た子供が大国魂神とする説もあるので
その説に則ったものか
秦氏がこの地に住むに当たり地神を祀ったものであるかは断定しかねます。
興味深いのは秦氏創建の松尾大社の磐座で縄文神の感応があったことです。
ここでは間違いなく古代神を土地神として秦氏は祭祀しています。
しかし残念ながら大国魂という名称は見当たりませんでした。
不勉強なところもあるので今後更に調査していきたいと思います。
これからもアドバイスやご指摘を宜しくお願いします。
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吉田様、 (金鷹)
2011-07-14 21:49:50
私は秦一族の末裔です。一族の中でも奈良や京都の時代よりも遥か前から渡来していた北九州は豊国の香春の鷹を象徴する弥生時代の秦氏の血筋の者です。太秦の語源は辛国宇豆高嶋の宇豆に勝=すぐり を加えたもの。
秦氏の集いのブログにも書いておりますが、私のアドを書いておきましょう。

arcadia@ksf.biglobe.ne.jp
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秦氏の裏話し (金鷹)
2011-07-15 06:09:12
高句麗についてはよく解らないが、新羅神は秦氏だけではなく、物部氏も祀っていた形跡がある。渡来系の神と言われているので、渡来人が居たとされる場所には新羅神が祀られている。白山がそう名付けられたのは新羅の白で間違いない。但し、香春岳の辛国息長大姫大目命は神功皇后とは違う。この神は鉱山の神であり、多々良の神=青銅製鉄の神。即ちカバラの錬金術の神である。この香春岳で神功皇后が関係しているのは卑弥呼の関係と言われている。
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金鷹さまへの返信2 (吉田一氣)
2011-07-15 12:08:26
さらに詳しい説明ありがとうございます。
古い時代に九州に渡来してきた複数の民族の中に秦氏もいたということですね。
それが宇佐神宮等の成立にも関与しているし
いろんな大陸文化ももたらしたということですね。
そして九州の渡来系の秦氏と物部氏は
新羅神の信仰を持っていたということが理解できました。
返信する
波動による話し (金鷹)
2011-10-14 21:00:09
秦氏の渡来は古事記や日本書紀の改竄された歴史ではなく、中国の三国志記の末端30巻からなっている魏志倭人伝によるものが正しい。秦氏は倭人が居た弥生時代には九州の北側である豊国を拠点として秦王国を築いていた。つまり天皇制度や大和政権よりも前の時代から居た事になる。かくいう私もその末裔として波動を感じる能力を持っている。物部は須佐之男を祭っていたがニギハヤヒが物部の祖という波動が無い感覚がある。また須佐之男とニギハヤヒは違う波動を感じる。ニギハヤヒは雲を掴む様な波動を受ける。
返信する
金鷹様への返信 (吉田一氣)
2011-10-15 01:43:22
いつも御指南ありがとうございます。
秦氏が古い歴史を持つことに異論はありませんが
畿内での活動は6世紀に目立つのですが
それまでは北部九州が活動拠点だったという訳なのですね。
ということは物部氏と時期的にも同じような行動を
したと考えていいわけですね。

秦氏の豊国の氏神社としては
宇佐の八幡社が一番古いと考えていいのでしょうか。
歴史上は物部氏は九州だけでなく出雲にも足跡がありますが、
秦氏と出雲の関係が見えませんが何か秘密があるのでしょか。
ところで物部氏系と仮定する素盞鳴尊の
八岐大蛇退治伝説には脚色が見え隠れするのですが
秦氏のサシガネによるものだったのでしょうか。

ニギハヤヒに関してはウマシマジの直系の物部氏に
天孫降臨の権威をもたらせるために
作り出されたという話もありますが
スサノヲ⇒ウマシマジでは辻褄が合わなくなるし
スサノヲを物部氏と切り離すと
スサノヲは出雲制圧後に消えてしまうので
やはりスサノヲ⇒ニギハヤヒ⇒ウマシマジが流れ的には
ちょうどいいのですがね。
感応的にはスサノヲの霊的系統は須賀=蘇我氏と繋がるので
ここで物部氏と分岐していると私は判断しています。

秦氏の集いのブログ読ませていただきました。
古代物部は物部大連であって氏ではないのですが
八色の姓以降は姓が乱れて
県犬養宿禰三千代がもらった橘のように
姓に姓がついて橘宿禰や橘朝臣などとなったので
一般的には橘氏と記載されれように
物部も物部氏と記載するのが慣例のようですよ。
返信する
尾張氏 (りひと)
2016-12-03 16:59:16
なんとなくですが奈良の高オワリにいた方々が、かなり古い日本の原住民の様相をもってきました。それが物部にも後の尾張氏になっているようにも。奈良が本拠地ではなく鳥取から越の方ではないか?

おそらく磐座の信仰を持っているようにも。
風により長い年月をかけ風化した巨石、そこに水があり水神的な要素も兼ね備え海を縦横無尽に移動して物々交換しながら交流していたような?

和邇なのか尾張なのかは微妙ですけどそこが合流していた一族がいたはず。
一般にいう尾張氏はすでに乗っ取られているようにも。女系の役割を評価するかしないかで2色に分別出来るとも思います。ある時から権力手段に女性をしてしまったように感じています。初期の物部とも一致するように思います。一般の物部でもないはずです。6420
返信する
凄い内容… (すずたま)
2017-03-09 12:26:27
以前は頭を通過してしまったのですが、なんだか凄い内容が語られていたのですね。今になってやっと少しは意味がわかるようになりました。
コメント欄での応酬も凄いです。
りひと様のコメも鋭いし。

秦氏の前の、物部氏の前の、・・・
吉田様は糺すの神の糺せよとの命から始まったのですね。

そしてそれがカゴメに閉じ込められた神であると。
(白山ヒメ神社の御神紋も三重のカゴメの中の五〈ミロクの真ん中の神〉)

個人的には、
「全国の式内社の宮司には秦氏と婚姻関係で繫がる賀茂氏の血が流れる。」
に反応しています。

なお、宇佐王国も豊前王国も、九州より前に吉備にあった可能性があります。
それは半島を経由していないはずです。
1553 7921
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