先日のニュースで「宮内庁は、天皇や皇后が逝去した際の埋葬方法について、
天皇皇后両陛下の意向を受けて、土葬から火葬に変える方向で
具体的に検討を進めることになりました。」とあった。
調べてみると仏教思想の影響により火葬の導入がなされたのは
聖武天皇(756年没)から孝明天皇までらしい。
明治・大正・昭和天皇は国家神道の作法により土葬となっている。
ここで気になったのが天皇の火葬は仏教式であり
土葬は国家神道式と捉えられていることだ。
一般人について、現代の法律では土葬は条例で禁止されている地域はあるものの
選択の余地が無いわけではない。
確かに日本人の場合は葬儀は仏教式が多いが
それでも設備が整っていない時代は、一般人でも土葬が常であった。
現代では火葬が手軽であるが江戸時代までは逆に土葬が手軽で
一般人の場合は手軽な方に従っているということになる。
キリスト教圏では映画などでもおなじみだが現在でも土葬が主流らしい。
こちらは明確な教義に基づく。
さて仏教と火葬はどう結び付くのかというと
ブッダの遺骸がマルラ族の手によって火葬されたことによるらしい。
ブッダがそれを望んでいたのかどうかは分からないが
初期仏教の教義によれば死ぬ前も無であり死後も完全消滅=無という考えであるから
解脱したブッダにとってはどうでも良かったものと思われる。
さて宗教的には土に還るか煙となって天に登るかの違いがある。
キリスト教では死後も最後の審判で復活するまでは待機となるらしいので
天に登るとは考えないのだろう。
ところで国家神道では天皇は天津神系に属する。
なぜ天津神系の天皇が死後に土葬なのかという疑問が残る。
葬儀にうるさい儒教では死後に魂魄は二つに分かれ
魂は陽極で軽く天に登り魄は陰極で重く地に帰すと考えられていたが
そのうちに魄を死体ととり違えるようになってしまった。
映画で有名になったキョンシーは魂が抜かれた後の魄ということらしい。
しかし魂魄は陰陽二霊であって
本来は肉体とは切り離して考えるべき性質のものである。
記紀では黄泉のイザナミの姿が描かれているが
蛆がたかり、体には8体の雷神がまとわりついていて
その姿はまさに土葬だったと考えられる。
イザナギは巨大な岩で黄泉比良坂を塞いで黄泉と高天原を切り離したので
黄泉は封印されたままのはずである。
しかしスサノヲは母をしたい黄泉に向かうので封印を解いたとも考えられる。
その後に神の時代から人間の時代になっても
死後は黄泉に戻るという考えが残されたようだ。
そういう意味で神道は土葬を理想とすると言っていいのかもしれない。
一般人が死後に燃やされて天に昇るという考え方は不遜であるようだ。
資産家であり神道信仰者であれば
土葬ということも視野に入れていいかとも思う。
死後の世界で土葬にすれば良かったと悔いても取り返しが付かない。
我々の肉体にはDNA・RNAだけでなく霊的な学習情報が波動的に取り巻いている。
オーラとして見える霊的情報エネルギー帯は本来は死後大地と調和する。
これが獲得情報的生命進化の母体となっている。
これらの貴重な体験情報が1200度の高温で燃やされて完全消滅するのは
おしい気もする。
尤も自分はこの世に未練は無いので死後は火葬でさっさと消えて構わない。
しかしハイレベルな学識を持ち死後もその能力をまだまだ活かしたいと
自分の研究や子供や社会に未練がある人は
死後も生命進化に影響を与えられる可能性がある土葬も十分検討に値するだろうと思う。
不気味な話だが土葬と同様理論で
惨殺されて地中に埋められた人間は残留思念が残り不浄霊として祟ることが多いというが
上記理由で納得できる。
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天皇皇后両陛下の意向を受けて、土葬から火葬に変える方向で
具体的に検討を進めることになりました。」とあった。
調べてみると仏教思想の影響により火葬の導入がなされたのは
聖武天皇(756年没)から孝明天皇までらしい。
明治・大正・昭和天皇は国家神道の作法により土葬となっている。
ここで気になったのが天皇の火葬は仏教式であり
土葬は国家神道式と捉えられていることだ。
一般人について、現代の法律では土葬は条例で禁止されている地域はあるものの
選択の余地が無いわけではない。
確かに日本人の場合は葬儀は仏教式が多いが
それでも設備が整っていない時代は、一般人でも土葬が常であった。
現代では火葬が手軽であるが江戸時代までは逆に土葬が手軽で
一般人の場合は手軽な方に従っているということになる。
キリスト教圏では映画などでもおなじみだが現在でも土葬が主流らしい。
こちらは明確な教義に基づく。
さて仏教と火葬はどう結び付くのかというと
ブッダの遺骸がマルラ族の手によって火葬されたことによるらしい。
ブッダがそれを望んでいたのかどうかは分からないが
初期仏教の教義によれば死ぬ前も無であり死後も完全消滅=無という考えであるから
解脱したブッダにとってはどうでも良かったものと思われる。
さて宗教的には土に還るか煙となって天に登るかの違いがある。
キリスト教では死後も最後の審判で復活するまでは待機となるらしいので
天に登るとは考えないのだろう。
ところで国家神道では天皇は天津神系に属する。
なぜ天津神系の天皇が死後に土葬なのかという疑問が残る。
葬儀にうるさい儒教では死後に魂魄は二つに分かれ
魂は陽極で軽く天に登り魄は陰極で重く地に帰すと考えられていたが
そのうちに魄を死体ととり違えるようになってしまった。
映画で有名になったキョンシーは魂が抜かれた後の魄ということらしい。
しかし魂魄は陰陽二霊であって
本来は肉体とは切り離して考えるべき性質のものである。
記紀では黄泉のイザナミの姿が描かれているが
蛆がたかり、体には8体の雷神がまとわりついていて
その姿はまさに土葬だったと考えられる。
イザナギは巨大な岩で黄泉比良坂を塞いで黄泉と高天原を切り離したので
黄泉は封印されたままのはずである。
しかしスサノヲは母をしたい黄泉に向かうので封印を解いたとも考えられる。
その後に神の時代から人間の時代になっても
死後は黄泉に戻るという考えが残されたようだ。
そういう意味で神道は土葬を理想とすると言っていいのかもしれない。
一般人が死後に燃やされて天に昇るという考え方は不遜であるようだ。
資産家であり神道信仰者であれば
土葬ということも視野に入れていいかとも思う。
死後の世界で土葬にすれば良かったと悔いても取り返しが付かない。
我々の肉体にはDNA・RNAだけでなく霊的な学習情報が波動的に取り巻いている。
オーラとして見える霊的情報エネルギー帯は本来は死後大地と調和する。
これが獲得情報的生命進化の母体となっている。
これらの貴重な体験情報が1200度の高温で燃やされて完全消滅するのは
おしい気もする。
尤も自分はこの世に未練は無いので死後は火葬でさっさと消えて構わない。
しかしハイレベルな学識を持ち死後もその能力をまだまだ活かしたいと
自分の研究や子供や社会に未練がある人は
死後も生命進化に影響を与えられる可能性がある土葬も十分検討に値するだろうと思う。
不気味な話だが土葬と同様理論で
惨殺されて地中に埋められた人間は残留思念が残り不浄霊として祟ることが多いというが
上記理由で納得できる。
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