1982+1991 台湾を行く 台中駅 /1993.1記
初めての海外は1982年の台湾だった。もう35年も過ぎた。経済成長前の台湾には歴史を伝える建築が残っていた。台中駅もその一つである。その後も縁が続き、台湾に何度も訪ねた。経済成長を経て風景は大きく様変わりしたから、以前に見学したり、調査に訪れた歴史建築も少なくなった。台中駅はどうだろうか?。新幹線の新駅ができたから、1982年、1991年に見た駅舎はないかも知れない。台中駅の紀行文を再掲する。
1982年3月14日、台湾省高雄の華泰飯店をあとに高雄駅に向かう。北回帰線よりやや南に位置する高雄はすでに初夏の風が吹いている。
昨日は佳冬の四合院形式の大邸宅を見学したあと、誘われるまま、深夜までよく食べ、よく飲んだ。楽しい席だったためか、目覚めはよかった。
高雄駅舎はコンクリートののっぺりとした四角い建物だが、3階には瓦葺きの方形屋根がのり、2階の入口正面側に瓦葺きの切り妻屋根、1階の入口ポーチ部分には瓦葺きの庇がつく。台湾土着のかたちや大陸の建築様式の面影はまったくなく、どう見ても日拠時代の質の悪いデザインとしか思えない。残念である。
朝10時、莒光6号が定刻通り走り出す。東海道新幹線にたとえればこだま号に相当する台湾自慢の特急列車である。しばし、童心にかえって窓にしがみつく。
窓の外に広がる水田はもうすっかり青々として、日本の初夏の農村を思わせる。しかし、農家の多くは、一条龍と呼ばれる一の字形の横長住宅か、一の字の左右のいずれかを手前に伸ばした単身手と呼ばれる鍵の字形の住宅、あるいは一の字の左右両端を手前に伸ばした凹の字形の三合院形式であって、背後のヤシの木とともに景観は異国である。
もっともこれらの住宅も土着ではない。主に明朝、清朝以降に大陸から移り住んだ漢族の系譜と考えて間違いなく、大陸南方出身であれば三合院形式、北方出身であれば□の形の四合院形式が卓越する。
存分に写真を撮ったので、地元の新聞を広げる。漢字がびっしり並んだ紙面は、息もつかせず漢字が目に飛び込んでくるように感じる。漢字を拾い読みするもなかなか意味はつかみにくい。
広告に目を転じると、「31坪~39坪、3房2廳高級住家、毎月只付6000元」とある。3寝室・2広間のマンションとなろうか。二点透視図の挿絵は都市住宅の典型をうかがわせ、窓の外の農村住宅との落差の大きさを感じさせる。
ほどなく台中駅に到着した。駅舎は1917年竣工で、高雄駅と同じ 日拠時代になるが、比べてデザインの質は高い。構造体は煉瓦組積造だが要所に石を用い、テクスチャと色合いの対比で表情を豊かにしている。
入口正面は柱を3階まで立ち上げ、上部をコーニスやペディメントと呼ばれる西洋的な表現を用いて正面を誇示し、ペディメント部を丸窓つきの草木をモチーフとした浮き彫りで飾り、翼廊部分の窓上部を石造アーチで仕上げて要石をはめ込んで曲線を強調している。身廊の中央部屋根には尖塔風に塔を立ち上げ、重々しくなりがちな煉瓦造を軽やかに仕立てるなど、建築として整っている。
素材として使われている煉瓦は、当時の日本の近代建築が西洋を模して盛んに取り入れた建築材料で、横浜や神戸の西洋館などで馴染み深いが、中国大陸でも土着の材料としての歴史は古い。これまでに見てきた三合院、四合院形式の住宅はいずれも煉瓦造であり、素材の表情からは中国建築との違和感を感じさせない。
加えて、台湾は1642年からオランダによって一時的に占拠され、その当時に建てられた西洋館が少なくない。近くの鹿港民俗文物館もその一つとして知られている。
始めて台中駅に降りたにもかかわらず、駅舎に親しみを感じたのはそんなことが背景にあったかも知れない。
駅舎はレールを曲げ加工して構造体にしている。私に小さいころ、京浜東北線の駅舎にもレールが構造体に使われていたが、いまはほとんど見かけない。珍しい構造なのでカメラに収めた。
その後、1991年に日本建築学会国際交流基金による台湾訪問で台中の東海大学、逢甲大学を訪れた際、幸運にも台中駅舎の変わらぬ姿に出会うことができた。
写真を見比べると、ホーム屋根を支える支柱が黄色く塗り替えられたぐらいで、寸分と変わるところがない。正面から見上げたり、駅舎の回りを歩いたり、ホームに出て駅舎を眺めたりしているうちに、少しずつ始めて訪れたときの様子がよみがえってくる。
人の時間に比べ建築の時間ははるかに長い。そして建築の表現は記憶の背景を鮮明にしてくれる。