yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2016京都を歩く ⑧鞍馬の山道を登り、地表に伸びた木の根道を過ぎ、奥の院魔王殿へ、宇宙の力みなぎる?

2016年09月17日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑧奥の院へ 息つぎの水 背比べ石 木の根道 大杉権現社 義経堂 僧正ガ谷不動堂 奥の院魔王殿 磐座

 冬柏亭の先に石段があり、手前に奥の院への標示があった。
 階段を上り、門をくぐると、一気に山奥の雰囲気になった。森が深くなり、道も険しさを増してきた。それでも手入れがされている。
 少し登ると息つぎの水と書かれた小さな湧き水がある。伝承では、牛若丸は鞍馬寺で昼は仏道を学び、夜になると奥の院で天狗から兵法の学ぶためにこの山道を駆け上っていった。
 その途中、この湧き水で喉を潤していたことから、息つぎの水と呼ばれるようになったそうだ。ひしゃくも置いてあったが、水を持参しているので通り過ぎる。
 崖っぷちに建っている地蔵堂を右に眺め、左カーブを登ると、崖側に背比べ石と書かれた石が置かれている。
 牛若丸が奥州平泉の藤原秀衡を頼って鞍馬寺を去るとき、この石と背比べをして名残を惜しんだという伝承があるそうだ。
 事実なら、牛若丸はかなり小さい。それとも岩が風化して小さくなったのか、参拝者が縁起を担いで削り取ったため小さくなったのか。伝承は、あまり詮索しない方がロマンになるようだ。
左手が小高くなっていて、登ると根っこが地表面に露出した「木の根道」という珍しい光景が現れる(写真)。まるでハリー・ポッターの映画のように、いまにも根っこが襲いかかってきそうに見える。
 山道を歩いていると、ときどき木の根っこが地表に飛び出していることがあるが、それはたまたまであって、ここは、ここに根付いているすべての木の根っこが露出しているのである。
 説明によると、このあたりの地盤である砂岩がマグマによって硬化したため地中に根を伸ばすことができず、地表に根を伸ばしたためだそうだ。
 ほとんどが杉で、根っこが地表に伸びていても立派に成長している。自然の生命力の旺盛さに感服する。木の根っこを踏まないように一回りして、山道に戻る。

 このあたりから山道は下りになる。木の根道の杉もみごとに育っていたが、山道の杉も大きく育っている。樹齢が1000年に及ぶ杉もあるそうで、とりわけ護法魔王尊影向の杉と名づけられた大木は参拝者の崇敬を集め、大杉権現社が建てられた。
 残念ながらその大木は台風が通過したとき倒れてしまったそうだが、霊力のみなぎった大杉がたくさん息づいていて、このあたりで瞑想にふける人が多いそうだ。
 山道の大杉は延々と続く。杉の霊力に後押しされながら、下りのせいか?、歩きが楽なった。
 右手の石段の上に義経堂が建つ。義経の御霊が鞍馬に帰ってきたと信じられ、この堂が建立されたそうだ。
 左手には白木の僧正ガ谷不動堂が建っている。最澄が天台宗立教の悲願を込めて彫った不動明王が祀られているそうだ。

 緩い下りで歩きが楽になったとはいえ、山道であるから杉の根っこが露出したところもあれば、ぐらついた石もあり、湿って滑りやすい凹凸もある。足もとに気を取られながら下っていったら、杉の大木に囲まれた社が見えた。
 奥の院魔王殿である。二組のカップルが写真を撮りあっていた。
 切妻の社には白地の幕が掛けられ、中に入ると磐座いわくらと呼ばれる岩が安置されていた。
 650万年前?、この岩に護法魔王が降臨されたことから宇宙の力がこの岩からあふれ出し、鑑禎を始めとする修行者を鞍馬に導いて、宇宙の真理に目覚めさせたとされる。
 今風にいえば、パワースポットの原点になろう。合掌しただけでは宇宙の真理に目覚めないだろうが、手をあわせパワーを分けてもらう。

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2016京都を歩く ⑦鞍馬寺本殿金堂前の六芒星を図象化した金剛床で宇宙のエネルギーを感じる?

2016年09月14日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑦ 本殿金堂 金剛床 六芒星 毘沙門天王 阿吽の虎 祥雲台 護法魔王尊 与謝野晶子・寛の歌碑
 鞍馬寺本殿金堂前には「金剛床こんごうしょう」と呼ばれる石が敷きつめられている。六角形の石を中心にして放射状に三角形を交互に組み合わせた石が三重に配置され、全体で直径5-6mの円をなしている。六芒星という図象である。
 人間も宇宙の一つの存在で、六芒星の中心に立つと宇宙に通じるエネルギーを感じ取ることができるそうだ。来訪者が次々とここに立って合掌していたので、私も六芒星の中心に立ち合掌してみた。年のせいか感じ方が鈍く?なっているが、宇宙のエネルギーに通じたかも知れない。

 本殿には毘沙門天王を中心とし、千手観音菩薩、護法魔王尊が祀られている。内陣は暗い。黒光りする毘沙門天王は目だけが光って見える。心のなかまで見透かしているようだ。

 朱塗りの本殿金堂の左右には、通常は獅子をイメージさせる狛犬の阿吽の石造が飾られるが、ここでは阿吽の虎が飾られている。本尊の毘沙門天が助けに現れたのが寅の月、寅の日、寅の刻だそうで、虎=虎が毘沙門天の神獣として崇められたらしい。獅子も虎も猛々しく、守護力は変わらなさそうだが、ここの虎は猫顔でどことなくユーモラスでもある。

 境内の谷側に「祥雲臺」と書かれた石が置かれている。本尊の毘沙門天が天より降り立った石だそうで、しめ縄が巡らされている。
 ここから見下ろす眺めがいい。緑の山並みが幾重に重なりながら彼方まで続いている。
 毘沙門天が現れたときは堂宇はおろか草庵もなかったが、夢のお告げで山を登ってきた鑑禎は、ここから山並みを見下ろし、京の都の俗な暮らしから決別した世界を実感できると確信したに違いない。
 
 本殿金堂右手の閼伽井護法前神社、左手の光明心殿を参拝する。
 光明心殿は緩やかな勾配の方形屋根を乗せた間口3間の小さな堂だが、本尊は650万年前に降臨した護法魔王尊である。ここで護摩供の修業が行われるそうだ。手前の、しめ縄が貼られた砂地で火が焚かれるらしい。

 光明心殿の左に、一見すると平屋の本坊・金剛寿命院が建つ。鞍馬山案内のパンフレットでは、斜面に柱を立てた懸造りがけづくりになっていて、4階建てらしい。
 前庭に砂が円形に盛られていたが、護法魔王尊の乗り物の天車のイメージだそうだ。鞍馬山案内パンフレットにはそうしたエピソードが無いので、チラリと眺めて通り過ぎた。
 
 本坊・金剛寿命院の右手に「奥の院参道」と書かれた門がある。くぐると先に石段があり、途中の鐘楼を通り過ぎた先に与謝野晶子・寛の歌碑がある。
 晶子の歌碑には円形のブロンズ?がはめ込まれていて、なんとなく きみにまたるる きもちして・・が彫られているが、達筆で読み切れなかった。
 隣の寛=鉄幹の石碑は荒々しいままの石碑に歌が彫られているが、さらに読み取れなかった。草書を読む訓練をしておけば何とかなったかも知れない。時遅し。
 与謝野晶子・鉄幹は全国を旅しながら歌を詠んでいるから、鞍馬寺にも来て、毘沙門天や護法魔王、義経に思いを馳せ、歌にしたのかも知れないが、もう少し説明が欲しい。
 できれば、石段の途中の見晴らしのいい場所に、一休みできるようにして、歌碑と説明を配置したらどうだろうか。呼吸を整えながら石段を上っていると、左右に注意が向きにくく、見落としてしまう。
 
 石段を上りきった先に、コンクリート造の霊宝殿が建っている。
 国宝の毘沙門天像などが展示され、晶子記念室もあり、鞍馬山自然科学博物苑も併設されているようだ。しかし、コンクリート造のデザインは仰々しく、鞍馬山の風景から浮き上がっている。入ろうか一瞬迷ったが、道を急ぐことにした。
 その先に、晶子が使っていた書斎=冬柏亭が移築されていた。
 東京からの移築らしいが、大阪生まれの晶子と京都生まれの鉄幹は東京でいっしょに暮らしたから、そのときの書斎だろう。想像力を働かせて、母屋に鉄幹の書斎があり、晶子は離れを書斎にした、という推理ははどうだろうか?。公開されている書斎は小さいが、落ちついた佇まいである。

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1990通世代同居の住み方調査=「楽しい・安心できる・助け合える」などのメリットあり

2016年09月13日 | studywork

1990 「通世代同居家族の住み方にみる家共同体」 日本建築学会中国大会

 総務省の統計によれば、依然、核家族化は進行していて、全世帯の56%に上り、微増している。対して同居家族は微減していて10%ほど、一方単独世帯が増え続け、いまや32%に上る。
 私自身も結婚と同時に世帯を独立させた。理由は、家が狭いことと、通勤が遠すぎたことである。そのころ、農村の住み方を調べていて、同居家族の利点を強く感じた。とりわけ、三重県阿児町での隠居慣行は目から鱗が落ちるほど、優れた住み方に見えた。もちろん、慣行を成立させる条件は厳しいし、社会情勢に見あった慣行の修正も必要だが。

 そのころに同居家族の住み方の特徴を調べた結果が「通世代同居家族の住み方にみる家共同体である」。一つの母屋のなかに住みあう事例と、同じ屋敷のなかに別棟を建てて住みあう事例に分けて整理した。
 聞き取りでは、嫁と姑が気兼ねなく本音を話せるように、一人ずつに話を聞くようにした。
 その結果だけ列挙する。各事例のまとめはホームページを参照されたい。

同棟に同居している事例のまとめ
1)家族構成:老夫婦・中夫婦とその子どもの三世代、5~6人家族が多い
2)主な働き手:世帯主は主に中夫であるが、老夫・中夫、さらに老婦・中婦ともに働く傾向が高い。
3)世代交替:特に決まってはいないが、老夫が60才になった時、または老夫が働けなくなった時点が多い。
4)住み方:就寝は世帯主夫婦は世帯主専用の部屋、非世帯主は2階や土間空間を改築した部屋、食事・炊事、団らん・接客は共用の部屋を用いている。
5)家族の助け合い:①炊事は老婦中心・中婦手伝いから、中婦中心・老婦手伝いに移行する、②育児は親である中夫婦を基本とし、老夫婦が補佐する、③農業や行事では、老夫婦を中心とし中夫婦が手伝う、④病気の時は状況に応じて介護、仕事分担が行なわれる。
6)評価:通世代家族の同居に対し、家族が大勢で楽しい・病気の時でも安心できる・子供の世話を見てもらえるなど通世代家族の同居を高く評価している、また、老世代はなるべく若い者の意見に従う・中世代は困ったとき老世代に相談するとしており世代間の協調が見られる。
3 まとめ  
 各世代はそれぞれの専用就寝室をもちプライバシーを確保する一方で、食事・炊事室、団らん・接客室の共用により家族のまとまりが形作られ、また、それぞれの世代・属性に応じて仕事を分担する一方、相互扶助を通じて仕事の手順や作法・慣習の伝承がなされている、つまり通世代家族の同居により安定した生活共同体が形成されている。

別棟を建てて同居している事例のまとめ
1)家族構成:隠居夫婦・老夫婦、中夫婦とその兄弟および子どもの四世代8~9人家族が多い。
2)主な働き手:世帯主は二番目の世代にあたる老夫が多く、働き手は二番目と三番目の老世代と中世代が中心である。
3)世代交替:老夫が60才になった時点か、または老夫が働けなくなった時点が多い。
4)住み方:世帯主夫婦の就寝は伝統的な慣習によった主屋の専用の部屋を、非世帯主家族は納屋などを改築した別棟を用いるが、食事・炊事、団らん・接客は通世代家族が主屋の部屋を共用する。ただし、隠居夫婦など 病弱の場合は特定の部屋が隠居世代の生活専用の場となる。
5)家族の助け合い:①炊事は老世代が比較的元気なうちは中心となり、中世代が手伝い、徐々に中世代が中心、老世代が手伝いに移行する、こうした役割の交替の中で老世代から中世代へと家庭の味やしきたりなどが継承されていく、②育児は親である中世代婦が中心となるが、中婦が外で働いている場合は隠居夫婦や老夫婦が育児を補佐する、つまり中夫婦は安心して外で仕事ができ、また若世代は隠居夫婦や老夫婦から遊び、家のしきたりや礼儀作法を学ぶ、③農作業や行事の中心は世帯主夫婦の場合が多いが、老世代が元気なうちは老世代中心・他の世代が手伝いとなり、徐々に世帯主夫婦中心・若世代手伝いに移行する、この過程で家や村のしきたり、慣習の学習・継承がなされる、④病気の時は、状況に応じて介護、仕事の分担がなされる。
6)評価:家族が大勢で楽しい・病気の時でも安心できる・子どもの世話を見てもらえる、村のしきたりなど困ったときに相談できるなど通世代家族の同居を高く評価している、また、年長世代はなるべく若い者の意見に従う・年少世代は何でも年長世代に相談するとしており家族構成員の協調が見られる。

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1984年のネパールの旅でポカラ郊外に建つ土づくりの楕円住居を訪ね、柔らかな空間を感じた

2016年09月11日 | 旅行

1984 ネパール ポカラ郊外の楕円住居  /1995.7記
 1984年3月ネパールを訪ねた。30数年前になる。そのころとはずいぶん様変わりしたと思う。以下に記した楕円住居ももう姿を消したかも知れない。住民がそれを望み、暮らしが向上するのであれば、住まいの進化を応援したい。楕円住居の記録は、歴史として留めればいい。
 1995年の記録を再掲する。

 ネパールの位置を正確に描けるだろうか。世界地理を学んだのは遠い昔、一瞬、戸惑うかも知れない。
 でもヒマラヤと聞けば知らない人はいないだろう。とりわけエベレストは世界最高峰として登山家を魅了し続けてきた。
 エベレストはヒマラヤ山脈の測量者イギリス人のエベレストにちなんだ呼び名で、地元ではこの山をチョマランマと呼んでいる。
 その高さは8848m。この数字も正確に記憶している人が多いはずだ。ところで、チョマランマは富士山のように忽然として聳えているのではなく、ダウラギリ、マチャプチャレ、アンナプルナなど聞き覚えのある山々が連綿と続き、インドのヒンドスタン高原と中国のチベット高原を遮るように巨大な山脈を構築しているのである。

 ネパールは、その巨大なヒマラヤ山脈のインド側に形づくられた王国である。国土はヒマラヤ山脈に沿って東西に細長いため、南北方向の直線距離はわずか200kmしかない。
 ところが、ヒマラヤ山脈に沿った立地のため一方はヒンドスタン高原に続く標高200mほどの土地から8000mに至る山地がわずか200kmのあいだに同居している。
 この大きな高度差が何を意味するのか。山登りの好きな方は体験から理解できると思うが、ネパールの南部は標高も低くおよそ沖縄ぐらいの緯度になり亜熱帯圏に属す。
 標高が少しあがって2500mぐらいまでは温帯圏、さらに高いところが亜寒帯になる。
 人間が実際に住んでいるのは5000mぐらいが限界だそうで、ここらあたりは一年中寒帯に相当しよう。
 気候区分が異なれば植生が異なり、生活や住まいの作り方が異なってくる。つまり、生活様式、民族文化が変わってくる。
 南北はわずか200km、これは東京・静岡ぐらい。この短い距離に、200mから5000mの標高に規定され、民族文化の異なる人々が同居しているとすれば不思議に思えるに違いない。
 そのうえ、ヒンドスタン高原とチベット高原に挟まれているため早くからヒンズー文化とチベット文化の影響を受けてきた。その結果、ネパールは短い距離に自然と異文化に規定された民家様式が数多く分布することになった。
 
 ネパールを訪ねてからずいぶんと日が経ったので様変わりしたかも知れない。近年は、カトマンズの人口集中と大気汚染が取り沙汰されているといわれる。
 人を寄せ付けないヒマラヤの雄姿とネパールの人々の澄んだ目はかけがえのない財産である。ヒマラヤと澄んだ目を守るためには、自然のスピードにかなった、人に等身大の開発が適している。経済偏重の社会は何としても避けるべきであろう。
私たちが訪ねた民家の一つを紹介しよう。カトマンズから西方およそ200kmに位置するポカラの郊外に、ゴルガールと呼ばれる楕円形の民家がある。
 カトマンズは標高1350mだがポカラは800mで、車で走ると植生の変化が素人目にもはっきり確認できる。緑はしっかりとした存在感を示し、民家のまわりには畑が一面に広がっている。
 その風景のなかに赤土色をまとった民家が建っていた。楕円平面の長径は6mぐらい、短径は4-5mぐらい、土壁、藁葺き屋根で、平屋風と2階建てがある(写真)。
 窓はなく、入口が一カ所。入口側には下屋が伸び出していてテラスが作られ、入口の両わきが物置、家畜舎に利用されている。
 室内は窓がないため真っ暗で、目が慣れてくると左手に炉が、右手にベットが見えた。衣類は壁から下がり、部屋の中に鶏篭も見える。床は土間のまま、湾曲した土壁と低い天井、まさに暮らしの原空間である。
 しかも、物質文明によらない、柔らかさや暖かさが感じられた。物質を追い求めた現代人は、空間だけで人を包み込む技を失ったのかも知れない。温故知新である。

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2016京都を歩く ⑥鞍馬の火祭発祥の由岐神社を参拝、つづら折りを登り、牛若丸が修業した鞍馬寺に到着

2016年09月10日 | 旅行

2016年5月 京都を歩く ⑥由岐神社 鞍馬神社本殿金堂 鑑禎 毘沙門天王 牛若丸=義経 
 魔王の瀧をさらに上ると山道は右に曲がるが、まっすぐ先に由岐神社の鳥居とその奥の石段の上の楼門?が見える(写真)。左手の手水場で手を清め、鳥居で一礼し、石段を登る。楼門?をくぐり、石段を上がりきると正面に本殿が鎮座している。
 となると、楼門?と思ったのは実は拝殿ということになる。日ごろ神社に詣でていても目が鱗に覆われていたようだ。しかも、拝殿の中央が通路=石段になっているから、御香宮神社と同じ割拝殿の形式である。日々勉強が続く。
 拝殿は、木の古びた佇まいが幽玄さを印象づけていた。
 本殿は小作りだが、古びた木造の落ちついた佇まいで参拝者を迎えている。
 平安時代、世情が不安定だったことから、京都御所に鎮座していた由岐神社を北方鎮護のため鞍馬に移したのが鞍馬の由岐神社の始まりになる。
 遷宮のとき、かがり火をたいて先導し、その行列が1kmにも及んだことが鞍馬の火祭の発祥になったそうだ。
 いまの本殿、拝殿は豊臣秀頼による再建で、国の重要文化財に指定されている。
 本殿の回廊の左右には狛犬の彫刻が飾られていた。隣に置いてあった説明板によるとこの狛犬は安産、万物継承、火除けにご利益がある霊宝で、原形は京都国立博物館に寄贈されていて、これはレプリカだそうだ。
 インターネットでは子どもを抱いている狛犬として紹介されている。楼門と思ったら拝殿であり、本殿に狛犬が飾られ、その狛犬が子どもを抱いている。鞍馬の地は珍しいことが多い。

 由岐神社の参拝を済ませ、地蔵堂を過ぎる。山道はつづら折りになった。直線ではかなり険しくなるためであろう。
 深山に分け入るといった気分だが、ときおり一息しないとつらい。
 中門を抜ける。まだまだ坂道が続く。弥勒堂を眺める。ケーブルカーを利用すると、多宝塔を経由し、新参道を登り、弥勒堂を通ってつづら折りの山道に合流することになる。
 由岐神社を参拝するコースで多宝塔も見学したい場合は、弥勒堂から多宝塔まで下り、また戻ってこなくてはならない。今日は、鞍馬寺を参拝したあと、貴船まで下る予定なので、すでにときどき一息しなければならない状況なので体力温存を優先させ、多宝塔見学はしないことにした。

 石垣、石段が現れた。明らかに手の込んだ構築物だから、本殿は近そうだ。辨財天を通るころ、パラパラと来た。石段を上がると、右に休み所・洗心亭があった。一服しようと思ったがまだ準備中だったので、軒先に雨宿りをして水分を補給する。
 左の神殿を眺めながら石段を上ると、境内に出た。本殿金堂に到着である。
 10時40分ぐらいだから、バスを降りてから40~50分、登ったことになる。つづら折りや石段などところどころきついところがあるが、難所はないので鞍馬寺本殿金堂は登りやすい部類であろう。
 唐招提寺を開いた鑑真が唐から連れてきた高僧の一人の鑑禎が、夢のお告げに従い白馬の先導で鞍馬山に登ると、鬼女が襲ってきた。
 そこに毘沙門天が現れ、鬼女を退散させた。鑑禎は夢のお告げで毘沙門天に出会えたと悟り、毘沙門天を祀るために草案を建てた。
 ときに770年、これが鞍馬寺の始まりとされる。諸説があるらしいが、伝承、伝説はありがたさを強調する傾向がある。あとは信じる気持ちであろう。

 話は変わって、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟にあたる牛若丸=義経は、父源義朝が平治の乱で敗死したため、この鞍馬寺に預けられた。
 義経7才のときである。昼間は仏道を学び、夜になると天狗に兵法を学んだとされる。天狗は実在しないから、天狗のような顔をした?武道家が訓練したのであろうか。伝承、伝説はとかく大げさだが、説得力はある。
 十分に鍛練を積んで、16才になると自ら元服し、奥州藤原秀衡を頼って平泉に移る。
 のちに打倒平氏で活躍するが、頼朝から朝敵として追われ、31で自害する。「判官贔屓ほうがんびいき」は義経に対する同情心として生まれた言葉だそうだ。
 義経の墓は鞍馬寺ではないが、ここで修業、鍛錬したことから、山道の途中に義経供養の石塔が建てられた。

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